Hang Up In The ”MACHINE ROOM”  男の足は、地面についてはいなかった。  手も、胴も、頭も、何一つ地面についてはいなかった。  ただ一つ、彼とこの世界を結び付けるもの…  それは、一本の縄。 「えーっ、くしゅんい! っくう…」  まったくもって、妙なくしゃみである。 「あーあ、ったく。こーゆーのが増えると、こっちもお仕事しなきゃ いけないんだよねえ、ほんと」  天井からつるされた一本の縄を、しげしげと見つめながら、頬を ぼりぼりと掻きむしる。  縄の真下に立つ。  どこから見てもただの縄だ。  輪がつくられてはいるが。  胡散臭そうに、そばにいる警官に声をかけた。 「昼飯、どうすんの?」 「それどころじゃないでしょう!?」  あまりにも警官が真面目に答えるので、からかってみたくなった。 「まるで、背中に『田舎の父母の期待を一身に背負ってます』って 書いてるようなもんだなあ」 「もう、吉野さん、そんなことはどうだっていいでしょう!?」  部屋の周囲を、一所懸命に指差す。  綺麗なもんだと言いたかったが、そんなことを口にすると、今度 こそ拳銃の乱射でハチの巣にされてしまいそうなので、昼食までは 穏やかに過ごそうと心にかたくかたく決めた。 「不良中年つかまえて、むきになんかなるなよぉ…」  にやりとわらう刑事。  物語だと、頭を掻きながら「ガイシャの身辺は…」などと言い出 すのだろうが、この吉野という刑事はかなり雰囲気が違っていた。 「だあから、自殺だって、自殺。遺書書く暇も惜しかったんだよ、 きっとさぁ」  職場や学校のクラスにも、一人や二人はこのタイプはいるものだ。  お世辞にも「敏腕」などと誉めることはできそうにない。  よくある「キレモノが装うぶっきらぼう」というわけでもない。  仕事が嫌いなタイプなのだ。 「はい、はい、午前の部は終わり。昼飯はシャケ弁でいいか」  時計を見て嬉しそうにつぶやく吉野。 「昼飯喰ったら、さっさと調書書いとけよ? 朝早く、自宅の自室 で首つって死にました、動機は女の子にふられたためです、ってな?」  勇んで部屋を出ようとする彼の前に、ドアを開けた仕草のまま、 立ち止まる男がいた。 「何、おたく?」 「九条というものだが…」  30代後半の吉野から見ても、かなり年配である。  ごま塩の様になった髭や、挨拶こそ最初のため丁寧だがぶっきら ぼうであろうことがはっきりと見て取れるその風貌が、どこか職人 気質を匂わせる。 「へえ、九条さんねえ… 俺は吉野ってんだ。自己紹介は面倒臭い からやめてだ… 飯でもどう?」 「さっき済ませたがね…」 「もっかいくらいいいっしょ? 俺がおごるからさあ」 「…面白いかもな、お前さん」 「あ、そう? 気に入ってもらえた?」  不思議と気の合う二人である。 「あの、もしかしてそちらさん、科学技術庁の…」 「うっせえなあ! お前はその辺のものをも少し調べるふりして、 さっさと調書でっちあげればいいんだよ!」 「しかし、嘘ばっかりじゃないですか! ここはソフトウェアメー カーのマシン室だし、遺書がないから動機も不明でしょう!?」  一方、こちらの警官とは本質的に合わないらしい。 「はいはい、それだけわかってんなら、勝手にしろっての」  邪魔臭そうに手で「あっちいけ」をすると、さっさと部屋を出た。 「ううっ、ああ… ああいうとこは寒くていけねえや」 「わしを呼んだのは、ああいうとこだからじゃろう?」 「まあね。ちょっとくらい手伝ってもらえたらなあってね」 「『Hang Up』、じゃな…?」 「ま、そういうことっすかねえ」 「お前さん、コンピューターの方は…?」 「からっきし駄目でね… それがどう間違ったのか、『じょうほう しょりそうさぶ』ってなもんだ。まいっちゃうなあ、ぼくちゃん」 「なるほど、納得したわい」 「はあ? どういうこったよ、じいさん?」 「わしを呼んだ理由じゃよ。普通、次世代情報網整備課の方じゃろ? それが、こんなさびれた監視課に協力依頼じゃからのう?」 「お門違いってんなら、お互い様だわな。ま、適当にやりましょう や、てきとーに」 「しかし、なんじゃな。コンピューターならいくら首つっても構わ んが、人が首つるとリセットは効かんからのお」 「そうそう。だけどやっこさん、結構うまく逝っちまいましたよ。 何にも汚さず、機械も全く傷つけず。血塗れの現場ってのは、やっ ぱあんまり面白かあないからねえ」  こういう内容の話をしながら、にしんそばをうまそうに食べられ るのは、さすがはその道のプロ達である。  昼食を終えた二人。  現場へ帰る道中、タバコの自動販売機の前に立った九条は、相手 の顔を見ずに話し始めた。 「で、お前さんの目から見て、どうだったんじゃ?」 「ありゃあ、少々甘いな」  顎に手をやり、大きく首を縦に振る吉野。 「何が甘いんじゃ? わしにはその手のことはようわからんが…」 「そうかい? ダシがあわねえんだよなあ、俺の感覚とは」 「はぁ? お前さん、何言っとるんじゃ?」 「何って、にしんそばのことだろ? ありゃ、違うの?」  九条のしかめっ面を確認すると、慌ててその場を取り繕う。 「いや、ジョークジョーク! ま、プロの目からは、どう見てもた だの自殺というやつで」 「そんなもんかのお…」  プロと言われてしまい、それ以上の言葉が思い付かない九条は、 買ったばかりのタバコの箱を開けると、一本くわえたが火はつけな かった。 「吉野さん、シャケ弁当じゃなかったんですか…?」  先程の警官も、しかめっ面をぐうたら刑事に叩きつける。 「いちいちうるせえな。お客さんが来てんのにシャケ弁ってなわけ にゃあいかねえだろ?」  くだらないことに懸命な言い訳を講じる吉野だった。  その傍らで、ある端末に張り付いていたTシャツ、ジーンズ姿の 青年が初老の男に声をかけた。 「九条さん、先に始めてましたよ?」 「おう、相変わらずやることが早えな」  いかにもツーカーの仲という感じのするこの二人。知らない方に、 先程と同じように吉野が問いかける。 「誰、おたく?」 「はじめまして、大宮です。九条さんのパシリですね」  礼儀正しいのかくだけているのかが、はっきりと区別が出来ない 今風の話ぶりに、吉野も軽いジャブで応戦する。 「あっそ。で、何やってんの?」 「ガイシャ、あの世に逝っちゃう前に、何処かの誰かとチャットし ていたらしいので、それをちょっと調べてるんです」  吉野は、こりゃいいパシリだと言いながら、青年の頭を撫でる。 「おうおう、ガイシャと来たもんだ… ベンツか? ジャグワーか?」 「もう、からかわないでくださいよ。ま、気休めみたいなもんなん ですけどね。こういう状況証拠は役に立たないケースも多いでしょ?」 「お、刑事みたいな事言うじゃねえか。で、ログの結果は?」  ここで、大宮という青年がさぞ自慢げに「状況証拠」を語ってく れるだろうという期待を込めた吉野の考えは、脆くも崩れ去った。 「一行だけ残ってました。『エレナ、ありがとう』これで全部です」 「あ、そんなもんなの?」  まさに拍子抜け、といった言葉を、吉野は説明してもらった青年 にかけた。 「そんなもんなんです」  きっぱりと、まるで何かを断るように言い切る大宮。  その言葉の潔さに、吉野はますますいいパシリだと感じた。  さらに爽やかさすら感じた怠慢刑事は、口を軽やかに滑らせる。 「な? やっぱ女じゃねえかよお。わざわざじいさんに出てきても らう程のもんじゃなかったじゃねえか? それにしても外人ちゃん の名前か? パツ金だったりしてよお… まてよ、男ってこともあ るか… あっちの人の源氏名だったりして」 「そう決めつけるのも、早いかもしれねえがな」  九条が、わざわざもったいつけるように口を挟む。 