第一話 8月10日の憂鬱  時計は、10時10分を指していた。  太陽は高く、朝陽とはもう呼べない。  そんな中、ホテルの一室で、朝の二度寝を楽しむ男がいる。  日差しは南向きの窓から男とベッドを照らし続ける。  暑い。  だが、たかが暑い位では、到底目を覚ます気にはなれない。  頭痛がひどい。  じっとしていてもだ。  そんな彼に行動を起こさせるのは、部屋に備え付けの電話のベル だった。  右手を面倒臭そうに受話器に伸ばす。 「申し訳ございませんがチェックアウトは10時となっております」  ホテルの従業員だった。 「あ、すみません。すぐに」  寝ぼけた声で返事を返す。  と同時に、会社では絶対に出来ない程乱暴に受話器を叩きつけた。  彼、三原透は不機嫌この上無いという表情を、露骨に顔に表して いた。  その理由は、電話のベルではない。  怒っていようがいまいが、どうやらこのホテルではずっと部屋に いるわけにはいかないらしい。  仕方無しに、透は部屋を出る準備を始める。  まずは、一人で寝るにはかなり広いベッドの上で仰向けに寝転び、 大の字に体を伸ばす。  気持ち良さそうに見えるが、ベッドの脇に転がるビール缶の山を 見れば、彼の本当の体調は言わずもがな、である。  熊の様なゆったりとした仕草で身体をベッドから起こす。  洗面所に入った。  おもむろに、歯を磨く。  不思議そうな表情で、鏡に見入った。  どうやら鏡に映った自分の顔が、別人の様に見えるらしい。  そんなに飲んだのか?  歯ブラシを口にくわえたまま改めて洗面所から部屋の中を見回す。  汚く脱ぎ捨てられた衣服。  ボストンバッグからはみ出している海水パンツ。  そして、あちこちに散乱しているビールの缶。  何本あるんだ?  そんなくだらないことでも、考えようと頭を働かせると、奇妙な 苦痛が頭の中を駆け巡る。  痛みとも重みともとれない。  こりゃ、二日酔いじゃないぞ。  歯を磨き終わると、ある程度うがいをした後で、そのまま洗面所 の蛇口に口をつける。  うまい。  透の喉を水が流れ落ちた。  胃に冷ややかな感じが広がる。  だが、胸の奥底には届かなかったようだ。  不機嫌な態度は依然変わっていない。  自棄気味に顔を洗った。  辺りに水が飛び散ったが、特に気にも留めていない。  洗面所を出ると、ベッドがやたらと目につく。  夕べはそれ程感じていなかったのだが。  透は、ベッドの自分の寝ていたあたりを見つめた。  大きなベッドのシーツは、右側がしわになっている。  本当はその隣にもしわがありシーツ全体が乱れていてもおかしく はないはずだった。  あいつ…  何を思い描いたのか、彼は不愉快になったらしく大きなため息を 一つついた。  何気なく腕時計を見ると、慌てて着替えを始める。  面倒なのだろうか、シャツもズボンも昨日脱ぎ捨てていたものを もう一度着込んでいた。  特に衣服のしわも気にしてはいない。  だが、パンツだけは、あらかじめ海水パンツにした。  全ては泳ぐためである。どうせすぐ脱ぐのだから。  着替え終わると、私物を全てボストンバッグの中に押し込めた。  ホテルからの説明だと、何泊する場合でも、荷物は一旦持ち出す ようになっている。  荷物預りは別料金だという。  こんなバッグ一つ、置きっぱなしでも取られやしないのに。  透は、少々ホテル側の決まり事に腹を立てた様だ。  だが、どうあがいても仕方無い。  ずっと不機嫌でいるのも良くない。  そう考えたらしく、透は大量のビールの缶だけを残して一泊した 部屋を出た。  いい日差しだ。  ホテルの8階の廊下で、透は立ち止まって窓から外をみた。  噂通りだ。  眼下一面に広がる海は、彼の表情を先程よりは和らげた。  はやる心を押さえ切れず、わざとエレベーターを使わずに階段で 降りる。  早く、あの海へ!  だが、ホテルの玄関から足を踏み出すには、もう少しやり残した ことがある。  しぶしぶロビーのカウンターに顔を出す。  このホテルは、必ず一泊分ずつ料金を清算する様になっていた。  ここでもまた、彼は険しい顔つきをしている。  クレジットカードによる支払いのため、その場でカードを渡して 清算するだけなのだが、なぜか面倒がっていた。  こんなホテルがあるか?  従業員がそっけなく手渡した清算書を見て、さらに彼のため息が 一つ。  そりゃあ、結構な食事と結構なサービスだったけど…。  サービスの満足度とは裏腹に、彼の胸の内は不満だらけである。  これもやはりホテルのせいではない。  彼個人の勝手な問題である。  とはいえ、その勝手な客から身の毛もよだつ顔つきで睨まれては、 従業員の方もたまらない。  透から見ても、早く出ていけという希望が、従業員の顔にあふれ かえっている。  ばつが悪いのを察して、すごすごとロビーを後にする。  ところが自動ドアが開くと、落とした肩に嘘の様に力が入る。  爽やかな夏の風が透の横を掠めたからだ。  彼の頭に蠢くものは、何処かへ飛んでいった。  照りつける日差し。  澄み渡る空。  静かに波を立てる海。  たくさんの人を包み込む海岸の砂浜。  そして、溢れんばかりの人々の熱気。  その全てが、今まさに夏だ。  透は、すぐにでも視界を埋め尽くす程大きく、青い海に飛び込み たい衝動に駆られる。  ボストンバッグを持つ手のひらに汗が滲む。  もう居ても立ってもいられない。  何か、心が浮足立ってくる。  ホテルの玄関からすぐの海岸へ向かって、透は大人げなく全力で 走り出した。  誰が何と言おうと、俺の休日だ!  