「夜明けのコーヒー」 「いや」  何が嫌だと言うのだろう?  事の発端は、数分前に溯る。  暑い真夏の夜。  狭いアパートの一室には、二人の若者がいた。  一人は流しの前に立っている女。  長い髪を後ろで束ね、淡々と炊事をこなしているように見える。  木下和美、18歳。年齢の割にはかなり大人びて見える。  もう一人は狭い部屋に寝転がってテレビを見ている男。  そんなにがっしりした身体でもないが、背丈だけは高いようだ。  三浦隆弘、21歳。こちらは少々子供っぽく見える。  テレビ番組がCMに入ったところで、 「まだ洗い物やってんのか?」 「隆弘がためてなきゃ、こんなに時間かからないんだけど!?」  痛いところをつかれたと、隆弘は頭を掻く。 「ちょっと待ってね、コーヒーいれるから」  よく気が利くという彼女の一面である。 「ん」  そっけない返事と同時に、隆弘はチャンネルを変える。  深夜映画のワンシーンがブラウン管に映った。  しばらくはぼーっと見入っているだけだったが…  ふと、隆弘にある考えが浮かぶ。 「なあ、『夜明けのコーヒー』飲まないか?」  思い立ったらすぐに口にする、そんな隆弘の単純なところが和美 のお気に入りだった。 「ってことは、ここに泊まってけ、ってこと?」  が、状況が状況なだけに、素直に喜べない。  さっと素早い首の振りで、和美はテレビの右そばに置いてある、 パタパタと中で板が倒れる擬似デジタル式の目覚し時計を見る。  時計は1時半近くを差している。  その仕種の一部始終を見守ってから、隆弘は短く答えた。 「そ」 「こんなに遅くなってるのに気付かないなんてね。隆弘がちゃんと 食べた後きっちり食器を洗う性格だったら、はあ…」  和美のため息の理由は自分への戒めか、彼への哀れみか。 「下心丸見え。ほんと、隆弘って単細胞馬鹿だね? で、何の影響?」 「古い映画で観たんだよ。そういうのって、いいじゃん? な?」  そこで、彼女の出した答えが「いや」だったのである。 「だけど、電車もとっくにないし、タクシーは高くつくぜ?」  ぶっきらぼうに隆弘がつぶやく。 「でも、いや」  と答えながら和美は湯気を立てたコーヒーカップを二つ、小さな テーブルにそっと置いた。 「…これじゃ『夜更けのコーヒー』じゃんか?」 「いやならいいよ。とにかくあたし帰るから」 「そんな、激しくしないって」 「そういう問題じゃない」 「あの日か?」  こんな台詞を単純に言われては、言葉より先に手が出るのは当然 である。 「いてっ! お前なあ」 「そういう問題でもないけど、今日はいやなの!」  左の頬を押さえながらも、隆弘はさらに馬鹿な質問を繰り返す。 「今日はいやって… 今日はそういう気分なのか?」 「もう、そういう気分なの!」  むきになっている自分が急に恥ずかしく感じられたらしく、和美 はそっぽを向く。  少々気まずい雰囲気が、この小さな部屋一杯に漂う。 「あのさあ…」  先に沈黙を破ったのは和美だった。 「もっとおっきいテレビ買ったら?」  彼の部屋で一番目立つ、19インチテレビを指差す。 「そんな金あったら、車の頭金にでもしてるって」 「それじゃ車買わないの?」 「だからお金がたまらないんだって」 「じゃあ、レーザーディスク買うのやめたら?」 「お前なあ、俺に『あれやめたら?』『これしないの?』っての、 やめろよ」  隆弘はかなりむきになっている。  少なくとも、和美にはそう見える。 「…ごめん」 「あれ? 素直じゃん、お前?」 「だって、言い過ぎたって、思ってるから…」  テーブルにひじをつく和美の前で、隆弘が手を合わせる。 「じゃあ、一回だけさあ…」 「もう、いやなの!」  デジタル時計は2時を示していた。  テーブルは片付けた。  和美が以前買ってきたクッションに座る。  寄り添うでもなく、無理して離れるでもなく、普通の距離という 自然な形でテレビを観ていた。  テレビを観るくらいしか、二人がすることがなかったのだ。  その深夜番組のつまらないことつまらないこと。  今の二人には、特にそう思われた。 「安心しろよ。もう何にもしないから」 「ほんと?」 「ああ、諦めた、もう…」  寂しそうな隆弘の台詞に、和美もうなずく。 「だけど、ほんとは付き合ってるのに安心も何もないよね」 「お前が言うなよな」  露骨にいやな顔をする隆弘。だが、言葉は優しかった。 「でも、もう帰れないだろ? 泊まってけよ?」  彼がこんなに引き止めるのは珍しかった。  どちらかというと、するだけしたらあっさりさよなら、という男 なのである。  だから、自然と理由を聞きたくなる。 「ほんと、どうしたの、今日は?」 「…そういう日なんだよ」 「…あ、そ」  和美の頬が赤く染まった。 「お、お茶でもいれようか?」 「ん」  つまらなさそうにブラウン管を見入る隆弘の瞳に、どこか虚ろな 雰囲気を見て取った和美は、何となく茶の葉をケチらないでおこう と思った。 「なあ、たまにはレーザーディスク、観るか?」 「えっ!?」  突然の隆弘の言葉に、和美は驚いた。  2時半ともなると、もう深夜映画やミュージッククリップ位しか テレビ番組として流れていない。  