第三話 目覚めの代償  まさか、今日も目覚めに電話がかかるとは思ってもみなかった。  三原透はつくづく電話のベルと縁があるらしい。  自分にかかってきたものと思い、ベッドから身体を起こそうとする。  あっ…。  眠い目をこすり、掛布団をめくった途端、彼は息をのむ。  何も身に着けていない…?  透は焦りの色を隠せない。  慌てて自分の服を探す。  ベッドの近くの鏡台の椅子に、自分の衣服一式が置いてあった。  そうか… 置いといてくれたのか。  今日の目覚めは、昨日までとはまるで違う爽快感があった。  ダブルベッドの、彼が身を起こした隣には、一人ではつくり得ないシーツのしわがある。  左手で軽くそのしわを撫でる。  夕べの感触…  確かなものを、透は感じとった。  とりあえずは一息着くが、電話のベルは止まない。  透のいる部屋より下からの音だが、よく聞こえる程大きい。  彼は、この邸にもう一人いることを知っている。  電話をとるのは構わないが、勝手な行動が許されるものなのかどうか…?  悩みながらも、透は急いで服を着る。  下半身だけは整え、シャツを手にとりあえず部屋を出た。  と、甲高く鳴り響いていた電話のベルが止む。 「もしもし、夏川ですが…あ、総君? えっ? どういうことなの?」  女性の声がする。  シャツを着ながら、階段をゆっくり降りる。  居間のドアを開けた透は、ソファに座る鮎子の表情にある不安をおぼえた。  何かに脅えた目元は、夕べの鮎子とは別人かと思わせる。  ガウンを身にまとっている鮎子は、電話の相手の話が終わった後、ひとつため息をつく。 「総君? で、あのひとは? じゃあ、何処へ…!?」  電話に向かう鮎子の声はうわずっていた。 「そう… わかったわ。また何かあったら連絡をよろしくね…」  心ここにあらずという目をしたまま、彼女は受話器を置いた。  電話を切るまで、鮎子は透の存在に気付かなかった。  素早く透の方へ向き直るが、険しい、脅えた様な表情は多少和らいでいた。 「鮎子さん、何かあったんですか?」  月並みな透の問いに、彼女は答えない。  そっとソファから立ち上がると、努めて明るく振る舞う。 「そうそう、朝食がまだだったわね、透君」 「鮎子さん…」 「今すぐつくるから、待ってて」  慌てて居間を出る鮎子を、透は追った。 「鮎子さん!」  食堂の入り口で呼び止められた鮎子は、歩みを止める。 「鮎子さん、何かあったんですね? 今の電話で総君を呼んでましたよね?」 「ち、違うの、透君…」 「何が違うんですか、鮎子さん?」 「それは…」  うつむく鮎子に、透はこれ以上深入りしてはいけない一線を感じた。  が、彼はあえて線を踏み越える。  ためらいもある。  それが、間違いだとすると…?  いや… 透は自分を信じた。  それが、総志郎との約束を守ることであり、お互いのさみしさを分かちあうことであり、彼女の力になる方法であることを、彼は予感めいた気持ちで感じとっていたからだ。 「総君から頼まれてるんです。あなたを本当の鮎子さんに戻して、と」  透の真剣な眼差しは、鮎子の心に突き刺さるほどの威力があるのだろうか? 「朝食をつくるから、シャワーでも浴びてて」  それほどの力はなかった。  鮎子は、やはり明るい話声で、彼を遠ざけた。  透としては、自分の力の無さを感じ、素直にバスルームに向かうしかなかった。  バスルームも食堂と同じく、小さな窓があるだけで質素だが、趣のあるつくりだった。  先程慌てて着たばかりの服を脱ぎ捨てる。  シャワーから出る湯はかなり熱かったが、透は気にならなかった様だ。  一体、何があったんだろう?  昨日の総君の台詞に、嘘偽りはないと思う。  それなら、鮎子さんを不安にさせるような電話をかけてくるか?  本当に鮎子さんに不安を与えるような電話だったのだろうか?  俺は、やはり間違えたのかもしれない。  彼女の力になんか、なれないんだ。  鮎子さんの心を傷つけただけかもしれない。  そうだ。きっと、そうなんだ。  