第四話 守るべきもの 「これ、おいしいね?」  あゆみは、精一杯明るく振る舞っていた。  今は、駅弁ひとつでこんなに嬉しい気分になれるはずがない。  そんな彼女の態度に、美加はやるせなさを感じていた。  二人は、急行列車の中にいた。 「今日もいい天気だね?」  その気持ちとは裏腹に、何か話していないと落ちつかないらしく、あゆみはしきりに美加に話しかけてくる。 「そうね」  そっけなく、美加は言葉を返した。  二人はそろって箸を置いた。  窓の外を、見慣れない景色が流れる。 「まさに田舎って感じだよね?」 「そうね」 「ねえ、お姉ちゃん」 「何?」 「あたし、本当に嬉しいんだ。だって、お父ちゃんがどこにいるかがわかったんだもん。それだけで、嬉しいんだ」 「あゆみちゃん…」  彼女がどこまで嬉しいのかは、やはり美加にははかりかねていた。  だが、たとえ気遣いだとしても、カラ元気だとしても、女の子は見かけほど弱くはないようだ。  それなら…  美加も、少しはしっかりしたところを見せたくなる。 「ねえ、あゆみちゃん。夕べあまり寝てなかったでしょ? 今の内に眠っておいた方がいいんじゃない?」 「でも…」 「大丈夫。ちゃんと起こしてあげるから。それに、疲れた顔してるわよ? お父さんにそんな顔見せていいの?」 「じゃあ、ちょっとだけ…」  すぐに眠りについたところをみると、やはり疲れはたまっていたようだ。  話し相手がいなくなると美加の頭の中で、昨日の二つの出来事が浮かんでくる。  一つ目の出来事。  まず、美加とあゆみが昨日訪れたのは、佐倉のところである。 「佐倉のおじさん、お父ちゃんの高校時代の友達だったんだよ」 「あのプロ野球選手の?」 「そう! お姉ちゃんも、よく知ってるんだ!」  二人と行ったナイターで、健太郎がひときわ大声で声援を送っていた選手である。  そういうことについては疎い美加でも、健太郎が絡むとはっきりとおぼえているものだ。  佐倉は、球団の選手寮にいた。  意外と大沢宅に近い。 「おお、あゆみちゃんか! 大きくなったなあ」  ジャージ姿はすっかりおっさんの形相である。 「やだ、こないだ会ったばっかりじゃない? それより、いいの?」 「なあに、今日は試合もないし、移動日でもないからね。あれ? そっちのご婦人は… どっかで会ったような…?」 「あ、私、森下、美加と、申します」  妙に緊張した様子。  有名人と話をするのは初めてだった。 「ああ、健太郎の彼女か!?」 「ち、違います!」 「赤くなるところなんざ、まんざらでもないか」 「そんなんじゃ…」  うつむく美加が面白くて、ついからかい続けようとしてしまう、そんな佐倉だったが、あゆみの顔色をうかがい、それどころではな いことに気づく。 「で、電話で言ってた用件って、何?」 「そのことなんだけどさあ、おじさん…」  我慢していた涙が浮かびそうになり、あゆみは急に口をつぐんだ。  代わりに、美加が話を続ける。 「あの、健太郎… 大沢さんが少し前からいなくなったんです」 「健太郎が? あゆみちゃんに何にも言わずに?」  信じられないといった態度で、佐倉が肩をすぼめた。 「行き先も理由も、さっぱりわからなくて…」 「何処に行ったか聞かれても、あても何もあったもんじゃない。残念だけど、俺は知らないね」 「そうですか…」  あゆみの沈みきった表情を、これ以上佐倉に見せまいと、美加はこの場を立ち去ろうとする。 「せっかくのお休みのところを、ご迷惑をおかけしました。私達はこれで…」 「ま、そう言わずに、サテンで一杯、どう? おごるよ?」  健太郎と呑むとあれほどワリカンを主張する男が、何のためらいもなくおごると言い出した。 「でも… 早くあゆみちゃんに安心してほしいから…」 「そう急がなくてもいいじゃないの? 行き先は知らないけど理由の方にはちょっとあてがあるしね」  言われるがままに、美加とあゆみは近くの喫茶店に入る。  いきつけの店らしく、窓際の席に座るとすぐ佐倉はウェイターを呼びつけた。 「あゆみちゃん、何好きだったっけ?」 「…クリームソーダ」 「そうそう、健太郎もよくぼやいてたぜ? 外に出ると、サテンにばっかり行きたがるってさ!」 「そんなこと、ないもん」 「はははっ、まあ、あいつもいないし、好きなもの頼んでいいよ。ここ、ツケもきくから」  そういう問題じゃないのに…  内心、美加は不安だった。  あゆみから、健太郎の一番の親友ときいて、何か手がかりがつかめるかと思い、あの晩から眠れない目をこすり、真っ先にここに来たのだ。  こっちはこんなに心配してるのに… 「佐倉さんは心配じゃないんですか…?」  あとのまつりである。  その自分の声を聴き、佐倉への詫びも浮かぶが、それよりも自分の弱さが顕著に現れた事を後悔した。  今、あゆみちゃんに頼られなければならないのに…  多少の無理もあるが、それが自分のするべきことだと言い聞かせて、ここへ来たのだ。  それが、こののんびりした態度である。  いらいらが募るのも無理はない。 「そうかりかりしなさんなって。健太郎は、ここ一番で逃げるようなやつじゃないからさ」  知ったふうな口をきくのね…  彼と付き合う年月が、佐倉と美加の距離を大きくする。 「帰ってくるって言ったんだろ? だったら、帰ってくるさ」  注文のコーヒーが目の前のテーブルに音もなく置かれると、何も入れずにそのままコーヒーカップを持つ。 「だけど、美加さん。あんたのことで健太郎、ちょっとは悩んでたぜ?」  一息で言うと、そっとコーヒーカップに口をつける。  えっ?  私の事で、健太郎が、悩んで、いた…?  何も言えなかった。  何も考えられなかった。  ただ美加は、次の佐倉の言葉を待っていた。  窓の外を眺めている。  やがて、半分程コーヒーを飲むと、その手をテーブルへ下ろした。 「あゆみちゃんとうまくやっていけるかどうか、ってな」  そのあゆみの顔色を伺うように、佐倉は言葉を続けた。 「悪いけど、あんたとあゆみちゃんじゃあ、あいつは娘をとるよ。そりゃあ、手塩にかけて育ててきたんだからなあ。だけど、きっとあんたの事も拭い切れないんだ。あいつは、考えが深いからなあ。多分あんたと結婚して、あゆみちゃんとうまくいかなかったらって事を、ずっと真剣に考えてるんだろうよ」  うつむいたままの美加に、さらに佐倉は言葉を続ける。 「別にさ、あんたが悪いわけじゃないんだぜ? そういう健太郎の性分なんだから、仕方無いってこと。悪いとしたら、あいつの方だ。妙に生真面目なんだよなあ」  不意に、佐倉は視線を逸らす。  窓越しに、道行く人を眺めていた。  考えをまとめていたらしい。 「ちょっと違うかもしれないけど、昔こういう事があった。俺達、同じ風見鶏高校の野球部員でさ。高校の野球部ってのは、想像以上に上下関係が厳しくてね。先輩達のいじめも、ひどいもんだった。俺達は黙って耐えたよ。今思うと馬鹿らしいけど。だけどあいつ、いつも先輩に激しく向かっていった。『そんなのはおかしい』って。で、俺達は先輩になって、やっぱり後輩をいじめようとした。その時のあいつの一言が、怖かったなあ。『お前らもおかしい』って」  遠い目をしていた佐倉が、ゆっくりと視線をあゆみと美加に戻す。 「あいつ、後輩には優しかったぜ。後輩がしっかり練習出来るようにって、朝早くに学校に行って、グラウンドの整備を一人でやってたんだ。そんなの、後輩に任せときゃいいと思うだろ? だけど、あいつはそんな時決まってこう言うんだ。『自分のためだ』ってね。下手な照れ隠しだったよ」 「あたし… お父ちゃんからそういう話、ちっとも聞いてない…」  自分の知らない父親の姿を、親友はたくさん知っている。  小さなやきもちさえ感じ取れる、あゆみのつぶやきだった。  こうなると、得意げになった佐倉は、ついつい口が軽くなる。 「そういうやつだよ、あいつは。じゃあ、あゆみちゃん。あいつがプロ野球のドラフトに引っかかってたって話も、知らないだろ?」 「うそっ!?」 「どうせ、『俺は野球下手だったからなあ』とか何とか言ってたんじゃないか? あいつ、ドラフト5位だったんだぜ? あ、口止めされてたっけ? まずいなあ、こりゃ」  頭を掻く佐倉に、あゆみは自分の父親をだぶらせてみる。 「じゃあ、お父ちゃんはおじさんと同じプロ野球選手だったの?」 「違うんだなあ、それが。あ、これ以上はだめだめ。俺のスキャンダルよりもばらせない。こいつがばれたら健太郎のやつ、俺を本気で殴りかねないからなあ。後は直接本人に聞いてみな。話してくれるかどうかは知らないけどね」 「ちぇっ。おじさんもけちだなあ」  残念がるあゆみをよそに、美加はある興奮をおぼえていた。  健太郎さんが、プロ野球選手並のひとだったの?  そんな凄い人が、私のそばにいたなんて!  自分がただの人だということを知っていれば、その想いは大きなものになる。  そして、二つ目の出来事。  佐倉と別れた二人は彼の紹介で、ある男を訪ねた。  健太郎達の野球部の後輩だという。  どういう関係があるのかは、二人にはわからなかった。  ある法律事務所に着いた時には、陽はその色を赤く染めあげていた。 「ああ、さっき佐倉先輩から電話がありましたよ。久しぶりなんでつい話し込んじゃいましたけどね。さあ、どうぞ」  快く事務所の中へ迎え入れてくれたこの男、名を天草といった。  優しい態度で接してはいたが、気性の荒そうな顔つきである。  背丈は健太郎と同じ位で、安物には見えないスーツが良く似合う。  応接間に通された二人。  すっと腰を下ろす美加に対して、あゆみはドキドキと胸の鼓動を高鳴らせていた。 「あ、あたし、こんな椅子座ったことない…」  なかなか豪華なソファーだった。 「どうぞ、遠慮しないで」 「なんか校長室に入ったみたい。悪いことして怒られるみたい…」 「そんなことないよ。