「何だそりゃ? じいさん、思い当たる節でもあんの?」 「まあ、当ては、あるな。じゃが、今すぐどうこう出来るもんでも ないんでな。おい、帰るぞ」 「はい」  科学技術庁・高度情報網監視課の二人は、さっさとその場を後に した。  その素早い態度に、吉野は悪態をついたものである。 「ったく… 何だ、あの二人? デートなんじゃねえのか?」 「九条さん。ちょっと気になる事が…」  軽快に黒煙をまき散らしながら、国道を駆け抜ける一般大衆車。  カローラでもディーゼル車はある。  その運転席で大宮は、尊敬する「生きた化石」に声をかける。 「さっきの『エレナ』の事なんですけど…」 「確かにあのチャットの内容はエレナ、なんじゃな?」 「はい」  九条は、ほとんど弟子扱いの青年の台詞に、首を傾げる。  口がへの字に曲がっていることを見ても、色々思案に暮れている 様子である。 「エレナって、あのエレナのことなんでしょうか?」 「わしゃ、他には知らんな…」  掻きむしる九条の白髪頭からは、ぼろぼろとふけが落ちる。 「九条さん、頭皮は相変わらず健康ですね?」 「余計なこと言うとらんと、前向いて運転せんかい?」  とは言うものの、何の心配もしていない様子。大宮の運転を信頼 しきっているのだ。  実際、彼のギア操作は、九条の気付かない間に行われている事が 多い。  丁寧な運転が、ただでさえディーゼルエンジンであるこの車の燃 費を、さらに良いものにしている。 「エレナ、か…」  もう一度その名を呼び返した時、九条はギアがトップに変わった 事に、やはり気付かなかったようだ。 「だぁから、この前の女は俺の方からフったんだって! わかんね え奴だなあ!」  狭い部屋に大声が響く。  石橋の声は必要以上の音量を持っており、しかも話の内容は必要 以下の事が多い。 「ほんとっすかねえ? 石橋さんにそんな甲斐性あるんすか?」 「川崎! お前なあ! 俺の言うことが信じられねえってのか!?」  二人のやりとりは、悠樹を不思議な気分にさせていた。  一言で言えば「くだけた職場」。  プログラマー稼業は歴史が浅い。  その浅い歴史をつくり出したのが飽食時代の若者だったためか、 それとも過酷な労働条件がスタイルそのものを変えたためか、今で もプログラマーは良く言えば気楽、悪く言えば怠惰な面を持つ人間 が多い。  悠樹が務めていた元の職場の仲間もそんな連中ばかりだったが、 この「Digital Club」はその比ではなかった。  仕事をしたいときに仕事をする。  休みたい時に休む。  食べたい時に食べる。  遊びたい時に遊ぶ。  眠い時に眠る。  理解の無いものからすれば、ここは「猿山」にしか見えないので ある。  同業者の悠樹でさえも、首を傾げる程なのだから。 「俺、二週間程来ましたけど、まだ良くわからないんですよね…」  雰囲気自体にはすっかり馴れた悠樹だったが、わからないことだ らけだった。 「給料とかはどうなってるんですか?」 「お前、まだそんなことも聞いてないのか? そりゃあ、本田さん ちょっと忙しそうだけどよお」  ぶっきらぼうに石橋が答える。 「金は好きなだけ使えばいいさ。ほら、そこにお金になる機械があ るだろ? ああ、そのおかけになってる機械じゃなくてよお…」  誰もそんなことを聞いてはいないのだが、今日も石橋の笑えない 駄洒落が冴えわたる。 「お金になる機械…?」  石橋が指を差した先にある、部屋の片隅にあるRJCOM端末を 見て、改めて悠樹は問い正した。 「並原さん。俺達は自分で必要な分だけお金をつくるんですよ?」 「自分で?」 「そうです。好きなだけ、自分で。ちょっとやってみましょうか?」  自慢げに、川崎はRJCOMのディスプレイに指を触れた。  RJCOM…この国で標準的に使用される情報端末の総称である。  「アールジェイコム」と読む。  電話と同じ感覚で家庭でも気軽に使用出来る、画期的な情報端末 である。  家電メーカー各社が挙って対応製品・付加価値製品を大量に生み 出し、低価格で販売したため、電話にとってかわる勢いで普及した。  標準構成としては、独立処理プロセッサに9インチディスプレイ、 キーボード、ハードディスク、ラインプリンター等の装置が加わり、 全てが同一筐体に収まる一体型が主であるが、それぞれが分離した 形態の製品もその筋の人間には人気が高い。  さらに、どちらの形態の製品にも、ある程度の拡張性が備わって おり、25インチカラーディスプレイ、ページプリンター、大容量 シリコンディスク等の拡張機器が大量に出回っている。  操作は、接続済み、あるいは接続可能なすべてのディスプレイに 備わっている「タッチパネル」が主である。  オブジェクトアイコンに直接指で触れる事により、思い通りの操 作ができるため、キーボードアレルギーの人間にもかなり細かい処 理を可能にしている。  もちろん、標準装備のキーボードを始め、マウス、ペンデバイス、 ジョイスティック等、考え付く限りのありとあらゆる入力装置が利 用可能であり、原稿の文字を読み取るOCRや原稿イメージそのも のを読み取るスキャナー、小型ビデオカメラ等を接続することもで きる。  周辺機器の物理的な接続方法は、すべて同じコネクターを利用す る。JIOと呼ばれるインターフェースが入出力装置の全てに二つ、 用意されており、デイジーチェーンと呼ばれる数珠繋ぎの方法で接 続していくことができる。この接続方法では、電源ケーブル以外の すべての周辺機器をどの位置に、どのように接続してもいいため、 コンピューターに興味を持たない人間も自由に拡張出来る。  これらの機器を統括し、多種多様のアプリケーションを実行させ る統合プラットフォームとなるウィンドウオペレーションシステム がRJCOSである。  「アールジェイコス」と読む。  RJCOSは接続されたすべての機器を自動的に認識し、システ ムの最適な状態を自動的に構成する。ユーザーは各機器の設定どこ ろか、拡張に関しては何一つ考える必要が無い。  操作に関しても、タッチパネルで認識した位置のオブジェクトに ついて、適切な処理が出来るようになっている。 「そうだ…」  悠樹は、川崎の操作により画面上に現れた、RJCOSの起動画 面を見ていて、一つ疑問に思っていた事を思い出した。 「川崎君。このT.H.I.N.って、何の事?」  いつかの本田との会話で、うやむやになっていた事である。 「T.H.I.N.が、うちのことだってことは聞いてます?」 「そのことは本田さんに聞いたけど、名前が全然違うし…」 「そうっすか… じゃあ、あんまり知らないんですね?」  この端末が初めて実用化されたのは、6年前である。  国をあげての「コミュニケーション=インフラ」が発案されたの が11年前であることから、5年がかりの国家事業だったと言える。 実際は、C−LINEと呼ばれる光ファイバー網を全国にくまなく 張り巡らせるために費やした時間はそう長くはない。  むしろ長い時間を要したのは、端末の方である。  3年間かけてもバグの取れないオープンシステム、継ぎ足しにつ ぐ継ぎ足しによる膨大なアプリケーション、そしてハードウェアに 負担をかけ過ぎるオペレーションシステム。  T−LINEと呼ばれ区別される一般電話光ファイバー回線網の 約35倍の情報転送量/速度を誇るC−LINEに、既存の端末が 耐えられる状態ではなかったのだ。  そこで科学技術庁は、情報処理産業の大手4社の共同事業体を、 唯一の研究開発機関として科学技術庁が定め、2年の研究期間を与 えて純国産のオペレーティングシステム「RJCOS」を、それに 見合うだけの性能を有する端末ハードウェア「RJCOM」と共に 開発させた。  