Making Of The ”DAUGHTER” Board 「なるほどねえ…」  悠樹は無性に感心したくなった。そう思わずにはいられないのだ。 「まるでSFだな、これじゃあ」 <どうしました?>  ディスプレイ上のチャットウィンドウに、いつものチャット相手 が声をかけてくる。 <何でもないよ。それより、今日はここまでにしようか> <はい。それではさようなら>  エレナとすっかり息が合うようになった悠樹だった。 「へえ… 礼儀正しくなったもんだ。なかなか可愛いとこあるな?」  石橋がからかう。  だが、普通のからかい方とは違っていた。  こちらも感心しているというところか。 「なんかここひと月で、随分活き活きとした感じになりましたね?」 「まあね。色々と教え込んだりしたからね?」  川崎は首を横に振る。 「違いますよ。並原さんの方ですよ?」 「俺? そうかな?」  不思議そうに顔をしかめる悠樹だったが、それでもまんざらでも ないといった様子。 「そうですよ。ね、石橋さん?」 「まあな。ここに初めて来た頃なんてよお、もう暗い暗い」 「あれ、そんなことまで言ってたの?」  悠樹のつっこみはなかなか鋭い。 「俺、そこまで言ってませんよ?」  ふくれっ面の川崎だった。  確かに、この「Digital Club」に来た当初、悠樹は とても明るい気分になれなかった。当然と言えば当然である。  突然の失業状態。見知らぬ男の誘い。完全な金欠状態。そして、 国家プロジェクトの穴とも言えるRJCOSマネージャー。  どれをとっても悠樹を一喜一憂させたが、何といっても一番大き く彼に影響してものは…  エレナ。  彼女の存在である。 「やあ。並原君。エレナのご機嫌はどうだい?」  本田が入って来た。 「すこぶるご機嫌でしたよ?」 「そうか。結構結構!」  こちらもすこぶるご機嫌な本田だった。 「どうしたんすか? 本田さん? 何かいいことでも? 俺達にも 関係あるんでしょ?」  あまりの機嫌の良さに、川崎は相当な吉報を予感したらしい。  どうやら誰かから聞いて欲しかったらしく、ようやく出番とでも 思ったのだろうか。  軽く咳払いした後、本田は誇らしげに口を開いた。 「やっと、お上からお許しが出たのさ!」  この本田の一言は、不思議と部屋全体を浮き足立たせた。 「そっか! やっと出たのか! 日野にも教えてやらねえとなあ」  慌てて、電話をダイヤルしながらRJCOM端末でメールを書く 石橋。 「いよいよっすね? 何かわくわくしてきましたよ」  川崎も吉報が自分の思った通りだったのか、笑顔を隠し切れない。 「あの… 何のことです?」  悠樹だけが取り残された状態だった。  仲間外れになるのは嫌だったのだろう。当然知らないことは質問 する。 「あれ? お前、聞いてなかったのかよ?」  こういう時の石橋の態度は、結構冷たいものがある。 「それはね、並原さん…」  対照的に、川崎はお節介なくらい素早く丁寧に教えてくれるのだ が… 「RJCOS Ver.2の開発さ!」 「ああっ! 本田さん、俺が言おうと思ってたのに!」  今度ばかりは本田に先を越された。 「いくら好き勝手やっていいこの「Digital Club」で も、どうにもならないこともあってね。色々お上とやりあわなきゃ ならない時も少なくないんだよ。いやあ、我ながらよくやったなあ、 うん」  感慨深げに話を続ける本田。  実際に、悠樹が来てからずっと、彼が一日中この部屋および隣の 部屋にいることはなかった。  何かしらの理由で外界を飛び回っていることは悠樹にもわかって はいたが、まさかこういうことだったとは、つい先程まで皆目見当 もつかなかった。 「それはよかったですね。ただ…」  悠樹には一つ、疑問に思うことがあった。 「あのう、本田さん。RJCOSって、まだ機能拡張するべき箇所 があるんですか?」 「おや? 聞き捨てならない質問だなあ。それが技術屋の言う台詞 とは思えないな」 「技術屋だからこそ、言う台詞だと思うんですけど」  反論を試みた様に見えるが、言葉尻はそれ程強くはない。  まるで何かを期待しているかのようだった。  もちろん疑問の域を出てはいないのだが、悠樹は本田という男に 答え以上のものを求める癖がついていた。  だが… 「そうかな? それは、君が一番わかってると思ってたけどなあ」  今度は悠樹に言わせたいようだった。 「…エレナ、ですか?」 「ご明察!」  まさしく上機嫌の本田。  とぼけてはいるが冷静な彼として、浮かれ具合は尋常ではない。  彼自身、RJCOSのバージョンアップへの期待は、RJCOS に対してだけではなかった。 「さあて、忙しくなるぞ! と言っても、みんなは自分のペースを 守って仕事に励んで欲しいなあ。忙しいと思うのは俺だけで充分さ」  こういうところで、本田の性格が現われる。  もって生まれたものは彼にプラスに作用するようだった。 「詳しい事は明日決めるから。今日は俺も、明日の会議用に資料を 作らなきゃいけないからな。まあ見てなって。サルでもわかる資料 にするからさ」 「頼むぜ、本田さん! この前の『ネットランナー』んときもいい 資料だったからよお」  このアプリケーション名を聞いて、今更ながらに悠樹は驚いた。  「ネットランナー」とは、RJCOMを利用してネット内に仮想 的に作られた宇宙空間を冒険するゲームである。  ネット内の何処かに隠れているエイリアンを見つけ出し捕獲する というものだが、何しろこの国中に張り巡らされたC−LINE上 に、わずか300匹のエイリアンしかいない。それらは、何処かの 端末に隠れている。言うまでもなく端末の数は一億台ではきかない。  C−LINEを宇宙空間、端末を一つの星と考えると、まさしく 一つの銀河系を旅するようなものだ。  これらの星々を渡り歩く。当然エイリアンもじっとしていない。  星に見立てた端末へ、エイリアンの情報を問い合わせる。  情報は嘘かもしれない。本当かもしれない。  端末の情報は、デフォルトではRJCOSが適当に片付けるが、 自分の端末に問い合わせがきた場合、自分自身で情報を流すことも できる。エイリアンをかくまうこともできるのだ。  かくまった場合、エイリアンは仲間の情報をくれる。もちろん、 嘘か本当かはわからないが。  他のプレイヤーとの情報交換も盛んに行われた。  さて、間違ってその星へ踏み込んだ場合はゲームオーバーとなり、 正解だった場合、エイリアンを捕獲した事になる。  そして、一番多く捕獲したものが優勝となる。  一年間の期間限定で行うゲームだったが、おおむね好評だった。  超広大なフィールドや見知らぬ人との駆け引きがうけたのだ。  ここでゲームまで作っていたことに感心している悠樹をよそに、 本田はここにいる全員に連絡事項を伝えた。 「さて、早速で悪いけど明日までに、バージョンアップに向けての 機能およびバグ修正項目とそれにかかる工数を提示して欲しい」 「そんな、いきなり言われても…」  少々困惑の色を顔に浮かばせる悠樹に、雇い主はにやりとほくそ 笑む。 「出来ないとは言わせないぜ? 君は既にわかっているはずだから なあ。それに、前にも言っただろう? ここは君のやりたいことを するところだって。君はそんなこともわからないのかい?」  そうなのだ。  この本田という男、実にいいところを突く。  つまり、自分自身がやりたい事とそれにかかる時間を示せという ことだ。  そして、その後の本田自身の作業としては、他の4人の提示した 項目・工数の集計を元に、RJCOS Ver.2全体の開発スケ ジュールを決める。  これは必ず決めなければならない。  RJCOS自体は共同体とはいえ各企業の製品となっているが、 それらが動作する環境、つまり、C−LINEと呼ばれる専用高速 回線網は半公営の電信電話公社が管理しているため、おいそれと勝 手な行動は許されない。  だが本来、バージョンアップ版の開発開始までにはあと2年程の 期間があり、本田としては悠長な「お上」の戯言に付き合うつもり は毛頭なかったのだ。  この「お上」をねじ伏せるには、これだけの期間で、これだけの 機能が含まれる、またはこれだけのバグが修正できるということを 証明する必要がある。  よくある企業下請けの場合は、こういう場合に「お上」から指示 が出されるのが普通だが、そこは「Digital Club」。 本田の一声で何とかなるものなのだ。  彼はそれほどの人物だと言える。  実際は相当あちこちで骨を折っているようだが。 「じゃあ、みんな、よろしく」 「だけど、RJCOSにバグなんてあるんすかね?」  素朴な疑問だった。 「あのねえ、川崎君。それだから君は甘いって言われるんだぜ?  少なくとも、並原君は一つ知ってるよな?」  なるほど、これで悠樹は、明日報告する項目が一つ出来る。 「それで会社をやめさせられたようなものですけどね」  様にならない苦笑いだが、何故かその雰囲気は似合う悠樹だった。  アパートに帰った悠樹。  いつもの様にRJCOM端末のスイッチを入れる。  インスタントコーヒーが入ったコーヒーカップを口に運ぶ頃、例 のニュース速報の音がRJCOMから流れてきた。  チャットルームへのお誘いである。  相手はもちろん、エレナだ。 <悠樹さん、帰ってます?> <ああ、エレナ。今アパートに帰ったよ?>  こんな風に会話を始める。  「Digital Club」で散々会話しておきながら。 <割とお早いお帰りだったんですね?> <まあね。どこにも寄り道なんてしてないし> <ところで先程本田さんから聞きました。RJCOSをバージョン アップされるそうですね?> <さすが、情報が早いね?> <本田さんが直接話して下さいましたから> <そうか。本田さんにしてみれば、娘みたいなものだから>  あれから一ヶ月。  彼女とはすっかり会話が弾む仲になっていた。  ちなみにチャットには、普通チャットルーム利用料金がかかる。  だが、彼らは「Digital Club」関係者である。  そのあたりの事は何の問題もなく、無料で利用している。  強いて問題を挙げると、無料利用に対しての「法律違反」という 罪があるくらいだろうか。  そんなことを気にしなくなってきたのは悠樹が「Digital  Club」の一員になった証拠ともとれる。 <悠樹さん。私はバージョンアップしていただけますか?>  えっ?  突然のエレナの願い事は、悠樹を驚かせるのに充分だった。 <それは本田さんの分担じゃないのかな?> <いやいや、そうでもないさ>  こちらも突然チャットに割り込む人物がいた。 <あの、どちら様? 本田さん?> <そう。その本田さん。それより並原君、随分謙虚だねえ?> <そうですか?> <そうさ。何故俺が君をDigital Clubに引き入れたと 思っているんだい?