やめる、ということ 「Hi! あいむそーりーね! ワタシ、ちょっとこの前の日曜日、 用事あって、いけなかったの!! You,Understand?」  はあ、そうですか…  金髪女性の軽い挨拶に、渋々顔を見合わせる弓道部2年一同。  失礼、潤一郎はにこにこしているから、一同ではない。  この弓道部顧問、アリス=クレイヴァーという女性は、冷やかし 程度にしか練習を見に来ない。  この前の市民体育大会にも、一度も顔を見せなかったのである。  圭太は、「その割には水曜日だけは欠かさず練習観に来ますね?」 という質問をしてみたくて仕方なかった。  言わないのは、どうせ「Oh! 学校来てる日だから当たり前ね!!」 などと言われるのがオチだとわかっていたからである。  そういうもんじゃないだろう?  みんな同じ思いなのだが、何しろ前任が前任だっただけにあまり アリスに期待してもいけないとさえ考えている。  これは潤一郎も同意している。  何しろ、部活存続のための単なる形式だけの顧問なのだから。  だが、こうも無責任な態度を取られ続けては、部活全体の連帯感 も何もあったものではない。  一から成り上がった弓道部。別に顧問がいなくても部の運営自体 には問題はない。  それでも、顧問の印鑑、彼女の場合はサインだろうか、そういう ものがいる時もある。  毎日学校に来るわけでもなく、連絡すらつかない事もあるので、 結構困っているのが実状である。  それでも、水曜日にだけは必ず顔を出す。  おかげで潤一郎は水曜日が一週間で一番楽しい日になっていた。 「今日はどんな練習するのかな? ワクワクするね!?」  何もしないなら、観に来なきゃいいのに…  何となく彼女に対して、詩歌は小さな苛立ちを覚え始めていた。 「やめる?」  突然のことに、詩歌は目を丸くした。 「…はい」 「どうして? ねえ、どうして、三上さん?」 「…」  申し分けなさそうに、三上直子はうつむいたまま黙っていた。  弓道部一年。まだ入ったばかりである。  対立関係で一触即発の危険をはらむ「まり・悠有梨」や、やたら と目立つ「麗ちゃん親衛隊」と違い、詩歌にはまだ直子の事が把握 仕切れていなかった。  もっとみんなのことをわからなくちゃ。  そう思っていた矢先の事だった。  だからこその驚きである。 「ねえ、別に怒ってるわけじゃないんだからさぁ…」  そう言葉にする詩歌の目は、明らかに優しさを失っていた。 「でも…」  放課後の練習前。  部室に詩歌しかいないのを見計らっての、彼女の行動。それが、 精一杯の勇気だったのだ。  だが、そんな後輩の気持ちなど見抜けるはずもなく、詩歌は執拗 なまでに問いただす。 「ねえ、何? 何が不満なの?」 「そんな、不満なんて…」 「練習がきついの? 弓道がつまんない?」 「だから、そんなことじゃ…」 「じゃあ、どんなこと? 誰か気に入らない子がいるの?」 「違います…」 「…もしかして、あたし?」 「そんな! 全然違います!」 「だって、他に理由なんて、ないじゃん…」 「違うんです! ほんとに、私の身勝手で!」 「言えない理由ってことね… もういいわ…」 「それじゃあ、私…?」 「理由も聞かずにやめさせるなんで出来ないじゃない…」  詩歌は強引に直子を追い出し、部室のドアを閉めた。  一体何が不満なの?  こんなに楽しい部活なのに…  でも…  これじゃあ、まるで、あたしが悪者だよ…  やっぱり、こんなあたしが嫌いなのかなぁ…?  人知れず自己嫌悪に陥る詩歌だった。 「おーい、圭太! コロッケハンバーガー買ってきたか!?」 「ああ。一個だけな」 「そっか。早くくれよ!」 「は? 俺のだぞ?」 「何言ってんだ!? 俺が買ってこいって言ったんじゃねえか!」 「買ってきたのは俺。じゅんは代金も渡してくれなかったし、ほれ、 代わりのやきそばパンも買ってきてやったんだぞ!?」 「て、てめえ! よこせ! 俺のだ!!」 「何だよ、やめろって!!」  相変わらずバカっぷりを見せる圭太と潤一郎。  昼食時にバタバタすると、周囲の人から怒られるぞ? 