シンプルかつ高性能なハードウェアと、それ専用に最適化された オペレーティングシステムの絶妙なバランスが、完全純国産の端末 を生み出し、オペレーティングシステム上で利用可能なプログラム テクニックを全て他企業・一般に公開した。  本件に関しては特許の申請もできないようにした。  これが功を奏したのか、それとも、C−LINE利用に関しては 可能な限りの低料金を設定したためか、純国産、低価格、高性能な 「RJCOM」端末が街中に溢れる事になる。  こうして、国家の一大事業「コミュニケーション=インフラ」は 成功裏に終わる。 「その時の共同事業体が、頭文字を取ってT.H.I.N.と呼ば れてます」  先程よりもさらに自慢げに、川崎が胸を張って受け答えをする。 「頭文字?」  不思議そうに問いかける悠樹。  彼には見当がつかなかったのだ。 「そうですよ? 帝都電気、HIS、今井通信技術、中川光通信の 頭文字、T.H.I.N…」  各社の正式名称は、(株)帝都電気工業、HIS(堀沢インター ナショナルソフトウェア)、今井通信技術(株)、中川光通信(株) となる。  これら4社が共同体を構成していたのだが、正確にはもう一つの 機関が加わっていた。  帝都大学情報科学部伝送情報工学科が、その機関である。  官・民・学、三者一体で築き上げた、この国の誇る超高速回線網 がC−LINEであり、誰もが電話やFAXの代わりに気軽に使う のがRJCOMである。 「なるほどね… そんなもんか」 「そうですよ? そのT.H.I.N.っていうのが、流れ流れて この<Digital Club>なんです」 「昔はそうだったってこと?」  くすくすっと、川崎は小さく笑った。 「今も、そうなんですよ? 何たって、俺が今井通信技術でしょ? 日野さんがHISだし…」 「俺は中川光通信だぜ? で、お前さんは何処の人?」  待ってましたとばかりに、石橋が口を挟んだ。  あっさりと突っ込まれ、頷きながら悠樹は答えた。 「帝都電気…」 「正式には子会社なんでしょうけど、お上は当然グループの一員と 見ますよね? そういうことです」  うんうんと、こちらも頷きながら川崎が付け加えた。  だが、これですっきりするかと思いきや、悠樹はもう一つ質問を してきた。 「じゃあ、本田さんは…?」 「あれ? それも聞いてなかったんですか? 本田さん、ばりばり の帝都電気の社員でしたよ?」 「あのティーコム作ったの、本田さんなんだぜ?」  またもいいタイミングで入り込んだ石橋の台詞に、悠樹は目を丸 くした。  3年前、当時の売れ筋通信ソフトウェア2位に食い込んだアプリ ケーションであり、その後「ティーシリーズ」化したパッケージの 基礎的な部分を築いたソフトウェアである。  そのシリーズのラインナップの一つである「ティーファイル」を、 他ならぬ悠樹が開発していたのだ。 「何だ、おい? そんな”ちじこむ”こたあねえだろ?」  誰も石橋の駄洒落に気付かなかったが、そんなことはお構い無し。 「おっ? そろそろ、おフランスからいいもんが届いちゃうぜ?」  また海外のネットワークから、無修正ヌード写真でも取り込んで いるのだろう。周囲の人間の方も、お構い無しといったところか。  日野が現れたのは、陽が沈んだ後だった。 「やあ、元帝都電気の並原君」  そう言われては、悠樹も素直に挨拶出来ない。 「そちらこそ、元HISの日野さんじゃないですか」  だがこういうやりとりは、どうも悠樹にとっては歩が悪い。 「いやいや、HISなんてちんけな成り上がりの三流会社ですよ」  確かに、資本金やグループの事業分野の多さからいっても、帝都 電気の方が遥かに上なのだ。 「…もう、こんなこと言うのやめませんか?」 「さあ、別にやめなきゃいけない様なことを言ったつもりはないけ どね…?」 「あ、日野さん! 昨日のモジュール作ってみたんですけど?」  川崎が、絶妙なタイミングで二人の間に割り込んだ。 「あのねえ、今大事な話を…」 「さあさあ、こっちこっち!」  無理矢理自分の端末へと日野を導く。  お世辞にも広いとは言えないこの作業場。  十数畳程度の部屋には、その中心に事務机を二つ向かい合わせて 置いてある。資料や荷物は皆この机に山積みだった。  この合わせ机のせいで周囲の壁と机との間をぐるりと巡らす隙間 はとても狭い。  さらに入り口のドアでも、その向かい側のそう大きくない窓でも、 以前悠樹が本田と入った奥の部屋へのドアでもないただの壁には、 パソコンラックと、当然その主であるコンピューターが、指を入れ る隙間もないほど並んでいる。  一番窓側にはRJCOM端末が一台。その隣が日野の作業用コン ピューター、さらに川崎のコンピューターと続き、悠樹のコンピュー ターは一番入り口に近い場所に置いてある。  悠樹と川崎のコンピューターの間には、古いコンピューターが、 ねじ込むようにして一台置いてある。  ちなみに、本田専用のコンピューターは奥の部屋にある。さらに、 石橋のコンピューターはラップトップタイプである。  適当な場所を見つけて作業するのが石橋の仕事のやり方だった。 それに、もっぱら彼の端末はRJCOMであると言っても過言では ない。 「ん? 今日、本田さんは?」 「何だか忙しいらしいっすよ?」 「ふうん、そうか。ま、いいけどさ」  いかにも何か用事があったと思わせる不粋な素振りで、日野は大 きなため息をついた。  日野は一通り川崎と議論した後部屋を出ていき、石橋は眠りにつ いていた。  あと少しで午後9時になる。 「さあて、並原さん、お待たせしました。あなたのお給料を作って みせましょう!」  川崎は、あらためてRJCOMの前に座り込んで、悠樹を手招き する。  日野との会話が終わり、中断していた悠樹とのやりとりをようや く再開することになった。 「いいですか? えーっと…」  RJCOM端末のディスプレイに浮かぶ幾つかのウィンドウの内、 「TRADING INFO.」と書かれたものに指を触れる。  さらにもう二つウィンドウが開き、その内の一つに川崎の指が伸 びる。  すると、RJCOMの動作がぴたりと止まる。  誰かが画面上に表示させていたアナログ時計アプリケーションの 絵が止まっている。本来なら秒針くらいは動いていてもよさそうな ものだが、見事に9時2分30数秒あたりで、針のグラフィックが 止まっている。  悠樹にとって、こんな現象は初めてだった。 「これ、バグ?」  深刻な表情で問いかけたのがおかしかったらしく、川崎は笑って 答えた。 「違いますよ。RJCOSがマネージャーモードに入ったんです。 並原さん、そっちのマシン、起動お願いします」  指を差した先には、悠樹の端末と川崎のものの間に挟まれて置い てある、数年前の型のコンピューターだった。  誰も使わないものを何故置いてあるのか… そう思っていた悠樹 は、これを起動させるなどということは考えてもみなかった。  こんな古い機械は初めてだったらしく、悠樹は恐る恐る本体下部 の電源スイッチに指を触れた。旧式らしくスイッチはプラスチック のボタンであり、少々触れた程度では電源は入らない。  思い切って、軽く指先を押した。  ピッ! ピーッ!  悠樹はビクリッと背筋を振るわせた。 「こ、故障か?」 「やだなあ、並原さん。それ、起動時のシステムビープ音ですよ?」  昔のコンピューターでは、今主流のサンプリング音源どころか、 何一つ音源を持っていないことも珍しくない。  唯一、内蔵の貧弱なスピーカーから無愛想に出すことができるの が、この情けない音だった。 