俺が楽しまなきゃ、意味がない!  部屋から海水パンツを穿いてきて良かった!  走りながらTシャツを脱ぐ。  今日は何も彼も忘れて、泳ぐぞ!  ボストンバッグを砂浜に放り出し、脱いだTシャツとGパンを、 ボストンバッグにかぶせるように投げつけると、波打ち際までまた 走った。  少々人が多いが、彼はそんな浅瀬で泳ぐ気はない。  昔から、かなり遠くまで泳ぐのが好きだった。今でも変わっては いないらしい。  気持ちいい。  海の水の感触は、いつも透を満足させる。  小さい頃から、よく泳ぎに行ってたっけ。  特に水泳を習ったわけではないが、一般の人達に比べると段違い の上手さだった。  素質があるということらしい。  何度も水泳部からお誘いが来たよなぁ。  あざ笑って入部を断り続けていた頃を思い出した。  楽しかったよ、あの頃は。  熱いものが胸に込み上げてくる。  クロールの水をかく手が次第に早くなる。  あっという間に、彼は海岸線からかなり遠くまで泳いで来ていた。  太陽の日差しは眩しい。  遮るものが何もないからだ。  どうやら、あまりの嬉しさに、つい飛ばし過ぎたようだ。  このあたりは、海岸・砂浜自体がかなり狭い。  確かに大勢の海水浴客が訪れるが、人が集まるといっても、毎年 新聞に載るような大きな海岸と比べると、遥かに少ない。  また、交通の便も悪くて、不思議な事に極端な程の遠浅であり、 さらに高波も期待出来ないため、いわゆるマリンスポーツもあまり この近辺では流行ってはいない。  この分なら、かなり沖まで出ても大丈夫そうだな。  透の読み通り、海岸線から何処まで行っても、結構安全である。  透は、マッチ棒よりも小さく見える海水浴客からさらに遠ざかる。  15分程経過した。  ここまで軽快に泳いでいた透は、突然クロールをやめた。  ここへきてようやく、彼は大きな間違いに気付いた。  しかもたくさんの、である。  酒の呑みすぎ、空腹、全く無かった準備体操、そして、少年の時 から格段に落ちた自分の体力と、ここ2、3年泳いでいないという 事実。  気付いた時にはもう手遅れだった。  右足がつったのだ。  まずい。  慌てて海岸を振り返る。  こうして見ると、海岸は切り立った岩場に囲まれた場所だという ことがわかる。  警備員も遥か沖まで泳いで来た透の事など気付いていないのか、 誰も何もしていないようだ。  くそうっ! こんなこと、ガキの頃は一度もなかったぞ!?  昔の様にいかないもどかしさと、つっている右足の痛みが重なり、 彼は水に必死に浮きながらうめき声をあげる。  あっ、いてっ、ああっ、いたたた! ちくしょう!!  かっこ悪いけど、仕方ない…!  必死に痛みを我慢して、海岸へ向かって助けを求めた。  だが、大声で叫べど両手を振れど、海岸の方からのアプローチは 無い。  この時、オーバーアクションが祟って、透は海水を呑んだ。  これが災いして、少しずつ気分が悪くなった。  彼の足の具合からいって、海岸の一番近い辺りまで到底泳ぎ切れ そうにない。  海岸からも、まだ彼の事は全く気付いていないようだ。  まわりは海。  透は、調子に乗ってこんな所まで泳いで来た自分を呪った。  こんな、こんなはずじゃ…!?  しのぶ…全部お前のせいだぞ!?  いつしか、彼は自分以外の人間に責任の所在を刷り替える。  かなり沖まで出たせいか、海岸の辺りよりも波が高い。  身体が思うように動かず、思わぬ方向へ押され引っ張られ、持ち 上げられる。  波の反動で、また少し海水を飲んだ。  もう、だめか。  その時、透の視界に、一隻のクルーザーが見えた。  先程から沖に停泊していたが、海岸にばかり目を向けていたため、 気付かなかったのだ。  透からは、海岸線より遥かに近い位置で止まっている。  クルーザーには、4人程が乗っているようだ。  皆、こちら、つまり彼の方を向いている。  どうやら、彼の事を確認したらしい。  そこまで泳げば…!  透は必死にもがいた。  とても泳いでいる様には見えない。  が、なりふり構ってはいられない。  まだ、あの世へ行きたくはないのだ。  ちょっと、遠い、か…。  距離をある程度詰めたが、クルーザーにまでは辿りつかなかった。  透の手足の動きが止まった。  力が抜けていくのがわかる。  何だか、不思議な気分だ。  意識が無くなるという感覚を、生まれて初めて透は味わった。  身体が揺れている。心地良い揺れだ。  誰かが、自分の座っているロッキングチェアーを静かに揺らして いる様な気分になる。  悪くない。  が、いつまでも眠っているわけにはいかない。  自分が今どうなっているのかを、当然知る必要があるからだ。  ゆっくりと目を開けた。  夏の太陽、相変わらず日差しが眩しい。  生きてる!  透は、つい先程まで溺れていたという事実を、五体満足な喜びで 打ち消した。 「あ、気付かれましたか?」  透は、自分のいる位置の左手にいる男に気がついた。  かなり背が高いため、座った状態の透は、かなり見上げる必要が あった。 「息はあるから大丈夫と、みんなは言ってたんですけど、やっぱり 心配で、その…」  照れ隠しに男は、右手で後頭部をぼりぼりと掻きはじめた。  その髪は短く刈り上げられ、軽く茶色がかってはいるが、やはり 黒髪が目立つ。  ジョーズのバックプリントのあるシャツ。  蛍光イエローのトランクス。  それ以外は何もつけていない。  浅黒い肌は、日焼けし始めて間がないようだ。  かなり、若いのかな…?  透は、落命の危機をかわせたばかりだというのに、この爽やかな 青年に、妙な嫉妬感を覚えた。  