第二話 終わりはミスふたつ  七回表、二死一・三塁。  マウンドに立つ佐倉の顔は冴えない。  背負うエースナンバーが、やけに重く感じられる。  汗を拭うのも必死の形相である。  ふうっ。  ゆっくりと息を吐くと、その軽い反動で粘り気のある唾を、もどかしそうに飲み込む。  何で俺、こんなところにいるんだ…?  理由を知っているくせに、自分からそれを望んでいたくせに、彼は疑問を自分に投げかける。  そうだよな。馬鹿げてるよな。  ゆっくりとバッターボックスに入った男は、まるで窓から入ってきた猫を思わせる、流れる様な動作でゆっくりと自分の空間をつくる。  あいつだって、同じ高校生じゃないか。  ふと、好きな野球漫画の一シーンが脳裏に浮かんできた。  漫画の主人公だって、こういう時は打たれたりするんだよな…  いや、俺に限って、一発くらうなんてこと、あるもんか! 「タイム、お願いします!」  ごちゃごちゃと頭の中で余計な思いを巡らせている佐倉のそばに、近寄ってくる同じユニフォームの選手。  背番号は4。 「佐倉、どうした!?」 「何でもねーよ、健太郎」 「大丈夫か? そんな顔してさ」 「お前、俺を信じてねーな? 何年俺と野球やってきたんだ?」 「もう3年になるな…」 「そんなこと言ってんじゃねーっての!」 「そうか。大丈夫だよな、お前だったら。打たせるんだったら、俺のところにしろよ!」 「ああ。敗戦の理由になるからな!」 「勝手に負け試合にするなよ? まだ3点差だぜ」 「そだな」  いつもいつも、お前の声かけるタイミングはうまいよ。  親友のかけ声を得て、佐倉は調子づいたようだ。  県営球場は今、予想以上の熱気に包まれている。  緑ヶ丘高校 対 風見鶏高校。  4対1。  7回表、二死一・三塁。  一発というのは、こういうときに意外と簡単に生まれるものだ。  いわゆるすっぽぬけ、である。  ツーアウトと言えども、関係は無い。  ともかく、次のバッターを三振にして、7回表が終わる。  ベンチに戻ると、佐倉は激しい音を立てて腰を下ろした。  そうさ、俺が悪いんだよ。  だけどよぉ、なんだってんだ?  いくらすっぽぬけでも、7番がホームラン打つこたぁないじゃんかよ!?  ったく!  ごちゃごちゃと独り言を並べ立てる佐倉の隣に、健太郎が腰掛けた。 「まあまあ。まだ同点じゃないか」 「俺の気持ちも動転してるよ…」 「…」  笑うに笑えないダジャレに、健太郎は続ける言葉を失った。 「随分と余裕だな…」  きつい一言が飛ぶ。 「監督…」 「もういい。次は天草を出す」 「監督!? 俺、まだ…」 「スコアボードを見てから、もう一度言ってみろ」  佐倉は、監督から目を逸らすと、ぐっと口を結んだ。  色々な言葉が佐倉の頭の中にうごめいていた。  だが、どれもきちんとした言葉にならない。  苛立ちが苛立ちを呼び、悔しさは大きくなる。  自暴自棄になる自分すら嫌いになってしまう。  自分でもすっかりお手上げの状態になった。 「佐倉…」  そんな時、肩をポンと叩いて、隣にいた健太郎が声をかける。 「負け投手にはしないって。まかせとけよ、俺達に」 「健太郎…」 「あ、勝利投手の権利もないか」 「お前なあ…」  七回裏、風見鶏高校、三者凡退。  八回、両校無得点。    そして九回表、風見鶏高校、いや、健太郎自身にとって、運命のときがやってきた。  一死、二・三塁。  はっきり言って、この場面は先程佐倉と変わってマウンドに立つ天草の独壇場である。  先頭打者をあっさりショートゴロに打ち取り、気を良くしたのか、気を抜いたのか。  立て続けに長打を浴び、図太い神経で通っていた天草も、落着きを無くしているようだ。  やたらとマウンドを踏みならす。 「おい、天草…?」  健太郎が駆け寄るが、マウンドの主は親友の時とは違う態度を示した。 「お節介はやめて下さいよ、先輩」 「でも、お前、球がうわずってるぞ!?」 「そんなこと、ないですよ… それとも、佐倉先輩なら、打ち取れたって、言いたいんじゃ、ないですか?」  緊張を隠しきれず途切れ途切れに、だが天草は確実に言いたいことを言う。 「何、言ってんだよ。俺はお前を…」 「それより、自分の心配を、したらどうなんですか?」 「?」 「次は先輩に、打順が回るんでしょ? せいぜい、逆転ホームラン、でも打って、みてくださいよ」  少々険悪なムードのマウンドに、他のチームメイトも駆け寄った。 「おい、ここにきて、それが先輩に対する言葉なのか?」 「だったら、何なんです? 余計な心配を、かけに来たなら…」  ここにいる誰の目にも、緊張のあまり落着きを失っている後輩の苛立ちが、はっきりとわかる。  かと言って、どうしようもないのだ。  天草だけではない。  ここにいる皆が、同じ思いなのだ。  だから、言葉が出なくなる。  健太郎ですらどきどきとしている。  こんな気持ちになるなんて。  真摯に、真剣に、素直に野球を続けて来た証拠である。  ただ、勝ちたかった。  いや、負けたくなかった。  それだけでここまで来た。  がむしゃらに、やれるだけのことをやってきた。  気がつけば準々決勝。  軟弱な県立高校野球部が、ここまで来たこと自体が不思議なのだ。  下手な励ましや「ファイト」等という陳腐なかけ声では、彼らの熱い思い、震える戸惑いをコントロールすることは出来ない。  ここで健太郎が本領を発揮する。 「いつもの元気がないな。交代するか?」  その言葉に、はっと我に帰る天草、チームメイトも何かに気付く。 「俺の、責任なんだから、俺が、オトシマエ、つけりゃ、いいんでしょう?」  息を吹き返したかの様に、むきになる瞳に、まだ大丈夫だというメッセージを読み取った健太郎は、集まっていた野球小僧達にもう一声かけた。 「頼むぜ、みんな。もうちょいだからさ」  皆、この言葉に励まされた。  そして不思議と、すうっと肩の力が抜けていく気がした。 「おっし。もうちょっとふんばるか!」 