キャッチボール 第五話 小さな願い事  早春の朝もやの中、のんびりと河原を歩く親子の姿があった。  二人の間で会話がはずんでいるようだ。 「ねえ、お父ちゃん、今日もいいとこ見せてよ?」 「何だ? どうして急にそんなこと」 「いいからいいから。ね? かわいい一人娘の願い事なのに?」 「そう言われてもなあ」  父親の名を大沢健太郎、娘の名をあゆみという。  健太郎は野球のユニフォーム姿で歩いている。  ユニフォームの胸に書かれた文字は「BlueStars」。  少々汚れてはいるが、乱暴に扱ったあとは見えない。  さらに彼は、大きなボストンバッグを背負っていた。  まるで少年野球の様だが、それはそれでなかなかさまになっている。  一方、あゆみはといえば紺のブレザーとスカート。ブレザーには近所の中学校の校章。手には真新しくて重そうな革製学生鞄。 「眠い目こすって見に来てあげてるんだから。ちゃーんといいとこ見せてよ?」 「はいはい。何とか頑張ってみるよ」  いつもの調子で娘の頭を撫でた。  上から押さえつけようとした手が、思ったよりも少し上の位置で止まったような気がした。  そうか。  また背が伸びたのか。  大きくなったもんだ…  つくづく健太郎は娘の成長に感心した。  姉ちゃん、放っておいてもちゃんと大きくなってるよ。  だから…  約束守ったとか破ったとか、どうでもいいよな? 「ちょっと、どっち向いてんの? 話聞いてる?」 「あ、ああ。聞いてる聞いてる」  中身はあんまり成長してないか…?  胸の奥で苦笑い、顔ではそ知らぬふりの健太郎だった。  やがて二人は、大きな河原の一角の小さな野球場にたどり着く。 「よお、健ちゃん! 遅い遅い!!」  健太郎と同じユニフォームを着た中年の男性が、友達でも呼ぶかのように、二人に気さくに声を掛けてきた。 「あゆみが連れてけってうるさいもんだから、つい」  彼も娘の話を気軽に持ち出した。 「そっかあ! 女の子は化粧じゃ服じゃってうるさいもんなあ!」 「そうそう。うちのかかあも白だか黒だか一杯塗りたくって、そりゃ化け物でも逃げ出すくらいの変わり様!!」 「そりゃええわ! 洋さんとこのよめはん、こわいくらいやもんなあ!?」 「そりゃねえぞ? うちのかかあもあれで昔は…」  朝もやの中、仲間内だけが楽しめる、そんな他愛のない会話が飛び交っていた。 「これより、白石ブルースターズ対南河原エレファンツの試合を始めます。礼!」 「よろしくお願いしまーすっ!!」  何故、日頃からこれほどの元気を見せないのだろうか?  きっと、この手の試合を初めて見た時は、誰もがそう思うに違いない。  早朝草野球の一試合である。  日頃から野球のことが頭から抜けない連中が、朝も早くから自分の全てを出し切ってしまう、不思議な時間だった。  今は、何チームかが集まって開いている、ちょっとした大会の真っ最中。  ただの河原で試合をするせいか、それとも仲がいいのか、互いのキャプテンどうしが何か言葉を掛け合っている。 「洋さん! 今日は南河原が勝つぜ! さっさとくたばれい!」 「信ちゃんの方こそくたばっちまえ!」  かけ声は野次を通り越しているが、その汚い言葉とは裏腹に、男達は極めて真摯な態度で試合にのぞんでいる。  どんなに不潔な言葉でも、ただのかけ声にいちいち腹を立てる者はいない。 「しかしよお、洋さん。あんたんとこ最近強えじゃねえか?」 「まあな。なんたって、うちはすげえメンバーが加わったからな!」  洋さんが自慢の髭を撫でながら持ち出したのは、健太郎のことである。 「健ちゃんが入ってくれたおかげでうちは3連勝中だしな! おかげで笑いが止まらんわ、わははーっ!」  