俺だって、5年位前はお前と同じ位格好良かったんだぞ!?  いぶかしげな顔で睨みつける透を見ても男は嫉妬には気付かない らしい。 「でも、随分と遠くまで泳ぎに来てますね?」  さわやかな笑顔を振りまいて、その青年は透に問いかけた。 「あ、いや、まあ…」  何か言葉を返そうと、腰を浮かせた透は、自分の身体にスポーツ タオルがかけられていることにやっと気付く。  身体の水滴はやたらと少ない。  濡れたスポーツタオルは、彼の身体に付着していた水滴を、全て ぬぐい去ったのだろうか?  もしかすると助けられてから、かなり時間が経つのだろうか?  そうだ、時間を聞けばいい。 「え…っと、今、何時位かな…?」  不器用に問いかける透に、青年は多少含み笑いをしながら答えた。 「自慢の腕時計が泣きますね? えっと12時20分くらいですね」  男の指さす先に透の左腕があり、手首にはダイバーズウォッチが はめられてある。  まだ多少動揺しているのかも知れない。  気分を落ち着ける意味として、今の状況を目で見える範囲で確認 しようと、透はあたりを見回した。  クルーザーの小さな小さな後部デッキである。  丁寧に板張りされた床が気持ちいい。あまり濡れていないのは、 誰も泳いでいないからだろうと、彼は推測した。  最後尾には、釣竿が二本ある。海釣り用の、直径の太いしっかり した釣竿だ。 「釣り、ですか?」  釣り竿を指さしながらの透の問いかけに、青年はさも興味無しと いう風に答えた。 「ええ、そうですよ。僕は釣りはしないんですけどね」  青年は透に向かって微笑みながら、遠くに見える海岸線に向けて 指をさした。 「あのあたりから泳いで来たんですよね? 凄いなぁ」  話しながら、透の前を横切って、右の方へ歩いた。  透も、身に掛けられていたタオルを矧ぎ取り、ゆっくり立ち上が ろうとした。 「痛っ!!」  まだ、足の具合が良くない。 「大丈夫ですか?」 「え、ええ、まあ」 「気付かれました?」  会話が途切れた。  透は、たった今船室から出てきたばかりの人物に、全ての思考を 取られた。  そこに現れたのは、ゆったりとした白い薄手のワンピースに身を 包んだ女性だった。  …綺麗だ。  その言葉しか思い付かなかった。 「あ、鮎子さん。この方、まだ少し足の様子が優れないみたいで」  …鮎子さん?  爽やかな夏の風に髪を靡かせて、彼女は青年に指示を出した。 「この方に、何かお飲物を差し上げて」 「じゃあ、コーヒーでいいですか?」  透は、爽やかな青年に聞かれた内容には答えなかった。  たった今、鮎子と言う名の淑女が、クルーザーの船室から、透の 目の前に現れた瞬間、透の口から全ての言葉が奪われた。  男として、彼女を無視することは出来ない。  涼しげな目許だが、遠くを見やる眼差しは、どこか疲れや憂いの ようなものを感じさせる。  すうっと通った鼻筋は、彼女の鼻の高さからくるもので、日本人 離れしていると言ってもいい位伸びやかである。  愛らしい口元は軽く緩み、優しげな微笑みを作り出す。 「足の方、大丈夫ですか?」  その唇から洩れる吐息のようなか細い声が、透の耳にとって何と 心地良いことか。  彼の顔を覗き込むようにして、顔を寄せて尋ねられたので、透は 今、彼女を避けることはできない。 「え、ええ、まあ」  胸が高鳴る。  心臓の鼓動を、息の荒さを、そして心の動揺を悟られるのではと、 透は焦った。  実際、このクルーザーのデッキはかなり小さい。  一応彼は進行方向に対して後ろ向きに座ってはいるが、無理して 足を伸ばせば釣竿に届く。  彼女が立っている位置にしても、先程の青年と同じく透の左手に すぐのところであり、彼女がしゃがみこんだだけで2人の顔はこれ 以上はない位の至近距離になる。  結局は、瞬間でしかなかったが。 「コーヒー、入れましたよ」 「あ、総君、こぼさないように、ね」  さわやかな彼の再登場を喜んでいいのかどうか、よくわからなく なったまま、透は彼の入れたコーヒーを口に運んだ。  強い日差しの中、熱いコーヒーをすする透は、やはり視線を彼女 からそらす事が出来ない。  彼女は透に微笑みを向けるが、何も話しかけては来ない。  そう、皆がコーヒーを飲む間、奇妙な沈黙が続く。  軽く膝に掛けたスポーツタオルが、いやに重く感じられた。  いや、むしろ、この場の空気が重いのだ。  タオルはその重さを直接透に示しているに過ぎない。  むずかゆいような感覚を両足に感じた。  コーヒーを飲み終わった透は、マグカップを床に置き、ふぅ、と 軽くため息をついた。  憤りすら感じるが、こういう時に言葉を切り出すにはそれなりの 勇気が必要である。  結局、沈黙は続く。  何なんだ…?  この人達、いつもこんなに静かなのだろうか?  でも、あの爽やかな青年君も、さっきまでは気さくに話してくれ たのに。  何か悪いことでもしたのだろうか?  邪魔なことでもしたのだろうか?  ここにいるものすべてがコーヒーを飲み終わったが、何故か会話 が始まらなかった。  透は落ち着かず、きょろきょろと視線を移す。  あ、あの…  さすがに、海の上の奇妙な空間の持つ圧力に耐えられなくなった。  大袈裟に身体を動かしながら、透は強引にでも何か話しかけよう とした。 「あ、そうだ、鮎子さん。この人、ほら、あの海岸から泳いで来た そうですよ!」  バックプリントのジョーズをなびかせ、爽やかな青年が海岸線を 勢い良く指さす。 「あら、あんなに遠くから?」  