「もうすぐマネージャーが立ち上がるんですよ?」  これから彼の手となり足となる「RJCOSマネージャー」との 出会いは、こうしてビープ音をその儀式の始まりの合図とした。  古くさいディスプレイには、美的感覚のかけらもない英数字が、 のんびりと表示されていく。  「Welcome! I’m RJCOS Manager!」  半ばいんちきめいた文字列の何が楽しいのかは、少しも理解出来 ない悠樹だった。  だが、その独特の雰囲気の中に潜む何かを、素朴な起動画面から 彼は読み取っていた。  思わず口にしてしまう。 「なんか、面白そうだ…」 「何がです? もしかして、そのマネージャーのことですか?」 「ああ」 「並原さんってもしかして、日野さんと似たところがあるんじゃな いですか?」  奇妙な動物でも見るような目で、川崎がつぶやく。  その言葉には耳を貸さず、悠樹はマネージャーと呼ばれる端末の ディスプレイをくい入る様に見つめていた。  「Management System Ver2.01」  「Hook Tool Ver1.00a」  「HostCheck ...OK」  「C−Line Connected」  システムが立ち上がる様が、次々と英単語の羅列で表される。  一通り起動し終わると、文字入力用のコンソール画面になった。 「それ、触らなくていいんです。こっちこっち」  呼ばれて悠樹は仕方無くRJCOMの方を見る。  RJCOM端末のウィンドウも、先程とは違う状態になっていた。  「Management System Linked」  このメッセージを指でなぞって、わざとらしく首を縦に振って確 認した後、川崎は新たに現れたウィンドウに指をふれる。  そこに現れた単語のどれもが大手企業の名前であることは、悠樹 もすぐに察しがついた。 「メディアメーカーを、ちょっと覗いてみましょうか?」  大手ソフトウェア会社の名前の書かれたところを示す。 「どういうこと? 何がメディアメーカーなんだ?」 「言ったでしょう? 並原さんのお給料を… あ、これがいいな?」  メディアメーカーというタイトルのついたウィンドウの中には、 いくつかの文書を示すアイコンがあった。  メールという電子書簡システムによって、社内向けに送付された 情報である。 「やっぱり、じゃあ、先にこれを買って、と…」  また別のウィンドウを開き、アイコンを指で操作する。 「次に、これをばらまく…」  目の前でいとも簡単に行われた行為に、今までのワクワクした気 分が何処かへ一気に吹き飛ばされてしまう。  極秘情報を入手して株を操作する… 感のいい悠樹は、その正体 を口にするのをためらいながらも、黙ってはいられなかった。 「まさか、これって…」  そのまさかである。  社内関係者ではないが、いわゆる「インサイダー取引」というこ とになる。  これは明らかに犯罪であり、悠樹はそのことに当然気付いた。  ところが、この悠樹の顔色を見ても、川崎は慌てふためくことな く、落ち着き払っている。 「株なんて、数十分もすれば簡単に跳ね上がりますからね」  にこにこと、屈託の無い笑顔まで見せる。 「だけど、これは…」 「そのうち馴れますよ? そのマネージャー使ってる限りは、ばれ ることもないですしね」  悠樹には馴れるということの意味が何となく理解出来た。  それは同時に、自分という人間に対して、ある問いかけをする事 となる。 「人って、こんなに簡単に何でも馴れるものなのか…?」  違うと信じたいが、実際は自分も時間の問題であると、彼は嘆く。  そう。  彼もたった2週間前までは、ここの人間ではなかったのだ。  それが、もうこの有様だ。  多少性格が合わなかったり、生理的に避けてしまう人物もいるの はいるのだが、それはそれ。気に入る人間と気に入らないはどこの 職場にもいるし、自らそのような人間関係をつくってしまうものだ。  だから川崎の言葉からも、真実の部分を汲み取って認めてはいた。 「馴れますよ、うん、きっとすぐに。今の方法ちゃんと教えましょ うか?」  これ以上このことについて話したくなかったらしく、悠樹はわざ と話題を逸らす。 「それより、RJCOSマネージャー、ちょっと操作してもいいか な?」  正直なところ、先程から彼の興味はもっぱらこちらの方にある。 「ああ、それっすか? それ、本田さんか日野さんくらいしか扱え ないですよ。後でどっちかが戻ってきたら、聞いてみればいいんじゃ ないですか?」  せっかく得意げになっていた川崎は、少々すねていた。 「勝手に操作するよ。えーっと、マニュアルはないかなあ?」  再び、悠樹の胸が高鳴る。  彼は電源をオンにした時から、この古びた端末のここでの存在理 由の見当がついていた。  この理由と、貧弱な機械の内に秘められた力が、悠樹の好奇心を これ以上はないくらいに高める。 「これのマニュアルは無いかなあ?」 「だから、俺そいつのことは全然わかんないんすよ? 多分、そっ ちの棚の中だと思いますけど…」 「ああ、悪い悪い。ここか」  それから後は、もう川崎に聞くことはしなかった。  マニュアルとのにらめっこがしばらく続いた。 「あれ? もうこんな時間?」  時計を見て驚く悠樹。  隣を見ると、川崎はゲームに夢中だった。  いつの間にか、眠っていたはずの石橋はいなくなっていた。 「終電に間に合わなくなっちまうなあ。じゃあ、川崎君、これ借り てくけど、いい?」 「いいっすよ?」  悠樹の方を見ずに、川崎はさも適当に答える。  彼にとっては、どうでもいいことなのだろう。  カバンにマニュアルを入れ込むと、さっさと部屋を出た。  アパートの自室に戻ると、とりあえずRJCOM端末のスイッチ を入れる。  現代人の日課のようなものだ。  次に台所に立つ。  インスタントコーヒーをいれるため、ポットの湯を涌かし始める。  部屋に戻った。といっても、三歩歩けば自然に外の廊下か部屋に 入るしかないのだが。  RJCOMの画面に、メールが3通来ている事を示すメッセージ ボックスが表示されている。  コンピューター間で文書を手紙のようにやりとりする電子メール が、どれほどの文字量でも1通10円というシステムが郵政省によっ て設定できたのも、C−LINEやRJCOM等の情報インフラの 成果である。  メールボックスというウィンドウに指をふれ、未読を示すマーク がついているアイコンの内、表示されている日時が一番古いものに 指をふれた。 「たまには帰ってきなさい」  この出だしから始まり、何やら文句がたくさん並んでいる。  田舎の母のメールだった。  機械オンチでも扱えるほど、RJCOM・メールシステムの扱い は簡単なのである。  いくら遠距離通話料が安くなったとはいえ、全国1通10円には かなわない。 「それならたまには電話してくりゃいいじゃないか…」  その言い訳も通るのだが、会社をクビになった挙げ句、あやしい 集団に紛れ、給料は犯罪行為でしか手に入れられない今の自分が、 実家に帰って両親に話せることなど何もないのだ。 「よお、悠樹、元気か? この前買ったCDって、いくらだっけ?」  2通目はこれだけしか書いていない。  親友とも、ここ数週間はメールでしか会話していない。 「何だ、こりゃ?」  驚いたのは、3通目のメールである。 「並原悠樹さん、初めまして」  こう始まるメールの中身に、彼は度肝を抜かれた。 「私、エレナと申します。  突然のメールに驚いていらっしゃると思います。  私はある方に、<Digital Club>のメンバーである あなたを紹介されました。  