だったら、何故俺は、鮎子さんや総君にここまで振り回されるんだ?  命の恩人だからか?  だとしたら、こんなナンセンスなことがあるか?  わざわざ激しく首を振って、自分の意見を否定する。  水飛沫があたりに飛び散る。  ようやく透は、シャワーの湯が熱いことに気がついた。  痛いっ!  昨日の朝、剃刀でつけた頬の傷が、うっすらと開いた。  その心とは裏腹の身体の爽快感に包まれて、透はバスルームを出た。  食堂には朝食が用意されてある。  目玉焼きとトースト2枚。それに、かいわれ大根とコーンとレタスのサラダ。 「透君、紅茶とコーヒー、どっちがいい?」  楽しそうな鮎子の声が聞こえてきた。 「あ、コーヒーお願いします」  一応の返事をしながらも、透はいぶかしく思う。  さっきの電話の事が、どうしても気になるのだ。  香ばしいコーヒーの匂いと共に、鮎子が調理場から姿を現した。 「透君の口に合うかしら?」 「鮎子さんがつくったものだったら、心配無しですよ」  その後は、先程の事を意識してか、二人とも無言で食事を済ませた。  コーヒーを飲み干した後、透は、会話の切り出しに困った。  やっと彼女と気持ちが通じ合えたと確信していた彼は、今朝の電話を恨めしくさえ思った。  やや強引な方法をとる。 「すみません、新聞、ありますか?」 「ごめんなさい。ここではとってないの。ラジオしか無いわ」  鮎子は立ち上がると、どう見ても骨董品にしか見えない据置型ラジオのスイッチを入れた。 「今日の天気は快晴、夕立の可能性がありますが、強い日差しに見舞われるでしょう。最高気温は32度。洗濯指数は…」  ガタン!  何処かで、大きな物音が起こった。  その途端、鮎子の顔から血の気が引いていく。  どうして…?  声にならない鮎子の言葉が、透の耳にははっきりと聞き取れた。  玄関の方だったよな、今の音…? 「俺、ちょっと見てきます」  透は食堂を出た。  十歩も歩かずに辿り着くはずの玄関が、異様な迄に遠く感じる。  何だ?  どうしたってんだ?  自分でもわからないが、玄関から威圧感を受ける。  当然だが、廊下を曲がると玄関が見えた。  開いたドアの向こう側に、男が立っている。  透は息をのんだ。  今、洋館の中に足を踏み入れたこの男の、鋭い眼光が透に襲いかかる。  男はスーツの上下を身にまとっている。  あくまでも上品に、どこか厳粛な雰囲気を醸し出す着こなしである。  中肉中背、透より少し背は低いが、何かがそれ以上の優位性を彼に持たせていた。  斜に構えずに、堂々と相手を見据える様は、まるで猛獣のそれだ。  眉一つ動かさず、透から視線を外そうとしない。  優雅な仕草による後ろ手でドアを閉める。  逃がさない…。  透は、その男の声を聞いた様だった。  汗一つかかない男を目の前に、透は足がすくむ思いだった。  だが、逃げられない。  蛇に睨まれた蛙ではない。  彼を避けて通れないことを悟った。  鮎子と男の視線にはさまれ、たった今感づいたのだ。  この人が… 「圭一郎さん!」  透は、背中に突き刺さる程の大きな、女性の叫び声を聞いた。  彼の予感は少しも外れてはいなかった。  この人が…  そう、この男こそ鮎子の夫、夏川圭一郎である。  鮎子が慌てて圭一郎に駆け寄る。 「圭一郎さん、総君が心配して、今朝電話をかけてきたのよ?」  男は未だ透から視線を外そうとしない。 「どうして、ここへ戻ってきたの?」  彼女が肩に添えた手を、男はわざわざ払いのける。 「だって、圭一郎さん、昨日総君達と合流して、東京に帰ったはずでしょう?」  鮎子がどことなく落ち着かないそぶりに、透の目には映る。 「明日には、島村さんのところにいくはずだったでしょう?」  内なる心配を素直に顔に表している。  鮎子さん、違うよ…。 「とにかくあがって。あなたがここで話をするのはおかしいわ」  透は思う。  俺なんかとは、そぶりが違う。  何故落ち着かないように見えるのかはわからないが、俺と接する時とは桁違いの優しさを見せている。 「あなたのつくった別荘なのよ! まだ、私達の別荘なのよ!」  