ぱん!  と、いい音を立てて背中を叩かれた健太郎は、しばし苦笑い。 「そうそう! うちのお父ちゃんは凄いんだから!」  ベンチウォーマー兼マスコットのあゆみも加勢する。 「そうかいそうかい! だけど洋さん! あとで吠え面かくなよ!?」  信ちゃんはにやりと笑うと、粗末なベンチに腰掛ける。  とりあえず先攻の白石ブルースターズ、二者凡退。  ここで登場するのが、3番・セカンド大沢健太郎。 「いけぇ! 健ちゃん! かっとばせ!」  バッターボックスに入ると、ひときわ大きな声援をチームメイトからたくさんうけた。  だが、一旦バットを握り締めた健太郎には、もう聞こえない。  何も聞こえないのだ。  ただピッチャーの顔を睨みつけている。  恐ろしいくらいの気迫で。  だから、この間に彼女が訪れていたとしても、健太郎が気付くはずはなかった。 「ごめんなさい、あゆみちゃん。遅くなっちゃって」 「あっ? やっと来たんだね? ちょうどよかったよ、お母ちゃん!」 「あれ、美加さん、今日は試合見にきたんですか?」  チームの帽子を無くして仕方無くジャイアンツの帽子をかぶっている選手が振り向いた。  森下美加は、たまにしか見物に来ないがチームの全員がすっかりお気に入りと決め込んだ女性である。  他のチームメイトも、皆慌ててベンチから振り向いた。 「やっぱ美人は得だなあ。ついつい見とれちゃう!」  あの健太郎の「いいひと」なだけに、出来るだけ下品な言動は避けようとしていたが、何分連中が連中だけに、そうもいかない。 「そうそう! 健ちゃんにはもったいねえなあ!」 「大人の色気っていうのかなあ? いいなあ」 「ふーんだ。どうせ色気も何もないですよーだ」  すっかりふくれっ面になったあゆみ。 「だってあゆみちゃん、まだ中学生ほやほやだよ?」 「そりゃそうだけど…」  自分の父親よりずっと年配のおじさんに、何を言われても納得のいかないあゆみだった。 「あら、アウトだわ」  美加の指差す先には、バットを肩に担いでとぼとぼと歩く健太郎の姿があった。 「…?」  しょぼくれて丸くなっていた背中が、びしっと真っ直ぐになる。  聞いてないぞ…?  早朝草野球の試合には呼んでも来ないと思っていた美加が、目の前に立っているのだ。  しかもこっちを指差してばつの悪そうな顔をしている。 「来るなら来るって言ってくれれば、迎えにいったのに?」 「健太郎を驚かそうと思ってね!」 「へえ、美加も早起き出来るんだ?」 「いつでも私はちゃんと起きられますからね?」 「嘘ばっかり。この前の買い物の時はきっちり寝過ごしてたじゃないか?」 「そりゃあ、たまには寝過ごすこともあるけど?」  胸の前で指を絡めながらしょげかえる美加は、どこかしらかわいらしさを醸し出してもいた。 「こりゃまた、よございますなあ、若いもんは」 「健ちゃん、朝っぱらから見せつけるんじゃねえよ!」  にやにや笑いながら、チームメイトが二人を囲んだ。 「そんなこと言われてもなあ…」  まるで美加の気持ちがうつったかのように、健太郎もばつの悪そうな表情を見せた。 「しまっていこうぜ!」 「おうっ!」  白石ブルースターズが守備に入る。  ベンチはがらんどう。  監督と控えの選手一人と美加とあゆみ。  4人だけである。  落ち着いたベンチで、美加はあゆみと向き合った。 「ねえ、あゆみちゃん。やっぱり”お母さん”はやめてもらえないかな?」 「どうして?」  これ以上不思議なことはないといった風に、あゆみはしかめっ面をした。 「どうせもうすぐ本当のお母ちゃんになるんでしょ? 