「うまくいきゃあベスト4だもんな」  思い思いの台詞を口にして、散っていくナインをよそに、健太郎は少々気がかりだった。  天草、気負いしてなきゃいいけど…  予感は的中した。  いきなりの初球攻撃。  一・二塁間を破ろうかというライナーに、健太郎は思いきり飛びついた。  取れる!  取ってみせる!  取るしかないんだ!  普通に立っていると腰かへその高さに来る打球。  横っ飛びのタイミングはぎりぎり。  取るな!  緑ヶ丘高校の生徒の声が聞こえてくるようだった。  いや、本当に聞こえていたのかもしれない。  が、健太郎の耳に入るはずがない。  セカンドを守る彼の頭の中には、左手にはめたグローブで打球を取った時点で、体勢を立て直して一塁へ投げるという動作のことしかなかった。  大丈夫!  バックホームも出来る!  相手もそれを恐れて走ってはいないはずだ!  ボールがグローブに入った感触を得た。  よしっ!  健太郎は横っ飛びの体勢を立て直そうと、左手とボールとグローブを地面に叩きつけた。  うっ!  左手首に負担がかかってしまった。  はあうっ…!  小さな声で、気合いを入れ、慌てて立ち上がり、一塁へグローブをはめた左手からそのままトスでボールを投げる。  一瞬、スチール写真を見ているような気がした。  その写真にはベースを走り抜ける打者の姿と、浮いているボール、そしてボールを待ち詫びて大きく開いたファーストのミットだけが写っていた。  ゆっくりと瞼が開いていく。  見慣れた天井、見慣れた蛍光灯。  小さなアパートの二階。  安月給で住める場所は、かなり郊外の、こんな小さなアパート位のものだ。  二人で住むには、はっきり言って狭い。  朝6時、男が一人目をさます。  夢は終わった。  寝起きの大沢は、布団をはねのけると額の汗を拭う。  今日もまた、仕事漬けのいやな一日が始まる。  でも…  久々に見たな、あの夢…  最近疲れてたから、ちっとも見なくなってたんだよな。  …いいよな、やっぱり。  身体を起こす。  ぼーっとした寝ぼけ眼が、小さな窓の向こうの朝日をまだ捉えることはできない。  その瞳の奥に、まだ昨日の出来事がくっきりと焼き付いている。 「一所懸命って、いいことですよね!?」  そうか…  いいことだよな。  でなきゃ、久々にこんな夢見るはずないもんな。  ありがとう、森下。  完全に立ち上がると、パジャマのままぐっと背伸びをする。  ん、んんーっ!  30分程で身支度を整え、パンをかじりながら毎朝の最後の儀式を行う。  自分の隣の布団でまだ眠りについている女の子に、必ず小さな声をかけて行くことである。  じゃあ、行ってくるな、あゆみ。  満員電車の中でも、馴れると立ったまま眠れるようになるという。  大沢はいつまで経っても馴れないらしい。  もみくちゃになって、足を踏まれ、中年おやじのくさい吐息を浴びて、どうやって眠るんだろう?  それにしても…  彼は夢の続きを思い描こうとしていた。  あのあと大変だったよな…  でも、やるだけやったんだから…  ああ、ここで眠れればいいんだけど…  残念な気持ちでつり革を握る大沢だった。 「今日の大沢さん、どこかぼーっとしてないか?」 「そうですかね。いつも通り仕事を… なるほど、言われてみれば」 「だろ? 何かあったんじゃないか? 俺には関係ないけどな」  デスクワークとは、半分がおしゃべりの様なものである。  少なくともこの会社、この部ではそうである。  西村と坂田は、わざわざ自席を離れての話しぶりだ。  当の大沢はといえば、確かに気の抜けた顔をしている。  それでも、仕事をこなしているところが、立派といえば立派であるのだが。  てきぱきと手元の資料をまとめていく。  課長の変な質問も適当に答えていく。  あの課長と話すと疲れるんだよな…  ため息混じりに、椅子に座る。  ちらりと見やったのは、ある女子社員の席。 「頑張るって、いいことですよね…?」  ふと、昨日の美加の真剣な眼差しが目に浮かぶ。  そうか。  そうだよな。  頑張るって、いいことだよな。  今朝の夢がまた思い出される。  なんか、熱いな、俺…  仕事がもどかしい。  この席にいることすら苛立つ。  はやる気持ちを抑えることができない。  またため息混じりに立ち上がると、こっそりとその場を抜け出す。  その一部始終を見ていた西村と坂田は、これ幸いとばかり肩の力を抜く。  プレッシャーがなくなったのだ。  席に戻りながら、西村の方から話し始めた。 「なあ、坂田。さっきの大沢さん、ぼーっとしながらどこ見てた?」 「…森下さんの方、ですね」 「気の抜けた顔をしてたよな?」 「…そうですね」 「森下のやつ、下むいちゃってよ、ねんねぶりやがって」 「…何が言いたいんですか?」 「感づいてるくせによ」 「そんなんじゃないでしょう?」 「そんなのって、どんなのだよ?」  大沢のいない時は、西村の天下である。坂田は逆らうことができない。  それにしても…  坂田はうつむく美加をじっと見つめた。  大沢ほどさりげなく見やるということは出来ない。  美加の方は、仕事で手一杯といった風だったが、彼女もまたどことなく気の抜けた雰囲気が見え隠れしている。 「頑張るって、いいことだよな」  こちらも同じ言葉に胸を打たれていた。  そうなんですよね。  いつも手抜きばかりしてて、ぼーっとしてるけど。  そんな私でも、頑張ればいいんですよね。  資料の整理が今の彼女の仕事だが、思うようにはかどらない。  こんな時こそ、頑張る時ではないのだろうか?  だけど…  ちょっとした苛立ちと戸惑いを見せる美加を見て、西村は小声で坂田に話しかける。 「おい、森下のやつ、何か考え込んでるぞ?」 「そ、そりゃあ、そういうこともあるでしょう? 一大事かも…」 「なあに、大したことじゃないんだぜ、きっと。だからよぉ…」 「な、何ですか、一体!?」 「ばっかじゃねーのか? ここでいい顔しときゃ、後々お前の有利な展開になるぜ、多分」 「冗談じゃないですよ、そんなこと!」 