力強い彼女の口調に負け、圭一郎は一歩足を進めた。  その場にいれば二人の邪魔になるのだが、透の方は足が動かない。  未だに透から目をそらさないからだ。  透の横をすり抜ける様に、圭一郎は廊下を歩き過ぎていく。  威風堂々と胸を張るさまは、なるほど社長たるに相応しい。  透はその威圧感に、押し潰される様な危機感を抱いた。  彼に後ろめたい気持ちが無いわけではない。  少なくとも、夫のある身の麗しい女性と、彼らの愛の巣であるこの別荘で一夜を過ごしたのだ。  だが、透にも言い分はある。  総志郎君に頼まれたから。  海で助けてもらったお礼だから。  彼女が俺を必要と言ったから。  しのぶとの距離にさみしさを感じたから。  それだけか…?  それだけで俺はここにいるのか?  透本人にとっては、それは愚問というものだった。  答えは、鮎子だ。  彼女でなければ、彼はここにはいない。  たとえしのぶであっても、彼がここにいる保証はない。  男が胸をときめかせるのは、こんな時だ。  透の心の中は、ある種の興奮で少しずつ満たされていく。  彼は、自分が強い人間になっていくような気がした。  こんなことは初めてだ。  拳に力が込められていくのが、面白いようにわかる。  だが、この一言で、彼の熱い思いが大きくゆるんだ。 「君は、誰だね…?」  初めて聞く、圭一郎の声は、思ったよりも軽い響きをまとっていた。  透は圭一郎の問いに、当然のごとく答える。 「初めまして。三原透といいます」 「ゆっくり、していきたまえ」  透の瞳を、何かを確認するように見やった後、圭一郎は居間に入った。 「透君、あの人が私の夫の、圭一郎さんなの」  透を気遣いながらも、鮎子は慌てて食堂へ入った。  玄関先、透はなす術がなく、ただ呆然と立っていた。  やがて立ち尽くす青年の耳に、男女の会話が聞こえてくる。 「圭一郎さん。来るなら来ると、電話でもしてくれれば…」 「そうだな…いや、しなくてよかったよ」 「えっ?」  鮎子は透の存在を知った圭一郎が、何を考えているかを薄々感づいたようだ。  透にしても、圭一郎の気持ちはわかるような気がする。 「朝食は?」 「いや、まだだ。それより総志郎は、何か言っていたか?」 「いいえ、特には何も」 「そうか…。鮎子、海を見に行かないか?」  優しく彼女を海に誘う声を聞いて、自分の居場所が無くなった男は、ばつの悪さを感じずにはいられない。  一体、何なんだ、俺は?  苛立つ透の前に、二人が現れた。 「せめて朝ご飯くらい…」 「あそこへ行きたいんだ。今、すぐに」  わがままな様だが、少しも相手に嫌味を与えない。  子供が母親に何かをねだるように、ほほえましくさえもある。  今の透に限って言えば、そう映ったかどうかは疑わしいが。 「君も行くだろ、三原君?」  言われて断る理由は無かった。   洋館を出ると圭一郎は、白い乗用車の前に立った。 「さあ、鮎子」  助手席のドアを開けると、彼は優しく妻をエスコートする。 「君も、だ。さあ、乗りたまえ」  有無をいわせぬ口調に、透は圧倒させられた。  いくところまでいくしか、ないか。  彼は覚悟を決めた様な素振りで、軽くため息をつくと、後部座席のドアを開けた。 「透君、ごめんなさい…」  後部座席に腰を下ろした時、助手席から声が聞こえた。 「いえ…」  透の薄い愛想がささやかれた瞬間、車は緩やかに洋館を離れていく。 「君、透君と言ったね?」  運転手の問いに、透はうつむいたまま答える。 「…はい」 「どうした、ん? 元気がないじゃないか」 「そんなこと…」  話に割り込もうとした鮎子も、当然この雰囲気は悟っている。  敢えて割り込むのは、透をかばうような綺麗事のためだけではなかった。  彼女の心の中には、自分の力だけでこの場を解決しようとする思惑があった。  それが、透の口を開けさせないようにする理由である。  自分の思い通りに綺麗に解決出来ればいい、その思いほど汚れたものはない。 「圭一郎さん、昨日も私達…」 「鮎子は何も言わなくていい」  圭一郎も、自分の思惑通りに事を運ばせようとしない邪魔者を黙らせた。  