「あ、杏子ちゃんのお弁当箱、変わったんだね?」 「わかったの? 麗君、こんなものも、見てるのね?」 「うん。杏子ちゃんの持ち物は何でも知ってるよ?」 「私も、麗君の物、何でも知ってるの… お互い様ね?」  こちらも相変わらずの麗と杏子。  すっかり仲直りして、今では顔を合わせる度に互いに笑顔を返し 合っている。  そして… 「麗ちゃんせんぱーい!! お昼ですよーっ!!」  やっぱりいつも通りの菫、美樹、小百合の「麗ちゃん親衛隊」。  騒がしいことこの上ないが、最近は麗も堂々としたものである。  そんな中、いつも通りではない者がいた。  詩歌である。 「みんな、先に食べてて…」  せっかく昼食用に机を並べたにも関わらず、そっと席を立った。 「あ? どうしたんだよ、詩歌?」 「ちょっと、今日はいいの…」 「はあ? ったく、しゃあねえなあ。んじゃ、いっただっきまーす!」 「おい、詩歌… あっ! 俺のコロッケハンバーガー!!」 「かたいこと言うなって! よそ見してる方が悪いんだぜ!」 「今日のしいちゃん、どこか、変…」 「そうだね、杏子ちゃん… 何だか元気がないね」 「今日だけじゃねえよ。ずっとあの調子さ…」 「さっすが圭太。よく見てるじゃんか!」 「な、何だよ!? 別に、関係ねえよ!」 「むきになるなって」 「ねえ、ちょっと…」  みんなとの昼食を放り出して、詩歌が顔を出したのは… 「あっ、詩歌! 元気してたかな?」  2年4組である。  ある意味無二の親友である相原香織の存在を求めたのだ。 「今日、お昼、一緒に、いい?」 「別にいいけど… 屋上に行こっか?」 「うん…」  と、そこまで話をつけて、香織は首を傾げた。 「あれ? 弓道部の連中は? まさか集団下痢とか?」  ひどいことを言う女の子である。 「ちゃんと来てるよ…」  ここで、ようやく香織も気がついた。  随分元気ないじゃん?  いつもなら「ひっどーい!」とか言いそうなもんなのに?  香織はさらに、次の詩歌の一言で、全てを察する。 「あたし、部長失格だよ…」 「何それ? そういうこと?」  屋上のドアを開ける。  先客がいたがお構いなし。  5月中旬の穏やかな陽射が、詩歌には眩しすぎるくらいだった。  運動場の見える方のフェンスまで近づくと、香織が先に腰を下ろ す。 「人がいるけど、まあ、いいか。とりあえず、深呼吸しなよ」  香織に言われるままの詩歌。  すぅっと、一息に空気を吸い込むと、ゆっくりゆっくりと、息を 吐いていく。 「詩歌は喘息持ちだもんね。あんまり大きく深呼吸できないか」 「そんなことないけど…」 「無理しない無理しない」 「…うん」  肩の力が抜けていくのがわかった。  ここが、逃げ場なのかな、あたしの。  そんな風に考える自分を、詩歌はいとおしく思った。 「あんちゃんや麗ちゃんや圭太に、何でも話せる、打ち明けられる と思ってた…」  潤一郎が入っていないのは、意外と冷静な判断をしている証拠。  まだ切羽詰まっていないことに香織は少々安心した。 「でも、こういう話、圭太達には言えなくてさ…」  堰を切ったように、詩歌は三上直子の事を話し始めた。  話を聞き終わった時、サンドウィッチをほおばりつつ思わず頷く 香織だった。  なるほど… 確かに詩歌の性格じゃあ、圭太君達には言えないか。  悩んでたんだろうなあ、詩歌。  だけど、ちょっとおかど違いなんだよね。  だって、それは弓道部の問題だし、本当は… 「あんまり他人の事言えないんだなあ、あたしも」 「香織?」 「あたしさあ、やめたんだ、バイト」 「えっ?」 「あたしもちょっと、わけありでね」 「普通、わけありなのはバイトの方だと思うけど…?」 「違うんだなあ、それが」 「ふうん… でも、いいんじゃないかな、それはそれで」 「あれ? 詩歌、あたしはよくて、後輩のその子は駄目なの?」 「あ…」  ほんと、どうして?  なんで香織はよくて、三上さんは駄目なの?  迷う詩歌。  香織は校則違反のバイトをやめる、三上さんは部活をやめる…  そうだよ! 部活は続けるべきだよ、絶対!  でも…  何が良くて、何が悪いのか、よくわかんなくなってきた…  複雑な気持ちの詩歌だった。  