今からでも別にいいじゃない?」 「でも、もう少しだけ、”お姉ちゃん”って呼んでくれないかなあ?ね? お願い!」  両手を合わせて頼まれては、あゆみもいやとは言えなかった。 「わかった。だけど、お姉ちゃん?」 「何?」 「本当に、まだお父ちゃんからプロポーズされてないの?」  耳たぶまで赤くなるとはこのことだった。  美加は突然動きを止めた。  何か言いたいのだろうが、何も言えないのだろう。  そうあからさまに言われてしまっては、答える言葉が一つしかない。  余計な言葉、ごまかしのきく言葉を探すが、どうしても見つからなかった。  覚悟を決めるまでにはもう少し時間がかかった。 「いやあ、4番の二塁打はまいっちゃったよなあ?」 「そうそう。でも足遅いし、あんなもんだろ?」  がやがや雑談しながらとベンチに帰ってくるナイン。  その中で、一人右腕を押さえながら帰ってくる選手がいた。  美加の隣に腰掛けて、ふうっと息をつくときょろきょろとあたりを見回す。  何か治療用具でも探しているのだろうか? 「健太郎、大丈夫?」  見るからに痛そうに手首を押さえている。  美加の耳元に彼の小さな歯ぎしりの音が聞こえてくる。 「大丈夫か?」  のんきなチームメイトもようやく気付いたらしく、健太郎の苦痛の表情を伺う。 「はい、大丈夫、ですよ、この、くらい」  苦しそうな口調は、言葉の内容がまるで嘘だと物語る。 「ちょっと、だけ、治療して、きます。監督、何か、借りますよ?」  手元に治療用具が無いことに気付いた健太郎は、ゆっくりと立ち上がって、いつも救急器材を備えている監督の車まで歩いていった。 「私も!」  美加も健太郎の後を追う。 「ふう。何とか痛みは治まったよ」  アイシングをした後、ゲル状の鎮痛薬を手首に塗り込むと、健太郎は思わず気が抜けたようだ。  軽く右手を前後に動かしてみる。  その動きに納得したのか、彼は拳の振りと同じ方向に首を動かした。 「軽くテーピングしとかなきゃな」 「ねえ、健太郎…」  そっと、右手に自分の両手を添える美加。 「今日は、もうやめた方が…」 「だけどなあ…」  ぽりぽりと左手で頬をかきながら、健太郎は困った顔をした。 「今日勝つと優勝戦線に残れるんだけどなあ…」 「そんな!? 自分の身体と試合とどっちが大切なの?」 「そういわれてもなあ…」  とぼけたような仕草で悩む健太郎。  そんな彼を見て、いらいらする美加。 「どうしていつも健太郎はそうなの? 駄目よ、やっぱり!」  女の両手がぎゅっと、男の右手を握る。  痛みは感じなかった。  それどころか、冷やしたはずなのに右手はとてもあたたかい。  じわりと肩を引き上げるような感覚が健太郎を元気にさせた。 「その言葉を聞いてたら、大丈夫だって気になるな。いつも、俺はこうだからさ」  にっこりと笑って見せる。  痛みが完全にひいたわけではないのだが、つくり笑顔をそれらしく見せることは、健太郎の得意技の一つだった。 「だから、お願い! 試合を続けさせてくれないか!?」 「…一所懸命って、いいわよね、やっぱり?」  いつか健太郎に言われた台詞が、そのまま口元に浮かんできた。 「何だか、いいわよね? だから、頑張って!」  美加も心配を押し殺し、無理してにっこりと可愛い笑顔を見せる。  その笑顔に心を動かされてか、健太郎は今度は頭を掻きながら、照れくさそうにつぶやいた。 「もし、もしも高校の頃に美加と知り合ってたら、あの時も、もう少し気が楽だったかもしれないな…」 「あの時って?」 「3年の夏、全国大会の県予選、準々決勝」  既に、美加は彼の学生時分の話をたくさん聞いていた。 