下を向いていたため二人には気付かれていないが、透は青ざめた顔を自覚していた。  俺は、悪くない。  俺は、悪くない。  俺は…  かなりの道のりのはずだったが、透は少しも時間を感じなかった。  昨日も来た岬の公園に来た。  もう、昼が近い。  太陽は昨日にもまして強い日差しだ。  彼らは車を降りた。  もちろん、鮎子は夫のエスコートを受ける。  一夜を過ごした青年としては、奇妙な錯覚にとらわれる。  圭一郎の態度に、である。  少なくとも、まだどういう状態だかわかっていないにもかかわらず、透を半ば無視するような形で自分の妻をエスコートする。  小さな苛立ちがわいてくる。 「その素振りだと、鮎子から色々話を聞いたと見えるが、違うか?」 「その通りです」  透は、冷たく言い放つ圭一郎に、ひけをとらないように構えた。 「ここがどういう場所か、わかっているんだろう?」  今度の問いには、彼は首を軽く縦に振るだけの動作で答えた。 「では、これから私が何をするかわかるか!?」  元青年実業家の執拗なまでの攻撃ぶりに、透はやはり追い込まれていく感覚を拭い去ることは出来ない。 「わかるわけないでしょう…?」 「そうかな?」  圭一郎は二人に背を向け、眩しい空と青い海を遠く仰いだ。 「ここは、私と鮎子の思い出の場所だ。私はここをこよなく愛している。鮎子、君もだろう?」 「ええ」  小さく答えた鮎子は、これから起こる出来事が、手にとるようにわかる気がした。  もう、避けられない。  あなたが望むなら…。 「ここに来ると、次々とあの頃が思い出される…」 「そう…、私達は思い出を抱いて眠りすぎたわ。お互いに」 「そう思うか、鮎子? そう思うのなら、何故…」  青年実業家の目が、妻である女性に何事かを訴える。 「何故、俺を避ける…?」  一見穏やかな彼の表情が、みるみるうちに凄味と哀愁に満ちる。 「何故、自分の殻に閉じこもろうとする?」 「そんなことないわ!?」 「じゃあ、どんなことだというんだ? 今、私と君と、そしてあの青年と…」  彼がおもむろに透を指差した時、風が吹き抜けた。  まるで、この場の3人をばらばらに分かつかのように…。  透にしてみれば、都合のいい風だった。  自然とその場から一歩下がることが出来る。 「何故私達が3人でここに立っているのか、説明がつくのか?」 「彼は、透君は関係ないわ!?」 「どうしてそう言い切れる? 私にはわかる。君が、鮎子があの男と」 「やめて! あなたとは関係ないじゃない!」  鮎子はその場にしゃがみこんだ。 「鮎子。どうしてそうやって私を遠ざけるんだ?」 「あなたがそれを望んでいるから…」 「私が? 何故!?」  激しく圭一郎が食い下がる。  この間、透はただ静観するしかなかった。  だが、殺伐とした二人の会話は、彼の嫌気を誘っても、興味をひくものではない。  ゆっくりと視線をそらすと、やはり昨日と同じく切り立った崖の向こうは美しく青い海だ。  透はふとこんなことを思った。  海が赤い…?  この鮎子の言葉が、彼自身の何分の一くらいかをしめる。  そんなことが、あるのだろうか?  疑問をうやむやにしながら、また二人の会話に戻る。 「そうじゃないの! あなたは、私といるのが辛いのよ!」 「どうしてそう思うんだ、鮎子!? 私は君の事が…」 「違うわ!」  そこには、透の知らない鮎子がいた。  ある一点を貫く程激しく、せつないまでに真剣な眼差しは、2日前に知り合った青年には、まだ一度も見せたことがなかった。  どきっ。  彼の心臓が、耳に聞こえる程の音を伴う鼓動を打った。  透の心は今までにない興奮をおぼえていた。  こんなにも、熱い女性だったのか!?  やはり、彼はまだ鮎子のことを何も知らないのだ。  人生を分かち合うなど、わずか2日では短すぎるのだ。  自分のうぬぼれに気付いた時、青年の気持ちは恥に変わる。  そんな透を後目に、鮎子はさらに口調を強める。 「あなたは私が邪魔になったのよ! それで…」 「そんなことはない! 