緊迫した気分が急激に薄れ行くのと同時に、彼女が優雅に驚く様 を見て、透は胸が高鳴ってゆく。  だが、コーヒーを飲み終わった後も、しばし沈黙の時が過ぎる。  かなりの沖にしては、先程よりも穏やかになった揺れに合わせ、 ゆらゆらと上下に揺れながら、クルーザーはずっと停止していた。  彼はとりあえず、ダイバーズウォッチを外していた。  スポーツタオルも返した。  出来るだけ窮屈に感じるものを身体から取り払っていた。  身体が軽くなったのとは対称的にますます透の気持ちは重くなる。  仕方無く、またも透は彼女に見とれている。 「本当に、足は大丈夫ですか?」  突然、彼女が尋ねた。  かすかな声だが、どこか優美な甘さがともなう。 「え、ええ。もう、大丈夫です。はい」 「そうですか。よかったですわ」  はっ…!?  彼女の憂いがはっきりと見て取れた。  軽いため息を引き金に、鮎子は視線を透から外した。  彼からは、海面を眺めるような角度に彼女の視線が移ったように 見える。  背けた顔は透からは右の顎から耳、うなじにかけての線しか見え ない。  どこか頼りなげに彼の瞳に映る。  迷惑だったのだろうか?  透は、自分がここにいることをまず疑った。  だが2人の自分に対する態度が、そんなに迷惑がるようにも見え ない。  そこまでの演技をする理由も、透には考え付かない。  それなら…  何か悩み事でもあるのだろうか?  妙に、彼女の憂いの原因に首を突っ込みたくなったが他人にそこ まで追求することが許されるはずはない。  総君と呼ばれている爽やかな青年は、この場に際して何も言わず に静観している。  先程の気さくな態度は何処へ行ってしまったのだろうか?  透の胸の内には、何かもやもやしたものが満たされていく。  顔に出てはいないかと、自分でも心配する程、苛立たしくなって きた。  聞きたい。  その背けた面影に映る憂いの原因が何なのか。  人間として、当然の欲望かも知れない。  他人の事は些細なことでも知りたい。  だが、彼にも大人としての常識がある。  つい先程まで他人だった女性がいきなり悩み事を打ち明ける程、 世の中信用できるものではないことは、承知の上だ。  透は、深く追求することを潔く諦めた。  幸い、つった右足も軽く前後に動かすと、大丈夫だとわかった。 「じゃ、じゃあ。俺、これで」 「あっ」  鮎子が小さく驚いた瞬間、透は青い海へと身を沈めていった。  いてもたってもいられない気持ちは、泳いで忘れることにした。  いかにも、透らしい頭の冷やし方だ。  確かに、日差しとコーヒーで火照った体が、一気に海の中で冷や されていく。  それでも、勢い良く海に飛び込んでおきながら、何か引っかかる ものを感じたらしく、3メートルも進まないうちに透は後ろを振り 向いた。  船の上では二人とも、呆然とした顔で、透のことを見ていた。 「やっぱり、あの辺で泊まってらっしゃるんですか?」  総君が透に問いかけてきた。 「ええ、まあ」 「お気をつけてお帰りくださいね」  少々心配そうな鮎子に向け、透は照れくさそうに、軽く手を振る。 「ほんと、ありがとうございました」  シャイな仕草が受けたのか、無口の時とはまるで正反対の、まば ゆいばかりの笑顔で、鮎子も手を振った。  総君も鮎子の真似をして、一緒になって小さく手を振る。  コーヒーも飲んだし、十分休ませてもらったし、もう大丈夫。  透は軽快に海を渡り始めた。  もう、行程の半分は進んだだろうか。  やはり、気持ちいい。  泳いでいるだけで幸せな気分に浸れる…  そんなところが彼にはある。  そういえば…  透は、海の中にいると頭まで冴える。  あのクルーザーの上には、確か4人いなかったか?  溺れる寸前だったから、見間違いかも知れないけど…  振り返ると、そこにはクルーザーの姿はない。  ただ、水平線まで青い海が広がっている。  砂浜までたどり着いた透は、ふうっとため息をつくと、ちょっと した人垣をかき分けて、暑い砂の上に体を横たえた。  肩が揺れている。  軽く力をこめると、右腕全体が小刻みに震え出す。  彼は人知れず落ち込んだ。  こんなに体力が落ちていたなんて。  特に右足がおかしいというわけではなく、ただの疲労なのだが、 透には体力の低下を痛感させられる現象だった。  だめだな。もっとトレーニングしなきゃ。  現代サラリーマンの口癖が、つい言葉となって現れる。  そして、疲れは睡眠となっても現れ始めた。  まぶしい日差しと熱い砂浜に包まれて、透は昼寝を試みる。  ひと眠りするか。 「うわぁ!!」 「きゃあっ!!」  相変わらず、適度な賑わいだ。あたりはお子様連ればかりである。  子供が横を走りぬける度に仰向けに横たわった透の顔が砂まみれ になる。  4回も砂をかぶると、さすがに落ち着かない。  疲れた体に鞭打って、ゆらゆらと立ち上がる。  それにしても日差しがまぶしい。  サングラスがいるな。  お目当てを手にすべく、辺りを見回した。  ボストンバッグが見あたらないことにようやく気が付いたのは、 この時だった。  冗談はよしてくれよ…  透はせっかくの美しい鮎子の面影が心の奥底で脆くも崩れ去って いくのを感じた。  いい気分はいつまでも続かないようだ。  確か、この辺りに置いたのに…  念のため、ボストンバッグを放り投げた辺りを十数分程探したが、 見あたらないものは見あたらない。  まいったなぁ。  ぼりぼりと、まだ多少湿った頭を掻きむしった。  仕方無く、彼は監視員詰所まで足を運んだ。 「さあ、そんなのは知らないねぇ」  バイトの監視員たちのそっけない返事に、透は呆れ返った。  