Please Come In! 「じゃあな、麗。今日は帰らないから、しっかり留守頼むぞ?」 「うん、父さん。気をつけて…」  ピンポーン。  ドアベルが鳴ったため、玄関に近い方がドアを開ける。 「はい… おや、どちらさん?」 「あ、あの、私…」 「麗、さっき言ってた友達か?」 「誰? 杏子ちゃん…?」  大きな男を挟んで、同好会仲間はじっと見つめ合った。 「あのねえ、君、とりあえず中に入りなさい。麗、何かあったかい 飲み物でも…」  麗の父が中を振り返ると、もう息子はキッチンへ消えていた。 「ふうん… 喧嘩して、家出しちゃってたんだ…」  一階のキッチンで二人はテーブルについた。  ココアの入ったマグカップを手に、杏子がつぶやいた。 「うん… お母さんもお父さんも、まさか麗君の家にいるとは思わ ないはずだから…」 「だから、香織ちゃんのところからここへ来たんだね?」  察しの効いた麗の言葉に、杏子は小さくうなずいた。 「でも、これからどうするの?」 「わからないの… どうしよう…」  沈み込む杏子を元気付けたくなるのは、男として当然の気持ちで ある。 「あ、そうだ。杏子ちゃんは、僕んち来るの初めてだったよね?」 「うん… さっきの方、麗君のお父さん?」 「そうだよ。僕の自慢の父さん。たった二人だけの家族なんだけど ね」  あっけらかんとした笑顔で、母がいないことを話す。  杏子も前から知っていたことだが、いざこの家に自分と麗の二人 だけしかいないことを考えると、いたたまれない気持ちになる。 「やっぱり、さみしい?」  あまり元気を出すような話にならなかったのを後悔しながらも、 麗は真剣に答えた。 「うーん、そういう時もやっぱりあるよ。でも、今は平気。だって、 圭太君やじゅん君、詩歌ちゃん、それに…」 「それに…?」  杏子の純な眼差し。  もうどちらが悩み多き青年だかわからない。  小さな小さな声で、麗がつぶやいた。 「…杏子ちゃんがいるから」  うつむいたまま、二人しての沈黙。 「あのさ、ココアが冷めちゃうよ?」 「あ、ありがとう…」  ゆっくりとココアを飲む。  身も心もとろけそうなほど暖まった。  だが、手持ちぶさたの二人。  何故か会話も進まない。  麗は奥の手を使う事にした。 「あ、そうだ。僕の部屋、見てみる? 他の部屋でもいいよ?」 「いいの?」 「いいのいいの!」  二人は一階をうろうろとまわり始めた。 「こっちがトイレ。あはは、見ればわかるよね? こっちが居間で、 父さんの自慢のワインなんかが置いてあるんだ」  嬉しそうに指を差しながら案内する麗。  そんな彼を見て、さっきまでの気持ちが少し安らいだ杏子だった。 「ここが父さんの部屋。さすがにここだけは、覗いじゃ駄目だって 言われてるから、入るのやめとくね?」  小さくうなずく杏子。  その部屋のことはどちらでもよかったのだ。  どうやら、その隣の部屋に興味を持ったらしい。 「ここは…?」  小さく息を吸い込みながら、杏子が尋ねた。 「母さんの部屋だよ。って言っても変だよね」  確かに変である。  彼の母は既に他界している。  部屋があるというのは普通考えられることではない。  その疑問に満ちた瞳に気付いたのか、麗はすぐに説明した。 「置いてあるんだ。ずっと… 昔父さんが、『ここは置いておいて 構わないか?』って僕に聞いたんだ。僕も当然、残しておきたかっ たんだ。変かもしれないけど、やっぱり片付けることなんて、出来 ないんだ。不思議だよね? 母さんの服、時々父さんが洗濯してる んだよ? 僕もこの部屋をよく掃除するんだ」  恥ずかしそうに、でもわかってもらいたい一心で、麗が続ける。 「父さんも母さんも自分の部屋を持ってたんだって。確かに、一人 になりたい時ってあるよね? 趣味も違うし。そんな時に使ってた のがここなんだって。今でも父さんの部屋と二人の部屋はちゃんと 別になってるんだよ? 不思議かな?」  杏子は首を横に振った。  