君はいつだって私のそばにいてくれる!」 「家庭ではそうでしょう。でも、会社の経営については別なのよ!」 「家庭と仕事は別だ」 「私の方が経営には向いていたのよ! あなたもそれを認めてくれたでしょう?」 「…確かに、認めている。君は凄腕の経営者だ」 「それなら、私にもチャンスをちょうだい」 「何を言っているんだ、鮎子!?」 「また、会社を始めるんでしょう? あなたの目を見ればわかるわ。お願い! 私にも手伝わせて!」 「男の仕事に口出しするな。君は家にいてくれればいいんだ」 「…本音が出たわね」  冷たく言い放たれる鮎子の台詞が、圭一郎の顔に一瞬のかげりをつくる。 「あなたは、私の能力を見出してくれた! 少なくとも私はあの時そう思った。だから、嬉しかった…」 「…それは、誰もが認めるところさ」  「あなたは? あなたは私のことをどう思っているの?」  鮎子はいてもたってもいられず、圭一郎にすがりつく。 「答えて! あなたはあの時から、一度だって私の仕事を認めてくれたことがないじゃない!?」  透はただ静観するだけとはいかなくなっていた。  話が自分の知っている世界から、徐々に遠ざかりつつあった。  いや、ある意味ではあまりにも身近な問題だからかも知れない。  彼女は、愛する夫の胸に顔を埋めた。  男のスーツに力強く頭をこすりつけていた。と、小さな音がもれた。  やがて、彼女の感情と共に、音は大きくなり、やがて透にもそれが泣き声だとわかった。  鮎子のすすり泣く声は、遠くの波の音をかき消すのに十分だった。  ひととおり泣き晴らすと、夫のシャツから顔を離し、赤い目をこすりながら鮎子は透と向き合う。 「聞いて、透君… 会社が倒産してから、彼は精神科にかかる様になったわ」 「鮎子!」 「いいじゃない? 何を隠すの? 見ての通り、彼は立ち直った。私、一所懸命に看病したもの。きっと直るって信じてたもの…」  遠く水平線の向こうを見やる様に、鮎子は透からも視線を逸らす。 「鮎子さん…」 「前はよく二人でいろんなことを話し合ったわ。会社の事もそう。政治や経済、料理の話やファッションの話、美術館に行く約束もしたり、総志郎君の進路や将来の小さな夢を…」 「もう、よせ…」  圭一郎の否定的な遮りを、鮎子は興奮気味につっぱねる。 「やっぱり、あなたは私を避けているわ…」  彼は、妻の言葉に重みを感じた。  それは、自分自身への警戒を含んでいるようにさえ思われた。  やはり彼も感情が先走るようになる。  何故なら、鮎子をいとおしく思う気持ちが、誰よりも強いから。  その相手が、自分を否定しようとしているから。  そして、彼女の言葉に嘘偽りがあると言い切れなかったから。 「違う! 私は鮎子のことを」 「それなら、どうして? 仕事だけじゃないわ! あんなにたくさんあった私達の会話は、何処へいってしまったの!?」 「落ち着け、鮎子」 「落ち着いてなんかいられないわ! あの日から、そう、あの時から、あなたは私から遠ざかっていく!」  何故こうも彼女が変わってしまったのか…?  圭一郎はその問いに、自ら答えを持っていた。  私が、私が彼女を変えてしまった…。  そうだ。  私が彼女に与え続けてきたもののせいなのだ…。  それは、夢物語。 「目を覚ませ、鮎子」 「私がおかしくなったとでも言うの!? 目を覚ませだなんて、そんな、私、眠っていたとでも…」  鮎子は、自分の言葉に何かきらめくものを見つけた。  圭一郎が気付いた時と同じ感覚を持ったようだ。  これが、互いに愛する者同士の条件だというのか。  またもや落ち着きを取り戻したらしい。  彼女は肩を震わせながら、小さなため息をつく。 「そう、私達は眠っていたわ、ずっと。夢を見ていたの。楽しい夢を…」 「鮎子…」  圭一郎は、自分の胸の内が優しい気持ちで満たされていくことに、この上ない幸せを感じた。 「鮎子、これが現実だ。私も、病院通いを終える頃、やっと目が覚めた…」  うつむく鮎子の肩をそっと抱き寄せる。 「会社が、家庭が…、つまらないことね。