さあ」  そっと座ったつもりだが、後ろにひっくり返りそうになった。 「ああっ、この椅子思ったより沈むよ!?」  その滑稽な驚き様を見て大笑いする天草。 「そうか、あゆみちゃん、か… おじさんのこと、憶えてないかなあ?」 「えっ? あたし、おじさんに会ったことあるの?」 「まあね。散々泣きつかれたことがあるんだけど、そうか、憶えてないか… 3つか4つの頃だからね」 「お勤めがここなんですか?」  美加が話にわざと割り込んだのは、昔話の輪に入れない妬みから来ているのだろうか。 「はい、2年前から。ここの事務所の所長さん、父さんの知り合いでね。無理やり押し掛けちゃって。それより、そんな話をしに来たわけじゃないですよね?」  佐倉からの電話で概要を掴んでいた天草は、自分から話し始める。 「俺の方でも知らないんですよ、何も。でも、佐倉先輩も言ってた通り、大沢先輩だったらちゃんと帰ってくると思いますよ。あの人、約束は守る人だから。あ、そういう話じゃないですか?」 「いえ… わかりました。そういうことでしたら…」  すっかり意気消沈の表情で立ち上がろうとした美加の隣で、突然あゆみが天草にくってかかる。 「ねえ、さっきのあたしが泣きついたって話、ちゃんと教えて!?」  これ、あゆみちゃん… と、まるで家族の様にあゆみの行動をたしなめようとした美加だったが、いざ自分自身の思いを巡らせると、少しでも健太郎やあゆみの事を知りたいという気持ちが大きかった。 「そうか、本当に憶えてないんだね…? タバコ、いいかな?」  西日の差し込む事務所の応接間で、天草は背広の内ポケットから、そっとタバコを取り出した。 「あ、子供がいるから、やめておこうか」  慌ててまた内ポケットにしまいこむ。  この動作が、あゆみにとってじれったいと思えたらしい。  そんな彼女の気を悟ってか、天草は少し話を急ぐことにした。 「大沢先輩が3年、俺が2年の時の、夏の高校野球地方大会の時のことなんだけど、俺達の高校はベスト8まで勝ち進んだ。うちの高校創立以来の快挙だったんだ。学校中大騒ぎだった。で、準々決勝の試合で、きっちり負けた。その直接の原因が、大沢先輩のエラーだったんだ。九回裏の大沢先輩の打席に期待したんだけど、さっき話したエラーで怪我しててさ。実力が出せずじまいだった。俺達は負けた時、一番しちゃいけないことをした。大沢先輩のエラーを、みんなで責めたんだ。特に俺達2年生が…」  険しい顔つきだった男が、その表情を弱々しいものに変えた。 「はっきりいって、ベスト8まで勝ち進んだのは、先輩のおかげだったのに… 先輩は強打者でホームランもその試合までに3本も打ってたんだよ。すごいだろ? プロのスカウトさんの目も光ってた位だからね。それに、俺達後輩をすごく大事にしてくれてた。練習が終わっても一緒にボール拾いしてくれたり、自分からローラー引いてくれたり。いつも『自分のためだ』って言ってたけど。そんな先輩に、球場の外でみんながののしったんだ。馬鹿なことさ、本当に。何度でも先輩に謝りたいよ。で、その時さ…」  かわいい低めの鼻を指差す。 「先輩のお母さんと一緒に試合を観に来ていたあゆみちゃんが、俺達の中に割って入ってきた。『お父ちゃんをいじめるな!』ってね」 「そっか。あたし、そんなことをしてたんだ… ごめんなさい」 「おいおい、俺に謝られても困るなあ。さっきも言った通り、俺達が謝るべきなんだから」  それからもしばらく昔話をしていたが、美加は聞いてはいなかった。  今までの話が断片的に脳裏をよぎる。  高校3年生?  3歳か4歳?  お父ちゃん?  美加はまたも唐突に話に割り込む。 「あゆみちゃん、歳はいくつだったっけ?」 「えっ? あたし、11だよ?」  天草との話が面白いらしく、やや面倒臭そうに答える。  なるほど、話は合う。  年齢の計算も間違ってはいない。  だが根本的に、美加には納得できないことがあった。  高校3年生の健太郎を、3・4歳のあゆみが「お父ちゃん」と呼んでいたという事実だ。  もし、本当に血のつながった親子だったとすると、あゆみは健太郎が14か15歳頃に出来た子供ということになる。  彼がその年齢の時、法律では結婚は親の承諾による場合においても禁止されている。  美加はずっと、健太郎を信じてきたつもりだった。  多少、そっぽを向いたり、つっかかったりもしたが、それは健太郎を信頼していることの裏返しだということを、自分でも感じていた。わからなくなった時は、彼はその時々の美加の気持ちに沿う、様々な態度で接してくれていたと思っている。  だから、そんなひとじゃない!  そんなひとじゃ…  だが今の美加には、健太郎がとても不潔な男に思えてきた。  深夜の会社での甘いおしゃべりも、喫茶「ねこじゃらし」での嬉しかった一言も、汚れたシャツを脱ぎ捨てる潔さも、ナイターで見せた子供っぽさも、すべて虚像の中の出来事の様に思えてきた。  今まで隠し通してきたのもうなずける。自分がやましい行為をしてきたからだということだ。  あの口の軽そうな佐倉が「自分のスキャンダル」よりも隠そうとするのもうなずける。  あゆみは小さな時の事をあまり憶えていないという。健太郎も、何故かあゆみには昔の事やあゆみの母親、つまり彼の妻だった女性の事は一切話そうとしないという。これらの行為もうなずける。  美加は、今の自分は孤独な存在だ感じた。  自分の知らないところで、健太郎は女性と結ばれ、子供を授かり、高校野球で活躍し、ドラフトにも引っかかっていた。  自分の想像が全く及ばない世界で、彼は生きていたのだ。  そんな男と何の関わりもない自分を孤独に思えた。  また、そんな男との関わりを無くしたいとも思った。  自分の知らない女性を抱いていた。  どうしても美加にはその事実が許せなかった。  わがままともとれる。  だが、わかりあおうとする自分をまるで馬鹿にしているかの様に、彼自身ではなく彼のまわりの人物から、次々と彼の事実が明らかになる。  こんな馬鹿げたことはない。  だが、まだ事実が完全にわかったわけではない。  彼自身の口から全てを聞くまで、引き下がるつもりはなかった。  森下美加は本来、そういう女性である。  あゆみの存在が知れ渡った時会社を休んだのは、気持ちの整理をつけるためである。決して逃げるつもりはない。  真実を知りたい…  その気持ちだけが、今の彼女を動かしていた。  しかし肝心の、健太郎の居場所がわからない。  はがゆい気分で胸の奥がざらつく。  そんな美加の耳に、突然天草の声が入り込んできた。  何の話の途中だったのか、彼女にはさっぱりわからなかった。 「だけど先輩、会うといつもあゆみちゃんのことばっかり話してたんだよ? 自慢の娘さんって感じでね。ただ一つ、キャッチボールが下手なのだけが残念だって言ってたよ」 「そりゃあ、仕方無いよ。あたし、野球あんまり好きじゃないもん」 「そうかい? それじゃあ先輩も悔しがるわけだ」  窓の外にはもう夕陽はなかった。 「お姉ちゃん! ねえ、お姉ちゃんってば!」  あゆみに身体をゆすられるまで、美加はずっと昨日の出来事を頭の中で思い出していた。  彼女の気持ちは、健太郎の友人達の昨日から、急行列車の今日にようやく戻った。 「どうしたの? なんかぼおっとして」 「ごめんね。私、今寝てた?」 「ううん、目を開けたままだったから、寝てなかったと思うけど…」 「そ、そう…」  無理に、無理矢理に笑って見せる。 「お姉ちゃん、もうすぐだね?」 「そうね。でも、本当に憶えてないの?」 「うん。小さい頃の事って、全然憶えてないんだ、あたし…」  昨日の話では、健太郎の行方について、当てがあるとするならばただ一箇所だけと答えた。  彼の昔の実家である。  遊びを知らない健太郎が無理していくような所は、他にはないらしい。  佐倉はプロ野球選手になり、天草は法律事務所に勤める。  健太郎も都会へと出てきたわけだが、偶然か申し合わせか、三人とも割と近所に住んでいた。  それまでは、彼らは皆同じ田舎にいたのである。  あゆみも一緒に住んでいたはずである。  昨日の天草の話でも良くわかる。  だが、あゆみは健太郎の実家の事をよく憶えていないという。  ただ暗い、夜にはあまり明かりが灯らない家だったという事だけは、何となく憶えているらしい。  実家の場所もあゆみは知らず、改めて天草に聞く次第だった。  健太郎さんは、実家からあゆみちゃんを連れて飛び出したから、帰るに帰れず、あゆみちゃんにも何も話さなかったのかも…。  思い出すのも嫌で、そのことをあゆみちゃんに話させず、その結果が今のあゆみちゃんだったら…  美加はそっと女の子の肩を抱き寄せた。  考えすぎといえばそれまでだが、悲観的な想像が美加の脳裏を埋め尽くしていた。  一方あゆみはあゆみで、明るく振る舞って見せてはいるが、やはり不思議に思っていることがあった。  美加の態度である。  いくら優しい性格とはいえ、初めて顔を会わせてからまだ3日目である。  全面的に信じろという方が無理な話である。  彼女なりの考えもある。  お父ちゃんのこと、そんなに好きなのかな?  まだ、恋をするということを完全には理解していないあゆみは、漠然としか感じていないが、どこか空恐ろしさすら感じてもいた。  恋をすると、娘のことなんかどうでもよくなるのかも…  やっぱりあたし、邪魔なのかな…  ナイターの夜の父親の腕の温もりも、今のあゆみの頭の中では、大きく空振りしていた。  お母ちゃんの事、そんなに簡単に忘れられるの…?  そこまで考えてふと、別の考えが浮かぶ。  そうだ。  あたしだって、お母ちゃんの顔も声も全然憶えてない。  知らないのと同じ位に…  あたしの方がよっぽどひどいよね…  窓の景色は少しずつ人工物を減らしていく。  山々は低く連なり、稲刈りを終えた田がその山々の裾野まで広がる。