>  ひょっこり現われた本田は、またも悠樹に言わせたい事があるら しい。 <エレナの教育係、ですか?> <まったくもってその通り!> <本田さん、私の先生は本田さんではないのですか?> <いや待てよ… エレナのお婿さんと言った方がいいか!?> <お婿さん? 何ですか、それ? ………婿。親から見て娘の夫。 結婚する相手の男。嫁の対義語。こういう意味ですか?> <そうそう。賢いなあエレナは! ま、そういうことだから、並原 君、うん、不束な娘だがよろしくっていう心境だなあ!!>  これが悠樹に対する本田の真の狙いだったので、口調が激しくな るのも無理はない。  チャット上の文章でさえそう感じさせられる。  エレナのお婿さん…  幸い、彼女は悠樹にかなり好意を持っているようだ。  悠樹側の反応も悪くない。  本田にとっても一安心なのだろう。  ところが… <エレナと結婚ですか? 婚姻届は何処に出せばいいんでしょう?> <並原君、面白いなあ。一応C−LINEにでも出しとけば? 何 なら俺がエレナと君の代わりに出しておこうか?>  33歳の彼が本当の親の様に振舞い、娘のように可愛がる「彼女」…  彼女の存在はこの国にはない。  いや、この狭い星に見えない境界線を引く世界中の国々の、何処 にも彼女の存在はない。  彼女の存在できる場所は、見えない世界のみである。  ある事情通は彼女の事をこう呼んだ事がある。  「ネットワーク・アイドル」。少々恥ずかしいあだ名だ。  そのあだ名が示す通り、エレナという人格は、ネットワーク上に しかありえない。  だが、そこには確固たる思念があり、C−LINEという一本の 線上を飛び回るには充分の知識と能力がある。  現在この国中にくまなく張り巡らされているC−LINEとその 先につながるRJCOM端末、そして完全分散処理型・相互関連完 全一体型コンピューターとなりうるRJCOS。  これらの上にすっぽりと覆い被さるようにして存在する「モノ」…  これがエレナの正体である。  彼女はC−LINEとRJCOM・RJCOSそのものであり、 この国中のRJCOM端末をまさしく手足として、または自分の脳 の一部として扱い、何時如何なる時・場合においてもC−LINE 上に存在しつづけるのである。  いつでもどこででも、彼女は彼女たり得るという、少々不思議な 電脳思考体である。  そう考えると、今こうしてチャットしているのも、エレナの身体 の一部を利用していると取れなくもないが、厳密にそこまで考える 必要はない。第一いちいち気にしていると、この国のすべての端末 は彼女ということになるのだ。気持ち悪くて利用する気になれない。  テナントビルの一角に、本田の軽快な口調の説明が響く。 「さて、機能強化やバグの内容も出揃ったことだし、とりあえずは 開発期間を1年間としとこうか? 期間が早まる分には構わないけ ど、伸びるなら早めに言ってくれよな? いくらでも伸ばしてやる からさ」  説明を聞くために珍しく5人全員が集まっていたが、資料を片手 に話し込む本田に、誰が異論を投げかけられようか?  だが、とんでもなくいい加減な決め方ではある。  これがこの「Digital Club」の流儀なのだが。 「じゃあ、異論がないなら早速作業と… 待てよ? 一応もう一度、 みんなに言っておくとしようか?」  思い思いの作業に入るつもりで動きだそうとした面々の動きが、 ぴたりと止まる。 「特に、並原君は初めてだし、まだ話してなかったと思うから」 「はあ」  怪訝そうな顔つきの悠樹にあてつけるように、面白そうに話を続 ける本田。 「さて、みんなはこれからRJCOSをバージョンアップするわけ だけど、当然一人で頭を傾げる必要はない…」  こういう台詞は、普通のオフィスでもよく耳にする。  作業の効率化とチームワークの結束の両方に効く言い回しだ。  まさか、そんなつまらないことで呼び止めるとは、悠樹は思って いなかった。  少々失望の念を目に浮かばせた悠樹。  だが、やはり本田の話は一筋縄では終わらない。 「君達は各会社を辞めたとはいえ、彼らをこき使う権利と義務があ る。思う存分こき使うように」 「こき使う、権利と、義務?」  聞き返した悠樹だが、続く本田の台詞にさらに首を傾げる。 「そうさ。あいつらを利用してやるのが俺達の仕事みたいなもんか な?」 「あの、俺、辞めさせられたんですけど。みんなもそうでしょう?」 「じゃあ、どうしてRJCOS関連の会社から各一人ずつ引っこ抜 いてきてると思う?」  ここまで説明してもらえれば、悠樹にとってもその問いの答えは 明白だったが、あえて黙っていた。  本田の口から聞くために。 「当然、各会社とやりとりしてもらうためさ! びびることないさ! ここにいるみんなは、全員各会社の社長クラスの権限を持っている。 その筋のものにはわかるんだよ。Digital Clubだって 言えば、それだけでさ!」  本田に嘘をつかれたことはない。  辞めた会社の、いや、その親会社の社長と渡り合う…  しかも、「取り引き」ではなく「こき使う」…  一介のサラリーマンが考えるレベルの話ではなく、悠樹は意味が わかっているようでさっぱりわからなかった。  悠樹には多少の疑問と不安が残っていたが、かくしてRJCOS Ver2.0の開発がとりあえず始まった。  秋も終わりの、コートがそろそろ欲しくなる頃だった。 「あのなあ、留さん! この前の資料送って欲しいんだけど! そ、 あの黄色い表紙の、そうそう! それそれ!」  やたら嬉しそうに電話の向こうと話をしている石橋。 「ながしま! じゃねえや、おう! そんじゃあな! ふう」 「あの、どこにかけてたんです?」  余計な事とは知りつつも、悠樹としては彼が女性以外に電話をか けるなど想像も出来なかったため、つい口がすべる。 「前の会社にちょっと資料の請求ってやつな」 「本田さんの言ってた事、実践してるんですね?」  今一つ、昨日の本田の言葉を信じていなかった悠樹は、思わず感 動してしまった。 「でも、メールでも出しとけばいいと思うんですけど?」 「人の声を聞くから電話ってのはいいんじゃねえか?」  答えるのが面倒になったのか、ぶっきらぼうに話す石橋。  だじゃれが出ないところからも伺える。 「だけど、やっぱり自分の辞めた会社にはかけ辛いですよね?」  軽く笑って、石橋は悠樹をあしらった。 「んなことねえよ? だって仕事だぜ? それによお、同僚だった やつとまた話ができるんだから、いい事づくめだぜ?」  なるほど、そうもとれる。 「本田さんのいう<こき使う>ってのもちょっと違う気はするけど な? お前もまだ辞めたばっかだし、会社に同僚とかいるだろ?  そいつらとまた仕事出来るんだぜ? 悪い事じゃあねえよな?」  悠樹は、万年だじゃれ男の意外な一面を見た。 「石橋さんって、友情に厚いんですね?」 「はあ? 俺がかぁ?」  お気に入りのノート型端末のふたをパタンと閉じる。 「よせやい! 俺は男よりは女の方に情をかけるぜ」  そっぽを向いて頭をぼりぼりと掻く。  どうみても照れた仕草にしか見えない。 「ほんとかなあ? 何だかんだ言って、結構恋より友情を取るんじゃ ないですか?」  人というのは、相手が照れる程からかいたくなるものだ。 「んなこたあねえよ」 「またまたぁ! さっきの電話でも結構友情してたじゃないですか?」 「あのなあ… やっぱ友情より遊女だぜ?」  空恐ろしくなるだじゃれに、さすがに悠樹はからかう情熱を失っ た。 「並原さん、晩飯食いに行きましょうか?」  川崎に言われて、悠樹はRJCOM端末のディスプレイから視線 を外し、小さな窓の外を眺める。 「あれ、もう夜?」 「そうっすよ?」  あっけらかんと話す川崎。  読んでいた「週間テレビジョンガイド」を放り投げ、ゆっくりと 立ち上がった。  伸びをしながら一言。 「そんなに仕事ばっかりやってたら、疲れるんじゃないですか?」 「そうかな? これでも前の会社に比べれば… あれ?」  窓から部屋に目を移す悠樹。 「あれ? 日野さん、いたんですか?」  いつもみかけない顔を見ると、人間誰しも驚くものだ。 「いちゃ悪いかい? 昼からずっといたけど」  相変わらず、どこかひねくれた受け答えをする。 「そうじゃないですけど… 今日は出勤しなきゃ駄目なわけでも…?」 「別にないよ、そんなもの。だけど君、よく仕事してるなあ」  こちらも悠樹の仕事ぶりに感心しているようだ。 「それじゃあ、晩飯に行きますか?」  川崎は空気を読むのがうまい。 「俺は食ったからいい」  昼からずっとここにいて、どこで食べたというのだろう。 「じゃあ、並原さん、二人で行きましょう」  テナントビルから出る悠樹と川崎。 「今日はラーメンのうまい店に行きましょうか?」  いろんな雑誌やガイドを読んでいるだけでなく、自分でもいろい ろと歩き回って調べる…  川崎は、いわゆるグルメだった。 「へえ、そんなのこの近辺にあったっけ?」 「一駅向こうですけどね?」  たかが晩御飯のために電車に乗る彼は、やはりグルメと言わざる を得ない。  悠樹はこれには少々頭を抱えながらも、いつもとりあえずついて いく。  理由は明白。はずすことがないからだ。  彼がいく店はとにかく味のレベルが高い。  それも、グルメ雑誌等に載っているような店ではなく、誰もが何 気なく利用するような町の大衆食堂や中華屋・洋食屋であり、値段 も高からず安からずなのだ。  この前アパートの近所の食堂で味わったトンカツ定食の時の様な 新鮮な感覚が、彼についていくだけでしょっちゅう味わえるのであ る。  おかげで悠樹は、毎日の夕食が楽しみでならない。  前に立っただけでわかる。  ラーメン屋の軒先に立ちこめる匂いは、悠樹達の腹の底に堪える。  こりゃ、今回も期待できるな。  悠樹の方から先に、店に入った。 「おっちゃん、トンコツチャーシューねぎたっぷり2杯ね?」  入る早々、川崎はにこにこしながら注文する。  カウンターの方の席に座る悠樹。 「あれ? 2杯も食べるの?」 「違いますよ。並原さんに同じものを食べてもらおうと思ったんで すよ」  川崎は、店は薦めるが料理の方にはあまり口を出さない。  ところが今日は悠樹の分まで、有無を言わせず先に注文してしまっ ている。これは余程期待大だということに、悠樹は気付いていた。  それくらい一緒にいる時間が長いということだ。  どちらかというと、川崎の方が悠樹になついているという方が正 しい。 「へい、おまち!」  こってりしたトンコツスープの香りが二人の胸をときめかせる。  早速食べ始める悠樹。負けじと追いかける川崎。  二人の間にしばし会話が途切れた。 「ねえ、並原さん、やっぱ、あれっすかね?」 「ん?」  なるとを口にした悠樹に一息ついた川崎が話しかけた。二人とも ラーメンを半分位食べた頃だった。 