「だけど、あれじゃ仕事にならねーぜ」  西村の言う事も一理ある。 「…」 「ほら、ごちゃごちゃ考えてないで、仕事手伝ってきなさいよ」  さすがはお局様である。いきなりの片岡の横槍に、少々驚きながらも納得し始める。  そうだ、仕事を手伝うんだ。 「あ、あの…、森下さん?」  そろりそろりと近づいてきた坂田に、気のない返事を返す。 「…はい?」 「仕事、手伝おうか?」  その坂田の言葉に目がさめたような気がした。  そうだよね。  ぼーっとしてちゃ、みんなに迷惑かけちゃうんだ。  頑張るんだよね、こういう時は。 「あ、いえ、結構ですから」 「いや、その、俺、暇だしさ… 何か忙しそうだったから」 「大丈夫ですよ! 一人で出来ますから、きっと!」 「あ、そう…?」  元気一杯の彼女の返事に、否応なしに坂田はひき下がってしまう。  いやに明るく振る舞うので、不思議と西村や片岡までもが納得してしまう。  二人の狙いは、どちらかがいやな顔でもしてくれればという程度の、ただの冷やかしだったのだが、あまり面白くはなかったようだ。 「あのさあ、これ、どうやったらいいのか、知ってる?」  手伝って欲しいのはこっちのほうだ。  昼下がりのオフィス、大沢は頭を掻く。 「いいですか、課長。これは、ここを選択するんですよ」 「そ、そう? でも、何か変だね。そう思わない?」  別に思わない。  大沢はこの課長を好んでいるようには見えない。  機械の操作が苦手なこの男に、機械の事を尋ねてくるのだから、どこかぬけているとしか思えない。  変に言い寄られて、先程までの熱い気持ちが台無しである。  大沢のいらいらがつのる。 「すみません、課長。次の打ち合わせがありますから」  そんなものはなかったのだが、どうせ何を言っても良くわかっていなかった。適当にあしらえばいい。  とにかくこの場を離れたかった。 「いや、ちょっと待って。あのさあ、さっきの会議の事なんだけどさあ」  それがどうしたというのか? 「さっきの会議の資料は中西さんにまとめてもらっています」 「あ、そう。それじゃあさあ、あの時のさあ、ほら」  何なんだ? 「何かわからないので、お答え出来ませんね」 「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあ、昨日の…」 「昨日の定例会議のアクションアイテムは、もう相手先の課長に送付済みです!」  そろそろ大沢の方は限界に来ていた。  どうしてそれを見抜けないのだろうか?  それとも、そんな大沢を見て何か面白いことでもあるのだろうか?  徹底的に要領が悪く見えるのが、この課長の特徴であった。  その間抜け課長の気まぐれな一言が大沢の胸に、今までの懐かしい思い出とは別の炎を燃やした。 「そういえば大沢君、君、結構付き合い悪いね」 「全部答えてるでしょうが!? これ以上何を受け答えする必要があるって言うんですか!? 馬鹿な台詞もいい加減にして下さい!!」 「でも、君が…」 「あなたと付き合う程、女性に困ってはいません!!」  ありったけのふざけた言葉を課長にぶつけた後、そそくさとフロアを抜け出した。  元々大きな声が、苛立ちを伴うと凄まじい大音響となってしまう。  係長、社員はおろか部長にまで聞こえている。  普段人前ではなかなか出ない、ユーモアセンスのないジョーク。  課長には胸にささる台詞だったが、もうひとり、胸を痛めた人物がいた。  そう、他ならぬ森下美加である。  女性に困っていない…?  どういう場合に使われる言葉かは、当然美加は知っていた。  だけど…  何が何だかわからないうちに、美加もフロアを出た。  外に出れば、落ち着くかな。  屋上に出た美加は、偶然そこに大沢の姿を見る。  それは、どこか遠い目をする、一人の青年である。  爽やかでもある。  華やかでもある。  だが、どこかはかなげでもある。 「あ、あの…」  美加は、近寄り難い雰囲気を悟りながらも、大沢に近づいていく。  声に気付いた大沢は、ゆっくりと振り返る。 「ああ、森下か。何か用かい?」 「いえ、別に…」  うつむく美加に、大沢は独り言の様につぶやいた。 「気持ちいいよな? こんな都会でも、外に出るってさ」  そうだ。  確かに気分はいい。  それはそうだけど…  またも向き直った大沢は、まるで目でため息をついている様に、外には見せない疲れを放出しようとしている  頑張ってる…  大沢さん、頑張ってるんだ…  何を頑張っているかはわからないが、彼の隠された内面の部分、誰にも気付かれない頑張りを見抜いているような、いい気分がした。  上司に一言言いたくなった。 「頑張りましょう、お互いに!」  思っていたことがすっと言えた時、気まずさが漂うこともあるが、いい気分を作り出す。  いい天気にしては、何処か乾いた気分のする屋上の風だった。  屋上から降りる時、大沢は用事があると、そのまま階段で下の階へ行こうとする。  彼には、恋人どころか女友達すらあまりいない。  だから、こんな風に、一人でいることも多い。  どこか寂しさが漂う背中に、美加の心が揺れる。  美加は、思いきり落ち着いて、大沢に問い正す。 「あ、あの…」 「何? まだ何か用?」 「あのう…恋人は、いらっしゃいますか!?」  な、何を…?  大沢は思わぬ質問を受けて、完全に身体の動きが止まる。  そうだろう。  いい天気に外にいただけである。  突然そんな事を言われる筋合いはこれっぽっちもない。  俺をいじめるにしては、ちと度が過ぎる。  だけど、真剣に聞くにしては、あっさり過ぎる。  一体、何なんだ…? 「す、すみませんでした!」  彼の横を駆け抜けていく美加。  あまりの素早さに、ただ大沢は呆然とするばかり。  何故…  どうして大沢さんに…  あんなこと言っちゃったんだろう…?  階段を降りながら、美加は自分を責める。  でも…  あれからちょくちょく目に浮かぶ理江の揺れる小指。  うさぎのぬいぐるみを見てる時に見せた笑顔。  