幹線道路も通ってはいるが、道自体もあまりよく整備されてはいない。  冬が近いこのあたりだが、その寒さは都会のビルに囲まれたそれとは大きく違っていた。  懐かしいとは思わない。  あゆみには新鮮な光景だった。  今、お母ちゃんが目の前に現れたとしたら、こんな気持ちになるのかな…  少しずつ、自分の家族がばらばらになるような、そんな思いがあゆみの心で大きくなっていた。  あたし今まで、お父ちゃんが若くてかっこいいから、何とも思わなかった。  若すぎるんだよね、本当は。  どうして気付かなかったんだろう…  でも、気付いてたんだよね、前から。  そう考えると、やっぱりあたしは…  あたし、本当は…  最後の思いは、どうしても黙っていられなくなった。  急行列車を降りた時、はっきりと美加に聞こえるように言った。 「あたし、本当は、捨て子とかなんじゃないのかな…?」  誰でもいいから自分の本当の思いを聞いて欲しかった。  その相手が、たとえ昨日今日の浅い付き合いしかなかったとしても。  美加はその女の子のかばんを持ちながら、自分とはまた違う発想で、彼女自身がつじつまを合わせようとしていることに気付いた。 「…そんなことないわよ」  美加は今までのただ明るく振る舞う態度をやめ、あゆみを元気付けることにした。  確かに、今自分は不思議な位置にいる。  あゆみとの関係も何のことはない、上司の娘さんだというだけのことだ。  だが、自分はどうあれ、あゆみにとって、健太郎は良き父親である。いや、たった二人だけの家族なのだ。  これほどかけがえのない男が今、彼女のそばにいない。  美加自身のつまらない感情に流されるのは良くないことだと思って、今はこのかわいい女の子の力になることだけを考えた。  駅を出て、のどかな道を歩きながら、あゆみに大声で話しかけた。 「そんなことないよ、絶対に! だって、戸籍も同じなんでしょ? 大丈夫。ちょっと若いお父さんだけど、しっかりしてるしね!」 「でも時々、お父ちゃんって、父親らしくない時があるし…」 「ん? どんな時?」 「野球を観てる時。子供みたいになってはしゃいで…」  その言葉を聞いた途端に、美加は口元に手をやった。  自分もナイターに一緒に行っているだけに、確かにあゆみがそう思う様な姿を見ていたからだ。 「あのねえ、あゆみちゃん。男の人って、いくつになってもそういうものなのよ?」 「本当に、そんなものなの?」 「そう、そんなものなの。あゆみちゃん、そんなお父さん、嫌い?」  慌てて首を左右に大きく振る。 「そんなことない! お父ちゃんのこと、大好きだもん!」  真剣な眼差しではっきりと「大好き」と言えるあゆみを、美加は羨ましく思った。 「いいねえ、あゆみちゃん。ちゃんと素直に言えて」 「それ、どういうこと?」  言わなくていいことを言ってしまった自分を恥じて、思わず別の答えにすり替えてしまう。 「私ね。小学校6年生位から、お父さんの事を避けてたの。本当は大好きだったのに、恥ずかしいような、それでいてどこかうっとうしいような、何だかよくわからないイライラがたまって、お父さんと顔を合わせると喧嘩ばかりしてた。それも嫌だったから、避けるようにしてたのよ。つまらないことなのにね…」  あながち嘘でもない、そんな昔話を持ち出すと、ますますあゆみちゃんを羨ましく思うようになった。  遠くには低い山々。  道端の田畑には、刈り取った稲をたくさん組んで干してある。  のどかな風景に似合うように、車がすれちがうのにちょうど良い程度の幅のアスファルトの道路は、静かに山の麓まで伸びていた。  そんな道の上を歩くのは、美加とあゆみだけである。  バスはあと一時間は出ない。  それならと、二人はのんびりと歩いていくことにしたのだ。 「やっぱり、遠いね?」  あゆみは右手でしっかりとかばんを持ちながら並んで歩く美加に話しかけた。 「そうね、あゆみちゃん。バス待ってればよかったかなあ?」 「ううん、歩いて30分位だって言ってたよね、駅員さん。だったらやっぱり歩いていくほうがいい」 「自動車の事故の心配もなさそうだしね。かばん、大丈夫? 重いんじゃない」 「えっ? 大丈夫だよ? 着替えだけだもん」 「本当にそれだけ?」 「…ああっ! お姉ちゃん、もしかして見たの?」 「さあてね」 「最初はお父ちゃんには内緒だよ? ねっ?」  楽しいおしゃべりが続いた。  車も人も通らない、何故アスファルトにしてあるのか疑問が残る道路だった。  この道の先に、健太郎の実家があるという。  誰か彼の身内がいるのなら、美加は電話でもしておきたかったのだが、何しろあゆみはその電話番号を知らない。  明らかに、健太郎が意識して隠している様に思える。  とりあえず、天草から場所だけは聞いた。 「アスファルトの一本道をずうっと山の麓へ向かって歩いていけばいいんですよ。そのうち家が何軒か見えてきますから」  その中の一軒が健太郎の実家だという。  その話を聞いた時美加は、ずいぶんいい加減な説明だと思った。  だが、30分近く歩いた後、なるほどその通りとしか思えなかった美加である。  道はそこから二手に別れ、それぞれ別の山の麓へと伸びていく。  その別れるあたりに、確かに家が4、5軒あった。  これならすぐにわかりそうだ。  ほっとする反面、美加の心の中にはちょっとした緊張が走る。  昔ながらの造りで、門から小さな庭と離れが見える。  表札は「大沢荘一郎」。周囲の数軒の表札は大沢ではない。  健太郎の実家である。  美加は自分の気持ちを落ち着けようと、軽く深呼吸をしてみる。  そうだわ…  彼の実家に押し掛けてまで、私は何かをしようとしている。  美加は、自分がするべきことをわざわざ思い返した。  その時あゆみが、門の向こうを見つめながらつぶやいた。 「知ってる… あたし、知ってる」 「えっ?」 「あたしねえお姉ちゃん、この家知ってる! 来たことがあるっていうより、住んでたと思う!」 「そう! じゃあこの家、あゆみちゃんは懐かしいのね?」 「うん!」  嬉しそうなあゆみ。  美加は、見つめ合うあゆみの瞳に救われたような気がした。  やっぱり来てよかったのよね?  そしてきっと、ここにいるのね、健太郎さん?  はやる美加の指先が門に備え付けてあるインターホンを押そうとした時… 「あんたら、どちらさん?」  二人は後ろからの声に慌てて振り返る。  美加の背筋が震え上がったのは、声が怖かったからでも、その声の主が怖かったからでもない。ただ単に驚いただけである。  そこには、小柄な中年男性が立っていた。  頭は随分後方まで禿げ上がり、小じわが目立つ顔をしているが、まだ老年を名乗る程老けてはいない。  どちらかというと、この土地の風景がそっくりそのまま顔に出たような、穏やかな顔立ちである。  別に二人は悪いことをしているわけではないので、気を落ち着けてから美加が口を開いた。 「あ、あの、私達…大沢健太郎さんという方を探してここまで来たんです。知人の方からこちらの方ではと聞いておりまして…」  じぃーっと美加とあゆみの顔をのぞき込む男。しばらくして何か思い当たることがあったとばかり、表情を和らげる。 「そうか! あんた、森下…えーっと、誰だっけ? とにかくその森下さんじゃろう?」 「は、はい、そうです。森下美加と申します」  美加は慌てて頭を下げる。 「あの… 何故私の事を…?」  彼女の質問には答えず、元々こちらに興味があったとばかりに、あゆみの方に近寄った。 「じゃあ、こっちはあゆみちゃんじゃろう? ん?」 「そうだけど… おじさん、誰?」 「こりゃ手厳しいな。知らんのもわけないか。お前のお父さんの叔父さんになるんだがね?」 「えっ? そうなの?」 「大きくなったなあ。ま、憶えとらんか」  男はあゆみの頭を撫でた。  この女の子がかなりいとおしいとみえる。 「あの… おじさん?」 「お、そうじゃな。立ち話も何じゃから、ささ、中に入って。森下さんも、ほれ」 「は、はい…」  言われるままに門を通り、玄関に入る。  昔ながらの土間であり、ひんやりと張り詰めた空気が漂う。 「ま、もうすぐ健太郎も帰ってくるじゃろうて」  さらに中に入ろうとした時、健太郎の叔父がつぶやいた。  そんな小さな声も、あゆみは聞き逃さなかった。 「叔父さん、お父ちゃんやっぱりここに来てるの?」 「ん?」  不思議そうに振り返る。 「何じゃ、もしかしてあゆみちゃん、知らんかったのか?」 「うん… お父ちゃん探しにきたんだけど…」 「探しに来た?」  二人を居間に通しながら、またも不思議そうな顔をする。 「うん、その… お父ちゃんがいなくなって、その…」 「いなくなった?」 「はい。健太郎さん、あゆみちゃんに置き手紙を残して、家を出ていってしまったんです。この子、ここの事も知らないのか憶えていないのか全然わからなくて、健太郎さんの友達からこの家の事を聞いたんです」  さすがは大人、美加はあゆみの言いたいことを的確に伝えた。 「ほう、そんなことが。こりゃ健太郎にきつく一発…」  居間の火鉢に火を入れながら、叔父は険しい表情を作り出した。 「やめて!」  いつになく激しい口調で、あゆみが食い下がった。 「お父ちゃんは悪くない! あたしが勝手に探しにきたから…」 「しかしなあ。生まれ故郷も教えてやらんとは、あいつもひどいことを…」 「それで、健太郎さんは今どちらに…?」  美加の問いに、叔父はそっけなく答える。 「ああ、墓参りじゃろうて。あいつ帰ってきてから毎日、行っておるからのう」 「お墓参り…?」 「おう、そうじゃ。あゆみちゃんも行ってくるかい? お母さんのお墓に」  この数日はあゆみにとって、驚きの連続だった。  何年も一緒に暮らしていながら、自分の知らない父親の姿が次々とあらわになっていく。  その最たるものを今、目の当たりにしている。  