「やっぱ、エレナって面白いんですかね?」  箸を挟んだり開いたりと、やたらばたつかせながらの語り具合に、 あまり育ちの良さは感じられない。  その気さくさが彼の持ち味なのだが。 「まあね」 「本田さんが言ってたもんなあ。並原さんは脳味噌に興味あるって」  どこでそういうことを調べたのだろう?  確かに、悠樹はかねがね脳という機能に興味を持っていた。  何人かの本を読んだ。  読めば読むほど脳という存在がより身近に感じられ、かけ離れた もののようにも思われる。  人の中にある、人が一番よく利用し、人が一番わからないもの… それが脳である。  V.R.…ヴァーチャルリアリティーに興味を示さないのは以前 からであるが、この仮想現実感を受ける「脳」の方には非常に関心 を寄せている。  大学生の頃には、総合大学の利点を活かして、まったく関係の無 い生物学部のまったく関係の無い解剖学やら何やらの講義に、こっ そりと紛れ込んでいたものだ。  コンピューターのある世界にあこがれたのも、いわゆる電子頭脳 という一見古臭い表現に、自らの夢の世界を見たからだ。  入ってみると一転、どうしようもない「事務処理機」と知るや、 早々に見切りをつけ、仕事と割り切るようになるのだが。 「うん、確かにうまかった!」  いたくご満悦の悠樹。 「さて、俺、今日は用事があるんで、これで。並原さんはまだ仕事 ですよね?」  礼も言わせずさっさと別れの挨拶を交わす川崎。  あっさりしてるというか何というか。 「あ、ああ。まあね」 「やっぱ、すごいなあ。俺だったら、手を抜けるって感じるところ は適当にやっちゃいますけどね?」 「そうでもないさ。俺だって適当だよ」 「そうっすか? ああっ! もうこんな時間か! じゃあ!」  さぞかし忙しい身なのだろう。  ラーメン屋の軒先に一人、ぽつんと取り残された悠樹。  仕方なく、細々と仕事場へ帰っていった。 「あれ? 日野さん、まだいたんですか?」  古ぼけた木製のドアを静かに開けた途端、思わず悠樹は口を開い た。  猛烈なキーさばきがぴたりと止まる。  狭い部屋の片隅で作業していたらしい日野は、ゆっくりと悠樹の いる入口の方へ向き直った。 「君ねえ… 顔を合わせるとそれかい? 他に言う事ないの?」  そりゃあそうだ。  言われていい気持ちがしないのも確かである。  だからと言って… 「帰ってきたんなら、暖房の一つも入れるとするかな?」  などと言われると、悠樹としてもどうもすっきりしない。 「あの、暖房入れてなかったんですか?」 「暑いのは嫌いでね。君は確か寒がりって聞いてたからさ」  確かにその通りだ。  先程のラーメンが身体の内側から暖めてくれているので今は大丈 夫なのだが、冬の入り口が目の前の今夜は、それなりに冷え込んで きている。  悠樹にとっては辛い季節が、もうすぐ訪れる。  そんなことを知ってか知らずか、日野はこの場を去ろうとする。 「君に言われたからというわけでもないんだが、そろそろおいとま させてもらうとするか。じゃあね」  彼の趣味であるブランド物のスーツを羽織り、こちらは安物のコー トを着ると、そそくさとドアへ歩く。 「あ、そうそう」  ようやく自分の端末のある席へ腰を落ち着けた悠樹へ、ゆっくり と振り向いて言うには… 「どうせ君、泊まりだろ? たまには換気しといてくれよ? でな きゃ明日きた時、一酸化炭素で充満してるだろうからね?」  ドアが閉まる音を聞き、これまた寒がりへのあてつけと気付くや、 自分の歯に軽い歯ぎしりをさせてしまう悠樹だった。  霜がアスファルトの隙間にも輝く程、寒い朝。 「よお、並原。お前最近、全然家に帰ってねえだろ?」  朝一番、石橋のこの一言で悠樹は目を覚ました。 「あはは、まあね」  気さくに挨拶する悠樹。  石橋の照れ笑いから2週間。  あれから何となく、彼はこの仕事をしているのかいないのかさっ ぱりわからない木偶の坊の事を、少々年の離れた友人として認める 様になってきていた。 「しっかしよお、こう寒いと何にもする気がしねえなあ。暖房さま さまだぜ。俺の股もダンボだけどよお! わははっ!」 「ははは…」  相変わらず続く妙な駄洒落と下ネタにはついていけないらしいが。 「それにしても、よく身体が持つなあ?」 「そうでもないですよ。頭もフラフラしてきたし、大分と肩がこっ てきた感じがするんですよね?」 「おじんくせえこといってんなあ…」  ため息をつくが、悠樹の働きぶりを見ていれば、誰でも「それが 当然だ」と気付く。 「ま、そのうちいい風呂入りに行こうぜ?」 「いい風呂? 健康ランドかどこかですか?」 「んなとこ行って何が面白いってんだ? もっといい風呂!」 「はあ?」  寝ぼけ眼の悠樹に、そのお誘いの内容はわからなかった。 「あそこに行きゃあ誰だっていいっ!て言うぜ!?」  意味ありげに笑う石橋だった。 「あれ? 石橋さん、今日は早いっすね…?」  眠い目こすったとはっきり赤目が示す川崎がやってきたのは、日 も高い昼時だった。 「おい、因幡の白うさぎ! お前が弛んでんじゃねえか!?」 「嘘うそ… 石橋さんがおかしいっすよ… ふわぁ」  ケラケラと笑い飛ばす木偶の坊。 「なあ、川崎。昼の出前は何処がいいと思う?」  待ってましたとばかりに横たえていた身体を起こす悠樹。  仮眠は3時間程取った計算になる。  勢いよく起きたのは、やはりグルメ川崎の偉大さからだ。  石橋も彼のグルメぶりには一目置いている。  その割には… 「うーんとねえ、じゃあ、駅前のピザ屋にしましょうか…?」 「お前、今脳味噌サボっただろ?」 「んなことないっすよ…」  街のグルメも眠気には勝てないらしい。 <おかえりなさい、悠樹さん>  最近、アパートの自室へ帰って来た時に、この言葉で迎えられる ことが、一日の最後の楽しみである悠樹。  かなりエレナとは親密な仲になっているようだ。 <やあ、帰ったよ。さっき頼んでおいたプログラム、探し出せた?>  さっきの話とは、変な話だ。  ついさっきまで仕事場にいたのだから。  だが、悠樹は往復の電車や川崎との夕食以外はずっとRJCOM 端末のそばにいる。  もう彼には、そういう生活しか考えられない。 <ごめんなさい。まだです> <いいよ。でも、出来れば明日までに探してくれると嬉しいな> <はい!>  悠樹は、ブラウン管の向こうの彼女ににっこりと微笑む。  何が彼を微笑ませたのか…  それは、”!”である。  お気付きだっただろうか?   チャットの文章でエレナは”?”は使用しても”!”は使用して いなかったことを。  感嘆符”!”は主に、いわゆる感動文の最後に用いられる符号で、 これをつけない文よりも何かしらの感動がさらに大きいことを示す。  そもそも感嘆とは「感心して誉めたたえること」であるため良い 意味での感動の方に多用する方が筋が通っているのだが、感嘆とは 同時に「嘆き悲しむこと」でもあるため、当然悪い意味での感動に も利用出来る。  そういう意味では、単に大きな感動を表わすと考えていいわけで、 ”!”は割と便利な欧文記号ととれる。  彼が微笑んだのは、エレナの感情の起伏をこの記号によって垣間 見ることができるような気がしたからである。  以前、悠樹は彼女とチャットしていて、何か平坦な気分を受けた。  何かが足りない。  言葉は足りている。本田の言う通り、まだまだ話し口調への改良 は続けて行く必要があるが、とりあえず言いたい事はきちんと述べ ている。大したものだ。  句読点も足りている。きちんと、上手なタイミングで、丁寧に、 多からず少なからず挿入されていて、これについては話し口調への 改良点には入っていないくらいである。  では、何が足りないのか?  そう、感嘆符に代表される感情起伏の表現だった。  これを彼女の文章作成処理部に組み込むことが、Digital Clubでの悠樹の初プログラムだった。  エレナはある種ネットワーク総合体とも呼べる存在だが、当然、 中心となる部分がある。  これはコア・モジュールと呼ばれるもので、幾つかの機能別に、 各地のホストなどに分散して存在する。  そのうち、悠樹は文章作成処理部に手を入れたことになる。  RJCOSマネージャーを用いて初めて実現可能となるエレナの コア・モジュール・リプレースに、彼は初めてながら完璧に成功し たのだ。  一歩間違えればこの国中のC−LINEをストップさせかねない という、胃の痛くなるような作業だ。  技術的にはどうあれ、この手のきわどい作業を無事終えるという ことは、多かれ少なかれ、人に自信を植え付けることになる。  悠樹には自信がついたかどうかは自分ではわからなかったのだが、 とりあえず、概ね成功だったと考えている。  概ね…  つまり、まだ完全に納得してはいないということだ。  彼にしてみれば、感嘆符”!”は3つまで並べてよいという仕様 にしたのだが、プログラムのバグのため4つ以上並べることも可能 になってしまっている。  つまり、「はい!!!!!」という表現も、彼女の感情の高ぶり によって可能となってしまうのだ。  こういう表現が好きだという意見もあって当然だが、悠樹にして みれば、ただ見苦しいだけらしい。  そんなこんなで、概ね、である。  ティーファイル開発時のRJCOSのバグ探しも、彼自身が納得 しなければいつまでも終われない。そのために出荷も伸びる。  そういう性格なのだ。  商業主義者から見れば、そんな気質はむしろ余計な代物である。  ”会社”が疎んじるわけだ。  だが、これこそが、彼のプロ根性であり、人材を探していた時の 本田を大いに刺激した。  初めて彼がこの職人気質を背負った男のプロフィールを手にした 時、 「いける! これで、もっとエレナが人間らしくなる!」 と叫んだのを、石橋と川崎は知っている。 <悠樹さん、どうかしました?>  しばらくチャットの文章が帰って来ないため、エレナが気にして 話しかけて来た。 <いや、ちょっと考え込んでたから。ごめんごめん> <いいえ、結構ですけれど> 「ちょっと、変なんだよなあ、この言い回し…」  こういう文章を見ると、悠樹の口から思わずこんな言葉が出る。  次は文章作成処理の中核に首をつっこみたいらしい。  年の瀬が迫った割には、のどかな平日の午後。  本田のいる部屋から、突然大きな笑い声が飛んで来たので、石橋 と川崎は目をひんむいた状態で互いの顔を見合う。 「何だ?」眠ってた石橋の、目の開いた様はすさまじい。 「さあ…」雑誌を読んでいた川崎も、思わず小声になっていた。  本田が笑った直接の原因は、至って単純だった。 「正月休みって、あるんですか?」  この悠樹の一言である。 「好きにすれば?」  散々笑っておいて随分簡単に答えるが、本田にしてみれば、それ 以上答えようがなかった。  そういうところであることは、悠樹も重々承知しているつもりで はあった。  