鏡台、洋服箪笥、レースのカーテン…  特に何が珍しいというわけでもない。  だが、この部屋の持ち主はいない。  これだけ掃除や整頓が行き届いていて、しかも香水の匂いまです るのに。  まるで、彼の母親がここにいるかのような錯覚を受ける。 「あ、これ?」  麗が鏡台からそっと手にしたのは、杏子が見ていた小瓶だった。  彼女はこの香りに気付いて、この部屋が気になったのだ。 「母さんの好きだった香水、父さんがいつもここに置いておくんだ。 時々そこのハンカチにわざとつけるから、この部屋はいつも香水の 匂いがするんだ」  もう一度深く息を吸い込むと、杏子は自然に思いを口にする。 「そう… 何か… 何だか幸せね…」 「えっ?」  いきなりの幸せという言葉に、意味がわからない麗は、ただ驚く だけだった。 「幸せね… そう言うのが許されるのかどうかわからないけど、私、 他に言葉が浮かばない…」  そっと、杏子は香水のついたハンカチを手にした。  彼女には、それが悪い事だとは、何故か思えなかった。 「だって、麗君のお母さん、こんなにも愛されているもの… 麗君 にも、麗君のお父さんにも… お父さんも麗君の事を愛しているし、 麗君もお父さんの事を素直に自慢出来る… きっと、お母さんも、 お父さんや麗君を愛しているわ、今でも… これが幸せじゃないな んて、そんなことないわ…」 「そうかなあ? 僕、そこまで考えた事ないから、よくわかんない けど…」 「私、そう思う… 私のお父さんもお母さんも、私の事を愛してく れていないから、そういう事って、わかるの」 「お父さんもお母さんも、愛してくれてないって…?」  今時の高校生が真面目に話す内容ではないのかもしれない。  だが、麗も杏子も後には退けなかった。  これが彼女の家出の原因であり、彼は今頼られる存在だったから。 「本当のことだもの… 私を生んだのも、私を育てたのも、今、私 を探しているのも、みんな世間体のため… もう、あんな家なんて、 いやなのっ!!」  麗は目を丸くした。  今までにない程の激しい態度を、杏子がとったからだ。  そしてその締めくくりは、彼女の目尻に浮かぶ涙だった。  胸が熱くなる。  麗は、自分の心と身体から自然に言葉が発せられるのを感じた。 「そんなさみしいこと言わないで! 世間体なんて、関係ないよ!」 「でも… 麗君は知らないもの。私の両親のことを… 昔から思っ てたの。あの人達は<親を演じている>だけだって…」 「そんなことないよ! 子供が嫌いなら、ここまで大きく育てては くれないよ? 僕ら、こんなに大きくなったじゃない?」  にっこり微笑んで話す麗は、杏子の心を和ませるにはまだ不十分 だった。  だが、そこで気付いたことがある。  これが杏子の声のトーンを少し下げた。 「あ、あの、麗君…?」 「何?」 「背、伸びたの?」 「あっ!」  突然の話の切り替わりに驚いただけではない。  その言葉が、麗の心にどれほどの嬉しい衝撃を与えたことか!  実はその一言を、何日か前からずっと待ちわびていた麗だった。  ただ、状況が状況だっただけに、自分から笑顔で言いふらすわけ にもいかず、気付いてもらうのをただひたすらまっていたのである。 「気付いてくれた? もう詩歌ちゃんを抜いて、圭太君と並んでる んだよ? もうすぐ、もうすぐ追い付くからね?」  自慢げに話す麗。 「誰にも気付いてもらえなかったからどうしようかって思ってたん だ! そうかあ! 杏子ちゃんには気付いてもらえたんだ!」  もう有頂天である。  おかげで杏子は先程までの激しい勢いが萎えてきたようだ。 「そうなの… よかったわね、麗君」 「あ、あはは。はしゃぎすぎちゃったね?」  自分の喜び様を思い返し、恥ずかしくなったらしく、わざと落ち 着きを取り戻したようにみせかけた。  心の中で踊り狂っている自分を感じながら。 「でも、背丈だけじゃなくて、もっと人間的にも大きな男になりた いんだ」 「人間的に…?」 「うん。