美加も思いは同じだった。  どこか弱々しさを醸し出す、健太郎の横顔。  ようやく会えた健太郎は、田舎の墓地らしく田畑の真ん中にひっそりと寄り添う様にして立ついくつかの墓に囲まれて、静かに故人の冥福を祈っていた。  思えば彼は、どんなに困っていても、人前で弱さを見せる男ではなかった。  わざとらしくても笑い、窮地に立っても余裕を見せていた。  その一回り大きな男の背中が、一つや二つの過ちをものともしない大人の男を誇示していた。  目の前でしゃがみこんでいる男にそれはない。  一週間分の不精髭がそう見せているだけかもしれない。  少し伸びた髪がそう思わせているだけかもしれない。 「…あゆみ? 森下?」  だが、存在に気付き、二人の方へそっと顔を向けた時、その瞳から二人は、自分の思いが間違っていない事を悟った。  男の潤んだ瞳は、幾千幾万の言葉を上回る。  美加の今までの思いが全て吹き飛んだ。  頭の中が、身体中が、心の奥底までが、限りなく白い何かで埋め尽くされていく。  その瞬間、美加の右手がそっと動いた。  そばにいたあゆみの背中を押した。  美加にその意識はなかった。  だが、右手はまるでそれが当然の行為であるかのように、そっと、真っ直ぐにあゆみの背中を健太郎へ向けて押した。  ゆっくり、ゆっくりと、変わらない早さで、あゆみは健太郎のもとへと歩いていく。  静かに立ち上がる健太郎。  ふと、閉じた美加の口から言葉を聞いたような気がした。  さあ、受け止めて。  言葉のままに、大きく両手を広げる。  十数歩の短い道のりを、あゆみはゆっくりと歩く。  涙が止まらない。  だが、泣き声は出なかった。  ようやく健太郎にたどり着くと、しっかりと抱きついた。  涙に声が伴うのは、大きな身体に支えられながら、彼のささやきを聞いた後だった。 「…ストライク」 「お父ちゃん!!」  あゆみの泣き声は、今までのどんな叫び声よりも大きかった。  健太郎は無言で、自分より幾回りも小さな女の子を、強く抱き締めた。  少ししゃがみ、右の頬を娘の右頬にこすりつける。  不精髭が少し痛いと感じるあゆみだったが、それが何だというのだろう?  その奇妙な感覚をも、父との再会の喜びからすれば無力である。  自分も負けじと父親に頬をこすりつける。  えっ?  ピクリッ…  背筋が震えた。  その時同時に、あゆみの胸が高鳴った。  さらに奇妙な感覚が彼女を驚かせたのだ。  …冷たい?  頬を伝わるのが涙だと気付くには、少し考える必要があった。  父親が流す涙など、見たことがなかったからだ。  感づかれたのがわかると、父親はそっと娘を身体から離した。  やはり弱々しい表情のまま、健太郎はその思いを打ち明け始めた。 「ごめんな。勝手に家を飛び出して…」  あゆみはまたも意表をつかれたことになる。  自分が泣いた理由は一つではなかった。  確かに、年甲斐もなく父親に抱きついたのは、やはり今まで不安であり、かつてないほどの健太郎との遠い距離がさみしさを募らせていたからだ。  だが、父親の言いつけを守らなかったのも事実である。  もしかして、来てはいけなかったのかもしれない。  そのことを詫びるための涙も、混ざっていたのである。  ところが、それどころか、健太郎は自分の非を詫びたのである。  野球に関する事以外の父親の行動には、必ず何等かの理由があることを、あゆみは長年の暮らしの中から見抜いていた。  謝るということは、今度の事は何の理由も無かったということになる。  彼女にはちょっとやそっとでは信じられない。  それとも、健太郎流の優しさの現れなのだろうか?  ともかくあゆみは、自分もすぐに謝るべきだと思った。 「…あ、あの、あたしこそ、勝手に来ちゃって、ごめんなさい」 「何言ってんだ! わざわざ俺を探しに、こんなに遠くまで… まてよ? あゆみ、どうしてここがわかったんだ?」  まだ、勝手な自分の行為を気にしながら、あゆみは父親の質問に答えた。 「…佐倉のおじさんや、天草さんっていうお父ちゃんの後輩っていう人から、教えてもらって…」 「そうなのか、森下?」  直接あゆみにではなく、健太郎はあゆみを連れてきた張本人に答えを求めた。 「あ、はい。私が健太郎さんを訪ねて行った時に、あゆみちゃんが部屋で一人で泣いてて…」  また泣き出したあゆみをそっと抱きながら、健太郎は美加から今までの経緯を聞いた。 「そうか。迷惑かけたなあ、森下…」 「そんな… 私はただ、あゆみちゃんがかわいそうだったから…」 「いや。全部、俺のわがままから起きたことなんだ…」 「でも…」 「二人とも、すまなかった!」  あゆみから一歩引き、健太郎はその場に土下座した。  飛びつくようにすがりつくあゆみ。 「やめてよ、お父ちゃん!」 「そうよ、健太郎さん! 誰にだって色々あるわ!? あなたとあゆみちゃんの関係がどういうものであれ、今まで一所懸命に生きてきたんでしょう? 私でも、それくらいはわかるつもりです!」 「森下、お前そこまで…?」  自分と娘の関係まで持ち出され、もはや、ただ謝るだけでは済まないことを健太郎は悟った。  口には出さなくても、二人ともきっとそのことを知りたいに違いない。  そっと立ち上がると、深呼吸を一つした。  彼の思いは、長い時間を経てようやく決まったようだった。 「…今まで色々、特にあゆみには苦労をかけてきた。もうこれで最後にしよう。これ以上ずっと約束を守るのには疲れたからな」  流れる様に健太郎の右手が、あゆみの目の前の一つの墓を示す。 「よく来たね、あゆみ。さあ、挨拶してあげてくれないか? 俺の姉さん、いや、お前のお母さんに…」  うそ…  あゆみの小さな声は、声になってはいなかった。  何なの、それって…  美加の声も、健太郎の耳に聞こえるかどうかの小さなものだった。  二人の態度を見て逆にふっきれた様に、健太郎は言葉を続けた。 「嘘じゃないんだ、あゆみ。お前のお母さんは、俺の姉さんだったんだよ」  あゆみには、何の事だかさっぱりわからなかった。  頭の中から全ての思考が奪われ、無気力状態になっていた。  それに対して美加は、健太郎に再会するまで持っていたものを、また思い出した。  大沢健太郎は、不潔な男だと。  あゆみは健太郎が14の時の子供だという。  あゆみの母は健太郎の姉だという。  それらから、彼女はある一つの結果を頭の中で導き出した。  女性週刊誌の一ページが浮かんできたのだろうか。  美加は、軽い嘔吐感に見舞われ、その場にしゃがみこんだ。 「どうした? 大丈夫か?」  優しく美加を気遣う健太郎の手を、彼女は大きく払い退けた。 「あ、あなたって、そういう人だったの?」 「…森下?」 「だって、そうじゃない! だから今まであゆみちゃんの事を世間から隠していたんだわ! それに、この実家の事を教えると、何かばれてしまう事実があったんだわ! きっとそうよ!」  顔をあげた時、さっきまで呆然と立ち尽くすだけだったあゆみが、墓の前に座り、じっと墓の文字を見つめていた。  美加の腹立たしさは頂点に達していた。 「あゆみちゃん、やめなさい!」 「どうして? あたしのお母ちゃんなんだよ!?」 「それでも、やめなさい!」 「いや! お姉ちゃん、あたしのお母ちゃんじゃないのに、そんな事言わないで! こっちが本当のお母ちゃんなんだもん!!」  確かにその通りである。  彼女にとやかく言われる筋合いはない。  何より、本当の母親の墓参りなのである。  美加の気持ちは今の言葉で、どうしようも無いくらいに混乱した。  汚らわしい…  嫌われる…  かわいそう…  関係無い…  やがてそれは、大沢健太郎に対して憎悪すら浮かび上がらせる。  もう一度そっと差し出された健太郎の手を、親の敵とばかりに、払い退ける。 「汚らわしい! あゆみちゃんがかわいそうだわ! どうしてあなたはそんな汚らわしい事をして、平気なの? あなたには理性というものがその時なかったの? 14歳で、しかも実のお姉さんと…」  それこそ、赤の他人であるあゆみと心中でもしそうなほど、鬼気迫る勢いで健太郎に食い下がる。 「お、おい、森下。何か、勘違いしてないか?」 「な、何をですか?」  健太郎は、ここでようやく自分の言葉が誤解を招いた事に気付いたのである。  半狂乱の美加をなだめる様にして誤解を解こうとした。 「あゆみは姉ちゃんの娘だ。だから、この子が産まれた時は、俺は叔父さんってことだぞ?」 「えっ…?」  美加はようやく落ち着いたが、当然と言えば当然の話である。 「女性週刊誌か何かの読みすぎじゃないのか? 姉ちゃんはちゃんと好きな人と結ばれて… いや、この話は後だ。とにかく、あゆみと俺は養子縁組なんだよ。変な誤解はやめてくれよ」  少々疲れた中の笑顔が、今の健太郎の精一杯の気遣いである。 「あ、そうか… あ、あはっ。そうですよね!? そうそう!」  耳から指先から真っ赤になった様な気分だった。  あまりの勘違いに、声も出なくなった。  そして、ちらりとあゆみの方を見やった。  母の墓前に座っていた女の子は、先程何故美加が怒鳴ったのかがわからず、少々機嫌が悪そうに見える。  美加は申し訳なさそうな目であゆみを見つめるしかなかったようだ。  そんな美加を、当然健太郎は責めたてるつもりはない。  むしろ、初めて二人だけで話をしたあの夜と同じ気持ちになっていた。 「ねえ、お姉ちゃん。誤解って、何のこと…?」  疑い深げに、美加を睨みつけるあゆみ。  やはり怒っている。 「な、何でもないの、何でも」 「そうそう。お母ちゃんにしっかり挨拶したか?」 「…うん」  小さく、だが意外にあっさりとした返事が、健太郎を安心させた。 「そうか。そろそろ冷え込んできたから、帰ろう」  帰り道の歩き始めは、少々気まずい雰囲気に包まれていた。  ちょっとした不注意とはいえ、二人の女性を傷つけてしまったのだ。  