あなたがいる、そのことが一番大事なことなのに。時がくればまた会社を始めればいい。その時になれば家族が増えるのもいい。何を戸惑うことがあるのかしら? そのために、ずっとあなたのそばにいたのに…」 「ああ。また、夢を見ることもある」  優しく声をかけた後、圭一郎は崖からの風に髪をなびかせて立っている青年を見据えた。 「三原君。君のことは2日前から知っていたよ」  そうつぶやく圭一郎の瞳の奥には、鋭い光が蓄えられていた。  まるで恨みでも持っているかのように。  おそるおそるだが、負けじと透も軽く身構えている。 「やっぱり、あのクルーザーに乗っていらっしゃったんですね?」 「ああ。君を助けたのは私だからな。知らないはずはない」  総志郎の嘘は、あくまでその場しのぎだったようだ。 「この海で、あの世へ行って欲しくないもんでね。他人には…」  鮎子を軽く抱き寄せながら、妻の気持ちを代弁する。 「この海で悲劇が起こると、鮎子が悲しむ…」  透には、彼の言葉の意味がわからなくなっていた。  俺は、この人達に弄ばれているのか…  それは筋違いかも知れない。  だが、透の心は悔しさで煮えくりかえっていた。  圭一郎と初めて出会ったあの瞬間からかもしれない。  いや、あるいは鮎子と初めて出会った瞬間からかもしれない。  気絶している間に、鮎子は透を利用して、その時自分の中で冷めかかっていた、夫への思いを呼び戻そうとしていたのかもしれない。  それが、例え彼女の無意識の内に行われていたことだとしても、透にとっては大きな罪である。  そう、透も目覚めたのだ。  透は彼らの手の平で踊らされていたことに気付いた。  彼女との夢は、脆くも、だが当然のごとく崩れ去る。  その証拠として鮎子は、昨日自分を必要だと言い、今はもう必要のないという素振りで、夫と抱き合っている。 「わかりましたよ、鮎子さん。ようやく…」 「透君…」 「俺と一緒にいて、少しは疲れがとれましたか? 俺といると、旦那さんの事を惚れ直したでしょう? 今日はもう俺なんか必要ないでしょう? そうでしょう? そうなんでしょう!?」  怒りをあらわにする透を前に、圭一郎は冷静な態度をとっていた。  真剣に何かを訴える青年の真摯な姿に心をうたれたのだ。  鮎子は夫の胸の中で、じっと透の話を聞いている。 「愛することって、そんなことなんですか!? 好きになるって、そんな簡単なことなんですか? こんなにあっさりとよりを戻せるんですか!? もっともっと、難しい問題をくぐり抜けて、いくつもの崖を乗り越えて…!」 「綺麗事だ。それで世界が動くなら、人には苦悩はいらない」  冷徹に答えを出す圭一郎に、妻が言葉を付け足す。 「そうよ、透君。それに私達は、あなたと出会うずっと前から愛し合っていたのよ。ずっと前からいくつもの苦難を乗り越えてきたのよ。ずっと前から彼との絆を深めて来たわ。あなたにそれがわかるというの!?」 「綺麗事を言っているのはあんた達の方だ! そうかい、俺はあんた達のただの仲直りの為の道具だったってわけだ! 馬鹿だよ、俺は…。どうして、どうして俺はあんたなんかを…」 「そうね… あなたを傷つけてしまったのは事実だわ。許してもらおうなんて思わない。でも、あの時、あの瞬間だけはあなたのことが…」 「言い訳なんて、聞きたくない!! 俺は夕べしのぶを振り切った。何度も何度も現れるしのぶの影を振り切ったんだ! それはあんたが俺を必要だといったからだ! 初めは役に立てばそれでいいとだけ思ってた。だけど、もうだめだ。だめなんだ! 今朝起きたらもう何も見えなくなってた! そう、しのぶの影もだ! すがすがしかったよ」 「信じて! 一昨日、圭一郎さんは別れ話を持ちかけていたの。ノイローゼも直っていたけど、私達の心の間には深い溝が出来てしまっていた。何だかお互いに信じられなくなって…。私達はもう終わりだと思っていたの。もう…」 「それで、旦那さんとの関係が終わったら俺と、ってつもりだったんですか…」 「でも、あなたもしのぶさんとの関係が…」 「あんたが俺としのぶとの関係を引き裂いたんだ! あんたが!」 