あなたに興味を持ち、メールを差し上げることにいたしました。  私ごときで恐縮ではありますが、いつかあなたのお役に立てれば と思います。  近いうちに、またお会いできることを楽しみにしています」  頭をぼりぼりと掻きむしりながら彼は、 「エレナって、女性の名前っぽいよなあ?」 と、まずこう思う。  とりあえず、彼の知人ではない。 「またいたずらメールか」  実際この手のいたずらは後を絶たない。  偽名を、特に女性の名を使う場合も少なくない。 「いや、待てよ? 誰か知り合いの悪ふざけか?」  これも、よくある話だ。  だが、一つ引っかかることがある。 「だけど、これは知らないはずだよなあ…」  <Digital Club>と書かれた文字を指でなぞりなが ら、そんなことをつぶやく。 「誰だろう? 俺を紹介した人ってのは…」  ここで、ポットの電子音が鳴る。  メール読みを中断し、また数歩歩いて台所へ向かう。  コーヒーをつくるのは簡単だ。  スティックタイプの袋の上部を切り、コーヒーカップへすべて入 れる。  お湯をかければ、ブラックコーヒーの出来上がり。  彼はここで、コーヒー用のミルクと、これまたスティックタイプ の袋に入った砂糖をたっぷりと入れる。  お気に入り「砂糖・ミルク増量タイプコーヒー」の出来上がりで ある。あくまで、アパートの自室でしか作らない、甘味たっぷりの コーヒーだった。  確かに「エレナ」という人物に関して、気にはしていた。  だが、不明点を残してはいるものの、どうせいたずらだろうと無 理矢理決め込み、彼は本来の興味対象へと視線を移す。  「RJCOSマネージャー オペレーションマニュアル」  総頁数は670頁にも及ぶ。  彼は、インスタントコーヒーの香りにまみれながら、一頁一頁を 丹念に読み続けていった。 「大体、何でいつもわしらが呼ばれるんじゃ?」  九条は超大作映画を見た時のような顔をしていた。  騙されているのか、騙されてやっているのか…  一種気まずい雰囲気すら醸し出す現場である。  またも、とある会社のマシン室。  だが、前回とは少々違うようだ。  目の前に縄はぶら下がってはいない。  その代わりに目の前にいるのは、やはり吉野である。 「よお、じいさん。奇遇だなあ!」 「呼ぶのはお前さんらじゃないのか!?」 「だってさ、警察屋にもじょーほーしょり関係ってのがあるけど、 俺ら半端もんしかおらんのよ、そーゆーとこには」  気さくな笑い声とともに、吉野はちらりと左後方を見やる。 「まあな」  不粋な態度を取る男。  吉野の同僚で、名を田原本と言う。 「ま、そういうことっすかね」  そのさらに後ろで、何やらごそごそと調べものをしているのは、 彼らの良き使いっ走り、頼りなさそうな顔がウリの、桜井である。 「で、今度は何じゃ?」 「これだってさ、こぉれ」  今回は、RJCOM端末を指差す九条。 「じぇいこむちゃんが悪さしたんだと」  もうどうでもいいと言う素振りを見せる。  端末から数歩歩き、吉野は大きな窓から外を眺める。  勤勉と金権が作り上げた摩天楼は、ディジタル世代には美しく見 えるらしい。 「大体、郵政省がもっとしっかりしてりゃあ、省庁隔てたわしらん とこに、こんな厄介事が転がりこんでくるはずぁなかったんだが」  吉野の側に立ち、遠い目をしながら少々愚痴る九条。  初老の男がこの場で振り返る過去の事実からしてみれば、もっと ものことである。  本来、情報インフラは郵政省および半公営の電信電話会社が行う べきであるが、すべての電話の完全ディジタル化、全国同一料金、 RJCOM程ではないが高度付加価値電話の充実等、電話事業だけ でも実施すべき項目が多すぎて、すべてを整備し切ることは出来な かった。  C−LINEと呼ばれる高度情報端末用回線は、この経緯により、 科学技術庁が国の代表、事業の中心的存在になり敷設されていった。  そして、その尻拭いも当然科学技術庁が任される。  C−LINEの保守、情報の管理、そしてこの様な事件捜査の協 力まで行うこととなる。  いい迷惑だと、科学技術庁の職員でも下っ端なら誰もが思う。  さて、本題の事件の方だが、結局RJCOMの不正操作から、通 常ならアクセス不可能な国税庁関連のホストへアクセスしたという ものだ。  今の世の中、よくあることである。殺人事件よりはずっと一般的 なものだ。  ただ、吉野のちょっとした勘が、彼ら科学技術庁の連中を引き寄 せたのである。 「血生臭いのは嫌いな性分でね。こーゆー事件の方が肌にあってる わ、やっぱ」  本心はそちらにあり、さらに彼としてはついでに専門家に任せて 放り出したい気持ちなのだが。  その気持ちが通じてか否か、早速大宮が調査を開始していた。 「どうじゃ? 何かわかったか?」 「もうちょっと待ってください。いくら何でも調べ初めて10分で わかることと言ったら…」 「言ったら…?」  少々興味深げに、田原本が問い返すと、 「言ったら… ん? 言ったそばからちょっと面白い出来事が」  猛スピードでキーボードを叩く大宮。  リズミカルなキーの音に、頭を抱える人物が二人。 「一体何が面白いんだろうな、これ」  田原本が”これ”と指差す目的物はRJCOM端末なのか、それ とも、大宮の方なのか。 「俺に聞いてもらっちゃ困るなあ、タワさん」  その吉野の言葉に、ぴたりとキーを叩く音が止まる。 「タワさん?」  やがて大宮は、腹を抱えて笑いだした。 「言うなよ、外で」  タワさんこと田原本は、たいそう御立腹の様子。 「わりいわりい! まあそう怒りなさんなって」 「そうっすよ、タワさん!」 「桜井! お前まで…」  ここぞとばかりにという気持ちで、桜井は言ったのであろう。  普段は足げにされる下っ端だが、その実桜井の方が一枚上手なの かもしれない。 「あ、出ましたね」  何をしでかしたのか、キーボードから手を離していたのは、この 画面表示を待つためだった。 「Eleanor、ですか」 「何だ? エレ、ア、ノ、ア?」  吉野の素っ頓狂な読み上げ声が、大きなマシン室に響く。 「違いますよ、吉野さん」  桜井が得意げに口を挟む。 「エレノア、エレアノール、もしくは…」 「もしくは!?」  吉野は、使いっぱしりにいいようにあしらわれたためか、むきに なって聞き返す。 「もったいぶるなよ。エレナ、だろ?」  田原本のつぶやきに、桜井も首の振りを合わせる。 「割と日本人的な発音ですけどね」 「ああ、そうかいそうかい!」  相当悔しいのだろう。  桜井の首ねっこを力一杯締め付ける。  ハングアップ寸前のところで、下っ端はかろうじて逃げる。 「はあ、はあ。ま、普通、女性の名前ですね、これは」 「何を息切らしとるんじゃ? まったく、最近の若いもんは…」 「そんなことより、九条さん?」 「ん?」  こちらは下っ端に呼ばれ、首を突っ込む。 「なんかわかったか?」 「結局ですねえ… 当然この端末を使った人間が例のホストへアク セスしたわけなんですが、意識的にじゃなくて、お呼ばれにあずかっ たというか…」 「なんか煮え切らねえ言い方だなあ。はっきり言えっちまえば?  お前さんはどう思ってんの?」  こういういらいらした台詞には、虫酸が走るらしい。  辺りに無造作においてある端末をバンバンと叩きながら、だだっ 子のようにぼやく吉野だった。 「パスワードを教えてもらってるんですよ。そういうログが残って るんです」 「鍵までもらって女の部屋にお呼ばれ、か? ったく、いい御身分 だこと。それにしても、とれねえな、これ」  しまいには鼻をほじり出す吉野。もう関わりたくないという意志 表示だ。 「じゃあ、エレナって人が教えたってことですか?」 