こんな些細な事にも大いに責任を感じる、悪い癖を持つ男である。 「なあ、あゆみ。さっき森下さんはなあ、俺と俺の姉ちゃんが結婚したって思ったんだ。おかしいよなあ!?」 「…そうなの?」  美加は顔を赤らめた。  相変わらず、申し訳なさそうに下を向きながら。 「だけどなあ、あゆみ。俺は今まで、そう思われても仕方が無い様な事ばかりしてきたんだ。あゆみのことをずっと会社の人には隠して、あゆみ自身には、両親の事を隠していた。やましいことをしている様な素振りばかりを他人に見せてきたんだ。だから、そんな俺が悪いんだよ。森下さんのこと、もうわかるよな?」  一度は、そっと首を縦に振るあゆみ。 「…でも、お姉ちゃん、あの時、怖いくらいに大声で…」 「それは…」  健太郎は胸の奥底からわき出てくるような優しい気持ちで答えた。 「お前の事を、とっても心配してくれてた証拠なんだよ? 俺の事をひどい大人だって思ったから。そんな大人にかわいいお前を任せておけないって思ったからなんだ。森下さんって、いい人なんだよ?」  父親の真面目で暖かい言葉に、あゆみの気持ちも自然と和らいだ。 「森下、あゆみのこと、本当にありがとう。嬉しかったよ、来てくれて」  優しい言葉をかけられて、こちらも気持ちが和らぐ美加だったが、腑に落ちない事がまだあった。 「あ、はい…」  返事も生半可である。 「ん? どうしたんだよ?」 「あの… 健太郎さん、さっき泣いてませんでした?」  あゆみのことを気遣ってか、あゆみにまだ申し訳ないせいか、三歩後ろを歩いていた美加が、小さな声で尋ねる。 「あ、ああ、ちょっとな。格好悪いところを見せちまったなあ」 「そうじゃないんです…」  立ち止まる美加。  つられて前を行く二人も立ち止まる。  のどかな田んぼ道は、振り返るとその遠くに墓の群れを確認出来る。  山の景色はそう変わらないので、大して進んでいないようにもみえる。  夕暮れがもうすぐやってきそうだった。  山の端がうっすらと赤みを帯びてくる。 「健太郎さんが涙を流すなんて、想像もつかなかったから… お姉さんの事、とっても好きだったんですね…?」 「まあな…」 「ねえ、聞いてもいいですか? あなたのお姉さんの事…」  その言葉を聞いた時、立ち止まっていた健太郎はゆっくりと歩き始めた。 「歩きながら、な。この一帯は今頃は冷えるから、早く帰らなきゃ」  また三人は家に向かって歩き出す。  黙って歩いていたが、あゆみは悔しかった。  自分には一度も話してくれなかったことを、たった今、この女性に語ろうとしている。  確かに今まで口にしなかった自分が悪いのかもしれない。  だけど、そんなことはとっくの昔に悟ってくれているものだと思っていた。  たった一人の家族と会えた安堵感が強気にさせたのかもしれない。  それは、彼女が唯一信じられるひとだったから。  もしかすると、自分は冷たい女の子なのかもしれない。  それでも、やっぱりあゆみは健太郎の姉の事を、そして、自分の母親のことを知りたかった。  彼女は自分の母の事を、赤の他人をきっかけにして知ろうとしていた。  昨日の美加と同じ立場なのだ。  やっぱり悔しかった。  そんなあゆみの気持ちをよそに、健太郎は姉との思い出を話し始めた。  結局、二人とも彼と姉の物語に入り込むしか出来なかった。 「けんちゃん…?」  優しい声がする。  大沢健太郎、8歳。  健太郎はキャッチボールをしていた。  相手は6歳上の姉である。 「もうやめない? 暗くなってきたし…」 「もうちょっと! だって、何かカーブがかかってきたような気がするんだもん!」 「そう? じゃあ、もうちょっとだけね?」  しなやかな仕草でその場に座り込む。  特に野球が上手というわけではない。  だが、姉はいつも健太郎のキャッチボールに付き合っていた。 「けんちゃん、もうお姉ちゃん疲れちゃったから、帰ろう? ね?」 「あと3球だけ!」 「よく無理言って、キャッチボールしてもらってたよ、この辺で」  大人になった健太郎が指差すあたりは、一面の田畑。  ボールを逸らしても、誰にも当たらない。何処にも当たらない。誰にも迷惑がかからない。 「で、その3球目が…」 「あ? 今、曲がったよ!?」 「ほんと? ほんとに!?」 「うん! すごいね、けんちゃん!」  姉が一緒になって喜んでくれる。  この頃、健太郎にはある思いが芽生え始めていた。  こんなに喜んでくれるんだったら…  姉ちゃんがこんなに喜んでくれるんだったら…  僕、野球選手になろう! 「野球が好きになったのは、姉ちゃんのおかげだった。姉ちゃんの喜ぶ事だったら、何でもやった。どうしてかって? そうだなあ。弟っていうのはそんなもんなんだ、って言っても、わかんないよな。でも、ただそれだけじゃなかった」 「けんちゃん! いつまでお姉ちゃんと外で遊んでるの!?」 「ごめん、お母ちゃん」  家に帰ると、早速母親に大目玉を食らう。  だが、娘の方には甘かった。 「大丈夫? あんまり無理しちゃ…」 「だって、けんちゃんとキャッチボールしてると、楽しいんだもん…」 「俺も楽しかった。でも、あんまり姉ちゃんとキャッチボールなんかしちゃだめだったんだ」  夕焼けが沈む頃、その時の姉の顔を思い浮かべる健太郎だった。 「私も、もっと体がしっかりしてれば、スポーツしたりできるのに…」  姉の口癖が、健太郎を頑強な男の子に育てていくことになる。  生まれつき体が弱い姉。  ごく普通に家で生活する分には、問題はなかった。  だが、少し運動しただけで、すぐ疲れてしまい、無理を続けると貧血などが重なり、倒れてしまう。  従って、学校の体育はよく休んでいた。  学校そのものも欠席しがちだった。  猿よりも元気に田舎道を走り回る健太郎からしてみれば、何故同じ親から産まれてきた兄弟で、こうも違うのかが不思議でならなかった。  その姉の口癖である。 「けんちゃん、いいね? 自分の思い通りに走り回れて…」  自分の思いがその言葉の裏返しである。  健太郎もそんな姉の気持ちはよくわかっていた。  その姉の願いをせめて自分が叶えようと、勉強も遊びもそっちのけで、野球にのめり込んでいき…  やがて健太郎、13歳。  中学校に入学すると、迷わず野球部へ。  片田舎で友達も少なく、今まで姉とキャッチボールばかりしていた健太郎は、大きなショックをうける。 「驚いたよ。何でこんなにみんな野球がうまいんだろうってさ」  はにかむ健太郎。  どことなくいつもの彼らしさを取り戻した様にみえる。  小さめの石を拾う。 「あゆみ。この石投げて、あの案山子まで届くか?」  指をさした先、10メートル程先には、昔ながらの案山子が、田んぼの真ん中につっ立っていた。  日も暮れて少し見にくいがとりあえず、言われてあゆみは投げてみた。  さすがに狙いは定まってはいなかったが、案山子の立っているあたりまでは余裕で届く。 「あれに届かなかったんだよ。姉ちゃんが投げても」  もう、彼の実家が目の前だった。 「さあ、早く帰ろう」  運動が出来ないので、基礎体力そのものも同年代の女の子に比べて低下していた。  そんな姉はキャッチボールの時、健太郎の投げた球を受けるのに専念していた。  投げ返すのは、どうせ届かないから、転がしたり、健太郎に前に来てもらったり。  姉が繰り返す言葉が、健太郎には悲しく聞こえた。 「ごめんね。ちゃんと投げられなくて」 「そんな姉ちゃんとばっかりキャッチボールしててさ、いきなりの野球部だろ? レベルの差を感じたよ」  家にたどり着き、暗闇の中で門を入る。  どうも、あゆみには首を傾げるような内容だった。  昨日佐倉から父親の話を聞いたときは、もう少し格好いい姿を想像していたからだ。天才ででもあったような、そんな姿を。 「でも、お父ちゃんって、ドラフトにかかったんでしょ? 佐倉のおじさんが言ってたよ?」 「あいつ、そんなこと言ったのか? 余計なことしてくれるなあ…」 「ねえ、違うの?」  あゆみは美加よりも先に聞きたかった。  もちろん、この場に美加がいるので、後先はないのだが。 「まあな。でも、それは高校3年の時の事さ。中学入学時は、それから比べて驚くほど下手くそだったよ」  この頃の健太郎には、朝も夜もなかった。  目が覚めると田舎道を走りにいき、夜は眠くなるまで野球の本を読んでいた。  たまには「ドカベン」などのマンガも読んでいたが。  姉はこの弟の頑張る姿を知りつつ、ある自分の人生を楽しみ始めていた。  もう、姉弟でキャッチボールをすることはなかった。  まさに、明けても暮れても野球づくしの健太郎である。 「で、その頃姉ちゃんに約束したんだ。絶対甲子園に行くって」  野球少年なら、必ず思い浮かべる目標である。 「だけど、姉ちゃん、結婚したんだよ、その時。正確には駆け落ちってのかな? 全然約束の意味が無くなってさ。守らなくてもいい様な気になってた」 「その結婚のお相手が、あゆみちゃんのお父さんになるんですか?」  美加は、一番興味のあった、あゆみの両親がこれで出揃った事を知った。 「ああ、俺もよく知らないけど。姉ちゃんが好きな人だから、いい人だったんだって、そう思いたいよ、本当に」  ただいま、と戸を開けると、暖かい風が家の奥から吹いてくる。 「おう、健太郎。遅かったな。あゆみちゃん、風邪ひかんかったか?」 「うん、大丈夫…」  土間でスニーカーを脱ぎながら、あゆみは小さな声で答えた。 「鍋、できとるぞ? たくさん買い込んどいてよかったわい」 「ほう? 健太郎の昔話か?」 「おっちゃん、昔話ったって、そんな前の事じゃないよ!?」 「そうか? でも、そんなのしてもなあ、お前…」 「私、堀炬燵って初めてです!」 「あたし、この炬燵に入ったことある! そうだよね、お父ちゃん?」 「ああ、随分ちっちゃい時にな」  不思議なもので、鍋は大勢で囲むほど美味しくなる。  