その日の放課後、詩歌と圭太は職員室に呼ばれた。 「圭太、あんたまたなんかやらかしたんでしょ? 最近はクラスが 変わったからよく知らないけど、また黒板にパンチ一発とか?」 「んなわけねえだろ? もう自宅謹慎は御免だからな。それにお前 も呼ばれてるんだから、弓道部の事じゃないのか? ちぃーっす」  気のない挨拶で職員室のドアを開けた途端、先生達が一斉に指を さす。 「は? あ、来賓室ね」  ポン! と手をたたく詩歌。  はぁ? と首を傾げる圭太。 「何だ? 来賓室って、俺達来賓か?」 「お客様ってことでしょ?」 「俺達に、か?」 「知らないよそんなこと。とにかく、先に入ってよ、圭太」 「はいはい… ちぃーっす」  またも気のない返事で入った圭太が目にしたものは… 「ちゃんと役員をしてもらわなければ困るんですけどね?」  という怒鳴り声と、 「それは我が校としても重々承知している事ですけれど…」  という情けない声だった。 「おい、詩歌…」 「うん、見た事ある、あの人…」  対面している二人共、彼らには多少なりとも面識のある人物。  片や、彼ら風見鶏高校の校長。  片や、県高校弓道協会の役員である、加藤哲夫。  ちなみに、県立竹城高校の弓道部顧問でもある。 「おお、君達か」  圭太達に気付いて視線を合わせる加藤。  どちらかというと、圭太達は視線を逸らしたかったが、情けない 表情の校長を見るとそうもいかない。  促されるまま校長の隣に座る。詩歌も合わせて座った。  途端に、矛先は圭太達に向けられた。 「君達の学校だけなんだよ? 高校弓道協会の名簿に一人も顧問の 名前がないのは」 「は、はあ…」  そうだっけ?  一瞬悩む圭太だったが…  そういえば、アリス先生って、うちの学校内では決まってたけど、 何とか協会とかには全然言ってなかったっけ?  小さく舌打ちする圭太。  気まずい顔で圭太を睨む詩歌も、どうやらほぼ同じ思いらしい。 「顧問はいるんだろう? 君達の部に」 「あ、はい。そりゃ一応いますけど…」 「それはもちろん!」  急に校長が会話に割って入る。  どうやら味方が増えたのが彼の気を大きくさせているらしい。  随分調子のいい校長である。 「だから、顧問の先生を出せと言っているんです! 直に会って、 きちんと話がしたいんですよ!」 「それが…」  急に校長がしり込みする。  あまり大声で言えない事情なのは確かなのだが…  結構頼りない校長である。 「あの、加藤先生…」  今度は情けない校長を差し置いて、圭太が会話に割って入る。 「ん? 何かね、的場君?」 「あの、ですね… うちの顧問って、非常勤講師なんです」 「それでも別に構わないんじゃないのか? 非常勤でも部活に来て いれば」 「それが… 用事があるとかで、水曜日にしか来られないんです」 「それはそっちの都合だなあ」  どうやら圭太達の事情など、理解する気はさらさらないようだ。 「とにかく、次の試合までに役員登録してもらう必要があるから、 よろしく。もし駄目なら、次の試合から出場を停止してもらうので」  げげっ!!  次の試合って、「国体・インターハイ予選」じゃんか!?  出られなくなったらまずいじゃん!!  そそくさと立ち上がり、来賓室を出る加藤先生の背中を恨めしそ うに見つめていたのは、圭太だけではなかった。  そんなの、ないよ…  詩歌の怒りが爆発しそうだった。  実際爆発するのに、そう時間はかからなかった。 「あ、あの、先輩…」 「三上さん…」  部室の前にじっと立っていたのは、三上直子だった。 「あれ? どうしたの? もうすぐ練習始まるけど?」 「的場先輩、ごめんなさい… 私、わたし…」 「は? 君、何か俺に悪いことでもしたの?」 「だって、だって…」 「ちょ、ちょっとこっち!」  詩歌が直子の手を引っ張る。  部室の裏まで回り込んだ。 「ねえ、どうして? どうして理由が言えないの!?」 「あの、私…」 「ちゃんとした理由があるなら、あたしも止めないの。ねえ、何が 理由なの?」 