溺れてる俺は見つけられないわ、海岸は見回りしないわ…  透の頭の中は、彼らに対する不満が蠢いている。  だが、彼らとて、言い分もある。  用心もせずにボストンバッグをその辺に放り出しておいて、監視 しろとは無茶な話だ。  また、双眼鏡でも見分けがつきにくいほど遠くまで勝手に泳いで 行って溺れている男のことなど、監視員でなくとも知ったことでは ないはずだ。  それらの恥ずかしい行為を棚において、透は憤慨した様子だ。 「あ、あんたらねぇ。俺が監視員のバイトやってたときはどんなに 遠くでも、溺れている人を見つけたら飛んでいったもんだぜ!?」  監視員の一人を何度もオーバーに指で差し、必死に文句を言う。  論点がずれ、何のことだかさっぱりわからないといった風の監視 員達は、半ばしかと状態である。  ああ、そうかい!  さらに格好悪いことうけあいだが、やむをえず、透はトランクス 一丁で砂浜を出て、海岸沿いの県道を横切る。  県道を、何台かの車を避けつつ横切ると、すぐそばに交番がある。  万が一でもボストンバッグが届けられていれば、儲け物である。 「気ぃつけてもらわんとなぁ。この辺はそういうのが多いからなぁ」  残念ながら、ここでもこの調子だ。  この警官、ひとの良さそうな顔をしているが、意外と口調は冷め ていた。  透は、疲れ果てた体を気持ちだけで引きずっているという風に、 交番を出る。  しのぶはいない。荷物もない。お金すらない。どうしろってんだ?  ま、何とかするけどさ。  砂浜に戻ると、本当に疲れ果てた体をまた砂の合間にうずめた。  日差しはまぶしいが、西の方の空が少しだけ曇ってきているよう に見える。  知ったことじゃない。  それよりも、腹へった。  彼はまだ朝目覚めてから何も食べていない。  そういえば、いま何時だ?  仰向けに横たわったまま、左手を上に持ち上げる。  時計が、ない。  ようやく、透はあのクルーザーに、ダイバーズウォッチを忘れて きたことに気がついた。  まずい。  ボストンバッグは中身も含めてどうでもいいようなものばかりだ。  強いて言えば財布の中身だ。これも今回の旅はクレジットカード が主なのでそれほどの大金が入っているわけではない。また稼げば いいだけのことだ。  クレジットカードも、先程交番に行った際電話を借りて使用停止 を連絡したため、かえって使ってくれた方が犯人がわかる。  今、透にとっての問題は、ダイバーズウォッチなのだ。  だが、もう考える気力が失せていた。  静かにまぶたが閉じるのを、透自身さえぎる事ができなかった。  透は会社の机に向かっていた。  前日から片付かない書類が、鬱陶しい。  その割には締まりのない顔だ。 「へえ、かっこいい時計だな?」  会社の同僚が話しかけて来た。 「まあね。安物だろうけど」 「プレゼント、か?」 「まあね」  同僚はにんまり顔だ。 「あの、しのぶさんって女の人か?」 「まあね」 「ちぇっ、いいな、お前さんは」 「ははっ」  そんなはずはない。こんなのは1年も前の話だ。  気が付いて目を覚ます。  仰向けに体を横たえていたが、空腹感を拭い去ることが出来ず、 疲れも手伝ってそのまま軽い眠りに誘われていた様だ。  しのぶ、時計なくしたっていったら、怒るだろうな…  結構高かったらしいし…  ほんの一瞬余計なことを考えていたが、よく見ると身体が濡れて いる。  原因はすぐにわかる。  透はわざわざ身体を起こした後で顔を上げた。  雨だ。  彼は夕立に出会った。  気の抜けた様子の透は、激しく降る雨を浴びたまま、動こうとも しない。  ただでさえ濡れている身体だが先程まで仰向けのままだったので、 背中は砂まみれだ。  たかが夕立だが、雨は容赦なく透を濡らす。  胸の内までしっとりと濡れていくようだった。  何だか、虚しいな。  彼は、やけにセンチメンタルな気持ちになった。  ここへ来て何故か、何もかもうまくいかない。  今の彼には、手にする物が何もない。  街へ帰ればまた、いつもと同じ生活が始まるはずなのに。  寂しさ、不安、苛立ち。  いろいろな物が頭の中でうごめくと、じわりと浮かんでくるもの があった。  男には余計な感情かもしれない。  しかし彼は確実に、感情から感覚への橋渡しをしてしまった。  左腕で、軽く目をこする。  馬鹿だな、おれって。  雨は、今の彼にとって効果的に働いているようだ。  だが夕立は、長くは降り続かない。  夜かと思うほどの暗い空に、もう晴れ間が指す。  そして濡れ鼠とは、今の彼の姿を指す。  ようやく身体を動かす気になった。  自分の格好が恥ずかしくなって、あたりを気にしたが、幸い誰も いなかった。  あの夕立だ。砂浜にじっとしている方がおかしい。  誰もいない海岸で、透は一人、自らの行為を恥じた。  夕暮れ時。  夕陽が、透のいる場所からは、あとこぶし2つと少しで水平線に 触れるくらいに見える。  黄昏があたりをつつみこむ。  結局、夕立後もずっと動かなかった。  背中の砂も乾いて自然に落ちている。  ようやく透は普段の落ち着きを取り戻した。  綺麗だ。  細波と夕陽がつくりだす、きらきらと輝く浜辺が、彼の心の中に 感動を呼び起こす。  馬鹿らしいよな、本当に。  あぐらをかいていた両足を、ぐっと前に突き出す。  座った状態で両手を後ろへ伸ばすと、手のひらに乾いた砂の感触 が気持ちいい。  右手で軽く砂をつまんで持ち上げ、手のひらから流す。 「よかった。やっと、見つかったわ」  真後ろで声がした。  幻の様な、か細い声色。  