健太郎から左回りで叔父、あゆみ、美加が堀炬燵を囲んでいた。 「おい! 燗はまだかい?」  叔父は台所にいる妻に声を張り上げる。  その叫び様から、よほど嬉しいと見える。 「あ、森下さん、あんたも飲むんじゃろ? ま、ま、一杯」 「い、いえ、私は…」 「まあまあ。いける口じゃろう?」 「おっちゃん! あんまり無理に…」  とめる健太郎の手を振り切り、叔父は美加に酒を飲ませた。 「…美味しい! 叔父さん、このお酒、美味しいですね?」 「そうじゃろ?」 「ねえ、叔父さん。お父ちゃんって、凄く野球が上手だったんでしょ?」  酒を飲めないあゆみも、何とかして話に加わろうとした。  が、誰も聞いてくれない。 「あっという間に鍋なんて、平らげてしまいましたね?」  台所から叔母も顔を出した。 「あたしの食べる分、無くなってるわねえ…」 「ごめん、おばちゃん」 「いいのよ、別に。久しぶりの賑やかな夕食だもの」  叔母も嬉しそうに炬燵に入る。 「まあなあ。うちも、息子どもがさっさと家を出てから、長い間二人っきりだったからのう」 「でも、すまないねえ、けんちゃん。あんた達の家に住まわせてもらって…」 「いやいや。でも、本当に綺麗に片付いたね? 俺達が出ていく時には特に掃除とかもしなかったから…」 「ほんと、汚かったのなんのって。何処を叩いてもほこりが出るわ出るわ。ま、貸してもらってる身でいうのもなんだけど」 「どうして、家を出たんですか? こんなに、いい家なのに…」  何故か目を潤ませながら、美加がせまってくる。  答える前に健太郎は妙な気分を感じて、胸を高鳴らせている。  色っぽい…。  うなじに手をやり、髪をかきあげる。  ふわっと浮いた髪は、春先よりも伸びていた。  しどろもどろの健太郎に、美加はそっと顔をよせていく。 「ねえ、どうして…?」  しつこく迫る美加。  まさか彼女、酒癖が悪いんじゃないだろうな…?  妙な疑いを持つ健太郎だが、言い寄られると弱い。 「じゃあ、さっきの続きから話さなきゃな」  中学最後の夏、県大会決勝。  元々強豪野球部だったが、決勝まで勝ち進んだのは初めてだった。  そんな中、一人ベンチで下を向いている選手がいた。  それなりに上達したが、落ち着かない様子の健太郎、15歳。  特にふてくされているわけでもないが、やる気があるわけでもなく、ただずっと下を向いている。  結局この負け試合には、出場させてはもらえなかった。  いや、3年間ずっと出してはもらえなかったのだ。  一度も滑り込むことの無かったベースを睨みつけながら、試合の最後の挨拶に出る。  つまらない2年余りが、ここで終わった。 「今でもわからないんだなあ。やる気が無いから出られなかったのか、出られなかったからやる気が無くなったのか…」 「お父ちゃん、そんなに下手くそだったの?」  もうお腹が一杯になったのか、箸を持つ手を休め、大きく後ろに手を伸ばしながらあゆみが聞いた。 「ま、下手くそだったなあ」  照れ笑いをする健太郎の言葉に、叔父の声が覆い被さる。 「嘘つけ! 直子さん、いっつもお前の事誉めとった。 なあ?」 「そうそう。けんちゃんはお父さんに似て野球が上手だって」  叔母も楽しそうに相槌を打つ。 「そんなことないって。おっちゃん達にはかなわないなあ」 「うーんと、えっと。おじいさん、でいいのかな? おじいちゃんも野球上手だったの?」  あゆみは、プロ野球の試合を見に行った時にだけ時々出てくる、健太郎の父の話を聞きたがった。 「おうさ。行雄の奴は、近所じゃあ馬鹿で通ってたんだが、こと野球となると、大した腕前でな。球は遅いが回転がかかる、力は無いが振ればクリーンヒット、足は遅いが走塁でミスはしない。大したもんだったよ。兄貴としても鼻が高かったわな」 「そうそう。今と違って昔は、野球がうまい子が一番モテたのよ。とっても美人の直子さんも、顔はどうあれそんな行雄さんにずっとべた惚れでね。でもあたしも羨ましかったの何のって…」 「お前、まだそんなこと言ってやがるのか?」 「いいじゃないか、別に。お前さんにも惚れてあげてるんだから…」  どうやら、一応健太郎の両親の話らしいが、どうも論点がずれている。  まったく何の話かわからなくなってきた。 「ま、そんなこんなで、こいつの親父も野球以外には甲斐性無し、さっさとあの世に逝っちまったなあ」  自慢の弟も、清貧からくる疲労には勝てず、健太郎が小学5年生の時には既に他界していた。  色々な事を思い出したのだろうか、叔父の瞳は急に潤みだした。 「その話は置いといてさ。俺もやる気が無くて、お袋も親父と同じく貧乏続きで疲れ果てていた頃、ある一つの事が起こった。今でも憶えてるよ。あの玄関に、そっと立っていた姉ちゃんの姿…」  県大会も終わり、秋が顔を覗かせかけたある日。  突然帰ってきた姉は、うつむいたまま土間の真ん中に立っていた。 「どうしたんだい! いつ家に入ってきてたの?」  母親が驚くのも無理ないほど、静かに中に入っていたのだ。 「姉ちゃん!」  健太郎の心の中は、まさに薔薇色に染まった。  大好きな姉が帰ってきたのだ。  今まで音信不通だった姉が、目の前に立っているのだ。  過去がどうだったとか、そういう事は健太郎にとっては関係の無いことだ。  健太郎には少しも変わり無いように見えたらしいが、実際は違う。  身体の線はまた少し細くなったようだ。  その表情も、久しぶりに健太郎と会ったにもかかわらず、暗い。  そして何より…  彼女が、世界で一番大事だとばかりにしっかりと抱きかかえる、小さな小さな着ぐるみ。  その中には、大きな瞳の赤ん坊が、小さな寝息をたてていた。 「さ、何ぼおっと立ってるの? 早く中に入りなさい」 「そうだよ、姉ちゃん。さあ」  何も聞かず、暖かく自分を迎え入れてくれる…  そんな家族の心に触れて、ようやく吐息の様な言葉が洩れた。 「ただいま」  健太郎も母親も、その言葉を待っていたかのように、笑顔を浮かべた。  家族に言葉はいらないなんて、嘘だ。  この時健太郎は、心の底からそう感じていた。  姉の「ただいま」がどれほど彼の心を幸せにしたことか。  彼の中学時代のつまらない生活は、本当はここで終わったことになる。 「もしかして、その赤ん坊って…!?」  美加は、すぐに察しがついた。  もちろん、あゆみも気付いていた。  だが、はっきりと健太郎から言われるまで、実感がわかなかったのだ。 「そう。お前のことだよ、あゆみ」  叔父と叔母は、そっと炬燵から抜け出していた。 「やっぱり、あゆみちゃんには話してなかったんだわ」 「なあに、大好きな二人にだから、きちんと話すだろうよ」 「あゆみちゃん、自分の母親にそっくりだねえ」 「まあな。あの子を思い出すのに充分だわな…」  台所で火鉢にあたりながらそんな会話が交わされていたことを、三人は知らない。 「その時、さみしかった家が急に華やかになったよ…」  健太郎は堀炬燵に足を入れたまま、仰向けに横になった。 「ふうん。この子、あゆみちゃんって言うんだ」  健太郎はまだ首が座ったばかりの赤ちゃんをそっと抱き上げた。 「けんちゃん、あゆみのこと、かわいい?」 「ああ、すっごくかわいいよ!」 「そう…」  やはり、姉は疲労の色を隠せなかった。  しかも、どこか脅えたようにさえ見える。  何に脅えるのか?  これからの生活への不安、あゆみの将来、そして、自分の身体。  だが、その脅えを取り払うものがここにある。  それは、「家」の優しさ、母の大らかさ、そして、弟の頼もしさ。  何とかやっていけそう。  そんな気がしてやっと強ばった顔がほころぶ姉を見て、健太郎は一方的に嬉しさ一杯だった。 「そうか。姉ちゃん、帰ってきたんだよな! だったら、俺、約束守らなきゃね!」  奥の広い居間の真ん中に、静かにあゆみを寝かせた後、一息ついた姉に弟は熱い想いを語る。 「今まで、何か気が抜けてたっていうか、やる気がなかったっていうのか、とにかく全然野球やってる気がしなかった。でも、これでもう一度約束を守るチャンスがやってきたんだ!」 「約束って…?」  姉はすっかり忘れていたらしい。  実際は、彼女がそんな甘い思い出にひたる余裕は、家を出た瞬間からあるはずが無いのだ。 「もちろん、甲子園さ!」 「そう… けんちゃん、ずっと野球を…」  ようやく思い出した時には、すっかり昔の姉の顔に戻っていた。 「まあね! 一度も試合に出たことなかったけどさ。そうだ! じゃあ今度は試合に出られるように、野球の下手な高校に入ろうかな? なんてね」 「けんちゃん、そんなこと言って… でも、お父さんと同じ目をしているわ。きっと、何処の高校でも行けるわよ、甲子園に!」  健太郎は、胸が焼ける程熱くなるのを感じていた。  彼は今まで、ただひたすらこの言葉を待っていた。  確かに、大沢健太郎は野球において非凡な才能を見せる。  ずっと父親を見ていた、ちょっとは野球にうるさい母親も、いつも彼を誉めてくれていた。  だが、奮い立つ何かがなかったのだ。  それが、今までの彼の中学生活である。  姉が何故帰ってきたかを聞く程、野暮なことはしない。  約束を守って、姉に元気を取り戻してもらおう!  そんな、歳の割には幼稚で純粋な想いが、彼を高校野球の舞台へと上がらせた。 「それで、高校に入って佐倉のおじさんと友達になったんだ!」 「ああ。同じクラスだったし、一緒に野球部に入ったしな」 「そうなんだ。それで?」  あゆみは、知っているような知らないような自分の過去を追いかけるのに必死のようだ。  一方、それまで健太郎の思い出話に聞き入っていた美加は、ふと時計をみやる。 「ねえ、あゆみちゃん。もう遅いから、話の続きは明日にしたら?」 「大丈夫、お姉ちゃん。だから、あたしが思い出せるところまで、聞きたいの」 「ま、もう少しだしな。