父さんみたいに、何でも出来るし誰でも頼れる大きな男に ならなきゃいけないと思ってるんだ。でも、僕、不器用だから…」 「麗君のお父さん、とっても頼もしそうだったものね…」 「でも、暗い時期もあったんだよ…」  麗は父と、そして自分の昔話を始めた。  それが、偶然にも杏子の悩みの、答えの一つを導き出すきっかけ になりそうだったから。 「小さい頃に母さんが死んじゃってから、ずっと父さんは落ち込ん でた。お酒を呑んだり、暴力をふるったりはしなかったから、やっ ぱり父さんは偉いって、小さい時思ったけど、でも、一日中しょん ぼりしてた。仕事には行くけど、帰って来るなり部屋に閉じ篭って、 ちっとも出て来ない。そりゃ、僕だって母さんが死んだ時には泣い たよ? でも、いつまでもそんなに泣いてばかりじゃ駄目だって思っ たんだ。童話の主人公だって、よく親と死に別れたりしたからね」 「そう…」  杏子には、まだ麗の話の意味が汲み取れないでいた。 「そういう主人公は、大体偉いんだ。だから僕も偉くならなきゃっ て思って、一所懸命に勉強したんだ。勉強が面白いとか、そういう わけじゃなくて、父さんのために勉強したんだ。テストでいい点と ると、父さんが喜んでくれた。それだけでよかったんだ」 「強いのね、麗君…」  そうじゃないんだ、杏子ちゃん…  心の中でそうつぶやいた麗だったが、焦らず言葉を続けた。 「そうでもないよ。僕、父さんのこと、好きだから、今、父さんの ために出来る事は、それくらいだと思ったんだ。だけど…」 「だけど…?」  二人は歩き出した。  麗の招きで、杏子も二階へとあがる。  彼の部屋は本で一杯だった。 「だけど、ある日父さんは僕を抱きしめてこう言ったんだ。『もう いい』って。僕、よくわからなくて、父さんに聞き返したんだ。す ると父さん、『もう大丈夫だから、これからはお前の好きなことを しなさい』って言ったんだ」 「好きなことを…?」  問い返す杏子に、麗は座る事を促す。  クッションに座る杏子は、圭太の部屋とはまた趣の違う男の子の 部屋に興味を奪われながらも、彼の言葉からは耳を逸らさなかった。 「僕、その時気付いたんだ。僕のやりたい事は、何だろうって…。 不思議なことだけど、僕、やりたいことなんてなかったんだ。ふと そのことに気付くと急に寂しくなったんだよね…。僕は、父さんが 喜ぶ顔が見たくて、ずっと勉強して来た。でも、それは僕のやりた い事じゃなかったんだ…」  麗は、そっと窓を開けた。  冬の風は思ったよりも冷たくて、すぐに閉めてしまう。 「僕は、やりたい事を探すために、高校に入った。高校って、中学 よりも自由な雰囲気があったし、そんな中に入れば、自分も何かを やりたくなると思ったんだ。だけど、4月は全然そんな気になれな かった」  麗は小さく首を縦に振った。 「そんな時父さんは『ゆっくり探せばいい。それより、友達を探す 方が先じゃないか?』って言ってくれた。何だか嬉しかった。もう 僕の事を心配してくれる、そんな余裕のある父さんに、戻ってくれ てたから…」 「もしかして、同好会に入ったのって…?」 「うん。父さんがそう言ってくれなかったら、今の弓道同好会には いないと思うよ。やりたい事と、友達を探す… 両方を満たせるの は、圭太君達の仲間に入れてもらうことだって、すぐ思ったんだ。 誰かと一緒に何かを作っていけば、きっとやりたい事が見つかる、 もし今やっていることがやりたい事じゃないなら、また別の事を見 つければいいって…」 「本当に、素敵なお父さんなのね…」  杏子の目は、羨望の色を帯びていた。 「それに比べて、私のお父さんは、ちっとも素敵なんかじゃないの。 お母さんもそう。二人とも、私を愛してくれていないし、私も…」 「それ以上は、言っちゃだめだよ、杏子ちゃん」  優しく、それでも杏子の言葉に多少なりとも憤りを感じた麗は、 小さな声で否定した。  彼女は素直に麗の気持ちを汲み取ることはできなかった。 