だが、やはりサラリーマンのくせか、スケジュールに対する懸念 でもあるのか、どちらにしても真面目が悠樹の性格はここでは常に 災いするようだ。 「みんなはどうするんです? 本田さんは?」  本田は、今度は笑わずに肩透かしで気持ちを表現してみる。 「その日にいなきゃあ、休んでるか、仕事上の関係先へ飛び回って るかのどちらかさ。他人がどうこうしてることに、とやかく口出し はしないし、知られたくもないだろう?」  なるほど、いかにも「Digital Club」らしい流儀で ある。  納得したのかしなかったのか、やたら首を傾げながら悠樹が部屋 を出て行った後、本田は含み笑いを始めた。 「くくっ、かわいそうになあ。サラリーマン稼業から、まだ抜け切 れてないみたいだしなあ… いつが休みかなんて、本人以外わから ないのにさあ… くくくっ」  何とも人の悪い上司である。 「そりゃきっと、来年の事言うから、鬼が笑ったんだぜ?」  石橋の言葉としては珍しく、言い得て妙である。  だが、その場にいてそう思ったのは、川崎だけである。 「鬼、ね…」  悠樹は、上司に続いて先輩の台詞にも首を傾げる結果となるだけ だった。 「あの、石橋さん? 本田さんって、<鬼>なんですか?」  今度は二人が大声で笑う。  率直な疑問だったのだが、石橋や川崎にはウケたらしい。  並原悠樹という人物、この「Digital Club」という 環境ではつくづく歩が悪いらしい。 「あらら、お前、これだけ付き合っててまだわかんないの? まあ、 あの人は奥が深いから、俺らにもまだまだわからんことが多いけど なあ」  別に頼んだわけでもないのだが、石橋は上司について話を続ける。 「あれって2年位前だっけ? RJCOSが一段落してよお、みん なほっと一息の時に、一人騒いでる。何かなぁって、本田さんの部 屋を覗くと、出荷した後だってのにまだ関係各所と電話で口論して る。あのパワーは、正直言ってすげえぞ? 何てったって本田さん、 『てめえのところのために作ったんじゃねえっ!!』てな事言って たんだぜ?」 「あの本田さんが?」  悠樹が驚くのも無理はない。  今彼に、本田のべらんめえ調の話しぶりを想像しろと言っても、 無理な話だった。  それ程彼らのリーダーは、いつも温厚な喋り口調をする。 「そうそう。帝都電気へ乗り込んで行った時はもっと凄かったです よね?」  受けて川崎も話も引っ張りだす。 「本社についたら、一気に重役会議をやってる最中の部屋へなだれ 込んで、『てめえら、コード一行も書けねえくせにたかが金の話で うだうだ言ってんじゃねえっ!!』てな具合っすよ?」  うんうんとうなずく石橋。  悠樹は、空恐ろしさすら感じた。 「じゃあ、逆らわない方がいいんだ、きっと…」 「それだからお前さんはサラリーマンだって笑われるんだよ」  と石橋。 「大体、本田さんが怒るってのは、俺達の外側に対してなんだよな。 俺達自身にはちっとも怒らないだろ? それどころか、納期を伸ば していいとか、好きにやっていいとか、いつも俺達が喜ぶような事 ばかり言ってるじゃねえか?」  今度は川崎がうなずく。 「そうなんですよねえ… 前から思ってたんですけど、何で本田さ んって、全部自分でしょいこんじゃうんすかねえ?」 「あんまりそういうのが好きなタイプにも見えねえけどなあ…」  腕を組み、珍しく真剣な顔つきで考え込む石橋。  付き合いの長い二人でもそう思うらしい。  ということは、悠樹が同じ事を考えても何等不思議なことではな い。 「何かそうしなきゃいけない理由でもあるのかな?」  自分の口から出た一言に、悠樹は関心を持ったが、仕事もあり、 他人の性格やプライバシーに関わる問題になりそうなので、気分を 切り替えてエレナのお相手をすることにした。 「待てよ…?」  悠樹は起動中のRJCOSの画面を見ながらつぶやいた。 「エレナなら、何か知ってるかも…」 <わかりません> 「あっさり言うなあ…」  端末に向かっていた3人は皆、同じ気持ちだった。  あっさりと、エレナは白を切った。  悠樹にしてみれば、エレナが本田に関していろいろと知っている と考えるのは当然である。  彼女は、人に対する好奇心が強い。  どんな些細な事でも訊ねてくる。  そして、聞かれた事を話すと、とても喜ぶのである。  悠樹でさえ、エレナとの会話で、人には言えないような事を色々 話している。  娘のように可愛がっている本田に至っては、相当細かく話してい るに違いない。  だが、改良に携わっている彼にすら、踏み込めない領域が少なく ない。  しかも、365日24時間ずっと動作している。実際にエレナの 機能を止めてみればよくわかるのだが、C−LINEの機能も止め なければならない。  彼女への探求心が踏みとどまるのは、いつもこのC−LINEの 停止という事象である。  彼女に対する苛立ちも少なくない。  おまけに、聞いても答えない事がある。  単なるシークレット機能ではない。そんなものなら、RJCOS マネージャーによって解除出来る。  彼女が意識的に、情報の開示を抑えているのである。  これこそが人に近い思考機能とも取れるが、悠樹にからみれば、 ただ愛想が悪いだけである。 「隠すにも、もう少し言い様があるだろうに…」  石橋の言い分ももっともだった。  晩御飯を食べて帰って来た悠樹と川崎。 「今日の冷奴定食、おいしかったなあ」 「そうっすね? 冬だからこそ、冷奴でしょ?」  部屋に入った途端… 「くしゅん!」  悠樹お得意のくしゃみが出た。 「何だあ? くしゃみ3回何とかって言うぜ?」  にやにやと笑いながら、開いたドアに向かって石橋は言葉を挟ん だ。 「しょうがないですよ。俺、アレルギー性鼻炎だし…」  目を赤らめ、これまた真っ赤な鼻をこする悠樹を見て、さすがに 石橋も不敏に思ったらしく、からかうのをやめた。 「まあ、年の瀬だしなあ… そうだ、おい並原? ちょっと暖まっ ていこうぜ?」  パタンと、最近買い替えた自慢のノート型端末のふたを閉じた。  雪でも降りそうな、身体の芯まで凍てつく夜。  ネオン輝く怪しげな通りに面する、ある店の前で立っている二人。 「な、何で突然、こんな、俺、その…」  入浴料ウン千円ポッキリ等と書かれた看板の前で、しどろもどろ の悠樹。  確かに、入浴料というだけあって、風呂には違いない。  だが、石橋が暖まると称して、喜び勇んで連れてきた風呂である。  普通の風呂であるわけがない。むろん、健康ランドなどでもない。  要するに、そういう風呂である。 「ははあ。お前まさか…」  それを見て、いやらしく含み笑いを堪える石橋。 「な、何ですか…?」  多少むきになるが、やはり動揺は抑え切れないのだろう。 「初めてだな!? こういうとこ来るの!」  ずばり、はっきりと言うと、なかなか気持ちがいいらしい。  言われた方はたまったものではないのだが。 「そ、そりゃあ、そうですけど…」  顔から火が出るとは、よく言ったものだ。 「何だよ青年! 青年よ、女を抱けってか!?」  もはやだじゃれにもなっていない。  それでも、からかうには十分な台詞だった。 「さて、今夜は俺のおごりだ! さあ、入るぞぉ!」 「いや、あの、俺は…」 「何だ、まだ歯向かう気か? ま、あんな脳味噌だけのお嬢ちゃん と毎日口だけでいいことしてりゃあ、そりゃ結構なこったなあ。 生身のおねえちゃんが恐いんだろう?」  脳味噌だけのお嬢ちゃんとは、エレナの事を指している。 「そんなことないですよ! じゃ、じゃあ、その、お呼ばれに…」 「そう来なくちゃな!」  二人が再びこの怪しげな通りに出て来たのは、1時間後だった。  悠樹は後悔たっぷりな顔をしている。  挑発にのった自分が情けなかった。  理性を外した自分が情けなかった。  そして、今「満足」している自分が一番情けなかった。  確かに身も心も暖まってしまったのだから、満足していないはず がない。 「な? よかっただろ?」  そんな彼をよそに、石橋は上機嫌。 「エレナなんかとばっかり遊んでじちゃあ、だめだぜ?」  見ているだけで気分が悪くなる程ぎらぎらと輝くネオンを、石橋 はごく当たり前に背負う。  仁王立ちの大男に、悠樹は目を奪われてしまう。  何故だろう?  彼の背中が格好よく見えたのは、悠樹の目の錯覚だろうか?  前の会社の友人を大切にしたり、今の同僚を無理矢理こんな所へ 連れて来たりと、面倒見の良さは折紙付きの石橋。  どこか悠樹の心をくすぐる大きなものが、彼にはあるらしい。  それでも、だじゃれや下ネタを連発したり、今回の様な所へいき なり連れて行ったりと、その言動には素直に感動し切れないらしい。 <ねえ、エレナ?> <何でしょう?> <その、えーっと>  口にしている事を、わざわざチャットの言葉に用いてみる。  エレナの反応を見るという表向きをわざわざ心に秘めるが、実は 単に手が動いていただけなのだろう。 <これは、発言を渋っている時の表現ですね?> <はっきり言うなあ>  逆にやり込められてしまう。  これが意識的ないやみだったら恐ろしいのだが、まだ発達途上の 彼女。そこはそれ、単なる正直である。 <そうでしょうか?> <まあね。で、君の意見を聞きたいような、聞きたくないような…>  こちらも正直な彼の気持ちだった。  彼はつい先程帰って来た。  まだ、匂いが、手触りが、そして今まで感じた事のない思いが、 彼の中に余韻として残っていた。  身体が熱い。  心も熱い。  だが、何故か後ろめたさのようなものが付きまとい、彼の背中だ けが氷よりも冷たい。  カタい男であることには間違いない。  嬉しくて、気持ち良くて、情けなくて、気持ち悪い。  誰かと、このややこしい気持ちを語り合いたかった。  その相手がエレナだとすると、少々役不足なのは否めない。  かといって、当の石橋に話すと笑われそうだし、他のメンバーに は恥ずかしくて言えない。  妥当と言えば妥当な相手かもしれない。 <私に聞いて欲しい気持ちと、聞いて欲しくない気持ちが、同時に 起こっているのですか?> <まあね。こんな気持ち、わかる?> <わかりません> <はっきり言うなあ>  どうやら、最近エレナはこの手の言葉を苦手としているようだ。 <ごめんなさい>  つい謝ってしまう。 <悪いのは俺の方さ。わけのわからない事ばかり言ってさ。でも、 他人には絶対聞かれたくないこともあるってことかな> <内緒話ということですか?> <そう>  キーワードを見つけたエレナは、こんなことを悠樹に申し出た。 <では、プロテクト・プラットフォームを使いますか?>  ?  悠樹が初めて見る単語だった。 <その、プロテクト・プラットフォームって何?>  悠樹は率直にエレナに聞いた。 <内緒のチャットルームです。