この家を出ていくところまで話せば、それで満足だよな?」 「うん!」  健太郎は、入部すぐにレギュラーの座を勝ち取り、夏の大会には5番・セカンドという大役を果たすようになる。  だがそんな順風満帆にみえる彼は、ある種の危機感を抱いていた。  中学時代とは違い、健太郎はただがむしゃらに練習するということをやめた。  どうしても、甲子園に行かなきゃ…  その想いが彼自身を成長させていたようだ。  自分だけじゃ、駄目なんだ。  野球って、自分一人が頑張って勝てるもんじゃないんだ。  みんなが力を合わせて頑張ることなんだ。  健太郎は、今更ながらにそのことに気付いた。  それによって、ある一つの結論が生まれた。  高校の野球部というのは、多かれ少なかれしごきがつきものだ。  初めのうちは健太郎もしごきに耐えた。  だが、どう考えてもおかしい。  理由のないしごきは練習にならないと考えた。  この人達は、勝つ気はないのだろうか?  それなら何のために野球部にいるんだろう?  俺は違う。  勝つために、甲子園に行くために野球部に入ったんだ。  そして、今度こそ姉との約束を守るために。  彼は、本気で野球部全体を見据えて動き始めた。  自分にとって必要の無いしごきは全て拒否し続ける。  各部員の性格・性質を見抜き、各人用の練習メニューを監督に提示する。  これは多少の意地が混じっていたが、皆の練習時間を稼ぐために雑用は全て自分からすすんで行なった。  ローラー引き、グラウンドの石拾い、球拾い、部室の整理…  マネージャーがいないため下級生が背負う洗濯等まで、健太郎が一人でしていた。  だが実際は、その想いが部員達に伝わるまでに、一年かかった。  彼にとっては気の遠くなるような、それでいて、毎日毎日あゆみをあやしながら色々と姉に報告することが楽しく感じられた、そんな一年だった。 「あっという間に過ぎたような気もするし、とっても長い一年だったような気もするな」  振り返ると、そんな風に何もかも思い出になってしまう。  それが、さみしかった。  健太郎は、目頭が熱くなるのを感じたが、ここで感情に流されては話が先に進まない。  ぐっとこらえる姿が、静かだが大きな健太郎の力を感じさせる。 「そう、姉ちゃんがあの世に逝ったのも、もう遠い日の思い出だよ…」  その日は何故か爽やかな五月晴れだった。  姉の容態が悪くなったため、入院することになった。  今までも疲れやすい体質のためか、よく家でもじっと横たわって半病人の状態だったが、健太郎は自分の野球部での活躍振りを面白おかしく聞かせるだけで一緒になって笑ってくれていた姉の病状が、そんなに悪いものだとは思ってもみなかった。  無理してパートに出ると言ったこともあったが、こういうことがあるからという母の考えは的中していたのだ。  病院へ行く時は一家総出だったが、帰ってみると一人減っていた。 「おかあちゃんは? ねえ、おかあちゃんは?」  まだ舌足らずの喋り口調で、健太郎や彼の母にしがみついてきた。 「おかあちゃん、ちょっと疲れてるからね。病院で休んでるの…」  母は、そっぽを向いて、さっさと台所へ消えた。  健太郎はその母の態度に何も感じなかった。  日が暮れるまで二人でキャッチボールをした、あの頃楽しい日々が彼の注意力を鈍らせてしまっていた。  母の背中が震えているのを見過ごさなければ… 「ほんと、おとうちゃん?」  この頃、あゆみは既に健太郎をお父さんと呼んでいた。  姉が教えたのだろうか。それとも、父親欲しさにそう呼んでいたのだろうか。 「ああ、本当だよ。やっぱ、さみしいんだよな? じゃあ、明日一緒にボール投げしようか? おかあちゃん抜きでも出来るよな?」 「うん…」  他に子供との遊び方を知らない健太郎は、いつも通りあゆみと約束した。  そして、いつもと違う部屋で、あゆみは健太郎と一緒に眠りについた。  次の日朝早く、姉はあっけなくこの世を去った。 「病院から電話があって、すぐに家を出たんだけど、病院についた時には、もう…」 「そんな…」  あゆみの眠そうな瞳は大きく見開かれた。  誰も、彼女が息を引き取るとき、そばにいなかったのだ。  さみしいよね、そんなの…  だって、お父ちゃんだって気付かなかったんだし…  でも、あたし、あたし…  自分を責めても何の意味もないのだが、そうせずにはいられない。あゆみは誰よりも優しい女の子だった。 「過労ってのは怖いんだ。たとえ自分の産んだ女の子をたった一人育てるだけとしても… あゆみ」  さすがに健太郎の瞳も潤んできたようだ。  さっと、顔を背けた。 「お前、すごく怒ってた。『おとうちゃんと二人だけでボール投げするなんて言うから、おかあちゃんが一人で死んじゃった!』ってさ…」 「そんな、あたし、お父ちゃんに、そんなこと、言ったの…!?」  うつむくあゆみの口元から、小さな歯ぎしりの音が聞こえてくる。 「気にするなよ、あゆみ。そんなことがあっただけなんだから」  激しい自己嫌悪に陥る娘に、養子とはいえ健太郎は父親としての最大限出来ることをした。  横たえていた身体を起こすと娘の隣に寄り添い、そっと肩を抱く。 「どうせ本当の事を言ったって、3歳の女の子にわかるはずないんだ。姉ちゃんもそれを望んでた…」 「…どういうこと?」 「姉ちゃんの葬式が終わってからのことだったっけ。葬式ってのは忙しくなるように出来ていて、お袋と二人で必死にかけずり回ったよ。終わらせるだけで精一杯だった。でも、そのあわただしい時が過ぎると、たまらなくなるんだ。第一、俺達は姉ちゃんの死に際を見ていない。棺桶の中の姉ちゃんは寝ているだけに見えたよ。そんな姉ちゃんがいなくなって、言い様の無い怖さを感じたよ。あっけないもんだなってさ。そんな時、姉ちゃんがこっそりと隠れて書いていた、日記の様な覚え書きの様な内容のノートを、姉ちゃんの荷物から見つけたんだ。お袋は知ってたみたいだけどさ。それを見て驚いたよ。自分が先に逝ってしまうのを知ってたみたいだった」 「何が、書いて、あったの…?」 「真ん中あたりのページで終わってたけど、その最後のページに、『けんちゃんへのお願い事』って書かれていた」  健太郎は一つ息を大きく吸い込んで、気を落ち着けた。 「一つ目は、野球を続けて欲しい。二つ目は、素敵な女性と恋をして欲しい。そして三つ目は、独り立ちするまではあゆみを娘として育てて欲しい…」 「それで、あたしが、お父ちゃんの子に…?」 「ああ。そしてその下に、写真とか思い出になる物を全て処分するように書いてあった。姉ちゃんは、自分の事をお前に忘れて欲しかったみたいだ。俺は姉ちゃんの望んだようにした。だから、一枚もお前の母ちゃんの写真はないし、今まできちんと話した事もない」 「でも、どうして、お父ちゃんと、親子に、なんて、言ったのか、なぁ…?」 「多分、お前が俺のことを『お父ちゃん』って呼んでたからだろうなぁ。ちょうどいいって思ったんじゃないか? もちろん、高校生でいる間は、養子縁組なんて形を取ってたわけじゃないけど、後で別の事情があって、そうした方がいいってことになってさ」 「そっか… そうなんだ… お母ちゃんの… 願い事…」  とうとう耐え切れなくなったのか、あゆみはゆっくりと眠りについた。その閉じた目の縁には、うっすらと涙が浮かんでいた。  父親は、もう一度大きく息を吸い込んだ。 「健太郎さん?」  一度あゆみに寝るようにすすめたが、ここまでずっと黙っていた美加が、そのあゆみが眠りにつくのを待っていたかのように、健太郎に話しかけた。 「まだ、家を出た理由が、わかりません」 「そうか、そうだよな。あゆみはもう何となくわかっているんだろうけど、森下にはわからないよな。眠くないか?」 「はい」 「じゃあ、夜も遅いから、手短に話せるといいな」  健太郎は、まるで他人事のように先程の話の続きを始めた。 「姉ちゃんがいなくなってからも、高校卒業間際まではここで生活してた。高校は結構ここから遠かったけど、野球部のみんなもたまには遊びに来てくれてさ。あゆみと遊んだりもしてくれたよ。でも、そんな生活は長くは続かなかった。何しろ働き手がお袋だけだったからなあ。うちは昔から貧乏な方だから、つい過労になってしまう。お袋もあっけない死に方だったよ。パート先で倒れてそのまま病院へ。姉ちゃんと同じ病院で、同じように誰にも見取られずに」 「それで働く事に?」 「その頃俺はちょっとは認められる野球選手だったらしくて、ドラフトにもひっかかった。俺一人なら特待生で大学に入れるチャンスもあった。だけど、そうはいかなかった。俺は一人じゃなかったから。確かに、プロ野球選手は実力があれば破格の年俸がもらえる。だけど、実際にあゆみを親として育てなきゃならない。誰も面倒は見てくれやしない。自信がないとかじゃなくて、そういう現実問題があったから、野球を続けるのを諦めた。だから大学なんてもっての他だ。高校だけはなんとか卒業出来たけど、その後二年くらい、昼はあゆみを育て、夜は道路工事の現場とかで働く日々を過ごした。小さな子どもを家に残して働くのは、本当は辛かったんだけど、保育所とかも空いてなくてさ、お隣さんに預かってもらったことも多かったなぁ」 「でも、まだその時に家を出たわけじゃないんでしょう?」 「まあね」  そう結論を焦らないで、といった目で、健太郎は首を軽く縦に振る。 「二十歳で入社って、言ってましたよね? どうしてうちの会社に入社したんですか?」 「ちょっとしたコネでね。そうか、天草に会ったって言ってたっけ? あいつの叔父さんがうちの会社のお偉いさんでね。まあ、あゆみのこれからのことを考えると、安定した収入が必要だと思って、色々会社回りをしている時に、偶然わかってさ。それで入社出来たってわけさ。あいつ、なかなかお金持ちのおぼっちゃんなんだぜ?」  話を途中で止め、ちらりとあゆみを見る。  