「でも、お父さんは私に何をさせたいのかわからないし、お母さん は私に何を望んでいるのかわからない…」  寂しそうな声に、麗も言葉を失う。  杏子の口調が、少し強まった。 「だって、麗君はお父さんに喜んでほしいんでしょう? そして、 麗君のお父さんは麗君に好きなことをしてもらいたいんでしょう? 二人の関係は素敵な親子だと思う。でも、それは二人とも優しくて、 強いから。私のお父さんやお母さんは違う… そして私も…」 「僕は弱いよ… 最近、みんなと別れて家に帰るのがすごく寂しい んだ。今日みたいに父さんが夜いなくなることもあるんだ。そんな 時、誰にも言えない程すごい孤独感に陥るんだ。恐くて泣き出しそ うになることもあったよ? 男らしくないけどね」  杏子が首をそっと横に振ったのは、何に対する否定だったのか… 「じゃあ、もし僕や父さんが優しくて強いのなら、杏子ちゃんも、 そうなれば…」 「それは、無理… 優しく、強くなるなんて、私にはできない…  強いお父さんや優しいお母さんに育てられて、初めて強く、優しく なれるんだと思うの…」  クッションの座り心地を確かめるように、杏子は座り直した。 「私はお父さんやお母さんに、もう一人前だって認めてもらいたい だけなの… だけど、お父さんもお母さんも私を優しく見守っては くれないし、私もお父さんやお母さんを優しく見守ってあげられる 程、自分自身には力がないの… 私、麗君や麗君のお父さんみたい に、優しく、強くは、なれない…」 「ねえ、杏子ちゃん…」  意を決した麗は、杏子の目の前に腰を下ろした。 「もし僕のいうことが違っていたら、後で謝るからさ。僕の考えを、 たった一言だけ聞いてくれないかな?」  今までの話もそうだが、麗があくまで穏やかに語るので、杏子も 外見上ではすっかり落ち着きを取り戻していた。  ただ、彼女の内心は、少しも変化が見られなかった。  それがわかっている麗だったが、どうしても言わずにはいられな い言葉があった。  もうためらわない。  今なら、恥ずかしくて誰にも言えなかった想いを、素直に言える。  麗はありったけの思いを込めて、杏子に聞いて欲しい言葉を口に した。 「家族って、いるだけで嬉しいよね? いるだけで…」  揺るぎない想いは、人の言葉を限りなく強いものにする。 「母さんが死んじゃって、初めてそう思った。父さんが落ち込んで、 またそう思った。全部逆の立場だったのに、どうしてだろう? 僕 は、今までずっと、家族っているだけで嬉しい、そう思った。これ からもきっと、そうだと思う。家族って、そういうものだよね…  嫌いなはずないよ。嫌われてるはずもないよ。そんなこと考えるの、 もうやめようよ… 僕、聞いてるだけで、切ないよ…」 「麗君…」  クッションを握り締めながら、杏子がつぶやく。 「家族って、いるだけで嬉しいのかな…? 私、まだわからないけ ど、麗君が強くて優しい理由は、ちょっと、わかったの…」 「そう…?」 「誰かに好かれたい、愛されたいと思う時、人は強くて優しくなる、 そう思ったの…」  実は、心の奥底深くで、「えっ?」と小さく叫んでいた麗だった。 「私、ずっとお父さんやお母さんに大人に見て欲しかった。いつも 子供扱いされてたから… だけど私、本当はそう思ってなかったの…」 「どういうこと?」 「きっと、そうやって意地を張っているだけで、本当はお父さんや お母さんの気を引きたかっただけなの… 二人とも、いつも忙しく て、私、小さい頃からあまり構ってもらえなかったから…」  うなずく杏子。  自分の考えに少しずつ納得していった。 「そう、だから弓が大好きなんだと思うの… お母さん、私に真剣 に教えてくれるから… その時だけは…」  先程までの勢いは失せていた。  寂しそうに、だがしっかりと杏子は続けた。 