そして「頑張るって、いいことだよなあ」  美加の心は大沢の事で一杯だった。  だから、どうしても知りたかった。  人の心を無視する様な態度を取った事が、あるいは大沢を傷つけてしまったかもしれない。  それも、承知の上だ。  階段から廊下へと出る。  足取りが重い。  前に行くのも辛いが、後ろへ戻るのはもっと辛い。  後悔もたくさん生まれていた。  余計な事だったかもしれない。  自分にもいいことじゃ無い。  だけど…  絶対、うわついた気持ちじゃ無い!  ちゃんと聞いてみたかったから!  廊下を抜け、ドアを開ける。  美加はそっと、フロアに戻った。  自席に座ると、ずっと下を向いたまま、唇を噛んでいた。  何故…?  どうして…? 「なあ、あゆみ?」  狭いながらも楽しい我が家。  テレビのスイッチを入れる。  見る番組は、プロ野球界伝統の一戦。  ビール片手に大沢が問いかける。 「俺に恋人、いると思う?」 「え〜っ!? そんな人いるのぉ?」 「そうだよなあ。いるようには見えないよなあ」 「どうしたの? 会社で何かあったの?」 「別に。おっ! 原が出てきた!」 「でも、いてもおかしくないと思うけど」 「あっ、駄目だなあ。ホームランボールだぞ? えっ、そうか?」 「まーたひとの話を聞いてない!」 「悪い悪い」  大沢が会社での疲れをほぐすには、こうやってほろ酔い気分で、テレビの野球中継を見るのが一番らしい。 「たまに早く帰ってきたし、あゆみとの晩御飯とビールとG−T戦、うん、たまらないなあ!」 「まったく。どっちが先に聞いてきたかわかってるの?」 「ちょ、ちょっと後で。ああっ! 何ボール球に手を出してるんだ?」 「ふぅ…」  あゆみと呼ばれた女の子は、遠くから呆れかえったようにため息をつく。  ま、いいか。  久しぶりに早く帰ってきたんだしさ。  でもって、野球中継がコマーシャルに入った途端に、 「なあ、あゆみ。さっきの事だけど…」 「えっ? 何?」 「恋人がいるように見えるかって事」 「いてもいなくてもいいよ、別に」 「つれないお言葉」 「やけに気にしてるんだね? やっぱり何かあったんでしょ?」 「聞かれたんだよ」 「はぁ?」 「恋人がいるかってね」 「誰に?」 「後輩、部下になる女子社員に」 「あーっ! それってもしかして…!」  興味津々とばかりに、居間兼食堂兼寝室の狭い部屋になだれ込んできた。 「そうだよ! 絶対間違いない!」 「な、何がだよ、あゆみ?」 「そりゃあ、決まってんじゃない!?」  さも自信ありげに、あゆみが大声を張り上げる。 「気があるんだよ、きっと!」 「なっ、何を…」  あわてて顔を背けようとする大沢の前に回り込んだ。 「…テレビ、見えないんだけど」 「だって、そうでなきゃ、あからさまに聞いてきたりしないと思うよ」 「あのなあ… あからさまに聞いてくるくらいだから、俺は反対に何でもないと思うんだけどな」 「違うんだよねえ。やっぱりわかってないよ、うん」 「じゃあ一体、どう違うんだよ!?」  大人げなく、むきになって聞き返すTシャツ・トランクス男に、ポニーテールの女の子は口を横一杯に広げてはにかんだ。 「ふふっ、今の女の子は進んでるんだよ! 自分から聞くくらいに積極的でなきゃ、彼氏の一人もできないんだよね」 「あゆみ、嘘ついてるだろ…?」  疑いのまなざしを向ける大沢の肩を、ポンポンとあゆみが叩く。 「ま、どうお考えになってもよろしいですけどね…」  いいようにからかわれているような気になり、大沢は内心穏やかではない。 「嘘はついちゃだめだぞ」  吉村のホームランも目に入っていないようだった。  夜、狭い部屋。  2人分の布団を敷くともう他のものを置く空間はない。  あゆみは、もう眠っていた。  大沢は、彼女の右隣の布団に潜り込む。 「今の女の子は進んでるんだよ!」  妙にくっきりと、あゆみの言葉が脳裏に浮かぶ。  いつからこんなにマセたことを言うようになったんだろう?  白々しく、あゆみのことを考えたりしながら、やはり違う女性の横顔を思い浮かべてしまう。 「恋人は、いらっしゃいますか?」  そんなことってあるか?  どうしても、美加の顔からは色恋沙汰を思い描くことはできない。  やっぱりあれだな。  そう、俺は西村あたりにからかわれているんだ。  森下を使って俺をコケにするつもりだろう。  どうぞ御勝手に。  そうは思ってみたものの…  あゆみの寝息を聞きながら、寝付かれない大沢は、何やらよくわからないむかつきの様なものを感じていた。  夢は、見れそうにもない。 「どうしたんですか? 突然呼び出したりして」  美加の、やや迷惑そうな言葉に、坂田はあわてて取り繕う。 「ああ、いや、その、いい天気だねえ」 「?」  昼下がり、美加はいつかと同じ構図で屋上に立っていた。  確かにいい天気ではある。ぬけるような青い空まで同じだ。 「ああ、ごめん。でも、最近、君があんまり元気がなかったから…」  そう、あの日から2週間。  美加はあまり誰かと話すこともなく、物静かな日々を送っていた。  大沢とも、仕事関係の話題以外は言葉を交わしていない。 「何かあったの?」  優しい坂田の問いかけに、美加は彼への質問を思い付いた。 「坂田さん…男の人って、こんなことを聞かれると、困ったりするものなんでしょうか?」  な、何のことだ?  坂田は思いがけない展開に焦りをみせた。  彼はある大事な用の為に美加をここへ呼んだのだ。  かなり重要な話である。  従って、今日彼は相当な決意を持って出社してきたのだ。  質問する立場のつもりだったが、逆に質問されようとしている。  何が何だかわからなくなってきていた。  そんなこともつゆ知らず、あくまで自分本意に美加が質問を続けた。 「例えば、好きな人はいますか?って聞かれたりすると、困るものなんでしょうか?」  どうしてこんなときにそんなことを聞くんだろう?  彼にとって、これほどタイムリーな言葉はなかった。  