「罪は、償おう」  重々しく、圭一郎が割り込んだ。 「もうここにいる意味はなくなったのだからな。罪は償えるのだ」 「そう、あなたの言う通りだわ。会社や家庭なんて、仮の姿なんだわ。何故なら、あなたが全てだから…」 「君とここで出会えたことを、君と同じ会社をやってきたことを、そして君があのひどいノイローゼのときにも必死に看病してくれたことを、誇りに思っている。それだけで、ここでするべきことは終わったんだ」 「ありがとう、圭一郎さん。私も、あなたがいたから何もかもが楽しかった。夢は終わるのね、今…」  何か覚悟を決めた様に、鮎子は圭一郎に向かって首を縦に振る。 「そうだ。そして、新たに夢を見始める。三原、透君。君は今から面白い物が見られる。幸運だな」  その瞬間、青年の目の前から二人の姿が消えた。  透は二人の行方を追った。  それは、容易に見つけることが出来た。  崖が、迷いのない夫婦と彼との距離をつくる。  二人は重力に逆らうことなく堕ちてゆく。  自分のいるべき場所へ急いで帰るかのように、海へと吸い込まれていく。  そう、彼らはこの海を他人に汚されることを嫌った。  良くも悪くも、ここは二人の聖なる場所である。  たとえ、青く見えなくとも…。  透は目を背けた。  水が勢い良くはねる音がする。  彼は自分が何をすればいいのか、わからない。  わかろうはずもない。  呆然とその場に立ち尽くす。  自分の足元を見る。  ただの足である。  そう、透はただの青年である。  自分は何でもないことに気付く。  自分には何もないことに気付く。  目覚めた後では遅いのだ。  透はその場にしゃがみこむ。   高い崖の上から、大きな泣き声があたり一帯に響き渡った。  とある病院の玄関で、二人の男が会話を交わしていた。 「本当に、昨日はどうもありがとうございました」 「いや、そんな…」  礼を言われてはにかむ男は、それでいてどこか暗い影を瞳の奥に落としていた。 「でも、あなたじゃなければ、あの場で兄貴と姉さんを助けられませんでしたよ」 「そんなこと、ないさ…」  病院からは海がすぐ近くに臨める。  潮風が二人をかすめた。  いい匂いだ。 「君こそ、ここと東京を行ったり来たりだろう? 大変だったね」 「とんでもない。兄貴も姉さんも大した怪我じゃなかったから、結果オーライですよ」 「医者は、2〜3日も寝てれば大丈夫だって言ってたしね」 「そうですか…」  東京から来た青年は、喜びとも嘆きともつかない、深いため息をついた。  疲れた顔をしているな、総君…  肩を震わせている青年をいたわる気持ちで一杯の男だった。  だが彼は、そんな青年に一言だけ伝えておかなければならないことがあった。  はっきり言っておかなければならない、これだけは… 「総君、話が」 「…何ですか、透さん?」 「俺は、君の願いを、叶えることは…」  一度息を飲み込んでから、透は言葉を続けた。 「叶えることは、出来なかった…」 「…そんなことはありませんよ、透さん」  総志郎は、いつも通り努めて明るく振る舞った。 「さっき、聞いたでしょう? 兄貴のうわごとを」 「鮎子、それは…」 「すまない…」 「もう一度…」 「…昨日までは、兄貴は姉さんを恨みさえしていました。どういう思い違いをしたのか、事業の失敗は姉さんのせいだと思っていたらしいんです。3日前のクルーザーには確かに兄貴も姉さんも一緒でした。でも、兄貴はノイローゼが直ってからも、何処かしら姉さんのことを…」 「かもな…」 「でも、もう大丈夫だと思います! 兄貴も気付いたみたいですから」  嬉しそうな笑顔。  透の心の片隅に大きく存在していたしこりのようなものが、この笑顔で少し小さくなったような気がした。  だが、完全に取り払われたわけではない。  やっぱり、俺なんかが割り込むことじゃない。 「本当に申し訳ありませんでした、透さん。結局何もお礼が出来ませんし、透さんを傷つけるようなことがあったようですし…」 「気にしなくていいよ」 「でも姉さんはあの時、本当に透さんのことを…」 「どうしてなんだ? どうしてそこまでして俺のことを…?」 