「だから、理由なんて…」 「理由もないのにやめるなんて、絶対おかしいよっ!? やりたい ことがあるからうちの部に入ってきたんじゃないの!?」 「でも、私… 言えません」 「もう、誰も彼も! あたしに無理難題ばっかりふっかけて来ない でよっ!!」 「あ、先輩!」 「詩歌…」  いくら裏に行ったって、中から聞こえるんだよなあ…  先に部室の中で着替えながら、圭太は肩を落とした。  部室を出ると、来た時と同じ様に、直子がぽつんと一人で立って いた。 「あれ? 詩歌は?」 「先輩、どっか行っちゃいました…」 「ふぅん… ちょっと、いいかな?」 「は、はい?」 「あれ? 詩歌ちゃんは?」  弓に弦を張っていた麗が、直子と共に部室から歩いてきた圭太に 気がついた。 「ちょ、ちょっとな。何か用事なんだろうけど。三上さん、今日は もういいよ」 「はい…」 「は?」  その場に居合わせた潤一郎、麗、杏子は、圭太の行動に皆一様に 不思議がる。 「あの、圭太君… 女子部のことは女子部で…」 「わりい、あんず。でも、いいんだよ、あの子の事はさ…」 「それより、何だったんだよ、さっき呼ばれたのはよぉ? あっ、 お前またなんかやったな? 停学処分が…」 「あのなあ…」  じゅんのやつ、詩歌と同じ事いいやがるな…  とは言え、前科持ちの圭太、言い返す言葉もない。 「それで圭太君、何の用事だったの?」 「やっぱり、弓道部の、こと…?」  圭太はちょっとだけ迷った。  言うべきか、言わざるべきか、それが問題だ…  だけど、俺だけの問題じゃないしな…  ごちゃごちゃ考えても始まらないか!  思い切って、圭太は来賓室での話を一部始終話した。 「あんにゃろーっ!! 今度の試合には絶対引っ張ってきてやるか らなっ!!」  潤一郎が美人の女性に対して文句を言うのは余程の事だ。  何しろ次の試合は先程も述べた通り「国体・インターハイ予選」 である。  別に、彼らが国民体育大会や高校総合体育大会に出場したいと、 本気で思っているわけではない。  もちろん、まぐれでも出場出来れば嬉しいだろうが、今度の予選 はそれを上回る、今年のこの試合にしかない理由があった。  南高の高岡・桜田達との最後の試合なのである。  当然、圭太達が部活をやめるわけではなく、高岡達、南高3年生 部員の引退ということである。  最後とはいっても、大学や社会人の大会で巡り合うこともあると 考える人もいるだろう。  だが、それでは、特に圭太達にとっては意味がない。  同好会創設以来いろいろお世話になっていて、ここまで部活動を 続けることが出来たのは、ひとえに高岡・桜田のおかげなのである。  さらに、杏子に至っては「真剣にお手合わせ願いたい」と桜田に 言わしめている。  そんな人達との最後の試合…  圭太達は何かと世話になっている割には実力が伴っていない。  おまけにエースである杏子も、残り少ない試合の内、前回は麗と のこともあり散々な体たらく。  もう、圭太達の望む「恩返し」を行うためには、後がないのだ。  それを、たかが顧問… いくら弓道協会にとっては大問題でも、 彼らにとって「たかが顧問」の問題で、出場停止にされてはたまら ない。  こういうことに意外と熱くなるのが、潤一郎だった。 「おい圭太、アリスんちに行こうぜ!? こうなりゃ直談判だ!!」 「それがお目当てか…」 「ば、馬鹿! そんなんじゃ… ったく、しゃあねえなあ!」  言った後で気付いたらしい。一人で納得している。 「次の日曜日、俺と詩歌だけで行くつもりだけどさ」 「はあ? こういう事は5人揃っての方が…」 「部長だけでいいんだよ!」 「そう言わずに、な?」  すっかり初期の目的を忘れてすがり寄る潤一郎。  憂鬱な視線を圭太に送る詩歌がようやく来たところで、この話は お開きとなった。 「なあ、詩歌…」  圭太が小さい声で話しかける。 「あの三上さん、だっけ? 彼女の話なんだけど…」 「もういいのっ! そのことはっ!!」 「お、おいっ、詩歌! そんなでっかい声出すなよ!」 「えっ? あっ!?」  思わず二人して顔を赤らめる。  今、圭太と詩歌は電車の中にいた。  