ど、どうしよう…  いや、違うんだ。  これは一般的な質問であって…  でも、気のない男にこんな質問するか?  じゃあ、気のある男として答えるのか?  でも一般的なことを求められているとすれば…  うーむ。  大沢とはまるで逆の悩み方をする坂田は、思い切って答えを導き出した。 「俺は、困らない。はっきりと言えるけどなあ」 「じゃあ、坂田さんは恋人がいらっしゃるんですか?」  つくづく罪作りな女である。 「え、ああ、あの、そのことで、ちょっと話が…」 「やっぱり、言えないんですね…」 「そうじゃなくて」 「いいんです。やっぱり迷惑な話なんですよね」  思いつめたような素振りでつぶやく美加の背中は、坂田にはとてもいとおしく思えた。 「あ、そうだ。私に用事があったんじゃないんですか…?」 「…」  言葉を失うのも当然だ。  もう、完全に彼女のペースにはまってしまっている。 「いいよ、もう」  なげやりな態度で、坂田は屋上を後にした。  その場で、首をかしげる女性がいた。  何が何だか、さっぱりわからなかった美加だった。  やっぱり、だめだったんだ。  あんなことを唐突に聞くのは。  でも…  やっぱり知りたい。  彼女はそんな自分のわがままな欲求を満たせず、少なからず苛立ちをおぼえていた。  聞きたいものは聞きたいのだ。  その理由は…  美加は気付き始めていた。  自分の気持ちに正直になりかけている。  このことをずっと気にしていたのはわかっていた。  だとしても、知ってどうするの?  そう。  もし、大沢さんに恋人がいたら、それだけのことだけど…  いなければ、どうなるの? どうするの?  いや、恋人がいても、本当にそれだけのことなの?  …違う。  それだけのことじゃない。  やっぱり私は…  気持ちが決まると、勢いよく走り出す美加の気持ちだった。 「これ、榊さんのところへFAX」  気のない口調で美加に書類を手渡す大沢。  わざと目を合わさないようにしているところが、どこか大人げない。  こんな彼の態度を美加が初めて見たのは、あの一件のすぐ後だ。  やっぱり、謝ろう。  でも、知りたい! 「大沢さん!」  足早にその場を去ろうとした大沢は、力強く呼び止められ、びくりと驚いたように身体の動きを止める。 「な、何か…」  言葉がどもる大沢に、美加は大きな声で用件を述べる。 「後で話があります!」 「あ、ああ…」 「こんなところで言うのもなんですから、『ねこじゃらし』で」 「はい…」  一瞬の出来事。  まさに、電光石火である。  大沢は、わけがわからずにただうなずくことしかできない。  そんな青年とは対照的に、美加の方はすっきりとした顔で自席に座る。  どこか楽しそうな感じさえする。  目を白黒させながら足を進める大沢を見て、彼と同じように怪訝そうな顔をする人達がいた。 「何だぁ?」と、西村。 「何なのかしら?」と、片岡。 「何なんでしょうか?」と、坂田。  自然と3人は、フロア入口のドア付近に集まる。 「すげえ勢いだったじゃんよぉ」  興奮気味の西村は、やたらとまくしたてる。 「あの大沢さんが”びくっ”としちゃってよぉ」 「ほんと、なかなかやるじゃない、あの娘」  片岡に至っては感心しきりである。 「大沢さんに天敵出現ってところ?」 「ほんと、どうなっちゃってるんだ?」  坂田は2人とは少々驚き方が異なる。 「あんな人だったのか…」 「ん? 何だ?」  素早く西村が反応した。 「お前、今の森下の態度、気にくわないってのか?」 「気にくわないとか、そんなんじゃなくて、ただ…」 「ただ…?」  西村の誘導にまんまとひっかかる坂田は、今の率直な気持ちを打ち明けた。 「ただ…何か、彼女も普通の女の子なのかなって思って…」 「何よ、それ? あれが普通の女性の態度だっていうの?」 「違うんです。その…彼女は、もっと、その…」 「俺は十分普通じゃないと思うぞ、あれは」  西村の何気ない独り言に、思わずうなずく片岡だった。  そっとドアを開ける。  あゆみに気を使いながらの、いつもの大沢の帰宅風景である。  早く帰ることが少ない彼にとっては、さして不思議ではない。 「今日も遅かったね…?」  あくびまじりのあゆみの声にかぶせる様に、大沢がつぶやいた。 「あゆみ、まだ起きてたのか?」 「うん。なんか眠れなくてさ…」 「じゃあ、そのあくびは何だ?」 「へへっ…ちょっとね」  はにかむ口元が可愛い。  パジャマ姿でのお出迎えである。  長い髪はポニーテールではなく、そのまま流している。 「それより、どうしたの? 神妙な顔しちゃって」  大沢の顔をのぞき込むしぐさが一瞬彼を驚かせる。  やけに色っぽく感じたからだ。 「あゆみ、お前… いつからそんなに色気付いたんだ?」 「? 何よそれ!?」 「…んなわけないか。疲れてるんだな、俺」 「ああ、そう。いいですよ、別に」  こういう時の彼女は、大沢より大人っぽい態度をとる。 「で、そんなジョークをとばす位だから、なーんかあったんでしょ? 白状しちゃえば?」  何がジョークなのかさっぱりわからないが、一枚上手の話しぶりで大沢を問いつめる。  部屋に敷き詰められた布団に腰を下ろすと、大沢はまるで独り言の様に話し出した。 「森下が、聞いてきた。『恋人はいますか?』って」 「こないだ聞いた様な気がするけどなあ、その話」  独り言にも、あゆみは一応相槌を打つ。 「今日も聞かれたんだ。喫茶店のカウンターで。で、こっちも疑問に思っていたことを聞いてみた」 「何て?」 「俺をからかってるのか? って」 「…ダメだ、こりゃ」 「彼女、もの凄い剣幕で怒り出した。『そんなんじゃない!』って」 「そりゃあ、そうだろうね。あたしでも怒るよ」 「そんなもんか?」 「そんなもんだよ。だから素直にあたしのアドバイスを受けとけばいいのに。きっとその人、大真面目だったんだよ」 「かもな」  小さな上弦の月が綺麗な夜。彼の、愚痴とも相談事ともつかない独り言が続く。 