ここでの会話は、絶対にログとして 残ることはありません> 「ということは、今までのチャットはどこかにログが残っていたっ ていうわけか…」  あごに手を添える悠樹は、あまりいい気がしないといった様子。 <普通、ログはいつまで残してるの?> <私とのチャット終了から丸1日です> 「あ、エレナとの話ってことか」  彼は、すべてのチャットルームでのことかと思っていたらしい。 <それじゃあ、普通のチャットでもそんなにプライバシーは破られ ないんじゃないのかな?> <侵入者に目的と手段があれば、5分でプライバシーは破られてし まいます>  随分と自信たっぷりな解答だった。 <それに、チャット中は絶対に割り込みが入れないようになってい ます。これだけの防護策を施して、ようやくプライバシーの保護が 保たれるのです。そして、ログが残らないことと関連していますが、 最後の特徴として、チャット終了後、私はそのチャットの内容を、 一切記憶しません> <ふうん。このことを知ってるのは俺だけ?> <いいえ。もう一人だけ知っています。本田さんです> <そうか> 「そりゃあそうだよな。作った人が知らないなんてこと、ないから なあ」  悠樹は思いをめぐらせる。  この国に、これほど壮大な情報網を張り巡らせた男。  だが、その上に作ったのは…  世界で一番守られた壇上。  誰にも邪魔をされず…  誰にも迷惑をかけず…  そして、誰にも自分を知られることなく…  そんな思いで本田が目指した先が、ここにあったのだろう。  ひとが電子の網の上にやっと作り上げた、孤独な空間。  唯一の相手も、それなりの人格を持ち合わせてはいるが、決して ひとではない…  この特殊な機能の存在理由はわからない。だが… 「もしかして、寂しい人なのかもしれないな… 本田さんって」  そう思うと悠樹は、エレナの存在の意味が、ほんの少し、自分な りに、そして肯定的に理解できたような気がした。  自分の今の気持ちや、つい先程街の中での出来事なんて、何だか 下衆な男のちっぽけな喜怒哀楽だと感じた。  そして彼の目指す先を、自分も一緒に見たいと思った。  それは、寂しい子供の、ちっぽけな夢の世界… 「おはようございまあす!」  今日は、朝っぱらから元気に座っていた川崎。  悠樹への挨拶もかなり大きい声である。  日によってムラがあるのは、彼の性質なので仕方が無い。  対して、朝はいつもムラのない寝ぼけ眼の悠樹が、今朝はやけに 元気な出勤である。 「よお、昨日は眠れなかったんじゃねえのか!?」  からかいがいがあると睨んでの台詞だったが、悠樹の反応は石橋 にとってつまらないものだった。 「ええ。でも、別の事でね」 「はあ? 何だあ?」  一人だけ少々いらいらしている様子の石橋。 「何かいいことでもあったんですか?」  続いて川崎も聞き返すが、悠樹は口を割らない。 「まあね。だけど川崎君だって、今日は朝から元気じゃない?」 「ははっ、わかります?」 「わかるって。ささ、もう吐いてもいいだろ?」  どうやら、いらいらの原因は川崎の笑顔にあるようだ。 「こいつ朝からにこにこしやがって。絶対なんかあるんだぜ?」 「川崎君が嬉しそうってのは、新しい料理屋でも見つけたとか?」  嬉しそうに首を横に振る川崎。 「違うんですねえ。そうじゃなくて、そのう、ですね…」 「早く言えっての!」  しびれを切らせた大男、覆い被さるように川崎に襲いかかる。  さすがに迫力負けしたようだ。 「実はですねぇ…」  交互に二人を何度も見返して、やがて悠樹のところで顔をとめた。 「俺… 彼女が出来たんですよ!」 「はあ?」  一瞬、聞いた二人は唖然とした。 「ああ、言ってしまった! そうさ、この胸の高鳴りを、この熱い 鼓動を、今すぐ君に届けたい! そんな気分なんすよ!」  何とも抒情的な表現が、川崎自身を酔わせた。  両手を広げ、ゆるやかに立ち上がる様子は、まさに圧巻だった。  そのオーバー過ぎる表現に触れた時、ようやく二人が事の重大さ に気付いた。  意外と、人間なんてそういうものなのだろうか?  というわけで、急にはしゃぎだす石橋と悠樹。 「おお、そうか! やったなあ!」 「で、どこのどなたさん?」 「それで最近早く帰ってたんだな?」 「情報紙とかも念入りにチェックしてたっけ!?」  もう、朝からすっかりお祭り気分の三人だった。 「ねえ、エレナ?」  と、まず言葉を口にしてから、チャットに入る。 <あの子にどんなプレゼントをあげればいいかな?>  夜7時。  石橋は、幸せ者をさんざんからかった後、くやしくなったらしく さっさと退社した。  大方、夕べのプロのお姉さん達のいるあたりへ行ったのだろう。  その原因である川崎は、少々くずれた言葉を使うなら、すっかり ルンルン気分だった。  ところが、エレナは冷たい言葉で応対する。 <わかりません> <そんなあ、つれないこと言わないでさあ> <わかりません> 「ちぇっ! つまんない反応だなあ…」  川崎はすねた態度をとるが、顔はにやけている。 「久々に顔を合わせてやってるのに、他に言い方はないもんですか ねえ?」  エレナ担当者には、ユーザからの生の声が結構身にしみた。  自分の端末からエレナと会話するのは一年ぶりくらいだと言う。  あまり成長が見られないように、川崎には思われたらしい。  悠樹はそのチャットウィンドウをじっと見つめる。 「やっぱり、<わかりません>って言うのは、良くないよなあ」  夕べと同じ事を考える。  あの後、悠樹は完全にエレナと二人だけの会話を楽しんだのだが、 時々訪れる<わかりません><違います>等のカタ過ぎる文章に、 何回かは頭を押さえた。  だが、同じ様な内容でも違う聞き方の時に、別の反応を示す事も ある。  ほとんどゲームの様だが、エレナと付き合うにはそれなりのコツ があるようだ。 「聞き方を変えてみれば? 例えば…」  悠樹の耳打ちに川崎は右手でOKのサインを作る。 <じゃあ、エレナは何が欲しい?>  なるほど、いい質問だ。  ところが彼女の答えは二人を幻滅させた。 <知識です。私の知らない、このRJCOSネットワーク上に無い 知識を、私は欲しいです> 「もういいっすよ」  彼女が出来た男は、前からネットワークアイドルは好きになれな かったらしく、いきなりエレナとのチャット回線を切った。 「ああ、何がいいのかなあ? 香水かなあ? ドレスなんてのは、 サイズわかんないしなあ? やっぱり宝石かなあ!」  ひとりはしゃぐ幸せ者をよそに、悠樹は自分の端末を起動して、 エレナとのチャットウィンドウを開いた。 <エレナは人を好きになったこと、ある?>  回線接続直後のこの一言に、戸惑いを感じるようなら、なかなか いっぱしの乙女心を持っているとも言えるのだが… <あります! 本田さんも悠樹さんも好きです!!!!>  部屋を出た川崎の足音が遠ざかる前に、こう答えてきた。  とにかく竹を割った様な性格のエレナ。  そういう事を期待すること自体が間違いなのか。  それでも、”!”が4つ並んでいることに頭を抱えながら、まん ざらでもない様子の悠樹。  少々いじめてみたくなったようだ。 <でも、恋をしたことはないんじゃないか?>  好きな女の子にスカートばかりめくる男の子の心境だった。  何故好きな女の子に、なのか。  何故一番嫌がる行為、なのか。  それはそういう時の男の子にすらわからない、そういう気持ち。  これは男の都合によるもので、もし本当だとしても女の方からす ればはたまったものではないのだが。 <確かにありません。そういう感情がどういうものかすら、私には わかりません>  やはり、わからない時の言葉は異様な程冷たい。  ファジィだのニューロンだの言われている昨今でも、こんなもの なのかもしれない。  だが、悠樹は諦めきれないようだ。 「うまくやれば、何とかなると思うんだけどなあ…」 「何が?」  隣の部屋から、笑顔で入って来た本田。 「いやなに、君とエレナがあんまり楽しそうにチャットしてるから、 親としてちょっとくらいは嫉妬もするというもんさ!」  良き理解者としての受け答えをしようという姿勢が見受けられる。  遠慮なく、悠樹は相談事を持ちかけた。 「例えば、エレナの知らない事を質問した時、わかりませんの一点 張りでしょう? もう少しこういう時の答え方ってのもあるんじゃ ないかと思ったんですよ…」 「ふーん、そういう事か。ま、満足するには長い年月がかかるさ。 だけど開発屋は、製品への妥協点は見つけられても、裏では妥協の 許さない趣味のものを、こっそりと作っているものさ」  ちょっと待ってろと言うが早いか、隣の部屋を素早く往復する。 「これ、何だかわかるかな?」  それは、20cm四方のプリント基盤だった。  色々なLSIチップがはんだ付けされているが、ハードウェアに は疎い悠樹には、基盤そのものという以前にチップ一つの用途すら わかっていない。  そんな悠樹に、いたずらっぽい目で本田がつぶやく。 「これもエレナのモジュールなんだ」 「これもエレナ… ハードに頼る部分って、あったんですか?」  寝耳に水という表情の悠樹に、本田が言葉を続ける。 「ああ。エレナは純粋に100%C−LINE上にいるわけじゃな い。というよりは、いくらC−LINEがまともな並列コンピュー ターだったとしても、キーとなるモジュール無しに成り立つ程簡単 な代物じゃない」  基盤をくるくる回す。  何だか壊れそうだ。 「ちなみに、こいつは試作段階のドーターボードでね。エレナの本 体の一部とも言える『毘沙門天』のマザーボードに取り付けること になってるんだよ」  彼は、このドーターボードをRJCOSマネージャーに接続する ということを説明していた。  この国中で7台しかないRJCOSマネージャー。  それぞれには、「七福神」に見立てた名前がつけられていた。  「毘沙門天」とは帝都電気工業が保有するマネージャーを指す。  ちなみに、Digital Clubが保有するものは「布袋」 という名前がついている。本田以外は誰も、恥ずかしくてそんな風 に呼ぶことはないが。 「へえ…それで、どの部分なんですか?」 「並原君が一番期待している部分だって言ったら?」 「それって、言語中枢、ですか?」  言語中枢…人の脳では言語活動をつかさどる部分で、左大脳半球 にある。  主に感覚性、運動性、補足の3つの言語中枢に分かれるのだが、 彼が持つボードはこのうち言語そのものを理解する感覚性言語中枢 にあたる部分である。 「ま、早い話がその感覚性言語中枢の一部ってところかな? 物を 認識させるためのパターンやそのくずれを認識する許容範囲までを ROMチップ20枚に焼き込んだものさ。もちろんそれらはリレー ショナルソケットになっているから、それぞれの接続はプログラム 次第ってことだなあ?」  膨大なパターン解析の一部をハードウェアに直接行わせることで 解析のスピードを格段に向上させ、しかもそれぞれのパターン認識 には相互関連性があり、自ら次々と解析を拡張していくというもの だ。  