確かに聞き覚えのある声。つい数時間程前に聞いている。  どうしてなんだろう。ひとことがとても耳に心地良い。 「…鮎子さん?」  振り返り、鮎子の顔を確かめた途端、慌てて透は立ち上がった。  鼻筋の通った、彫刻の様な顔が、夕陽の淡い光をまとい、赤とも 朱色とも桃色ともいえないほのかな色を帯びる。  綺麗だ。  またも同じ表現を使ってしまった。  しかし、透は馬鹿ではない。  他に言葉が浮かばない程、絶対的な事象に出会った時、人は本能 的にその事象を一言であらわす。  夕陽のつくりだす浜辺にもまして、彼女は輝いていた。  二人は動かず、その場に立ち尽くしていた。  あたりには他に人影もなく、ただ二人だけが立っていた。  涼しげな微風が一度、二人の合間を緩やかに抜けて行く。  やがて、夕凪が訪れる。  波はあくまでも静かで、かすかな音さえ奏でてはいない。 「あ…」  最初に言葉を切り出したのは、鮎子の方だった。 「ど、どうしたのかしら、私」  緊張感と動揺が複雑に絡み合った表情をしている。 「これを、渡しに来ただけなのに…」 「あっ」  透は思わず声を上げた。  鮎子はそっと、透のダイバーズウォッチを差し出していた。 「それ、探していたんです」 「そうでしたの? よかったわ」  鮎子の顔に安堵感が浮かぶ。 「あの、わざわざ届けに?」 「いえ、用事のついでで。ごめんなさい」  にっこり微笑みながら鮎子は、軽く頭を下げた。 「船に忘れていた時計を見つけましたの… こちらの方のホテルに 泊まっているとおっしゃったでしょう?」 「ええ、確かにそう言いました。本当にありがとうございました」  突如、透はその場に腰を下ろした。  へたりこんだという表現が正しいだろうか。 「どうかなさったの?」  鮎子の心配そうな声に、透は軽く愛想笑いで返す。 「い、いえ。何て言うか、その、ほっとしたから」  彼女も愛想笑いで答えて、ほんの少し距離を置いて砂浜に座る。  二人は並んで、水平線と夕陽を眺めた。 「あの、ワンピース、汚れませんか?」  妙な心配をする透に対して、彼女は小さく首を横に振る。 「これ、汚れてもいい服なのよ…」 「そ、そうですか」  返事を受けると、彼はわざと水平線を見つめた。  一瞬の間をおいて、鮎子が心地良い言葉を透に向けた。 「ねえ、少しいいかしら?」 「…はい?」 「まだお互いに名前も知りませんでしたわね」 「そうです、ね」 「言い出した方が先に名乗らなくてはね。私は夏川鮎子」 「あ、お、俺は、いや、その、僕は…」  何故この女性の前では、こんなに”あがる”んだろう?  透自身、そんなにあがり性ではない。  人並みには挨拶も出来る。 「あの、僕は…三原透って、いいます」 「三原さん、でよろしい?」 「あ、あの、透、でいいです」  そう口走った後で、透は顔を赤らめた。  ほぼ初対面に等しい彼女に、いきなり名前で呼んで欲しいとは!  恥ずかしさで、自分の心拍数が上がるのがはっきりと感じ取れた その時、 「では私も、鮎子でいいですわ」  透の胸の中は、更に熱くなった。  その言葉は、自分への優しさだと思い込んでしまったからだ。  この、彼女の接し方が、透の会話に一瞬の隙をつくった。 「あの、おいくつですか?」  口を滑らせた事は、誰の目にも一目瞭然だった。  本人も、ばつの悪そうな顔を隠せずにいる。 「透さんって、女性に年齢をお聞きになるの?」  鮎子は優しく問い返すが、さすがに多少の動揺を見せた。  透の右手、少し前に腰掛けていたが、振り返る仕草はあくまでも 優雅である。 「あ、ど、どうも、すみません」 「私は別にかまいませんわ。あなたから見ても、もうおばさんです ものね」  おばさん…?  彼の中に一瞬浮かび上がったおばさんというイメージは、鮎子の 横顔とは決して重なる事はない。 「透さんは、25、6歳くらいでしょう?」 「ええ、今年の10月で、25になります」  答えに納得したのか、くすりと鮎子が微笑んだ。 「お若いですのね。私は三十路まであと少しですわ」  透は、とても新鮮な驚きに包まれた。  こんな、綺麗な女性が…?  鮎子の一言が耳に飛び込んで来るまでは、同年齢だと勝手に思い 込んでいたのだ。  以降の女性観が変わる、透にとってのショッキングな一瞬だった。  この優雅で端麗な物腰は、やはり相応の年齢が必要ということな のか?  いや、きっと、そうじゃない。  年齢なんて、関係ない。  そうだ、彼女は違う。違うんだ。  透は、彼女の美しさが外見からのものだけでは無い事を、改めて 思い知る。  この時、わずかだが、会話が途切れた。  年齢を訊ねた無礼と、それでも気軽な素振りで答えてくれた鮎子 の優しさと。  何よりも、自分の想像を越えた年齢であったことが、彼を無口に させる。  二人は互いの視線を避けるように、水平線を眺めていた。 「でも、こんなところで、何をしていらしたの?」  しびれを切らせたのか、今度も鮎子の方から、気さくに透に話し かけた。 「…おかしい、ですか?」 「もうすぐ、日が暮れますし。泳ぐにはもう遅いと思いますけど…」  少しテンポがずれたが、透は腹を抱えて笑いだした。 「あははは!」  鮎子の不思議そうな顔に気付いて、彼は一応笑いを止める。 「どうなさったの?」 「あはは、ごめんなさい。今から泳ぐ様にも見えますよね、確かに」 「違うんですか?」 「ええ、まあ」  ここで、彼は少し迷った。  ここらあたりで、一文なしになった事を持ち出すのが、話の流れ というものだ。  笑い話で、バッグ一式が無くなった事を話すのは別に構わない。  