「ま、あんまり怒った様に見えるから、何も言えなくなってさ」 「ふうん、随分気まずい状態だったんじゃない? その時」  あゆみにたしなめられ、大沢は頭をポリポリと掻く。 「まあな。で、森下が『もしいなければ』って言ったから…」 「言ったから…?」 「『いる』って答えた」 「嘘ぉ?」 「ほんと」  あちゃーっ とばかりに、あゆみは頭を抱える。 「本当は、好きなんでしょ?」 「…」 「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」 「…」  あゆみの言う事がいちいちもっともだったため、言い返せない。  大の大人が、こうなるともう子供である。 「…恋の終わりはミスふたつ、ってわけね。その森下さんってひと、かわいそうだよ、こうなると」 「やっぱり、まずかったのかな、あゆみ?」 「大いにまずかったね、これは」 「そうかな…」  会社では見せたことのない、落ち込んだ顔を見せる。  自分もまずい事を言ってしまったと気付いたあゆみだが、今更慰めるというのもおかしい気がして、何も言い出せない。  ここでもしばらくの沈黙があった。  気まずい。  目覚まし時計の針の音がやたらと大きく聞こえる。  下手にため息でもつこうものなら、はっきりと相手に聞かれてしまうだろう。  気を使う間柄でもないのだが。  やがて、時計の針が12時を指した時、大沢が口を開いた。 「もう寝よう。遅いから」 「ねえ…」  先に声をかけてもらうのをずっと待っていたらしく、すぐにあゆみが問いかけてきた。 「ねえ… ほんとに好きだったら、一所懸命に謝ってさ…」 「もう、いいよ」 「でも…」 「もういいって。お前がいればな」  あゆみはこの言葉を、複雑な気持ちで受けとめた。  もしかして、あたしのせい…?  あたしがいなければ、もしかして…? 「さあ、もう寝よう」 「うん…」  あゆみが眠りについた後、大沢はこっそりと部屋を出た。  夜空の下、静かな歩道をのんびりと歩く。  が、その態度とは裏腹に、内心穏やかではなかった。  俺、森下のこと、そんな風に思っていたのか?  先程のあゆみの言葉を思い出し、頭を傾げる。 「本当は、好きなんでしょ?」  言われてみれば、そういう気もする。  でも、少し違うような気もする。  本当は…  街灯の下で立ち止まる。  本当は、何だろう?  大沢も一つや二つは恋をした。  女の子と付き合ったこともある。  だから、これが恋なのかどうかくらいはわかるつもりでいた。  だが実際は、これが何なのかを、彼自身がよくわかっていない。  もし。  もしもだ。  俺が森下のことを好きだとしてだ。  森下と付き合うとすると、あゆみはどうなる?  自分の言葉に、何か大きな衝撃を受けた。  真剣に悩み始めたため、大沢は街灯の下で立ち止まったまま動かない。  今まで考えもしなかったな、そういうこと。  重要な事だよな、これは。  あいつ、強がってる様に見えるけど、本当のところはわからないからな。  今が違うとしても、これから先、今のままじゃいられない…  薄暗い街灯越しに、夜空を見上げる。  彼の勤める会社のあたりから見るよりも、遥かに綺麗な星空が広がる。  いや、今のままでいいと、思う…  またゆっくりと歩き出す。  森下も、どうして俺なんかを好きになったりするんだろう?  明日会ったら、どんな事を言えばいいんだろう?  許してほしいとは思わない。  だけど、彼女が傷ついたとしたら、責任は俺だから。  あゆみの事もあるし。  そうか、そうだな。  きちんと話をしなきゃいけない時が来たんだ。  森下にも、あゆみにも…  九回裏。  5対4。  一死1塁。  まだ絶望的ではなかった。 「3番、セカンド、大沢君」  バッターボックスに立った男は、無表情だった。  俺が招いたピンチだからな。  責任果たさなきゃ。  とはいうものの…  左手首の痛みはひかない。  九回表のあのけがだった。  だけど、こんなことで夏を終わりたくないよな。  もちっとばっかり、もってくれよ。  別に、4番の並原に期待していないわけじゃない。  だけど、俺が一点返しておけば、並原で逆転さよならだ。  あ、俺、夢を見てるのか。  大沢は眠りながら、わざわざふとそんなことを考えていた。  そういえば、あの時も…  楽しくて切なくて、じーんと来るこの気持ち。  目をさます必要はなかった。  もう少し、夢を見ていればよかったからだ。  まだ目を覚ます時間ではない。  一点くらい取れるさ。  あのピッチャーからだったら…  目の前で投手交代になるまで、彼はそう思っていた。  参った。  2球続けてのストレート。  いい球だ。球速もかなりのものだ。  まともにいっては、今の自分じゃ無理だ。  少々自身なさげにベンチを見やる。  監督のサインは強行策だった。  だめなんだなあ、この左手じゃ、多分。  しょうがない。ちょっと攻撃方法を変えるか。  バントの構えを見せる。  彼の独断だった。  駄目でもともとだよ。  とりあえず、2塁へランナーを進めればいい。  右打席に立てば天下無敵と名高い彼も、公式戦初のバント攻撃に挑む。  彼は、こういう時の判断力に優れている。  今までも、何度も監督のサインを無視してチームを勝利に導いているのだ。  だが、今は違う。  どきどきしている。  試合でこんなにどきどきすることはなかった。  そう。  俺が招いたピンチだからな。  さっきと同じ台詞を頭に思い浮かべる。  責任感もある。  だが、右手の握り具合がいつもと違うのを感じ、何か心踊るという感じだ。  マウンド上の相手高校の投手を見つめる。  さすがに驚いたようだ。  こっちも胸が高鳴る。  嬉しいよ。  こんな気持ちになるなんて。  多分、次は外して来るだろうから、その次で勝負だ。  おいおい。  手首が痛いのはわかるけど、そこでバントは駄目なんだよ。  夢でくらい、バット持ち変えてみろよ!  大沢は、夢の中の右打者に少々強めの、祈りにも似た声をかけてみる。  