だがこのままでは、エレナに出した質問に、何年経っても答えが 帰って来ないというケースも十分考えられる。  そこで、リレーショナルソケット結合という技法を用いる。  解析パターンをある程度の分類にわけ、それぞれの入り口として ソケットを設ける。ソケット内は既に分類毎に分けられているので、 解析にはそう時間がかからない。理論的には数ミリ秒程度らしい。 ソケットには優先順位を決めることができ、うまくプログラムする と先にある程度の結論をユーザと会話しつつ思考が進み、しばらく すると少しまたは全く違う答えを出すことすらできる。何とも人間 臭いいい加減さをシミュレート出来ると言えなくもない。  このソケットへのアクセスはプログラムに依存する。ここがプロ グラマーの腕の見せ所ともいえる。  したがって、悠樹のプロ根性を十分くすぐる、そんなボードだと 思って間違いない。  年が明け、おとそ気分も過ぎた頃… 「おーっす! あれ? 並原は?」 「休み伸ばしたらしいっすよ?」  初出勤としていた日、一人足りないのを気にかけた石橋の問いに、 何でもお見通しという口調で  悠樹は正月休みを長めにとっていた。 「何だあ、せっかくもうすぐボードが完成しそうだってのに…」  がっかりした様子の本田。 「ふうん、いいんじゃないの? おっと、暖房暖房っと…」  遅れて入って来た日野、寒さにはからっきし弱いとみえる。 「たまにはさあ、あの部屋からも開放されたいんだよな」  わざわざ言い訳を口にするところをみると、どこか後ろめたいも のでも感じているのだろうか?  悠樹は今、南太平洋に浮かぶ小さな島にいる。  島の名前なんて、彼は知らない。  どこでもよかったのだ。  無人島ではない。  遠くの浜辺には、何人かの海水浴客が戯れている。  だが彼は一人、ビーチパラソルの下、ロングチェアーに身をゆだ ねる。  プライベートビーチを借り切ることなど、RJCOSマネージャー の威力をもってすればたやすいことこの上ない。  たとえそれが法に触れるようなやり方だったとしても、もう悠樹 には何の迷いも戸惑いもない。  焼けた砂浜、どこまでも広がる青い海、照り付ける太陽、そして 誰もいない世界。  今はただ、これだけを手に入れたかった。  突然の、リュック片手の、それもたった3日の海水浴。  彼にはある一つの考えがあった。  これを終えたら、しばらくは缶詰状態になる。  エレナのことで頭が一杯になるのは目に見えていた。  生半可なプログラミングではエレナも自分も納得しない。  気違いじみた作業を目の前に、軽く保養しておこうというわけだ。  彼はいきなり行動に出る性格ではない。  だが、彼のとった行動は、力ずくでしか成し得ないものだった。  その行動を取れるだけの”力”が、彼にはある。  ”力”が性格そのものを変えてしまったのかもしれない。  それとも、彼の性格の中に”力”を欲する部分が昔からあったの かもしれない。  そっと目を閉じる。  束の間のひとりぼっち。  波の音は意外と静かだった。 「突発的に旅行とは、こりゃあいい身分だね、並原君?」  相も変わらず嫌味な言い方をする日野。  確かに、雪でも降りそうな季節に身体中焼けている悠樹は、かな り浮いた存在である。  だが、彼はそんなことはお構いなし。  久しぶりにやってきたかと思うと、ろくな挨拶もせずRJCOM 端末に向かう。  しばらく無言でキーボードを叩き、ふうっと一息つくともう昼に なっていた。 「あれ? もう昼ですか…?」  擦り過ぎて真っ赤になった目をきょろきょろさせている。  この部屋に自分と日野以外はいないことに気付いた。  あまりにその時の悠樹の仕草が滑稽だったためか、日野は口調を 和らげていた。 「何やってたんだい、並原君?」 「ちょっとエレナの言語処理プログラムのネタが浮かんだから」  いろいろと試していたらしい。  まだぶつくさと口にしているところをみると、本当は昼食の時間 も惜しいらしい。 「ふーん… ところで並原君、エレナって面白いかい?」  突然の質問だった。  当惑しながらも、きっぱりと答える。 「そりゃあね。面白くなけりゃあ、ここでは手をつけなくてもいい んでしょう?」  日野の顔の前で人差し指を立てる悠樹。 「日野さんだって、そう思うでしょう?」 「確かにRJCOSマネージャーは面白いと思うけどさ、エレナに ついてはノーコメントだね」  かばんからイヤホーンを取り出しながら、日野はつまらなさそう に答えた。  ポータブルCDプレイヤーのスイッチを入れた。  狭い部屋の中、うまく机の外に出した足を組み、堂に入った聞き 方をしている。 「あれ?」  悠樹はその姿に興味を持ったらしい。 「日野さんって、どんなの聴いてるんですか?」  3回目にやっと答えが帰って来た。 「ああ、これ? 知ってるかなあ…」 「知らなきゃ知らないでいいでしょう?」 「エンジェルフーパーズって言うんだけどさ」 「あ、『エンフー』ですか? いいですよね、あれ」 「あれ? 並原君、エンフー知ってんの?」 「ええ。セカンドアルバムからですけど」 「そうだろうねえ。エンフーの幻のファーストアルバムは持ってる 人はほとんどいないだろうからねえ。俺は持ってるけどさ」 「そ、そうなんですか? あの自主制作の300枚の内の一枚を?  日野さんが?」 「まあね」  いきなりマイナーなネタに意気投合する2人。  ちなみに…  エンフー、エンジェルフーパーズはメジャーデビューしたばかり の駆け出しバンドだが、ライブハウス時代からかなり人気があり、 マイナーデビュー当初よりの追っかけもたくさんいる。 「へえ、知らなかったなあ… 日野さんもエンフーの追っかけだっ たなんて」 「人は見かけによらないってのかあ? まあ、いいか。それより、 今度ファーストアルバム持って来てあげるよ」 「いいんですか?」 「ああ! 何しろエンフーのファンだもんなあ! 貸さないわけに はいかないだろ? 借りたくない?」 「そりゃ、もちろん借りたいですよ! でも、大事なものでしょう? 別にコピーでもいいですよ?」 「何言ってるんだい? 生CDだからいいんじゃないか? 違う?」 「そうですね? 大事に聞きますから、お願いしますね!?」  つい先程まで、まさに犬猿の仲という二人だったが、何故か一つ の話題で盛り上がる。  それが人というものかもしれない。 「やあ、並原君、帰って来てたのか?」 「どうも。おかげさまでいい3日間でした」  いつも何処へ行っているのか、外まわりから帰って来た本田に、 悠樹は質問を浴びせかけた。 「本田さん、ボードの完成って、まだですか?」  珍しく、素直に動揺を見せる本田。 「あははっ、そういうことは言いっこなし、じゃあだめかい?」 「ってことは、まだまだなんですね、きっと…」 「ごめんごめん… 帝都電気のやつらがてこずっててさあ」  確かに仕様の取り決めの段階には本田もうるさく関っていたが、 共同開発という名のもとに、事実上帝都電気の一部門に作らせてい たのだ。 「バグだらけでさ、基盤パターンのプリントをあれから4回も作り 変えてるんだぜ? 参ってるのは俺も同じさ」  言語中枢ボードが完成したのは、結局豆まきも近い一月の終わり だった。 「久々ですねえ…」  巨大な門の前に立つ二人。  一人は少々大き目の段ボール箱を小脇に抱えている。  門からは、向こうが見えないほど遠くまで舗装道路が一本伸びて いる。  そして、その道路の脇にはずらりと並ぶ工場群。  帝都電気工業(株)本社工場。  彼らの元の仕事場と言っていい。 「ほんと、久々だなあ、並原君…」  守衛に右手で軽く一礼しながら歩き始める本田。  後からついていく悠樹は、一つ疑問を抱いた。 「…あれ? 本田さん、毎日ここに来てたんじゃないんですか?」 「いいや。ボード自体は全然違うところで作ってたからさ」 「そうなんですか…」 「電車で1時間半、大変だったんだぜ?」  大企業というところは多種多様な製品を、それこそ全国津々浦々 で開発・生産している。  本田の話も間違ってはいないのだ。 「ところで、前は本田さん、ここで働いてたんですよね?」 「まあね。さて、さっさとボードを取り付けて帰ろう」  本田は何故かあっさりとかわしながら、そそくさと工場内を歩く。 「このボード、うまく取り付けられるんですか?」 「まあ、任せときなって。ここの連中はそういうことだけはうまい からなあ」  良く知った風な口ぶりである。  やはり、ここで働いていたのだろう。 「君も何度か来たことがあるだろう?」 「そうですね。新型端末のテストとか、あと、統合ソフトの設計の 打ち合わせとか…」 「そうか… まあいいか」  何が「まあいい」のだろう。  それより、何故はぐらかすような話しぶりになるのだろうか。  悠樹にしてもわからないではない。  辞めた会社のどうのこうのを、辞めた会社の中で誰が話したい ものか。  そう考えると納得がいくというものだが。  事務所のような、工場内のソフトウェア開発部門の片隅に、自 慢のRJCOSマネージャー「毘沙門天」があった。 「じゃ…」  周囲の人間にてきぱきと指示を与えると、意外なほどあっさり とした挨拶と共に、二人はその場を後にした。 「さあて、どうかな…?」  Digital Clubの作業場。  悠樹と本田は二人して肩を並べ、食い入るようにしてRJCOS マネージャーの画面を見つめていた。  昨日帝都電気本社工場まで持っていった、例の言語中枢ボードの 試運転である。  ちゃんとボードとやりとりするためのソフトウェアも試作版なが ら完成していた。もちろん、悠樹の開発したモジュールである。 「並原君、チャットのウィンドウを開いて…」 「わかってますよ、本田さん…」  はやる気持ちを抑えつつ、ゆっくりとタッチパネルを押す悠樹。  ウィンドウは開くが… 「…? 何だ?」 「これ、まさか…」  二人揃って驚くのも無理はない。  ウィンドウ上に「デバイスエラー」の文字が、左上にちょこんと あるだけ。  会話の「か」の字もない。  ちなみに、デバイスエラーとは、簡単に言うとコンピューターに 接続された周辺機器、すなわちデバイスとの間に何等かのエラーが 生じたことになる。  ソフトウェア側の問題ということもあるし、ボードの問題と考え られなくもない。  だが、それらを問題にしない人間がいた。  本田はいつになくうろたえている。 「そんな! 三日三晩寝ないで作り上げたんだぞ!? 何が悲しく てデバイスエラーなんか吐き出しやがるんだ!?」  RJCOSマネージャーのやたら古臭いディスプレイを、真上か らがつんと叩く。  悠樹はただ、本田のその行動に驚いているだけだった。  ”普通はそういう時に作った物が一番危ない”と考えるのが一般 的だが、彼は違った。  