だが、未だ他人としか言い様のない鮎子さんにこんなことを話す と、いらぬ世話や心配をかけてしまうのではないか?  たかがダイバーズウォッチでもわざわざ届けてくれる、心優しい 女性だ。  やっぱり、今の状況をそのまま持ち出すのはよそう。  透は事実を大きく曲げる事にした。 「いや、もう少し日焼けしようかな、なんて」  わざとおどけて見せるが、言った本人にしても、嘘っぽさがあり ありと見て取れる。  ところが、ここが鮎子のいいところだろうか。 「あの夕陽で?」  しなやかな右腕を音も立てずに振り上げる。  限りなく細くてしなやか、限りなく白い指で、水平線にかかるか どうかの夕陽を指した。  鮎子の小さな驚きは、やがて好奇心の色を帯び、次第に肩を震わ せて笑うまでに変わる。 「あ、あの…」  透は、人知れず後悔した。  もっと気のきいたごまかし方があったはずだった。  鮎子は、含み笑いをさらに押さえながら、透に軽く牽制をかける。 「素敵ですわね。あの夕陽で肌を焼くんですもの!?」  やられた。  透は頭を抱えたいような、それでいて、少しはうけた様に思えた ため、迷惑をかけるよりはいいかもと、素直に認められるような、 不思議な気分だった。  こんなところの気持ちの切り替えの早さは、現代人の得意業だ。 「でも、久しぶりですわ、こんなに笑うのは」  鮎子は、海の方へ向き直った。  左斜め後ろから鮎子を見やるが、透からはうなじしか見えない。  かすかに見える瞳は、海の彼方を眺めているようだった。  遠い目をしている。  またも透は、声をかけるタイミングを失った。  鮎子を後ろから眺める時は彼女の憂いが見て取れるようで、彼は クルーザーの上の時と同じく、どうしていいのかがわからない。  ふと、透には、海が彼女を憂鬱にさせているような気がした。  どうしてだろう。  彼女が海を見つめる時は、どうしてそんな瞳をしているのだろう?  何も出来ない自分が歯痒い。  夕陽が海に沈んだ。  海岸一体が暗くなっていく。  鮎子の顔も、身体も、少しずつ闇に溶けていく。  透は急に、彼女が遠くなるように思えた。 「あ、鮎子、さん?」  どうして声をかけることが出来たのかと、自分でも驚く。  だがここで、鮎子の全てを闇の中へと落としてしまうと、 「どうかしました?」 「え、あっ、その…」  特に用事も無く問いかけてしまったため、今日何回目かの会話の 失敗を痛感する。  彼女の一言は、透の会話のリズムを簡単に狂わせる。  それが、透にとっては困惑の元であり、また、たまらない彼女の 魅力でもある。 「あっ、実は、バッグを…」  今回は、間違いなく困惑の元の方だ。  何のために話を逸らせたのかわからない。  混乱していると、言ってはいけないことだけが、何故か口に出て しまうものだ。  一体、鮎子との些細な会話の中で一日で何回後悔すれば気が済む のだろうか? 「バッグが、どうなさいましたの?」 「えっ、いや、その…」  透にしてみれば、今夜の行き先がない。  あきらめて、打ち明けるべきだろうか?  いや、これ以上鮎子さんに迷惑をかけるわけにはいかない。  どうすればいいのか? 「おうい、にいちゃん、にいちゃん!」  中年男性の声がする。  二人は、声のする方、県道の方へ顔を向けた。 「あった、あった。これ、あんたのバッグじゃあないのかねぇ?」  人なつっこいその声は透の聞き覚えのあるものだ。 「さっきのお巡りさん!?」  透は慌てて立ちあがり、県道の警官へと走り寄って行く。  鮎子はといえば、また海へと向き直っていた。 「どこにあったんです?」 「いやあ、近所のガキどもが青いバッグをもって走っとったから、 もしやと思うてとっつかまえたら白状しおったわい」 「お金も、他のものも、全部入ってる!」 「ふむ、ガキどもも、何もとっとらんというとったからなぁ!」  何がおかしいのか、豪快に笑い飛ばしながら、警官は県道をふら ふらと横切った。 「その、バッグは?」  いつの間にか、鮎子もそばまで来ていた。 「恥ずかしい話ですけど、無くしていたんです、今まで」 「まあ、お困りでしたでしょう? それで、ずっとここに?」  鮎子は、自分が問いかけたあの時、何故透が笑いだしたのかが、 ようやく理解出来た。 「そう、そうでしたの、それでバッグがどうとか…」  わかってしまえば、彼女にも笑みが浮かぶ。  海岸は完全に闇に包まれた。  静寂の中、あくまで穏やかな波の音だけが聞こえる。  鮎子はいかにも、楽しいひとときを振り切るように言った。 「もう遅いですから、私、帰りますわ」 「あっ、送りましょうか? お金もありますし」  透がボストンバッグの中から財布を持ち出すと、彼女に含み笑い が浮かんだ。 「いえ、大丈夫ですわ、本当に」 「でも…」  迷うことなく、透は右腕を伸ばした。  鮎子の腕に触れる。 「あっ」  鮎子の驚いた声に、透は慌てて手を引っ込めた。 「す、すみません」 「いえ、本当に、大丈夫ですから」  鮎子は県道へと歩いていった。 「あ、あの…」 「何か?」  透の呼び止めに、彼女は素直に応じた。 「い、いえ…何でもないです」 「それでは、また」  彼女は闇に消えた。  鮎子が帰った後、どうせ暗闇だからと、透は砂浜の上で着替えを 始めた。  身体についた砂なんて、ホテルに帰ってから風呂で洗い落とせば いい。  サーファーは、結構平気な顔をして砂浜で着替える。  彼はサーファーではないのだが、誰も見ていないであろうことは 十分承知していた。  男など、そんなものである。  