「まあ、そういうことですね」 「でも、国税庁関連だったんでしょう? そのホスト」 「そうですよ。だけど、エレナという人物が国税庁関連だという事 は、一概には言えないんですけどね?」 「確かにそうですね。でも、国税庁なんて、何の意味があるんでしょ うかねえ?」 「さあ。残念ながら、意図がさっぱり掴めませんね」  どうやら下っ端同士、かなり意気投合といったところである。 「ついていけんな、こいつらにゃあよお!」  吉野はこの会話に胡散臭さすらおぼえた。 「で、結局何なんだ? そのエレナってのは… パツキンの姉ちゃ んじゃねえのか?」 「相変わらず下品なものの聞き方だな…」  こういうときにも、田原本という男は冷静である。  いや、無関心ゆえのことなのかもしれない。 「で、どうだ? 何かわかるのか?」 「推測でしか、ものが言えませんね」  生真面目なのかふざけているのか、大宮の話し方はいつもこうで ある。 「推測でもいいから、聞かせて差し上げろ」  九条の命令により大宮が説明を始める。 「前回の首つりの時のチャット相手も”エレナ”、今回のホスト侵 入時の相手も”エレナ”。こりゃあ、エレナの仕業に間違いありま せんね」 「お前さんねえ… そんなこたあ小学生のガキにでもわかるこった ぜ?」  その通りである。だが、ここでは説明は終わらない。 「あのですね… エレナという人物、私達には心当たりがあるんで すよ。ね、九条さん?」  初老の男は、わざわざ白髪を見せるように、大きく頭を縦に振る。 「で、ですね… その私達の知る”エレナ”なら、この一連の事件 の不可解さも何となくわかるんですよ」 「なあんだ。わかってんじゃねえか? それなら話が早い。てっと り早くしょっぴいちまおうぜ?」  吉野が目を輝かせ始めた。  自分が言い放った”しょっぴく”という台詞に、妙に興奮してい るようだ。 「ところが、そうはいかないんです」  そんな吉野の出鼻をくじく様に、冷たく告げる大宮。 「ネットワークの網にかからないんですか? うまくかいくぐれる 人物なんですか?」  という桜井の質問には、自信を持って答える。 「いや、そういう問題じゃないんですよ。しょっぴくと言っても、 彼女には実体がないんです…」 「実体が、ない?」  吉野はいい加減にしてくれと、肩をすぼめた。 「幽霊みたいなもんか?」  真面目な顔でそうつぶやく田原本を見て、大宮は吹き出しそうに なった。 「違いますよ。ただ、彼女は…」  真夏の昼下がり、汚くて暑くてお世辞にもいい匂いがしない部屋。  アイスクリームを食べながら「TeitoWalker」を読む 川崎。どこかいい遊び場でも探しているのだろう。  そしてもう一人。  悠樹は、やはり「Digital Club」にいた。  何だかんだいっても、他に行くところもない。  インサイダー取引についても、もう見て見ぬふりである。  馴れたという気分とは、少し違う。  要するに、そんな些細な事はどうでもいいのだ。  すべてを投げ出して、今悠樹が熱中するもの…  RJCOSマネージャー。  この機械のおかげで、悠樹の毎日は宝島へ冒険に行くようなもの である。  マニュアルも二晩で読み尽くし、実際の操作に入っていた。 「ほんと、楽しそうっすね、並原さん…」  川崎が半ば呆れた顔で横から顔を出す。 「そうかなあ?」 「一体そいつのどこが面白いんです?」  理解不能の態度を示しつつ、時代遅れの端末を指差す。 「これをつまらないなんて言う技術屋はいないだろう? こいつは 本当にすごいなあ」  つまらないという技術屋もいそうだが、そんなことはお構い無し。  悠樹は、この扱いにくいじゃじゃ馬を自分のものにしようと決め ていた。 「意外とオタクなんですね?」  もうついていけなくなって、思わず川崎はそうつぶやいた。  こう言われて、人の反応は3種類である。  「そんなことない!」と、つっぱねるタイプ。どうしても特殊な 人間として扱われたくないらしい。  「実は結構詳しくてさ」と、喜ぶタイプ。こちらは特殊な人間と もてはやす程調子に乗る。  そして… 「そうかな? ま、どうでもいいけどさ」 と、軽くあしらうタイプ。淡白な悠樹はこれにあたる。  つっぱねてほしくて放った軽いジャブが不発に終わり、どうしよ うもなくなって、また「TeitoWalker」を読み始めた時、 川崎は懐かしい顔に出会った。 「あ、本田さん! お久しぶり!」 「あのねえ、君。たかが3日ぶりでそういう言い方をするもんじゃ… ん? 並原君、マネージャーを…」  あちこち歩き回っていることが容易に見て取れる程顔が日焼けした 本田は、パンと一つ手を打った。 「そうか、並原君! 君もそいつの魅力に取り憑かれたか!」  その嬉しそうな顔つきは今の悠樹と大差ない。  満面の笑みを浮かべながら、人懐っこい目を悠樹に向ける。 「じゃあ、もう色々試してみただろう?」 「まあ、ちょっとは。とにかくすごいですね? 操作し辛いのが、 唯一の難点ですけどね?」 「そうかい? CUIもなかなかおつなもんだろう?」 「馴れれば、ですね」 「何てったって、この国に7台しかないからね、こいつは!」  自慢げに語り始める姿に、本田は自ら酔いしれているようだ。 「そいつはねえ、並原君。この国中のいかなる端末へも30秒以内 にリンク出来る能力がある。そう、30秒以内に!」  はったりではない。  理屈はこうだ。  RJCOSを搭載したRJCOM端末は、通常電源をOFFにし ている状態でも、微小な電力により10分置きに信号を出している。  その信号は全国津々浦々、各都道府県市町村の中継局にくまなく 設置されているRJCOSホストと呼ばれる大型コンピューターに 送られており、信号が届いてから10分間は常に端末として認識さ れている。  ホストは単なる中継用交換器とは、役割がまるで違う。  当然中継点になるのだが、情報そのものの管理・統括や情報の重 みの判断・ランク付けまで行う。  しかも、これらは一元管理ではなく、ホストのランクによりさら に上位のホストと情報のバックアップ・ランク管理までを、相互に 管理・補間しあうように出来ている。つまり、情報そのものが高度 にかつ有機的に結び付いているのだ。  そして、C−LINEで構成されるRJCOSネットワークを流 れ続ける情報は、厳格なランクによって管理されており、ランクの 低い情報よりはランクの高い情報の方が、より機密性が高く、秘密 文書等はこういう高ランク情報としてネットワークに存在する。  機密が高い分利用料金も高いが、Sクラスにもなるとほぼ完璧な シークレット状況となる。  ほぼ… ここがミソである。  当然、全国の隅々まで行き渡っているRJCOSネットワークを 管理しなければならない。  これを容易にするために、「Digital Club」の前身 である「T.H.I.N.」はRJCOSマネージャーを開発した。  768バイトの特殊なキーと呼ばれる情報を、4回連続でネット ワーク上に発信することにより、C−LINE上にフックがかかり、 あらゆるランクの情報がすべて指定のRJCOM端末で操作可能に なる仕組みである。  つまり、本田曰く「この国で7台」というこのRJCOSマネー ジャーがあれば、情報にかかるランク・シークレット機能などは、 まったくの無意味という状態になるのである。  RJCOSマネージャーはさらに、単なる端末やホストでは絶対 に不可能なアクセス方法がある。  各端末からの信号を逆利用し、遠くの端末を起動することが可能 なのである。  リモート起動、リモートアクセスと呼ばれ、他のコンピューター の設計思想等でもかなり注目されている技術である。  