「私、誰かに甘えたかったの… だけど、それじゃ一方的なだけ… 私も、いるだけで嬉しいと、思われるようにならなきゃ駄目なの… そのためには、麗君みたいに、優しく、強く、ならなくちゃ、駄目 なの… 麗君を見てて、そう思ったの… 麗君が強くて優しいから、 お父さんも麗君の事が好きなんだと思うし、お父さんもそうだから、 やっぱり麗君もお父さんの事が好きなんだと思う…」  もしかすると、麗の想いとは違う解釈なのかもしれない。  その事については杏子自身も疑っていた。  口にするのを恐いとも思った。  だが、たった今、好かれる条件として、そう思ってしまったのだ。  初めて気付いた気持ち…  それが、それこそが、間違いなく彼女自身で導き出した、彼女の 考え…  麗の助言があったにせよ、誰にも頼ることなく生み出した、ゆる ぎない杏子の思い… 「私も、強く、優しくならなくちゃ… いつも何かに脅えてるだけ なんて、駄目よね… お父さんにも、お母さんにも、そして、試合 にも、強く、優しく接していかなきゃ、駄目よね…?」  彼への感謝の気持ちも込めて、問いかけで締めくくった。 「う、うん。きっと、そうだよ!」  道のりはどうあれ、たどり着いた結果は、自信を取り戻した彼女 の瞳に全て現れていた。  とにかく、彼女の笑顔だけで満足できる麗だった。 「昔、この部屋で父さんと一日中将棋してたんだ」 「そうなの? あ、あれ、洗濯物?」  暗い気分が吹き飛んだ二人は、真弓家探検を再開していた。 「あ、あはは… そういえば、杏子ちゃん、今晩、どうするの?」 「やっぱり、帰らなきゃ… でも、本当は、麗君と」  杏子の言葉は、やたらけたたましい音で遮られた。  リリリリン! リリリリン!  古風な黒のダイアル式電話が、しきりにベルを鳴らす。 「あれ? 電話だ… ちょっと待っててね?」 「いやあ、いい言葉を聞かせてもらったんだよ、うん!」  久しぶりの圭太の笑顔に、家族も自然に明るくなっていた。  それとも明るく「させられていた」のが本音だろうか。  一家団欒の夕食は、本当は圭太の気持ちに関係なく、やはり騒が しかった。 「そうか、圭太。いい人と知り合いになれたな?」  父に言われて、まるで自分が誉められたような錯覚に陥る。 「いやあ、そうかなあ?」 「何言ってんの、圭太? あ、あんた何でベーコンがそんなに多い の!?」 「いいじゃんか、こだま姉ちゃん? 俺、今日晩飯作るの手伝った し、いいこともあったんだから。な?」 「な? じゃないの! ちゃんとみんなの分計算して買って来たん だから」 「そうよ、圭太? ほら、光も怒ってるぞ?」 「ひでえな、望姉ちゃんまで…」  ところで、気付いてましたか?  圭太が高岡の意見を聞きに行ってから、まだ数時間しか経ってい ないということに。  ピンポーン。  玄関の呼び鈴が鳴った。 「圭太、出て?」 「望ねえちゃんが一番近いじゃんか?」 「あんたねえ… 目上の者に行かせる気?」 「じゃあ光か青葉が行って来いよ?」 「ちょっと、 「また、こだまねえちゃんまで… こういう時だけは仲いいんだか らなあ…」 「ぶつくさ言ってないで、さっさと出なさい!」  母の一言で仕方なく玄関に出た。  ドアを開けると、そこには中年の夫婦と思しき男女が立っていた。  かかあ天下だなあ…  第一印象で圭太が直感的にそう思ったのは、その通りの夫婦の内、 前に出ているのが妻の方だったからだ。どう見ても夫の方は譲って やっているという素振りではない。 「あなた、的場圭太君?」 「あ、はい、的場圭太ですが」 「私、安土杏子の母ですが」 「はい?」  素っ頓狂な裏声は、奥にいる光や青葉の笑いを誘った。 「あ、これは安土さんのお母さん… 申し訳ありません、またうち のドラ息子が何か…」  慌てて出て来た圭太の母。  どうせ酒屋の御用聞きか新聞の勧誘程度だろうと思っていたので すぐには出なかったが、 「さあ、とりあえず中へお入り下さいな」 「見たところお食事中のようですが…」  後方からの声は、ただでさえ小さく聞こえるのだが、杏子の父親 は他人と話す時は小声になってしまう。  まるで杏子だよ…  やっぱり親子だと思い、圭太は妙に納得した。 