着替え終わると、一目散に今朝まで宿泊していたホテルへ向かう。  が、途中二回だけ後ろを振り向いた。  何を期待しているわけでもない。  もう、彼女とも会うことはないだろうと、彼自身も考えている。  ただ、また何か忘れ物、落とし物をしていないかを気にしていた だけである。  多少着崩れしたままだが、ホテルの玄関から堂々と入る。  カウンターで手続きをとると、夕べと同じ部屋だという。  だったら、ボストンバッグの一つ位預かってくれても…。  透の頭に、やはりこのホテルそのものをいぶかしく思う、何かが 潜んでいたようだ。  カウンターの奥で、従業員が2人、口を両手で押さえながら必死 に笑いをこらえている。  透の顔を見ながらだ。  何が面白いんだ?  透は気にしながらも、その従業員達を無視して、8階へと向かう。  8階の廊下で、彼は今朝と同じように立ち止まった。  夜の浜辺も、美しいのだ。  部屋に入った途端、透は従業員の笑いを必死で押さえる姿を思い 出した。  やられた。  バッグ一つも預からないくせに…  夕べ眠ったダブルベッドの脇には、大量のビールの缶が散乱して いる。  彼のいらいらは、そう簡単には収まりそうにない。  だが、ここでやけ酒は短絡すぎるし、またも従業員の笑いものだ。  妙な感情をぐっとこらえて、部屋の明かりをつける。  とりあえず、身体中の砂を落として、すっきりすることにした。  洗面所に入る。  またしてもやられた。  濡れたままだ。  飛び散った水は、もちろん透のやけ気味の洗顔の産物だろう。  もう、うんざりだ。  どうせ風呂に入れば一緒なのだが。  その思いそのままの勢いで、何の準備もなく風呂に入る。  軽くシャワーを浴び、身体を隅々まで洗った後、湯船に湯を張る。  湯船に身体を入れるまで、憤慨しきりだった。  が、肩まで湯に浸かった途端、小さなため息と共に、ある考えが 浮かび、透の気持ちを安らげていく。  そうだ、忘れてた。  しのぶに、電話しなきゃな。  ダイバーズウォッチも見つかったし。  話のネタも多いし。  何だかんだ言って、ここに来るのを楽しみにしてたからなぁ。  明日、こっちに来ないかな?  期待に胸を膨らませ、透は湯に浮いている気分がした。  風呂からあがると、すっきりとした表情を浮かばせる。  まるで今日あった出来事を、何も彼もシャワーで流してしまった ように。  電話の0発信を忘れ、変なところにつながってしまったことも、 今の彼に大した影響はない。  むしろ、こういう台詞が、彼の胸の内を暗くさせる。 「…はい、せっかくお電話頂きましたが、少々留守にしております。 ピーという発信音のあと、何かあったらよろしくね!?」 「…透です。とっても楽しい休日を過ごしています。じゃあ」  話し口調とは裏腹に、透は今朝と同じく、受話器を思いきり乱暴 に叩きつけた。  そうだ、そうなんだ。  いつもお前はそうやって自分勝手でわがままで、何様のつもりだ!  彼はあらん限りの罵詈雑言を、この場で言ってのけた。  言い尽くした後で、透は言い様のない気分を胸に抱いた。  お前、本当に俺のこと好きなのか?  あの時のお前の言葉は本当なのか?  孤独、自己嫌悪、敗北感、不安、その他入り乱れて、彼の心の中 で気分を害するような思いが浮かび上がる。  どれがが正解というわけではない。  どれが思い違いというわけではない。  そう、外れてもいない、当たってもいない。  今の彼の心の中には、誰も、彼さえも決めつけることのできない 感情でいっぱいだった。  いつもなら、こんなことは思わないんだ。  そう、いつもなら…  一人で寝るには広過ぎるダブルベッドに横たわる。  シーツはあくまでも冷たかった。  ただ泳ぎたいから来たんじゃないんだ。  足をつって溺れに来たんじゃないんだ。  バッグを盗まれに来たんじゃないんだ。  鮎子さんと話しに来たんじゃないんだ。  ここで、この場で、言うつもりだったんだ。  この旅の本来の目的を、今日一日の内で初めて思い出した。  ベッドの上で大の字に手足を広げる。  どうするんだ? 俺…。  天井が妙に霞んで見える。  彼の感情は、またも形になりかけていた。  人と比べて、透はそれほど弱い男ではない。  だが、今日の彼は違う。  くだらない、ばかばかしいことでも、心の中に積み重なっていく うちに、やがて痛烈な痛みとなって精神の根底をむしばむ。  こうして現れた、小さな心の隙が彼に、あることを思いださせる。  ふと、女性の笑顔が浮かんだ。  夏川鮎子だ。  優しい…  あなたは優しい女性だ…  透は無意識の内に、彼女の微笑みによって、今はまだ小さな心の 穴を埋めようとした。  彼自身の甘え、幼さを、透は身をもって知ることとなる。  それは、幼児が母親の笑顔によって安らぎを得るのに似ていた。  彼女の憂いを含んだ横顔が、流れるような手の仕草が、風のささ やきのような声が、鮮明に脳裏に浮かぶ。  つっと、目から耳元へ、一筋の滴が流れ落ちる。  一瞬、霞んでみえた天井がはっきりと見えた。  その瞬間透は、ベッドの上で身体を横たえる自分を、大人の男と しての視点で見つめ直すことができた。  だめだ。  もう、俺もガキじゃないんだぜ。  こんなことで、こんなことで…  思いきり頭を左右に振って、鮎子の面影を断ち切る。  だが、電話の向こう側にいたはずの女性は、頭の中から少しずつ 遠ざかって行く。  彼はもう、感情を押さえることができなくなった。  涙が止まらない。  醜い泣き声を押し殺すこともできない。  三原透の眠れない夜は、まだ始まったばかりだ。