聞こえるはずもない。  そうか… やっぱりな。  ま、やるだけやってみな。  小さなため息混じりに、エールを送る。  だって、今のお前、一所懸命だもんな。  バットが何故か軽く思えてくる。  何だ、軽いじゃん!?  そう感じた瞬間、もう投手の右手からはボールが離れていた。  まさか!  嘘だろ?  ストレート!?  バットはもう前に出ていた。  ふと、視界に2塁を目指すランナーの姿が入る。  落とす!  出来るだけ3塁側に転がす!  ガツッ!  感触はあった。  それどころか、左手首に痺れさえ感じた。  それらを無視し、彼は目先を1塁へ向けた。  もう、1塁へ全速力で走る事だけを考えるつもりだった。  だがすぐに考えを変える。  彼の目の前に、ボールが浮いていた。  あわてて出したバットが、ボールを弾くようにして突き出されたのである。  結果、ボールは高くではないが、転がすどころか浮き上がるはめになった。  顔よりも高い位置まで上がり、瞬間止まった様に見える。  そのすぐ横を、彼はがむしゃらに駆け抜けた。  ドキリッ!  走りながら、今までに感じたことのないほど大きく、心臓が脈を打った。  懸命に投手と捕手が駆け寄る。  取るな!  気持ちはみな同じだ。  ベンチのみんなも、応援してくれているみんなも、そして姉さんも!  痛いほどにわかるみんなの気持ちを背負い、ただボールが落ちることだけを信じて、相手校の投手と捕手を背にした。  取るな!  大沢はまたも夢の中で叫んだ。  そのつもりだった。 「うるさいなあ!」  あゆみの声で大沢も目をさます。 「まったく。全然寝られやしないよ!?」  ほとんど目の開いていないあゆみに、大沢はあわてて謝る。 「悪い悪い。ちょっといい夢見てたからさ」 「ちょっと…? さっきまで考え込んでたり落ち込んでたりしてたのに、もうこの調子?」  あゆみは呆れ返って、さっさと二度寝に入った。  それから結局寝付かれず、大沢は半分寝たまま諦めて家を出る。  通勤途中の電車の中で、彼はずっと一つのことを考えていた。  美加への接し方である。  夕べのあゆみとの会話で気付いた事がある。  大沢は、美加に恋をしているのである。  おかげで、眠さ半分だが、胸の鼓動は結構激しい。  また、真夜中の散歩で考えたことがある。  美加と特定しなくても、誰かと付き合うとなると、あゆみの存在が大きい。  お荷物というわけではない。  あゆみの気持ちを考えた事が一度もなかったのだ。  その事に気付くと、彼自身も内心穏やかではなくなる。  さらに、夢の中で学んだ事がある。  今まで”ここ一番”という時、彼の判断は何故か裏目に出るという事だ。  大沢健太郎という男は、そういう男だ。  そして、今がその”ここ一番”という時だと感じていた。  とすると、今日の美加への接し方がとりあえずの問題である。  うーむ。  どうするか…。  やっぱり、あゆみの言う通り、一所懸命に美加に謝るしかないか。  仕事は出来るが、こういうことは下手な男である。  会社の自席につくなり、真っ先に美加の席を見る。  いない。  彼女、いつも、遅刻はしないよな…?  始業時まで、あと3分ある。  ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。  その程度で落ち着くとも思えないが、とにかく今は何でもやってみるしかない。  いろいろと頭に詫びの文句を思い浮かべる。  この3分が長い。  彼の性格では、さっさと謝ってしまう方がすっきりするのだ。  待つということは、どうしても耐え難いらしい。  つい美加の席のあたりをうろうろとしてしまう。  その時… 「あの、何か仕事ですか?」  優しい女性の声がして振り向くと、そこには片岡が立っていた。  彼女の席は美加の席の向かいである。  気になったのだろう。  上司が自分の席の近くをうろうろしているのだから。 「い、いや、その…」  そわそわする上司の態度を見て、片岡は即座に気付く。  ははぁ、なるほど。  それじゃあ… 「大沢さん!」 「えっ… あ、何?」  白々しく振り向く大沢に、お局様と呼ばれる彼女はにやり。 「森下さん、今日は休むそうです」 「あ、ああ、そう…」  それは仕方無しとばかりに、ぷいと背を向けて自席に向かう大沢を見て、片岡は何かを掴んだ気がした。  そういうことか。  彼女にとって、何故か気持ちのいい朝となった。  始業時になっても、確かに美加は来なかった。  大沢は仕事にならないといった風に、ボールペンを指先で回し始める。 「あのう、大沢さん」  近藤が仕事の相談に行っても、どこか上の空。 「大沢君、悪いんだけどさ、ちょっとこれ、見といてくれる?」  胡散臭い課長の仕事も、二つ返事で易々と引き受けてしまう。  そんな大沢を見て、坂田はこう思う。  この前の、森下さんみたいだ…  あながち外れてはいない。いい読みである。  だが、本当はそんなことより、坂田にとっての重要問題は別にある。  そう、彼も美加が会社に来ていないのを気にかけている男の一人である。  どうしたんだろう…  休暇願も出していないのに…  もしかすると、事故か何かにあっているんじゃ…!?  心配さ余って顔面蒼白の坂田に、耳打ちをする女性がいた。 「ねえねえ、どうして大沢さん、あんな風になっちゃったか、知りたくない?」  片岡である。 「知りたい知りたい」  西村が割り込む。 「あのさあ、実は、『森下さん、今日は休むそうです』って言ってやったの」 「それで、ああなったってことか? それじゃあ…」 「そう、大沢さんって、きっと…」 「なるほどなあ。いつも目をかけてたわけだ」 「でしょ? この前の時だって、彼女だけ…」 「あの…」  実は一箇所以外は、二人の会話は全然耳に入っていなかったらしい坂田である。 「森下さん、今日はお休みなんですか?」  残念そうな坂田に、そっと片岡が事情をばらした。 「そうなんですか?」  何だかよくわからないが、彼女の耳打ちに納得したようだ。 