日曜にしては客が少ないとはいえ、聞かれて恥ずかしくない程の 人数ではない。 「ばか詩歌! 俺まで恥かくじゃねえか!」 「だって…」  膨れっ面を見せる詩歌。  結構この顔に圭太は弱かったりする。 「…ま、いいか。それより詩歌、三上さんのことだけど」 「やめるって、言ってたけど、わけを言ってくれないの…」 「そうみたいだな」  圭太の言葉には反応せずに、詩歌はガクンとうなだれた。 「わかんない、三上さんのこと…」 「そうか? わかる必要って、ほんとにあるのか?」 「え? どういうこと?」 「…何でもない」 「ねえ、ちゃんと教えてよ! どういうこと、それ!?」 「何でもないって。それにしても…」  結構田舎まで来るもんだ…  駅に下り立った圭太は、今乗っていた電車の先に線路が無い事を 確認すると、何故か寂しい気分になった。  詩歌も呆れながら、きょろきょろとあたりを見回し始めた。 「なぁんもないね、圭太?」 「ほんとだ…」  大きな大きなバスターミナルを横切る。どうせバスなんか一台も とまってはいないのだから。  とにかく、手にした地図を頼りに歩き始める。 「信号、ないね?」 「そうだな…」 「車、通らないね?」 「そうだな…」 「なんか、気持ちいいね?」 「そうだな…」  遠くに幹線道路が見える。  山の中の町など、そんなものである。  こじんまりとした家々が、ぽつぽつと並んでいた。  ここか…  20分程歩いた二人がようやく辿り着いたのは、それなりに古い アパートだった。  2階への階段を上がると、すぐに目的の部屋についた。  表札は「須藤武彦」。  顔を見合わせる二人。  「須藤」…?  不思議がるのも無理はなかった。  彼らが訪ねる予定の相手は、少なくともこういう名前ではない。 「ちょっと、これ、ほんと!? 間違い無いよね!」 「い、いや、その、あってると思うんだけどな、多分…」 「あんたね、ちゃんと確かめてきたの!」 「んなこと言ったってよぉ… 俺だって色々忙しくて…」 「ばか圭太! いい加減なことばっかり言って! だからこの前の 実力テストも散々だったんじゃない! もう面倒見切れないよ!!」 「…! そこまで言うことないだろ!?」 「何よ! ほんとの事でしょうが! それに、ほんの少し調べたら 済むことだったんじゃない!?」 「だったらお前がやれよ!? 俺だってここまで調べて…」 「あたしは三上さんのことで忙しかったんだもん!」 「逃げ出しただけじゃないかよ! 大体彼女は…」 「ひっどーい!! あたしは一所懸命に考えてたんだからね!!  ああもう!」  ガチャ… 「Hi!?」  ドキッ!  ゆっくりと首を部屋のドアへ向けた二人は、ほっと胸を撫でおろ した。  顔を覗かせたのは、彼らの顧問、アリス=クレイヴァーだった。 「Oh! キュードー部のみんなね!」 「は、はぁ…」  やけに明るいお出迎えに、詩歌はいぶかしげにアリスを見る。 「ま、みんなっていっても、二人だけですけどね?」 「それでも嬉しい! さ、Please Come In!」 「は、はい…」  促されるまま中に入る二人。  ドキッ!  2DKの一方の部屋に入った二人は、またも驚いた。  うわぁ…  じゅん(君)、連れて来なくてよかった!  二人揃ってそう直感したのは… 「マァム、誰、このお兄ちゃん達?」 「だれだれ?」  この、青い瞳の二人のおチビさん達を見て、である。  お子さん、いたのね…?  そう思った詩歌は、突然不思議な気持ちになった。  …あれ? どうしたんだろう?  何だか、いらいらしてたのが、急になくなっちゃった。  だってさ、この子達…  そうか、わかっちゃったような気がする。全部じゃないけど。 「かわいいお子さんですね!? 先生と旦那さんのお子さん、です よね?」 「Yes、そうよ。ワタシ達の愛の結晶です!」  …そうあからさまに言われてもなあ。  圭太は頭を掻いた。  対して、うんうんとやけにうなずく詩歌。 「じゃあ先生って、ママなんだ! ほんとかわいいなぁ!」 「でも、この子達、いろいろ世話に手間がかかるのねぇ… 近所に 保育園もないし、今日もこれから買い物があるんですけれど…」 「そうですか… あっ!」  