「異国の夢」  その日、兄貴はさも不満げな表情を見せて我が家のドアを開けた。 「久しぶりだな…」  親父のそっけない言葉には耳を傾けず、さっさと2階の自室へと 入ってしまった。 「おい、お前の兄貴が帰って来たぞ」  兄貴に言いたい事は山ほどあるだろうが、どうしても俺に矛先を 向ける。  俺だって、兄貴に言いたい事はたくさんあるが、とてもじゃない けど声をかける気にはなれない。 「おい、めしの準備は出来たか?」  お袋と離婚して6年。親父は俺に家事の一切を任せている。  加奈子にさせりゃいいのに、と反論してみても、男女平等がどう だの、男も料理が出来なきゃいいお婿さんになれないだの、屁理屈 ばっかり返ってくるので、今更言い返す気もない。  俺は台所に入ると、2時間前から煮込んでいるクリームシチュー の鍋に手をかけた。  兄貴が帰って来るってなわけで、慌てて作った代物だ。  昨日電話があった時に、すぐに兄貴の好物をつくるつもりだった。  とりあえず味見をしてみる。  うん、兄貴好みだ。  晩御飯の調理終わり。 「兄貴! 晩飯出来たぞ!」  大声で呼んでみる。  昔はこれで飛んできたんだけど、今はそうはいかない。  階段を下りてきてくれたから、食べてはくれるんだろうけど。  食堂の4人用テーブルには、親父の右に兄貴が、左に俺が座った。  親父は何も言わず、日本人らしくさんざん音を立てながらシチュー をすすった。  対して兄貴は、どこで習ったのか、ほとんど音も立てず、静かに 食べていた。昔はこんな風じゃなかったんだけれど。  俺はというと、表現しにくいが親父と兄貴の中間くらいだと思う。  親父は何も言わない。  兄貴も静かに食べている。  俺が何かしゃべる余地なんてない。  2年前とはうって変わった静かな食事。気持ち悪いくらいだ。  きっと親父の頭の中は、兄貴への言葉で一杯だろう。  兄貴だって、この2年の思いが色々とかけ巡っているだろう。  でも、俺達は何も言わず、下を向いて、黙ってシチューを食べて いる。  暗い。あまりにも暗い。  俺はちょっと試してみることにした。 「あ、兄貴。シチューおかわり、いくらでもあるぜ」 「そんな奴におかわりの必要はない」  親父が冷たく言い放った。 「で、でもさ。せっかく帰って来たんだし」 「大体、よくも今頃この家にのこのこと帰って来られたもんだ」  親父の一言はいちいち冷たい。  瞳にも、冷ややかな怒りがうっすらとあらわれていた。  対して兄貴は、やっぱり何も喋らない。  何とかして欲しいよ、この雰囲気。  ほとんど食べ終わった頃、兄貴はようやく俺に話しかけてきた。 「加奈子、どうした?」  そうか。兄貴、知らなかったっけ? 「あいつ、東京の女子大に合格して、そっちに行ってるよ。だから 今は東京暮し」 「なるほどな。親父は何も言ってないということか」 「まあね。親父の事話したら、兄貴と同じ様に帰ってくるから」 「お前にも、別に言うつもりはなかったがな」  つっかかるものの言い方をする親父だったが、兄貴は、だからと いって言い返す様な口調は用いない。 「親父、痩せたな…」 「アメリカ帰りで、目がおかしくなったんじゃないのか?」 「そんなことねえよ、親父。一回り小さくなってるぜ」  兄貴は親父の顔をじっと見つめた。 「俺なあ、親父。日本を離れる時に、『失うものは何もない』って 言ったよなあ。あれ、嘘だ。まだここにある」 「お前も、言うようになったな。いいからさっさと帰れ。向こうに も失いたくないものがあるだろう?」 「アメリカン・ドリームは、絶対に無くなりゃしないさ」 「そんなに甘いもんじゃないだろ?」 「気にすんなって。まだ向こうじゃプータローさ」 「夢、捨てるなよ…」  最後にぽつりとつぶやいて、親父は食堂を出た。  その言葉の重みは、俺にはわからない。  だけど、親父と同じ夢を持ってる兄貴には感じ取れたらしい。  この、男3人の生活は、それから3ヶ月しかもたなかった。  先に親父がこの家を去った。  無愛想で人見知り、夢を追いかけるのに必死で、昔はアメリカへ も行っていたとか。夢がこうじてお袋と離婚するくらいだから、仕 方ないのかもしれない。  そんな親父も、病気には勝てなかった。  あっさりとこの世を去ったものだ。  次に兄貴も、親父の葬式を終えるとアメリカへと戻っていった。  親父と同じ夢を追いかけに行ったのだ。  うらやましい限りだ。  加奈子は親父の葬式には顔を出したが、また東京へと旅立った。  そのうち、兄貴を頼ってアメリカの大学に留学したいらしい  妹ながら、やりたいことは必ずやり遂げる、立派な人だと思う。  で、広い家に今は俺だけが住んでいる。  何故か俺だけは、親父の言う「自由」を与えられていなかった様 に思う。  夢も特にない。ましてや、「異国に馳せる夢」なんて、これっぽっ ちも持ち合わせちゃいない。  こんなつまらない性格は、お袋ゆずりだと親父は言っていた。  きっと俺はお袋の変わりなのだろう。  だから今でも、俺だけは自分の手元に置いておきたいのだろう。  そんな家の中で、俺は異国の夢を見る。  簡単な事さ。  兄貴や妹の活躍している姿を思い浮かべればいい。