だが、RJCOSマネージャーについては、その程度の仕様では 終わらない。  他の端末やホストをRJCOSマネージャー上で複数起動し、そ れらの持つメモリや資源を相互に利用することが出来る。  さらに、各端末を完全に一本の線の上で結合し、あたかも一つの コンピューターとして扱うこともできる。この場合、他の端末であ るということを全く意識させない動作がかのうである。つまり、結 合できる数だけRJCOSマネージャーとそれによって指定された 端末は拡張可能ということになる。  その拡張性は、ほぼ無限と言っても過言ではない。  一言で言えば、完全分散処理型マルチプロセッサーコンピューター や、相互関連完全一体型コンピューターが、C−LINE上にいと もたやすく、しかも瞬時に構築出来てしまうのだ。  ホスト間はC−LINEとは別の専用超高速回線で繋がっており、 その間の情報のやりとりはミリ秒単位で行える。各端末間も反応速 度はホスト間の5分の1程度であり、人間が通常利用する分には、 何の不都合もない。  この他の性能を無視した挙げ句築き上げられた高速性が、線上の 複数のコンピューターの結合、一般にライナーリンクと呼ばれる方 法による結合を可能にする。  これが、「30秒以内にいかなる端末へもリンク出来る」理由で ある。  そこからデータにアクセスすることなど、たやすいことである。 「そのことはさておき、手っとり早くさばかなきゃいけない仕事が 結構あってね。並原君。何か仕事がしたいかい?」  突然仕事の話などをふられて、どう答えていいのかわからなかっ ただけなのだが、本田にとっては悠樹のうろたえた態度は、素直に 仕事を嫌がったとみる。 「その目を見りゃわかるよ。とりあえず俺一人でさばくか。せいぜ いマネージャーのお守をよろしく。わからないことがあったら、俺 か日野に聞いてくれれば、ちゃんと答えるからさ」  何をしてもいいという社風なのだ。当然仕事を強制するつもりは、 本田にはなかった。  RJC0Sマネージャーにかかりっきりの悠樹。  奥の部屋で仕事にかかりっきりの本田。  そして、雑誌「TeitoWalker」にかかりっきりの川崎。  ちぐはぐな光景だが、これが「Digital Club」の流 儀である。  おやつ時、ふらりと石橋が現れる。 「よお! おひさ。ん? 何だよ、並原。お前もそんなもんが好き になっちまったのか?」  コンビニエンスストアのマークのついた買い物袋から、おもむろ にものを取り出す。  その中の一つ、カップに入ったアイスクリームを頬張り始める。 「お前も喰うかい? おっと、弘法も筆のあやまり。わりいわりい」  格調が高いのか低いのか、判断に困る駄洒落をかっ飛ばした後、 奥の部屋へアイスクリーム毎入っていく。  何しろ胡散臭さではこの「Digital Club」でもダン トツの石橋。とてもプログラマーには見えない。  その点は悠樹も感じていたらしく、二人きりなったのをこれ幸い と、川崎に疑問を投げかける。 「ちょっと、聞いてもいいかい?」 「何すか、並原さん?」 「あの石橋さんって、何屋さん?」 「もちろんプログラマーっすよ?」  何を聞くのかと、川崎は半ば呆れている。 「そうじゃなくて… 君もそうだけど、今どういう仕事してるの?」  改めて言い直したが、返ってくる答えは似たようなものだった。 「したいこと、それが仕事ですよ。本田さんもそう言ってたでしょ?」 「そりゃあそうだけど…」 「じゃあ、今の並原さんの仕事は、そのオンボロを自在に操ること ですよ、きっと。それに、誰がどんな仕事をしようがそんなの関係 ないですよ、お互いに」  あまりにも当たり前、という素振りで話す川崎の態度に、ふと悠 樹は自分の元いた会社、TENSでのことを思い巡らす。  同じような台詞を使っていたようなおぼえがあるのだ。  上司は部下の仕事の詳細を知らない。  知らなくても世の中が動くんだから、自分の仕事に余計な口出し はするなと、上司の嫌味な台詞をいつも突っぱねていた。  互いに干渉せずにすむ、ここはそういう職場なのである。  悠樹は、ここはいい環境なのだと、考えを改めた。  そう考えると、彼の心の中に巣くう胡散臭さも、生活の一部とい う意味に変わってしまうらしい。  仕事の性質自体が違うので、まだ会社型人間の考えも捨て切れて はいないのだが。 「うーん、こいつがよくわからないな…」  首を傾げる悠樹。  どうやら何かRJCOSマネージャーの操作で行き詰まってしまっ たらしい。 「ねえ、川崎君…」 「俺に聞かれてもわかんないっすよ。日野さん今日は来てないし、 本田さんに聞いてみるのがいいんじゃないですか?」  隣の部屋へのドアをノックする。  返事がない。  3度ノックしても返事がないので、仕方無く悠樹は勝手にドアを 開ける。 「あの、本田さん…」 「今忙しいから」  悠樹でなくとも、本田の先程の台詞を嘘だと思うだろう。 「俺、帰ってじっくり考えてみるから」 「おつかれさまっす」  悠樹は帰る時の儀式もすっかり身についていた。  午後10時。  アパートの自室に帰った悠樹は、いつもの通りRJCOM端末の 電源を入れ、コーヒーを作り始める。  今日のメールは1通だけだった。  そのメールのアイコンに指を触れる。 「こんにちは。エレナです。  今回で3通目のメールになりますが、あなたからのリプライが一 度もないので残念です。  どうしてリプライをいただけないのでしょうか?  何か理由があるのでしょうか?  もしよろしければ、私とチャットしていただけませんか?  今夜12時に、チャットルームでお待ちしております」  またか…  そう思い、そのメールを消去しようと思ったが、ポットの電子音 が鳴ったので、先にコーヒーを入れることにした。  午後11時。  RJCOSマネージャーのマニュアルは分厚い。  悠樹はその、ほぼ真ん中あたりを読んでいた。  眠気覚ましに、背筋をぐっと伸ばし、コーヒーをもう一度入れる。  徹夜が当たり前だった自分の生活が一変してしまったため、深夜 の作業などは身体がついていかなくなってきている。  やりたいときにやりたいことを。  人間のあるべき姿ととれなくもない。  午前0時。  疲れをとるために再び背伸びをした時、RJCOM端末から呼出 音がした。  悠樹が登録している音で、テレビでニュース速報が出る時に流れ るものである。趣味の悪さが伺える。  この音がしたということは、彼が誰かとチャット、つまりリアル タイムにRJCOM端末同士で文章を送り合うための回線が接続さ れたことを意味する。  悠樹は、そんな指定をRJCOMに登録していたわけではない。  しかも接続を拒否する指定すら行っていたのだが、それも役には 立たず、きっちりと接続されている。  だが、犯人の見当はすぐについた。  念のため、RJCOMのディスプレイ上で、一応先程のメールを 開く。 「なるほどね…」  納得の気持ちを口にした。  そして、ディスプレイ上には大きなウィンドウが開く。 <並原悠樹さんはお帰りでしょうか?>  チャットが始まったのだ。  キーボードに指を置く悠樹。  RJCOSマネージャーの調査も、少々行き詰まっていたので、 気晴らしにチャットに応じることにしたのだ。 <はい。とっくの昔に> <安心しました。もしお帰りでなければと、心配しておりました> 「あんた、どうせそっちの男だろう?」  そんな風に罵ってみせる。  えらく丁寧な文体を用いているのに、少々胡散臭さを感じつつも、 彼は適当にエレナの相手をすることにした。  単なる暇潰し、気分転換である。 <それはどうも。