「けがをした時のこと?」 「そう。あの時、俺は辛かった。誰も頼れなくて、誰もが俺をあてにしていた。俺も何とかしなきゃって思って、心も身体も空回りしてた。別にそれで人生が終わったりするわけでもないんだけどさ。あの時、美加がいたら、こんな風にやめろって言ったり頑張れって言ったりしてくれてたら…」  出会ってすぐに気付くこともあれば、今頃まで付き合ってようやく気付くこともある。  美加は、健太郎がいつも誰にも頼れずに、しかも誰からも頼られてしまう存在であることに気付いたのだ。  そのことには薄々気付いていたかもしれなかったが、もう一つ、美加がはっきりとわかったことがある。  私、今、健太郎に頼られてる…  自分はいつも頼りない存在であり、誰かの足を引っ張るだけの存在だと思っていた。  だが、少なくとも今、この場では違う。  健太郎は、美加を心から頼りにしている。  熱い。胸が熱い!  この想いが、今すぐに健太郎に伝えられればいいのに! 「あ、大丈夫?」  言葉ではなく、両手で伝えてしまったようだ。  健太郎の右手を思いきり握り締めていた。 「ああ、何とかね」  ようやくテーピングを始める。  その手際の良さに、美加はただじっと見入るだけだった。  やっぱり、何も出来ないのかな…  何かしてあげられることはないの…?  そう、何か、一つくらいは… 「よし、終わった。じゃあ、もう一遊びしてくるよ?」 「待って、健太郎!」 「えっ、何?」 「健太郎の野球、許してあげるんだから、私のお願いも聞いて? ちゃんとお礼もするから」 「お願い?」 「うん。小さな願い事なんだけど…」 「何、言ってみてよ?」 「その前に、お礼の前払い」 「あ、あの、何、えっ!?」 「お父ちゃん、大丈夫だった?」 「ちょっと、大丈夫じゃないみたいだったけど、いつものことだからね? せいぜい応援してあげなきゃ」 「ふうん。いつも無理するんだから。でも、最近のお父ちゃんって、何だか子供みたいだから、心配だなあ」 「そう? 楽しそうでいいじゃない?」 「そうかなあ? 会社も変わったし、引っ越しもしたし、それに、お父ちゃん、あの調子でしょ? こんなに色々変わっちゃっていいのかなあ?」 「大丈夫。あの人のことは大丈夫だから、ね?」 「うーん… あ、お父ちゃん、いつの間にか打席に入ってる!」 「健太郎! さっきのこと、お願いね!」 「何か、咳込んでるよ、お父ちゃん?」 「そうね。どうしてかしらね?」 「ねえ、お母ちゃん、さっきのことって、何のこと?」 「さあてね。あっ? またお母さんって言ったわね!?」 「あ、ごめんなさい」 「…もう、いいわ。ごめんね。好きに呼んでいいよ?」 「本当? よかった。じゃあ、お父ちゃんからプロポーズあったの?」 「そ、そうじゃ、ないけど…」 「なーんだ。でも、そのうちきっと… あーっ! お父ちゃん、ツーストライクじゃない!? 何やってんの? いいとこ見せてよ!」 「そうよ! ちゃんと約束守ってね!?」 「あれ? お父ちゃん、じっと右手見てるよ? 何してるのかな?もしかして、まだ痛いのかも… でも、顔は笑ってるし…」 「あー、終わった終わった!」 「やっぱ、凄いよね、お父ちゃん!」 「そうね! 手首が痛いのに、軽く一振りでホームランだもの?」 「まあね。そうそう、美加。これでちゃんと約束守ったよな?」 「はい、ちゃんと!」 「お礼はさっきもらったので充分! さあて、会社に行こうか!」 「あれ? お父ちゃん、右手のテーピングにキスマークがついてる!」 「え? あ、その、何だろうな、これ?」 「どうして? ねえ、どうして?」 キャッチボール 終わり