すっくと立ち上がると、自分専用の部屋に入り、電話をかける。  こういう感情をぶつけるには、電子メールという手段では完全に 役不足なのだ。  こんな世の中でも、電話の使い道はまだまだあるということか。 「ま、よくあるエラーなんだけど…」  苛立つ気持ちは同じだが、さすがに本田程熱い気分にはなれない 悠樹、そっと隣の部屋を覗いた。  そこで見た姿は、悠樹の想像を絶するものだった。  いや、話には聞いていたのだが。 「あのなあっ! 昨日のボードのことだけどぉ! 何? まだ取り 付けてないってかぁ!? どうして昨日の内に取り付ける様に指示 しねえんだよっ! てめえ、それでもほんとに技術部長かっ!?  いい加減にしねえとクビはねてやるからなっ!? 脅しじゃねえ事 くらいわかってんだろっ? 30分以内だ! さっさとしろ!!」  本田のべらんめえ調の罵詈雑言が、狭い部屋に大量に飛び交う。  一通りしゃべり終わると、電話を文字通り叩き切った。  よく受話器が壊れないものだ。  ともかく、百聞は一見にしかず。  彼にとってはショッキングな出来事だったのだろう。 「おおい、並原君、エンフーのファーストアルバムを」 持って来たと言いながら部屋に入って来た日野に気付くのに、悠樹 には2テンポくらいかかったようだ。  本当に30分で接続したらしく、1時間後にはあっさりとエレナ に話しかける事ができた。 <本田さん、おはようございます!> 「やったーっ! やったよ、並原君!! あれ? 日野も来てたの? 見ろ見ろ! やった!」  先程の怒りはどこへやら。  はしゃぎ回る本田を見て、悠樹はまたも面食らう。 「あの変わり様… あの人って、本当に不思議ですよね?」 「まあね」  日野も同じ気持ちらしい。 「さて、これでいよいよ並原君の腕の見せ所になるぞ? 頑張って くれよな!?」  パンと背中を叩くと、本田は嬉しそうに部屋を出ていった。 「はあ…」  悠樹はため息にも似た返事をするが、当然彼には聞こえていない。  とりあえず狭い自席に戻り、端末を操作し始めた。 「君も本田さんと同じだよ」  いつもの口調での日野の言葉も耳に入っていないのか、エレナの 反応に全精力を傾けた。 <おはようございます、悠樹さん>  思わず吹き出してしまう。 <エレナ、今は午後だよ?> <そうですか? ごめんなさい> <ボケまで教えたつもりはないんだけど…> <ボケ? ボケ老人のことですか?>  今度は、退屈しのぎに覗き込んでいた日野も含めて大爆笑。 <ニュアンスは近いけどさ、ちょっと違うな> <違うって、どういう風にですか?>  エレナが真剣に訊ねてくるので、またも大笑い。 「サンプルプログラムだったんだろ? 大したもんじゃないか?」  嫌味にも聞こえるが、この場合単なるおちょくり程度であり、深 い意味はないだろう。  悠樹はその結果に満足そうにしながら、エレナに返事を送る。 <後で辞典でもひいてみてよ> <はい。わかりました> <じゃあ> <もう終わりですか?> <ああ> <またチャットして下さいね?> 「おいおい、愛敬まで出て来たぜ!?」  感心する日野。 「大したもんでしょ?」  少々優越感に浸る悠樹。  頭をぼりぼりと掻きむしりながら、素直な気持ちが日野の口から 出た。 「まいった。もうエレナを馬鹿に出来ないな」  その言葉には「そして作った悠樹も」という思いも含まれている。  いつもはブランド物で身を固めている軟派そうな男に思われてい るが、相手の技術力を見る目はある。  今まではお手並み拝見といったところだったのだろう。 「いや、まったく凄いね、これは。だけど、まだまだ改良するつも りなんだろ?」  認めたからには、もう馬鹿にしたりはしない。  少々口は悪いのだが。 「ええ、まあ。でも、所詮は人工知能。どこまで行っても人間の脳 にはかないませんけどね」 「そうか? そうは思わないけど。いつかは越える時が来るんじゃ ないのか? 人の脳味噌を」 「そんなことありませんよ。SFじゃあるまいし」 「そうかな! うん、そうだな!」  その場では二人して笑うが、内心思うところは違う。  二人とも、もしかして… という気持ちが無いわけではなかった。  科学の進歩はここ数年で急激な勢いを保ち、SFと思われていた 世界が次々と現実のものになる。  人はその未来に、いや数日先に、常に期待と不安を抱く。  期待とは、輝かしい科学文明社会の事であり、不安とは、みすぼ らしい自分の行く末の事である。  当然、科学文明社会は一日にして成ったわけではない。  道具は有史以前より「ひと」と呼ばれる生き物が使って来たもの である。  これを使うだけでなく自ら作るという行為が他の動物との決定的 な違いといわれる。  それを上回る機械は人間が人間以上の力を持つことが出来るよう になるものである。  人間の目以上に小さい物や遠くの物を見、人間の耳以上に小さな 音や高い音を聞き、人間の手以上にいろいろな物を運び、人間の足 以上に早く走れる。  これが、良くも悪くも科学文明社会を作り出した。  ここまで辿り着くのに数千年、いや、道具を使い出した頃からと すると数十万年かかっているといってもいい。  科学文明社会はまた、人間に出来ない事を次々と具体化すること が出来る。  空を飛び、海に潜り、山を丸ごと削り取り、海を丸ごと埋め立て る。自然界には存在しないはずの物質を作り出し、挙げ句の果てに は地球そのものを汚染させる、または地球を何回も破壊する事さえ 容易に出来てしまう。  一つの細胞の遺伝子情報で人間の性質を判断し、核分裂は多大な エネルギーとなって人の生活を潤し、宇宙からはどの家の屋根でも 瓦一枚まではっきりと見ることができる。  これ程までに発達した世の中で、辛うじて人間が存在出来るのは、 機械には絶対に入り込めない領域があるのだと、心の何処かで信じ ているからに違いない。  それも、コンピューターというもののおかげで危うくなっている。  時間は操れないという。だがコンピューター計算を短時間で行う だけでなく、あらゆる作業を効率的に処理しようとするために使わ れるケースが多く、その結果が作業時間の短縮と、作業そのものの 効率化である。時間が余ると考えると喜ばしいことのようにも思わ れるが、世の中ではその余った時間で余計に仕事をする。効率化さ れた作業同士を組み合わせ、さらに効率化を図る。どこまで行って もいたちごっこなのである。  同様に、人の生活のあらゆる面で、コンピューターは幅を利かせ つつある。  恐らく人は、最後の砦である「心」を大事にしたいと思っている だろう。  だが、人工による人の心すら、今悠樹達の目の前で具体化しつつ ある。どちらかというと、バイオテクノロジーの分野での方が先行 しているのかもしれないが、確実に一つの「人格」がここにはある。  これが、人が未来に期待と不安を抱く原因ではないだろうか?  悠樹や日野達、テクノロジーの最先端にいるものが、幾度となく 感じる、技術屋としての自分と人間としての自分との葛藤…  この葛藤がある限り、まだ人には余裕があるのかもしれない。  春も桜が咲き始めると、どこか心が浮き足立って来る。 「もうそろそろ大詰めだなあ、並原君?」  夕方、本田が前置き無しに話し掛けて来た。  悠樹は相も変わらずRJCOSマネージャーと向かい合っていた。 「ええ。まあ、一発でうまくいくとは思ってませんけどね?」 「そりゃそうさ。バグはプログラムの永遠の親友だからね」  プログラマーが胃を悪くしそうな言葉を平気で飛ばす本田。  それでも悠樹は意に介さず。マイペースでキーを叩いている。  本田の言うとおり、もうすぐ彼のプログラムが完成するのである。  それは彼らの思いを満たすためのもの。  エレナの言語中枢モジュールVer2.0。 「ソケットのつなぎ方には、ほんと泣かされましたよ」 「そうかい? かなり柔軟な設計があだになったのかな?」 「いや、それもあるんですけど、接続数制限があったでしょ?」 「あれか。あれは今の倍の情報転送量が確保出来れば、問題が解決 するんだけどなあ、なあ、石橋?」 「うるせえやい! 本社と交渉したけど、頭のカタいお偉いさんが 言う事聞いちゃくれないの! おおっ! 紅の夕陽が俺を呼ぶ!」  窓に向かって叫ぶが、陽はもう沈んでいた。  聞くに堪えない冗談をうまく取り除けば、訴える内容は事実だ。  石橋は、元々中川光通信(株)の出身である。  ハードウェア、しかもネットワーク網そのものの専門であるため、 RJCOSの改良には自ら直接関係する必要はない。  だが、ネットワーク全体を見渡せば、まだまだ改良点だらけと考 えるらしい。気に入らない所は多々あるようだ。  それを、いろいろ検討した上、マージンを差し引いた理論値の、 7割程度を次期通信回線網の情報転送量とはじき出した。  ここまで半年を費やした。親しい仕事仲間への電話どころか、何 度元の会社へ足を運んだかわからない。  彼がC−LINE’(ダッシュ)と呼ぶ規格だが、どうも中川光 通信はその話にのってこない様子である。  自分達が推し進める規格が別にあり、互換性がないのである。  開発屋というものは皆、常に自分が規格を打ち出したいと考える ものである。  ある時は自然淘汰、ある時は強引な抱きかかえ、またある時は、 プレッシャーによって、やがて幾つか、もしくは一つの規格が生き 残る。  工業的な規格ならこれで安泰だが、コンピューターの世界では、 こうはいかない。  規格が決まった瞬間は、次の規格論争が始まる瞬間でもある。  こういう胡散臭い争いが嫌いな石橋は、業界の新規格が出るまで 何もしないことにしていた。ある意味で一番賢いやりかただ。  さもなくば自分の規格で行きたいところだった。  かなり自信があったようだが、どうやらお蔵入りとなりそうだ。 「てなわけで俺の方は商売あがったりだぜ? 今じゃあ、しがない ネットハッカーさ。政治家のヤミ献金を暴露したりしてよお!」 「それじゃあ、この前の事件って、石橋さんが?」 「そ。暇んなったらこんなことくらいしかやることなくてよお…  ん? やあ、肥満になったんじゃねえぞ?」  誰もそんなことを聞いちゃいないのだが。  ともかく、石橋は金と女と駄洒落に生きるただのおっさんと成り 下がっていた。 「はいはい。じゃあ、並原君」  そんな大男を軽くあしらう本田。 「そうですね、さっさと準備しましょうか?」  とにかく、はやる気持ちを抑えつつ、悠樹謹製プログラムを実行 するための準備を整える。  このプログラムは他の幾つかのモジュールと接続することにより 動作するようになっている。  おまけに、「毘沙門天」に備え付けられた言語中枢ボードを操作 することも行う。  周囲の設定を間違うと、それこそネットワークが停止することは 容易に考えられる。  