「なるほどねえ… あんず、家出してたのかあ…」 「はい?」 「あい?」  杏子の両親の話に相槌を打つ圭太の横で、光と青葉が奇妙な裏声 を上げる。  はっきりと発音出来る光に対して、まだ青葉の言葉は少々もたつ いていた。 「もう、うるさいなあ…」 「はい?」 「あい?」  先程の玄関での圭太の裏声である。  幼児というのは、面白いと思った事はしつこくしつこく実践する。 「いい加減にしろっ!」 「こらっ、圭太! また光や青葉をいじめて!」 「ったく… いじめられてんのはどっちだよ…」  事情を聞いた圭太は、取り敢えず手当たり次第に電話してみる事 にした。  他に杏子を探す方法が見当たらなかったからだ。  いかにも体力派らしい、頭を使わない努力と根性の勝負だった。 「ったく、あんずのやつ…」  1件電話を掛け終わる毎に、苛立ちが積み重なっていく。 「何で今頃俺がこんなことしなきゃいけないんだ?」  5件目あたりで既にこの位のことを口走るようになっていた。 「もう! 俺は歩く連絡網じゃねえっての!」  10件目を過ぎると口調が異常に荒くなってきた。  そして…  22件目にはどれ程のいらいらが溜まっていたのだろうか?  もう、高岡からもらった熱い言葉などどこかへ逃げ去っていた。  ようやく見つけた時、最初から数えて22件目だったのは、女子 の家にばかり電話を掛けていたせいだ。  やっと圭太は頭を使った、その成果だった。  ちょっと考えればわかりそうなものだが… 「えっ? あんずが、そこにいるの?」  その言葉に杏子の両親が揃って反応する。 「ほんとか、麗ちゃん? えっ? 昨日は香織んちにいた?」  杏子の両親は自分達に電話を代わるように、圭太に催促した。 「ちょっと待って… 今、あんずの両親がうちに来てて… 何?  話したくない? 何だそりゃ!? こっちはどれだけ探したと…」  一度使い始めたら、圭太の頭は結構働く。  特に、心理的・感情的な方向に、である。  話したくないから家出したんだろう?  もし、まだ落ち着いてない状態だったら、逆効果だよなあ? 「後でもう一度電話するから。じゃあね?」  プチン!  いきなり電話を切った圭太。さらに、嘘八百説明を並べ立てる。 「あ、あの、その、麗子ちゃん、そう! 麗子ちゃんの家にいたん ですよ? で、何だか疲れてるらしくて、今はもう眠っちゃったら しいんですね? だから、後で電話するってことにして… あの、 麗子ちゃんって、うちのクラスの女の子で…」  圭太のいきなりの言動に目を丸くした杏子の両親は、杏子を今日 中に家に返すことを圭太に約束された後、半ば追い出されるように 的場家の玄関を出た。  慌てて、約束通り電話を掛け直す圭太。 「もう、お前らみんな俺んちに来い! 今すぐ来い! いいなっ!!」  本当は、今の圭太は異常な程、頭にきていたのだ。  じゅんも呼んで、全部きっちりカタをつけてやる… 「ちわーっ!」  勝手知ったる道上家、とはいかず今日も店先から声をかける圭太 だった。 「おお、圭太君か。毎日悪いな」  レジの調子を確認していたのは、詩歌の父親だった。  頭の頂上あたりまである額はよく光っていた。  小柄でべらんめえ調が飛び交う気さくな性格は、詩歌そっくりと 圭太には受けとめられた。  振り返りざまに見せる笑顔も、どことなく詩歌のそれと似ている。  やっぱり親子だな…  昨日杏子に対して感じた事を、違う角度からもう一度感じること となった。  詩歌が学校を休んでから3日目になる。  その間、毎日圭太は詩歌の家に見舞いに来ていた。  だが、一昨日も昨日も、眠っているという理由で詩歌と会う事は 出来なかった。  三度目の正直、なるか。 「あ、圭太さん。こんにちは」 「蒔絵、中に入ってもらえ。さあ、圭太君、ゆっくりしてってくれ よ」 「は、はあ… でも、いいんですか?」 「毎日来てもらってるのに、いいも悪いもあるか? こっちが謝る のが筋ってもんだ。