にやりと無気味な笑みを浮かべる詩歌。  こういう時はやっぱり、よからぬ悪巧みを思い付いた証拠である。  彼女は大きなジェスチャー付きで、ある提案をした。 「先生! そういうのにうってつけのがいますよ!?」 「ま、まさか!?」  そう、のけぞった男こそ… 「そ。この的場圭太って男、なかなかのハウスキーパーなんですよ?」 「Oh! Housekeeper! いわゆる家政夫さんね?」 「嘘だろ…?」 「掃除とかもしといてね、圭太! あたし、買い物手伝うから」 「あのなあ、おい、詩歌!?」 「そうだ、先生、あの『須藤武彦』さんって、先生の旦那さん?」 「Yes! ワタシの愛しい旦那さんね?」 「ふぅん、そうなんだ。その割に名前がアリス=クレイヴァー…」 「ほんとの名前は『アリス=須藤』でーす!」 「はぁ。そーゆーもんですか。旦那さん、今日は?」 「Oh! タケヒコ、びじねすまんだからいつも日本中をのびのび 駆け回ってまーす!」 「のびのび、ねぇ…(絶対間違ってると思う、その言葉)」  実はかなり遠いが、一応駅前と名の付くスーパーから、買い物袋 を下げて詩歌とアリスが歩いていた。 「ワタシ、23で今の夫と結婚しましたの。でもワタシ、それまで やってた仕事、引っ越しの都合で辞めることになったのね」 「ここへってこと?」 「Yes! これくらい田舎だと、何とか暮らしていけるのね」  歩きながら、詩歌はわざわざぐるりとあたりを見回した。  なるほどね… 「一応タケヒコのお給料で十分食べていけるのね。だけどワタシ、 どうしても今の仕事辞めたくなかった…」 「先生の仕事…?」  こくりとうなずく先生を見て、さらに納得した気分になった詩歌 だった。 「子供の頃からの夢だった、好きな事だった… リンダやマイケル には悪いけど、毎日隣町の保育園に預けて… Oh!」  突然声を裏返すアリス。いちいち大袈裟な身振り素振りである。 「そんなことより詩歌ちゃん、今日のみんなの用事、何ですか?」 「そっか。そうだったね。実は…」  意外にも、申し訳なさそうに詩歌がいきさつを話す。 「そうですか…」  寂しそうな瞳に、詩歌の心は熱くなる。 「責任とれない顧問は、駄目ね。ワタシ、辞める、みんなの部活の 顧問…」 「そんな堅苦しく考えること、ないんじゃないかな?」 「…? Why?」  問われて詩歌は、今度は照れ臭そうに話を続けた。 「あたしね、先生… 今日先生の家に来るまで、ずっと先生の事が 嫌いだった。全然部活を見に来ないし、たまに見に来ても冷やかし みたいだったし、試合なんて何も考えてないみたいだったから…  だけど、今日来て変わった。先生の事がわかったんだもん」 「詩歌ちゃん…」 「子供を育てるって、大変だもん。あたし、わかる。あたし、喘息 持ってるから、小さい頃からお父ちゃんやお母ちゃんに迷惑かけた もん。そんなお父ちゃんやお母ちゃんの苦労を見てるから。でも…」 「でも?」 「出来れば弓道部の顧問、やめないで欲しいな?」 「Oh! Thanks,Shi−ka!!」  アリスが詩歌を抱き寄せる。  ぎゅぅっと抱きしめられた詩歌は、思わずその手から買い物袋を 落としてしまった。  割れた玉子の音よりも、自分の心臓の音の方が大きく聞こえた。 「Hey! けいた!!」 「きゃははっ!」 「むぎゅーっ! お前らなぁ!!」  まさに、買い物から帰ってきた  ばたばたと上から飛び乗られて身動き出来ない圭太が、詩歌達の 目に飛び込んできた。  やはり彼はこういうことに長けているらしい。 「Oh! リンダ! マイケル!!」 「あ、いいのいいの。圭太はあーゆーの慣れてるから。あ、圭太、 アリス先生の件、かたがついたから」 「?」 「寄ってくか? ねこじゃらし」 「うん」  多少疲れた様子の圭太と詩歌は、馴染みの喫茶店へと向かった。  ちなみに、詩歌はそのためにわざわざ途中で電車を降りた。家に 帰るにはあと6駅ほど電車に乗っていなければならない。 「あれ? 香織は?」 「あ、やめたんだって、バイト」 「ふぅん、そうなのか… あいつがねぇ?」  