かわいい寝顔にも語りかける。 「その都合上、きちんと通勤出来る場所に住まなきゃならなくなって、この家を叔父さん夫婦に任せて出てきたってわけさ。それに、あゆみの存在は伏せておいて欲しいとも、お偉いさんに言われた。やっぱり年の差が不自然だったからかな。それでいてきちんと手当なんかは支給してくれてたから、知ってる人は知っていたんだろうけど」  納得したのか、美加は何も言わなかった。  再び訪れた夜中の二人だけのおしゃべりが、とても楽しかった。  美加は純粋にそう思っていた。  話の内容はもちろん理解していたが、その事よりもまた一つ彼のことがわかったという単純な事実が、彼女をより幸せにさせていた。  この数日間の、何もかもが、ふっと何処かへ消えていき、美加はこの夜、新しい素敵な夢を見ることだろう。 「炬燵で寝たりするから、風邪ひくんじゃ」  何故か大声で笑いながら、健太郎の叔父は寝起きの美加をからかった。 「どうせ遅くまで話し込んでたんでしょ、あんた達?」  心配しながらも、何処か面白がっている叔母。  美加は今朝目が覚めてからちり紙が手放せない。  彼女の住む都会もそろそろ冷え込んで来る季節だが、ここは遥かに平均気温が低い。 「あ、ぐずっ、あの、くしゅん!」  小さなくしゃみが止まらない。 「あの、健太郎さん、と、あゆみ、ちゃん、は…?」 「二人なら、お墓参りじゃよ」 「こっち来て飽きる程行ってるくせにねえ。まだ行くんだから」  追いかけて行きたい美加だったが、その気持ちとは裏腹に、身体は家を出るのを拒んでいた。 「なあ、あゆみ」 「えっ? 何?」  二人の大事な女性の元へ向かう道、健太郎は娘に相変わらず優しく話しかけた。 「そのかばん、何なんだ? 何か大事なものでも入ってるのか?」  問われたあゆみはしどろもどろ。 「あ、はは、持ってると、やっぱり、不自然かな?」 「思いっきり不自然だぞ? 家に置いておくとだめなものなのか?」 「ま、まあね、はは…」  しらを切り通す 「まさか、うさぎのぬいぐるみじゃないだろうし…」 「ん? お父ちゃん、何それ!?」 「何でもないよ」 「ねえ、何、それ? 教えてよ!」 「さあな」  こちらもしらを切る。  だが、会話が途切れるということはない。  のどかな田舎道は、並んで歩く人達の会話を弾ませる。  彼らの本来の居場所も殺伐とした都会ほどではないが、やはりその都会をひきずった土地なのだ。  ここは違う。  人が人に、嘘を言ったり隠し事をしたり計算ずくで話したりするのを、この一本道の醸し出すのどかな空間は、さりげなく抑えている。  だから、自然と思いを口にしたくなる。そばにいる大切な人に、包み隠さず話したくなる。 「知りたいか?」  耐えきれなくなった父親の方から、話が進み出した。 「うん! 何のことなの?」 「それは…」  一通り話し終えた頃、田んぼの真ん中の墓地にたどり着いた。 「へえ! お姉ちゃんって、そうなんだ! ふうん、眠れないのか…」  感心していたあゆみの頭に、ふと、ある姿が浮かんだ。 「ねえ、お父ちゃん? この前お姉ちゃんと家で一緒に寝た時は、ぐっすりと朝まで寝てたよ?」 「…あれ? そうなのか?」  あゆみの言うことは事実である。  だが、美加は健太郎に嘘を言ってはいない。 「お父ちゃん、騙されたんじゃない?」 「かもな。待てよ? あゆみがうさぎの代わりだったりして?」  不思議と、健太郎にはそんな気がした。  それは自分にとって、とても都合の良い考えかもしれない。  だけど… だとしたら…  健太郎は彼自身の勘に頼ることにした。 「なあ、あゆみ?」 「えっ? 今度は何?」  腰を落とし、母親の墓前で手を合わせて冥福を祈る娘に、現在の父親はある決心を打ち明ける。 「なあ… もし、俺がある人に結婚を申し込むっていったら、どうする?」  健太郎の心は決まっていた。  わざわざ一人娘を連れてここまで会いにきてくれたのだ。  もしそれが、恋愛感情ではなく、単にあゆみのことを心配してくれたからという理由だけだったとしても、それはそれで仕方のないことだ。  ただ、はっきりとさせておきたかった。  これからの自分の為にも、彼女の為にも、そして娘のためにも。  ここ一番でも、思い切ったことも出来る健太郎だったが、唯一、この件に関してはあゆみの了解が絶対に必要なのだ。 「前にもあたしに言ったじゃない? その時と答えは一緒!」  さっと立ち上がり、実の母の墓石をぺちぺちと叩きながら、あゆみはにっこりと笑った。 「お前、なんてことするんだ!? 姉ちゃんが痛がってるぞ!?」  とは言うが、怒っているようには見えない。  あゆみはこの数日間を共に過ごして、既に美加を家族の一員として認めてもいいと思うようになっていた。  ある時は健太郎と同じくらい親身になってくれ、ある時は誤解とは言えふしだらな健太郎から自分を守るために必死に向かっていってくれた。  これからもそうだという保証はない。だけど、頼れる人は少ないよりも多い方がいい。  実際は、母親というイメージがわかない。実の母の事もほとんど忘れてしまっている。だから、どちらかというと姉のような感覚だった。それも、悪くない。  そんなあゆみの照れ隠しが、実母の墓石をぺちぺちと叩く仕草だ。  これを見て、その真意がわかれば、怒る気分にはなれない。  健太郎は心の奥底でこっそりと姉に謝っていた。  そして、さりげなく娘にも詫びさせることにした。 「今日でしばらくお別れだ。しっかりと挨拶してあげて」 「うん」  実のところはどうかわからない。  姉にその愛らしい顔を思いきり見せていければ、それでいいと思う。  本当は一人で来たのだから。  色々考えて、これからの人生について自分だけが歩く道を決めるために…。 「さてっと! 最後にお父ちゃん、お母ちゃんの前で…」  突然あゆみは立ち上がり、かばんを開けた。 「お前、何でこんなもの…!?」  健太郎が驚くのも無理はない。  彼女がかばんから出したのは、野球のグローブとボールだった。  しかもグローブの一つは、健太郎がずっと大事にしてきたものだ。 「持ってきたんだ!」  あゆみは嬉しそうに、グローブとボールを健太郎に渡す。 「そんなことはわかるけど、どうして…?」 「だって… お父ちゃんに元気になってもらおうって思って…」  あゆみはこれまで、父親の嬉しそうな顔を何度も見てきている。  どうすれば父親の機嫌をよくすることが出来るかも知っている。  だから、このグローブとボールである。 「あゆみ… お前、キャッチボールなんて嫌いなくせに…」 「いいじゃない!? お母ちゃんに、親子仲良くやってるところ、最後に見せていってあげようよ!」  あゆみの言葉が胸の奥に響いた。  やがて、グローブの感触を確かめる。  はめるの、何年ぶりかな…  まだ自分の左手にぴったりとフィットする。  まるで年月を感じさせない。  そっか…  まだ俺は、ここから抜け出せていないんだ。  姉ちゃんからも、グローブからも、思い出からも…  そう、そうなんだ。きっとこれじゃ駄目なんだ。  ここまできたんだ。姉ちゃんとの約束なんて、きっともう守らなくてもいいんだ。  だから、全てを放り出してでも、俺は…  あゆみを守っていかなきゃだめなんだ!  目頭に熱いものが駆け巡っているのがわかる。  どう頑張っても、自分では止められない。  そんな何かがじわりと、健太郎の身体を動かす。 「そっか…」  慌ててあゆみと距離をとったのは、キャッチボールのためだけではないようだった。 「いくよ!」  ポニーテールを大きく揺らしながら思いきり投げる姿は、何処か姉の面影を残している様に、健太郎には見える。  事実、姿形は姉に瓜二つなのだ。  血は争えないものだ。 「あ、ごめん!」 「あゆみのへたっぴい!」  今思うと、姉は別に野球が好きだったのではないのかもしれない。  下手でも今日だけは楽しそうにボールを投げてくるあゆみを見て、そんな風に感じたのだ。  逆に、あゆみの方も母親の気持ちがわかった様な気がした。  あんなに楽しそうな父親の顔を見ると、何時間でも付き合ってあげたくなる。  そんな魅力が、健太郎の笑顔にはあったのだ。 「お父ちゃん、やっぱり上手いね?」  あゆみは感心しきり。  それに比べてあゆみの方は…  合わない大き目のグローブのためか、それとも天性のものか、とにかくお世辞にも上手と誉めることはできなかった。  それでもきちんとボールを捕ることが出来るのは、健太郎のコントロールのおかげである。黙っていても胸のあたりにボールが飛んでくるから、あゆみも落ち着いて捕ることができる。 「たとえばさあ、お父ちゃん…」  ボールを必死にあやつりながら、あゆみが声をかけた。 「佐倉のおじさんみたいに、プロ野球選手になる気はないの?」  ボールを受けた途端、健太郎は高笑い。 「ああ。もうそんな歳じゃないし、体力もないし、全然練習してないし… だめだな、やっぱり」 「でも上手だよ?」 「誉めても何も出ないぞ?」 「違うってば。でも、それだとお父ちゃん、お母ちゃんとの約束、破っちゃうことになるよ?」 「そうでもないさ…」 「どうして?」  目を丸くして問いかける。 「お前は姉ちゃんの本当の娘だけど、俺だって、お前の父親代わりくらいはやっていけているつもりだぞ?」 「そうじゃない! お父ちゃんは代わりじゃないもん! それに、あたしが言ってるのはそんなことじゃないの! 三つの約束だったんでしょ? 全部守らなきゃ…」  自分のせいで父親の大切な夢や人生そのものを奪ってしまった。  もう、大丈夫だから…  だからお母ちゃんとのもう二つの約束も守って欲しい…  そんな願いが、その言葉に込められていた。  知ってか知らずか、健太郎はにっこり笑って、もう一度あゆみへボールを投げた。 「大丈夫だよ。もっとも、一つはどうなるかわからないけどさ」