あまりのつまらなさに眠ってしまっていたのだ。  だが、驚いたのは起こされたためだけではない。 「こんなのしか無いけど…」  押し入れからダンボール箱を引っ張り出す。  そう、いつも掃除を拒む押し入れを堂々と開け、中から箱を出し、 さらにその箱からレーザーディスクを一枚取り出す。  ジャケットには「フットルース」。  盤面に傷等はなく、大切にしているのが、和美の目にもわかる。 「へえ、いいじゃん。観よ観よ!」  興奮するのも無理はない。  彼の部屋でレーザーディスクの映像を観るのは、和美にとっては 初めての出来事だったのだ。  ちょっと眠い目をこすりながら、期待に胸を膨らませた。  あれ?  何だか迫力あるなあ、このテレビ。19インチなのに。  そうか。  いつの間にか、明かり、消えてたんだ。  自分が眠ったために隆弘が消したのも知らず、その雰囲気に胸が 高鳴るのを覚えた。  暗い部屋。狭い部屋。静かな部屋。  そっか、だから、これ以上大きなテレビ、いらないんだ…  妙なところで感心する和美だった。 「ん、んーっ! 面白かった!」  大きく背伸びする和美。 「そっか… あ、もう4時か」  隆弘に促されて時計を見た和美は、頭を抱える。 「あのさあ…」 「ん?」  目を真っ赤にしながら 「どうしてあたし達、こんなに必死に起きてるわけ?」 「そりゃあさ、決まってんじゃん?」 「何? どうしてだっけ?」 「『夜明けのコーヒー』だろ!?」  わざわざクッションに座り直して、隆弘が答える。 「…そんなもんのために」  答えのせいか眠気のためか、大きなあくびをする和美。  これ以上付き合ってられないとばかりに、クッションを抱いて、 眠りに入ろうとしているところへ… 「じゃあ『夜明けのコーヒー』を飲むための眠気覚ましのコーヒー をいれてやるよ」  慌てて立ち上がる隆弘。  流しでお湯を沸かし始める。  その背中を見て、和美はまた先程の疑問を思い巡らせた。 「ねえ、今日、どうしてそんななの?」 「何が?」 「だってそうじゃん!? 『夜明けのコーヒー』なんて言ったり、 いつもはジャケットすら見せてくれないレーザーディスクを見せて くれたり、挙げ句の果てには自分からコーヒーいれるなんて言い出 したり…」  コーヒーをいれるのがそれほど珍しいのだろうか? 「だから、そういう日なんだよ」 「ごまかさないで。別に記念日でもないし、誕生日でもないし…  一体何なの?」  立ち上がった和美が、蛍光燈のスイッチを入れる。  振り向いた隆弘の顔は不思議な表情をしていた。 「笑わないか?」 「もう眠いから、笑えって言われたって笑えないよ」  姉が弟を優しく諭すような、そんな態度で隆弘に接する和美。  その瞳の穏やかさに惹かれるかのように、彼は口を開く。 「何かこう… うまく言えないけど、すごく不安なんだ、最近…」 「不安?」 「ああ。ふっと、お前がいなくなるんじゃないかって気がして…」  目の奥を震わせている隆弘。  ガスの火を止めるため、また和美に背を向ける。 「そんな。何言ってんの?」  和美は素直に驚いた。  彼のこんな弱気な姿を見た事がなかったからだ。 「まだ出会って3ヶ月だよ? コンパで知り合ってまだ3ヶ月だよ?」 「もう、3ヶ月経っただろ… そろそろ俺の嫌なところとか、見え て来てるだろ…」  震える背中。明らかに、隆弘は動揺していた。 「まだまだ隆弘のこと、知らないもん。そう簡単にさよならしない。 大丈夫だから、ね…?」 「お前、まだ大学入ったばっかりだろ? まだしばらくはこっちに いるんだろうけど、卒業したら田舎に帰っちまうんじゃないかって…」  ほとんど取り乱した状態になった隆弘を、和美はそっと後ろから 抱きしめた。 「ほんとにそんなこと、今から考えてんの?」 「なんだか、馬鹿だよな、俺…」 「うん、馬鹿だね、隆弘は」  その声に反応してぎゅっと抱きしめてくる、隆弘の腕の力が和美 にはたまらなくいとおしかった。 「だけど… こういうことだけは単純じゃなかったんだ… 素直じゃ ない隆弘っていうのも、いたんだ…」 「えっ?」  和美は顔をあげた。 「何だか安心したよ? あたしも隆弘とは寝るだけの関係で終わる んじゃないかなあって心配してたこともあった。それでもいいとも 思ってた、さっきまで。でも…」 「和美…」 「でも… そっか。うん、そうだよね? 『夜明けのコーヒー』、 一緒に飲んであげるよ!」  それから1時間程、二人は楽しいおしゃべりで過ごした。  お互いのまだ知らなかったことや聞いて欲しかったことを、自然 な姿で話すと、眠気なんてどこかへ吹き飛んだ。時間なんてあっと いう間だった。 「『夜明けのコーヒー』くらいでつなぎ止めらてれるあたしって、 もしかして結構安っぽい女かな?」 「かもな。でも…」 「でも?」 「俺、安っぽい粉末コーヒーしか飲めないからなあ」 「ばーか」 「馬鹿は生まれつき… ふわぁ」 「うーん、もう寝よっか…?」 「ああ、そうだなあ。おやすみ…」  目覚し時計がなるまでに、あと1時間くらいはあるだろうか。  コーヒーを飲んだにも関わらず、二人は気持ち良く眠りについた。