意外そうにつぶやく圭太に、事情を知る詩歌は得意げになる。 「そんなもんでもないよ。あの娘ねえ、ちょっとやることが出来た んだってさ。だから…」 「なあ、詩歌」 「ん?」  夕焼けを背に、圭太は詩歌に話しかけた。 「ほんとは言わないつもりだったんだけどさ、三上さんが弓道部を やめる理由…」  途端に口をつむぐ詩歌だったが、圭太の言葉は止まらない。 「本当は陸上部に行きたいからなんだってさ」 「…」 「小学校の頃からずっと陸上やってて、陸上の名門高校にも特別に 推薦してもらえるくらいだったらしいんだ。でも、思ってた高校に は結局別の人が推薦受けることになって、悔しくて、落ち込んで、 何の役にも立たない陸上だったら、やめてしまおうと思ったらしい。 だから、適当な部活に入って、いい加減に続けようって思っていた らしいよ。でも、部活に一所懸命な詩歌を見て、このままじゃ迷惑 をかけてしまうってさ」 「…」 「そんな真面目になることもないのにな、俺達の部活でさ」 「あたしさ…」  ようやく口を開く詩歌。 「今まで何かをやめたってこと、あんまりないから… その代わり、 何かを始めたってことも、あんまりなかったけど…」  注文していたクリームソーダとチョコパフェが来たが、二人とも まだ手をつけなかった。 「だから、始めるってことはわかったけど、何かをやめるってこと は、全然わかんなかった…」 「詩歌…」 「やめるっていうの、勇気がいることなんだ。それに、始めること も、続けることも、きっと…」 「かもな」 「アリス先生、前に一度仕事をやめたこと、とっても辛かったって 言ってた。あたし、子供を育てている親って、すっごく尊敬してる。 だけどそのためにやりたいことをやめるなんて、いいことだなんて 思えなかった。だから、正直言ってよくわかんなかった」 「そっか…」 「だけどさ、何かを始めるためとか、何かを続けるために、何かを やめなきゃいけないこともあるよね。だから、三上さんのことも、 今だったら何となくわかる。彼女のことを、あたしが勝手に決める なんて、出来ないもん」 「そうだよなぁ…」 「そうだよね…」 「始めるのも、続けるのも、やめるのも、自分の決断一つなんだ。 自分で決められるってことは、すごいことなんじゃないかな?」 「圭太…」 「ほら、さっさと食べろよ? 食べるのも食べないのもお前の決断 一つだけどさ。食べなきゃ俺が食っちまうぞ?」 「うん。じゃあ食べようっと。もちろん、圭太のおごりでね!」 「あ、あのなぁ…」 「ただいま〜」 「ちょっと、どこ行ってたのよ、圭太!」 「は?」  帰ってくるなり、いきなり姉の望に呼び止められる圭太。 「光と青葉、今晩よろしくね?」 「何だよそれ…」 「あんた最近弓道部とかで光達の面倒ちっともみてくれないじゃな いの! 今日は久々に大学時代の友達と呑む約束してるんだから。 泣かしたりしたら承知しないからねっ!!」  嘘だろ…? 「けいた、あーそぼっ!!」 「あーしょぼっ!!」  俺ってやっぱりこういうの、得意なのか…?  頭の痛い圭太だった。 「ほんとに、お世話になりました…」 「あのね… 別にお互い悪いことしてるわけじゃないんだから」  ほんの少しでも先輩と後輩の関係だった二人。  握手も自然に出た。  ちょうどそこへ部室から着替えて出てくる圭太達。 「あれ? 三上さん、やめちゃうの! 残念だなあ?」  潤一郎が女の子に対して言うと、もっともらしく聞こえる。  ものはついでと、去りゆく後輩へ一人ずつ言葉をかけた。 「俺達とすれ違っても、逃げたりしないで挨拶くらいは交わそうな?」 「そうそう。可愛い子見つけたら紹介してくれよ!」 「部活が違っても、お互い頑張ろうね!」 「陸上部での、活躍、期待してるわ、私…」 「…」  詩歌は、ぺこりと頭を下げた。 「今までごめんね、三上さん。あなたを苦しめてばかりで… それ と、ちょっとだけでも、弓道部に入ってくれて、ありがとう…」 「先輩…」 「わがままだってわかってるけど… お願いだから、あたしのこと、 嫌いにならないで、ね?」 「…はい!」