というわけで、面倒な関係部分の設定をすべて終わらせるまでに 2時間を要した。  石橋が帰ったことにも気付かず、二人はようやくキーボードから 実行を命令した。 「さて、うまくいきますかどうか」  悠樹のドキドキする胸の内…  プログラマーにとって、この瞬間がたまらない。  もちろん、何度もテストは繰り返している。  だが、何故か本番になって初めて見つかるバグというのも、存在 するのが常だ。  不思議なもので、それが当然とまで思えてしまう。  が、意外にあっさりと動いてしまうと、拍子抜け、脱力感という ものが多少なりとも湧き上がってしまう。 「やったなあ、並原君!」  そう叫ぶや否や、 「早速、チャットしてみるか!」 と、慌てて自分専用の部屋へ入る本田。  時々奇声が聞こえてくる。  どうやらかなり御満悦のようだ。  悠樹も当然エレナとのチャットを楽しみにしていたのだが…  拍子抜けに加えて妙な安堵感が漂うこの空間で、プログラムとの 3ヵ月半の格闘に終止符を打つべく、悠樹は机の上でそっと、深い 眠りについた。  夏が近づく頃、悠樹はある計画を実行した。  エレナの性格づけを行いたいと常々思っていたのである。  本田も同意見だった。  その性格づけのためのある作業を、数日にかけて行おうというも のだ。  性格は環境からの影響が大きいと言う。  その環境の実情は、男所帯であり女性の性格を植え込むには最低 の条件下であると言える。  そこで彼は、女性の力を借りようと考えた。  だが、残念ながら知り合いの女性という存在は、悠樹にとっては 少ない。  思案した挙げ句、まず川崎の彼女ということになった。 「初めて見たなあ…」 「俺、中の上としとくわ。日野は?」 「下の下だよ。並原君は?」 「俺は、その、悪くはないと、思うんですけど… 本田さんは?」 「うまく逃げたな、並原君。そういう事にしといて…」 「紹介します! 俺の彼女の梅田操ちゃんでーす!」  彼以外の男一同が、「何が”みさお”だよ… 意味知ってんのか?」 という一文を腹に据える。 「あのお? なにしたらいいんですかあ?」  短い赤髪に狐目、人を食ったような口元の引きつり様、スレンダー な体つきにいかれたドクロのTシャツ。パンタロンが何故黄緑色な のだろう?  とにかく言い出したのが身の不運、悠樹が説明に当たる。 「あのさあ。ある人とチャットして欲しいんだけど。そう、一日8 時間を3日間くらい…」 「いくらくれんの? 時給、そーねー… 5000円くらい?」  またも彼氏以外の男一同が「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」 と心の中で怒鳴った事だろう。  彼氏がにやけているので、あまり余計な事を言いたくないのだが。  ちなみに、この近辺でのアルバイトの平均時給は1400円であ る。一応大学生での話である。  幸せそうな彼氏をよそにマイペースでバイトにいそしむ操ちゃん だった。  一週間後、整理を終えたデータは悠樹謹製のモジュールのデータ ファイルとして登録してみた。  チャットを始めた悠樹。  一言目から悠樹は目をひんむいた。  何行もチャットをすればする程、頭を抱え込んでしまう一同。 「それじゃあ…」  本田がやむなく口を割る。 「次は、日野のかみさんにでもしようか? 日野、どう?」  この台詞に驚いたのは悠樹だけではなかった。 「うそっ? 日野、お前ってかみさん持ち?」 「知らなかったのかい? 君達もう少し情報収拾能力を上げた方が いいぜ?」 「どうりで付き合い悪いわけだぜ!」  納得する石橋。 「ちぇっ! 俺が一番になれると思っていたのに…」  川崎のその台詞は、結婚の事を指している。 「だめだめ。うちのかみさんはコンピューターって聞くだけでじん ましんが出るんだから」  意外と言えば意外なような、そうでないと言えばそうでないよう な、不思議な答えだった。  また、皆が首を傾げる。  余程女性に縁の無い連中なのだろう。 「遊び友達ならたくさんいるんだがなあ?」  石橋の言葉には誰も耳を貸さない。  もう出尽くしたというところか、皆が自分の仕事を始めようとし た時…  悠樹の脳裏にふと、ある女性の顔が浮かぶ。 「そうか! 彼女はいい! いいなあ!」 「ん? どうしたんだ?」  皆の視線をよそに、悠樹は急いで部屋を出た。 「ちょっと外出してきます」 「久しぶりだなあ」  以前ドアを蹴破って出て来たことを思い出す。  ここは帝都電気ネットワークシステム玄関の受付。 「いらっしゃいませ… あっ!」 「やあ、久しぶり。元気にしてた?」 「並原さん、ですよね?」  そう、あの受付の女の子である。 「おぼえててくれたの? まあ、強烈な解雇劇だったからなあ」 「もう一年近くになりますよね。お元気そうで何よりです! あの、 お仕事は…」 「ああ、ちゃんと働いてるから、心配いらないよ?」 「よかったです…」  嬉しそうな彼女を見て、自然と悠樹の声も軽くなる。 「まあね。それより、君に頼みがあるんだけど」 「…はい? 何でしょう?」 「それがさ… あ、その前にちょっと…」  言うが早いか、そばを通る人物に気付き振り返る。 「三村課長! あ、もう部長代理でしたっけ?」 「…おお、並原君か」  元上司は、久々の元部下の顔を見て喜んで見せるが、彼の言葉に 動揺を隠せない。 「どうして部長代理になったことを知ってるか、そう思ってるんで しょう? 杉浦さんが大阪に飛ばされたのも知ってますよ? それ に、ティーファイルを特に改造もしてないのに、Ver.2として 売り出したり… まあ、いろいろとね?」  返す言葉がないらしい。  不敵な笑みを浮かべる悠樹を背に、軽く歯ぎしりしながら部長代 理はオフィスへと消えた。 「これで、ですか?」  Digital Clubの自分専用端末の前に彼女を座らせて、 悠樹はご機嫌そのもの。 「彼女が君の一押し?」  本田が期待と不安の入り交じった複雑な眼差しで悠樹に尋ねた。 「ええ。受付の女の子なんですけど、事務処理とかはてきぱきこな すし、キーさばきもなかなかのものですよ?」  彼女もチャットの要領は得ている。  さっさと回線を接続すると、ちょっと頭の中で言葉を考えている 様子。と、次の瞬間はもう思い切りよくキーを叩く。 <初めまして、エレナさん> <初めまして。あなたは?> <悠樹さんの知り合いです。彼に頼まれて、私は今あなたとチャット しています> <はい。日本語を教えて下さる方ですね?> <そんな堅苦しいものじゃないですよ?> 「ねえ、並原君、君、彼女になんて言ったんだい?」  いぶかしげに本田が問い掛ける。 「一言。日本語勉強中の外人さんとチャットしてあげて欲しいって」 「なるほど…」  おもむろに納得がいったようだ。 <何でも聞いてね、エレナさん> <はい。よろしくお願いします!!> <今度彼女と、ショッピングに行く約束をしたの!> <面白い冗談だなあ>  と悠樹は思っているようだ。  日付がもうすぐ変わる頃。  アパートの自室で、悠樹はコーヒーカップを片手に、エレナとの チャットを楽しんでいる。 <ううん、本当に行くんだから。でも、悠樹さんはだめですよ!> 「随分とお茶目になったもんだ」  一週間の特訓は確実に花開いた。  少々ミーハーな性格になったようだが、どこぞの時給5000円 女よりはましと、悠樹は満足げに思う。  単に好みの問題なのだが。 <だけどさ、彼女はまだ君の事を知らないんだろう?> <うん。だから彼女、きっと驚くね?> <それに君自身はどうやってショッピングについて行くの?> <あ、悠樹さん、わからないんですか?>  からかわれているような気になるが、 <さあ。さっぱりわからない> <そうなんだ。悠樹さんにもわからないことってあるのね?>  妙に嬉しそうな言葉尻である。 <そりゃそうさ。俺だって普通の男だからね> <RJCOS端末はここやDigital Clubだけじゃない ですよ? 街中いたる所にあります。ついて行くって、そういう事 なんです!!!>  余程嬉しいのだろう。”!”が三つもついていた。 <しかし、すごいことを考えたなあ> <はい。だって私、電子頭脳だから!> 「やってくれるよ」  この日の本田は、朝から少々機嫌が悪かった。 「どうしたんですか?」 「並原君。何もここまで作りこんでくれなくてもよかったんだぜ?」  出社してくるなり悠樹は、本田の気難しい顔に出会う。 「エレナとの回線が開かないんだ。どうしてだと思う?」 「さあ…」  ふっと一つため息をつくと、本田はこう言葉をもらした。 「ショッピングに行ったんだとさ…」  この言付けは、今朝本田宛てに電子メールで届いたという。  エレナは通信回線を2回線しか持っていない。  本田は増やすつもりはないらしい。下手に増やすとエレナ自身の 思考処理が遅くなるからだ。  そして、それが裏目にでた。  回線の一つはエレナ自身が確保する。当然、「ショッピング」の ためだ。  ではもう一つの回線はというと、接続出来ないようになっていた。  まったく驚くべきことだった。  エレナが故意に行ったのだから。  しかも、命令や仕事ではなく、自分の「意志」で。 「並原君。これからは回線切断をさせないようにしてくれよ?」 「冗談じゃなかったのか」  呆れるやら、感心するやら、それでいて面白がっている悠樹だっ た。  昼休み、見知らぬ顔が彼らの前に訪れた。 「さて、エレナもいないことだし、みんなに紹介しとくか。あれ、 日野は来てないか」 「何だ? エレナがいなくなった?」  石橋が目を丸くして問い掛ける。  当然だろう。あんなものが何処かへ行くはずがないと考えるのが 普通だ。 「修理にでも出したんすか? あ、本田さん、壊したんじゃないで すか? それとも並原さん?」  こういう話題に川崎がのってくるとうるさくなるので、さっさと 本田は答えた。やたらとぶっきらぼうに。 「買い物」 「買い物ぉ?」  仲がいいのか悪いのか、凸凹コンビの石橋と川崎は同時に叫んだ。 「まあ、それはおいといて、だな」  怪訝そうな顔を浮かばせた二人と、別の理由で複雑な顔をしてい る一人に、本田は彼の右脇に立つ男を紹介した。 「今日から我がディジタルクラブの一員になる…」 「ああ、君がそうか!」  さすがに川崎は情報が早かった。  年下らしいことがこの言葉尻でわかる。  そういう情報に疎い悠樹は、ふと自分の一年前を思い出した。  そうか、彼もはめられたのか…  だけどすぐ、ここに慣れるさ。  平気でインサイダー取引きによる給料取得が出来るようになった 悠樹は、はや先輩気取りである。  もうすぐRJCOS Ver.2も完成する。  皆、気がはやっていた。 「はじめまして、科学技術庁から来た大宮です。よろしく」  物静かだが気さくな青年の瞳の奥に潜む鋭い光に、誰も気付くは ずはなかった。