あんな馬鹿娘のために毎日毎日…」 「じゃ、あがらせてもらいます」  こうなると話が長くなることを知っているほど通い詰めたという わけでもないのだが…  何となく察した圭太は、蒔絵についてさっさと居間へと入った。  座布団をもらって座る圭太。  廊下を詩歌の母が通る。  互いに軽く会釈するだけで、詩歌の母は過ぎ去った。  優しい笑顔は蒔絵の方が受け継いだようだ。  何も声を交わさずに通り過ぎたのは、どうやら先程のレジの故障 が原因らしい。客も来ていた。 「ごめんなさい。今日もお姉ちゃん寝てるから…」  お茶と和菓子を運んで来た蒔絵が、申し訳なさそうにつぶやく。 「そうか… じゃあ、伝言、いいかな?」  ため息混じりに立ち上がった圭太に、そっと蒔絵は首を横に振る。 「あのね、圭太さん。もし時間があるんだったら、今日はちょっと 待っててもらえませんか?」 「えっ? どういうこと?」  さらに申し訳なさそうに、いいわけを語る。 「だって、毎日毎日来てるのに、悪いから…」  こういう時の圭太の態度は優しい。 「別に、そんなことないけどさ。どうせ風邪かなんかだろう? あ、 うつされるってのもつまらないな。やっぱ帰るわ、俺…」 「だめ!」 「えっ?」  突然の強い口調に驚いた圭太。  さすがに持っていたカバンを落としてしまった。 「大丈夫。うつったりしないよ… だって…」 「だって…?」 「だって、お姉ちゃんの病気、喘息だから…」  圭太は目を丸くした。 「喘息って、あの、息がくるしくなってぜーぜーはーはー言ってる、 あの喘息?」 「そう。だから、大丈夫… うつらないから…」  蒔絵はうつむいてしまった。  すぐに圭太は察した。  蒔絵ちゃん、口止めされてたのかな…?  詩歌のことだから、確かにありそうだ。 「ねえ、蒔絵ちゃん、それはそうとして、どうしてそこまで俺を引 き止めるの?」 「お姉ちゃん、毎日退屈そうにしてるの。だから、圭太さん、学校 のこととか話してあげて欲しいの。何か学校で嫌な事があったかも しれないけど、でも、早く学校に行きたいっていう気持ちが、お姉 ちゃんの喘息を早く直せるかもしれないの」 「そんなこといわれても… もしかしたら、その嫌な事ってのが…」  弓道同好会が原因… とは言えない圭太だった。  別に困る事など何もないはずの圭太だったが、どことなく困った 状況だった。  突然、二人の上の方から、弱々しい声がした。 「ねえ、お母ちゃーん… お茶ちょうだーい…」  バタバタバタ…  古い階段を降りて来ると、静かに歩いていても結構音はする。 「ねえねえ…」  居間のふすまが開いた。  そこに、現れたのは…  パジャマ姿、ぼさぼさの髪でやつれた目つきの女の子だった。 「詩歌…」  互いに久しぶりに見る、大切な仲間の顔だった。  寝ぼけ眼のせいか目覚めすぐのせいか、はたまた有り得ない状況 が現実のものになったせいか…  初めはぼーっとしていただけの詩歌だが、やがて自分にとっての 事の重大さと、ブラシを通していない髪、何もしていないひどい顔、 父親以外の男には見せた事のないお気に入りのクマのプリント入り パジャマ姿に気付き、大声を上げる。 「ぎゃーっ! 圭太ーっ!?」  慌てて階段を駆け上る詩歌。 「ちょ、ちょっと待てよ、詩歌!」  何だよ、元気そうじゃねえか?  三日も寝てりゃそうなるか… と思いながら圭太も追う。  そうでもなかった。  二階にあがると、詩歌が倒れていた。 「はあ、はあ、はあ…」 「詩歌…」  慌てて圭太は詩歌の肩を抱える。 「もう… 来るなら、来るって、ぜえ、ぜえ、言ってよ…」 「わりい… おい、詩歌、大丈夫か?」 「だ、だいじょぶ、ぜえ、ぜえ、だから…」 「ベッドで横になれよ。な?」  圭太はそっと詩歌の手を取った。 「しょうがない、ね… ようこそ、ほんとの、あたしの部屋へ… 」  苦しい表情の中に、どこか照れが見え隠れする不思議な顔だった。  抱えた詩歌の胸のあたりで、ひどく苦しそうな呼吸が聞こえてい る。がらがらと、痰の音も聞こえた。  