ところでエレナさんはどうして私の事をご存じな のですか?> <以前も申し上げました通り、ある方からあなたの事を紹介されま して、私は興味を持ったわけです> <興味、ですか?> <はい。あなたが「Digital Club」のメンバーで、か つRJCOSマネージャーにも興味をお持ちと聞きまして、私と趣 味が同じと思うと、メールを差し上げたくなり、ついご迷惑と知り つつも3度も> <ふーん、そういう事もあるんですね? あなたもマネージャーを?> <はい。私にとってはよきパートナーですから> 「こりゃあ、相当なオタクだ…」  この言葉が自分に使われていたことも忘れ、悠樹は悪態混じりに つぶやいた。  と、同時に、偏見に満ちたオタク像を頭の中に思い描く。 <それより、悠樹さんはどうして「Digital Club」の メンバーになられたんですか?> 「痛いところをついてくるなあ…」  いちいち思う事を口にするのが、彼のチャットのやりかただった。 <まあ、成り行きで。エレナさんの方こそ、どうして「Digital  Club」のことを?>  しばらく、返事がなかった。  回線が切れたのかと、いろいろ変な文章を送信してみる。  数十秒経ったあと、ようやく返事が帰ってきた。 <私の趣味は人と話をすることなんです>  あまりのとんちんかんな答えに、今度は口にするべき言葉を思わ ず送信してしまう。 <あのう、君、話をすり替えてないかい?> <ごめんなさい>  今度のレスポンスは異様なまでに早かった。 「どうしてこうもばらつくんだろう…?」  C−LINEが敷設されてから、回線そのものの障害はほとんど 皆無といってもいい。  ということは、悠樹の持つRJCOM端末の調子が悪いためか、 エレナの端末がそうなのか、あるいは…  彼女が意識的にちぐはぐな送信を行ったのか。 <とりあえず、君は私のことがわかってるわけですよね?> <はい、そうです>  間髪入れずに返事がきた。  こういうテンポは悠樹の肌に合う。 <だけど、私はエレナさんのことを何も知りません。教えて頂けま せんでしょうか?>  ところがまたも、返事までに時間がかかった。  一体彼女は何を考えているのだろうか?  理解に苦しむ悠樹だったが、今度の返事はかなりまともだった。 <私のことは、エレナで結構です。これからはエレナと呼び捨てに してください>  今までどこか堅い文章だったのだが、ここへきて呼び捨てとまで いうのである。 <じゃあ、私の、いや俺のことは悠樹って呼んでほしい>  こちらも柔らかく態度を変える。  どうやら、エレナの方はご機嫌になったらしい。 <私、悠樹のことをさらに好きになりました。本当に嬉しい気持ち です。ところで、RJCOSマネージャーの方は馴れましたか?> <いや、もう少しわからないところがあるんだけど> <どういう操作ですか? お力添えできるかも知れません>  話がはずみだしたということは、互いに趣味が合ったということ と取れなくもない。 「俺もオタクか…?」 <どうなさったんですか?> <いや、何でもないから> <お困りのようでしたら何かお手伝い出来ることはありませんか?> <大丈夫、大丈夫>  そう文章を送信してから、気になっていることを直接聞いてみる ことにした。 <それより、あなたはエレナという名前だけど、女性なの?>  やはり、しばらくの間通信が途絶えた。 「ほうら。答えに困ってるんだろう?」  こういう事態に遭遇したことは、一度や二度ではなかった。  そして、大抵二通りの回答が得られる。  すぐに男だとばらすケースと、あくまでも女と言い張るケース。  言い張ると女性である、とも限らないのだが。  ところが、”彼女”は少々違った。 <一応性別は女性です> 「一応、ね…」  やはり胡散臭さが拭えない。  だが、どうも彼にとっては、エレナが男性のようには思えない。  何故そう思うのかはわからないが、自分が彼女を女性と認めてい ることだけは、しっかりと把握出来た。  微妙なニュアンスを読み取ったつもりなのだろうか?  それとも、”一応”という言葉が気に入ったのか。  こんな言葉を返す。 <俺も、一応性別は男性だけど> <はい。よく存じております。面白い方ですね? 思った通りの方 ですわ?> 「こいつはまいったなあ…」  何処をどう取って思った通りというのかは理解しかねたが、悠樹 にはこれまた悪い印象にはとられなかった。 <そう言ってもらえると、俺も嬉しいな> <よかったです。とりあえずは一段落です>  妙に変な言葉を使ってくるが、もう悠樹は気にならなくなってい た。  所詮今時の人間、敬語や丁寧語をまともに使える者など、そうざ らにいるものではない。  文章・言葉の中身が勝負である。  かといって、いきなりこういうのもどうかとは思うが。 <今度、直接お会いしてお話がしたいのですが、よろしいでしょう か?>  たったこれだけの短い会話だけで、悠樹はすっかりエレナのこと を気に入ったようだ。 <じゃあ、どこで会おうか?> <明日、「Digital Club」で>  明けて次の日の昼過ぎ。  悠樹はやはり「Digital Club」に足を運んだ。 「あれ? 並原さん、今日は休むとか言ってませんでしたっけ?」 「まあね…」  言葉少な目に返事をする悠樹。キーボードにも手を置いていない。  川崎には彼の態度がこう見えたらしい。 「並原さん、今日も何か悩んでるんですか? マネージャーのこと?」 「ああ、ちょっと、ね」  夕べのエレナとのチャットで約束した待ち合わせ場所がここだ。  その理由が皆目見当がつかずにいたのだ。  首をいくらひねってもひねり足りないくらいだ。 「よお、色男!」  悠樹が入ったすぐ後、勢いよく入り口のドアを開けたのは、石橋 だった。 「エレナの招待を受けたそうじゃねえか? お前もすみにおけない なあ? ああ、この部屋の真ん中は机か!?」  もはや誰もついていけない状態になっている。 「大丈夫っすか、石橋さん? なんかやけっぽいっすよ?」 「悪かったなあ! 昨日女に逃げられてむかむかしてんだよ! ま、 エレナだったらこっちからお断りだけどな?」 「そうですよね、石橋さんだったら… あれ? 並原さん、エレナ に気に入られちゃったんですか?」  少々驚くタイミングがずれているのだが、それも一人ではない。 「えっ? どうして石橋さんがそれを?」 「そりゃあ、エレナっつったら… ま、いいか。とりあえずよお、 俺は本田さんから聞いたぜ?」 「並原さん、エレナから招待を受けたんだったら、本田さんの部屋 にいますよ?」 「あ、そうなの?」  言われるまま、彼が隣の本田の部屋に入ろうとした時、何故か石 橋も川崎も笑いを抑えこんでいるように見えた。 「本田さん、エレナさんって人、どこにいるんです?」 「やあ! そうか。やっぱりエレナに会いにきたんだな?」 「そりゃあ、そうですよ。約束しましたから。それより、本田さん、 彼女のことを知ってるんですか?」 「当然! 俺が知らずして誰が知ってるっていうんだ?」 「まだ来てないようですけど… 彼女、どんな人なんですか?」 「ふーん、そんなにエレナの正体が知りたいのか?」  にやりとほくそ笑む本田。  何やら理由がわからず、多少むきになる悠樹。 「当たり前ですよ! まだ会ったことないですからね! 本田さん は知り合いからいいでしょうけど。会ったことあるんでしょう?」 「そりゃあそうさ。いつもいるからなあ、ここに」 「はあ?」  慌てて周囲を見回す悠樹の仕草が、本田は面白かったようだ。  バン! と、この部屋に常備されている、彼専用RJCOM端末 のディスプレイを叩く。 「ほら、ここさ!」