「…透さん、何処かしら似てるんですよ、昔の兄貴に…。弟がそう思うんだから、間違いないですよ」  不思議な気がした。  初対面で感じた、まるで自分と正反対の雰囲気を持つ男が、それが昔とはいえ、自分と何かが似ているというのだ。 「顔とかスタイルとかじゃなくて、雰囲気っていうのかな。姉さんと出会った頃の兄貴に」 「総志郎さん! 三原さん! 圭一郎さんが気付かれました!」  いつも冷静沈着であろう石川亮が、やや興奮気味に声を荒立てた。  慌てて病院の建物の中に入ろうとするが、総志郎は大事な物を置き去りにしたかのように、透の方を振り返る。 「透さん、兄貴が!」 「俺はいいよ」 「でも、兄貴もきっと透さんにお詫びやお礼が」 「どの面下げて、あの人と会えっていうんだい?」  昨日のことを総志郎は知らない。 「それに、一日余計にこっちにいるわけだし、今日帰らなきゃね。明日になれば、楽しい夏期休暇も終わりさ」 「透さん…」 「じゃあ、お大事に」  立ち去ろうとする透に、青年は深々と頭を下げた。 「透さん、本当に、ありがとうございました」 「はは、ちょっとは格好いいかな…?」  その背中がさみしそうに見えたのは、総志郎だけではないだろう。  日差しはいつにもましてまぶしかった。  こうやって見ると、海も青くないな…  透は夕陽のさす浜辺に座っていた。  結局、彼はまだこの海に留まっていたのだ。  夕凪、淡い光がきらめく綺麗な波の合間を、この数日間の思いが漂う。  俺は一緒に海に飛び込む程、鮎子さんのことが好きだったのか?  でなければ、幸福を、危険を、そして人生を共にしたいと思う女性はいるのか?  誰にも、何もしてあげることが出来ない…  俺は、何も出来ない…  一体俺には何があるっていうんだ?  こんな非力で無力な俺に!  あれから、自問自答が果てしなく続いていた。 「馬鹿だな、俺は」  口に出来る言葉としては、それしか浮かばない。  小波の音に耳を傾ける。  あの女性のささやきの様だ。  面影は何故か浮かばない。  このギャップが、やがて透の昨日からの言い様のない苦痛に満ちた気持ちを動かし始めた。  本当にあったことなのか…?  そんな気持ちにさえなってしまう。  だが、波の音は未だに透を、夕陽で赤く染まった海へと招いている。  違う。そう、違う。  俺とあなたでは違いすぎるのだ。  だったら…  あいつは俺のことを、どう思っているんだろう?  ふと、数日前まで自分の心の中を満たしていた女性が脳裏に浮かぶ。  彼は今、自分に対する自分の現実に目覚めた。  終わったよ、夢は。  左腕に誇らしげにつけている、ダイバーズウォッチに目をやる。  帰らなきゃ…  透は夕陽と赤い海を背に、ボストンバッグ一つを担いで、自分に一番必要な女性の元へと帰っていった。  海は、男に別れを告げるように、静かに色を無くしていった。 エピローグ 電話の向こう側へ  トゥルルル…  トゥルルル…  ガチャッ  あ、三原と申します。  はい、透です。あの… はい、お願いします。  あ、俺だよ、透。  楽しかったぜ…  …やっぱり、怒ってんのか?  あの晩は、確かにあのホテルにはいなかった。  向こうで知り合った人の別荘に泊めてもらってさ。  信じてくれっていう方が無理だよな…  でも、本当にそうなんだから、しょうがないさ。  …そっか。悪かったな、心配かけて。  焼けたかって? まあな。  それよりお前、何処にも行ってないんだろう?  仕事も大変だろうけど、来週の日曜日はあいてるんだろ?  じゃあ、どっかに行こうぜ!  別に、さみしくはないけどさ。  せっかくの夏なんだし、たまの休みにまで日陰にいることないだろ!?  そうだなあ、海に行かないか?  近場でさ。ちょっと人が多いだろうけど、賑やかでいいじゃんか!?  …そりゃあ、よかったよ。ちょっと遠かったけどな。  人もまばらだったし、海も綺麗だったしさ。  透き通るくらい、青くて綺麗な… 海の色 終わり