「まあね」 「それにしても、片岡さん。人が悪いなあ」  得意げになっていた彼女は、坂田の一言が少々気になったようだ。 「何言ってんの? あんたに協力してあげてんのに」 「協力、ですか?」 「お前、鈍いなあ。俺らの話、聞いてたか?」 「いいえ、全然」  これは何としたことか。  呆れた西村の事細かい説明が続く。 「おい、近藤! FAX送れたか!?」  30分もすれば、大沢もいつものペースに戻る。  仕事は個人の感傷等には構ってはくれない。 「す、すみません。まだ…」 「何だ、まだ送れてないのか!? 榊さんのところには、今日中に送っておいてくれよ!」  ふうっ。  自席に腰を下ろし、フロアの休憩室の自動販売機で買った缶コーヒーを開ける。  何だか、かえって落ち着いた気分である。  朝からあれこれ考えていたことが、全部吹っ飛んだ。  余計な憂いがすっかり抜け去り、口にふくむコーヒーがうまい。  不謹慎だとも思う。  だが人間は、どこかで楽になりたいと願っているものである。  気付かないうちに楽するための努力を続けているものである。  彼は今、精神的に随分と楽になった。  午後の会議も、いい発言が出来そうだ。  会社にいる時は、あくまで仕事を優先させる男である。 「おい、坂田! 昨日までのリサーチの結果、早くまとめろよ!」 「は、はい…!」  坂田はいい返事をしておきながら、報告書とその資料を机に置いたまま席を立つ。 「片岡さん、片岡さん。今朝言ってた事と随分違う様な気がするんですけど」 「うーん、そうねえ。意地になってるかもしれないし…」 「そんなあ。じゃあ、謝った方がいいんじゃないですか?」 「何言ってんの! あんたのためって言ったでしょ?」  部下の話の内容にも特に興味を示さず、大沢は黙々と仕事を進める。  机の下から、お得意の旧式ワープロを取り出して、文書作成に集中する。  その姿は滑稽であり、この部署の名物ともなっている。 「また大沢さん、ワープロ始めたの?」  かなり広いフロアの端から、こんな声が聞こえてくるところからも、大沢の華麗かつ豪快なキーさばきがうかがえる。  やがて、キーが止まると、さも疲れたとばかり、ゆっくりと立ち上がり、 「森下、これFAX…」 と言ってから気付き、顔を赤らめる。 「そうか… 休みだったっけ…」  背中がさみしい思いがした。  そんなにさみしく感じなくても…?  大沢は不思議な気がした。が、どこかで感じたことがある。  まるで、あゆみが旅行に行った時みたいだ。  あの時は、確かにさみしかったよなあ。  椅子に腰をかけ、感慨深げに缶コーヒーを手に取る。  あ、なくなったのか、中身。  ふう。  軽い息抜きの気分で、席を外した。  ちょっと、トイレがてらコーヒーを買いに行くか。  大沢が立ち去った後、坂田はまた片岡の席まで歩み寄る。 「なるほど。何となくわかってましたけど、やっぱり…」 「どうしたの? 自信無くなった?」 「そ、そういうんじゃなくて、その…」  自動販売機では、缶コーヒーは全て売り切れていた。  仕方無く、大沢は隣にあるカップ式自動販売機でコーヒーを買う。  ここ休憩室はタバコの匂いがするので、タバコ嫌いの大沢は長くいることはない。  さっさとコーヒーの入った紙コップを持って、歩き出した。  その時… 「あっ、すみません!」  大沢は休憩室のドアを出たところで、人とぶつかった。  内開きのドアなので、少々気をつければわかると思われるが、どこか気のない素振りの大沢は、辺りに気をつけているはずがない。  だが、ぶつかってから、気をつければよかったと、大いに後悔する事になる。 「森下…?」 「あ、大沢さん…」  続けておはようございますというつもりだったのだが、美加は言葉を失ってしまった。  大沢のカッターシャツ、右脇腹には茶色のしみ。  誰が作ってしまったかは明白である。  昨日からの成り行きも輪をかけて、気まずさが漂う。  互いに言葉が出ない。  しばし、二人してじっとその場に立っていた。  謝らなきゃ…  焦る美加。  何か言わなきゃ…  こちらも焦る大沢。  仕方無く、むりやり美加の腕を引っ張り、休憩室に連れ込む。 「痛い、大沢さん…!」  都合良く、休憩室は誰もいなくなっていた。 「あ、悪い悪い」 「あ、いえ、悪いのは、あたしの方ですから…」  確かにぼおっとしていたのだ。たとえその原因が昨日の大沢の台詞だったとしても。 「いや、俺の方だよ。君じゃなきゃこんなに驚いたりはしないから…」 「はい?」  結構運動神経のいい大沢が、実際人とぶつかったくらいでコップのコーヒーをこぼしたりはしなかった。そういう自信もあった。  自分自身、余程の驚き様だったことを苦笑する。  そうそう。自分の台詞で気付いたことがある。 「それにしても、森下、今日は休みじゃなかったのか?」 「えっ? 今朝は銀行に用事があるから遅れるって、片岡さんに連絡しておいたんですけど?」 「あ、あれ? そうなのか? …片岡の話、聞き間違えたのかな」  そうだ。  休暇かどうかを調べる方法は、いくらでもある。  壁際の行先表示板にも、フロアのドアすぐの所にある出欠票にも、どこにも美加が休みだとは書いていなかったのだ。 「そんなことより、そのカッターシャツ、早く何とかしないと…?」 「ああ、こんなのは昼にクリーニングにでも出せばいいさ」  あっさりとカッターシャツを脱ぐ。  その下は、結構パリッとしたTシャツである。 「でも…」 「どうせ安物だから。それより、昨日は…」  半ばどさくさに紛れて、大沢が話を切り出す。  だが、先程までその事については忘れていたので、うまく話す事が出来ないようだ。 「その、昨日は、嘘ついてて、その、昨日の、嘘は、その」 「嘘って…?」 「嘘なんだ。付き合っている女性なんていないんだ。だから、その」 「そ、そうなんですか?」  大沢の思い込みとカッターシャツのしみ。  どうやら気まずさの終わりも、大沢のふたつのミスだったようだ。