かわいそうにな…  病気とは縁遠い圭太には、ひどく痛ましく感じられたらしい。 「何言ってんだよ、ほら。前にも来ただろ?」  ぶつくさ言うものの、変なところを触ったりしないかとひやひや しながら、詩歌を担いで部屋に一歩足を踏みいれた。 「な、何だこりゃっ!?」  大声を張り上げる圭太。  先程詩歌が張り上げた声の種類とほぼ同じものだった。  人間、予期せぬ事態に出くわすと、声を荒げてしまうものなのだ。  彼の場合は、その目に飛び込んで来た光景が全てだった。 「あ、あはは…」  部屋の隅々に至るまで、びっしりと埋め尽くしているのは、数々 の人形達だった。  フランス人形、博多人形等の民芸品も多いが、やはりぬいぐるみ がかなりの数を占めている。 「ま、まあ、そういう、ことなんだけど…」 「あ、ああ、わりいな、ベッドまでだな…」  そっとベッドに腰を下ろさせた圭太。 「圭太… 悪いけど、机の、げほっ、上から… 薬取って…」 「こ、これか?」 「そう、それ…」  小さなスプレーのようなものを取ると、詩歌に渡す。  口にくわえ、一回スプレーを押す。  大きく息を吸い込んで、数秒息を止めた後、ゆっくりと息を吐く。 「ふう… 今日は初めて使ったなあ、これ」  スプレーを片手ににっこり笑い返す詩歌。  その表情に安心したのか、圭太は今更自分の異変に気付く。  手先が震えていた。  肩から腕にかけて、何だか異様なまでに力んでいたらしい。 「あ、ありゃ? ああ、まあ、姉きと違って、一応、その、他人様 の娘さん、だし、これでも、気をつかって、だなあ…」  何の話かさっぱりわからない詩歌だったが、その仕草が面白かっ たのか、ベッドで上半身を起こした状態のまま、一部始終を眺めて いた。 「ま、まあ、その話は置いといて、だなあ… 大丈夫なのか?」 「うん。これ、即効性の発作の鎮静剤なんだ。交感神経を刺激する 薬で、使い過ぎると心臓がドキドキしちゃってちょっと危険な状態 になるんだって。だからあんまり使えないんだよね」  にっこり笑う詩歌の顔は、それでもやはり病人の顔である。 「そうか。それにしても、詩歌が喘息だったなんてなあ… ずっと 昔からなのか?」  実は話の難しい部分はさっぱりわからなかったらしく、思い切り 違う話へ逸らしただけである。 「うん。2〜3歳くらいからね。もう長い付き合いだよ、ほんと。 あたしの一部、かっこよく言うと、個性かな?」 「辛い個性だな…」 「最近は、そうでもないよ。こんな薬も出来たしね」  あっけらかんと、詩歌は喘息の話を続けた。 「小さい頃はね… 確かに辛かったよ? 息が出来なくなるんだ。 特に夜。だから、学校休んで昼寝するの。変な言い方かな? でも 昼の方がよく眠れるって時もあるから不思議だよね? そういえば、 圭太、ずっと来てくれてたんだって? ずっと眠ってる時ばっかり だったらしいじゃん… ついてなかったね?」 「ああ、そうかいそうかい… ついてるとかの問題かよ…」  膨れっ面の圭太。  やはりからかうという行為は面白いらしい。 「あははっ! でも、ごめんね」 「いいよ。夜眠れないんだろ? じゃあ、昼寝しなきゃな」  まだ多少膨れっ面だが、それでも病人に対しては、優しく接する 圭太だった。  本当に、病人に対してということなのだろうか? 「うん。でね… 学校とかも、春や秋はよく休んだんだ… それに、 秋から春にかけてはあんまり外で遊んだ事もないし、友達も少ない のはそのせいかな? その中でも男の友達が多いのは、性格のせい だけどね…」  寒くなってきたせいか、それとも恥ずかしさが増して来たせいか…  横になった詩歌は布団を顔のあたりまで引き寄せた。 「驚いた? そんな性格のあたしが、こんなにたくさんぬいぐるみ を持ってたなんて」 「って言うかさあ… この前に来た時と同じだと思ってたから…」  正直言って、度肝を抜かれたのだ。  二人の姉の部屋でも、圭太はこれ程の量のぬいぐるみを見た事は なかった。  いや、おもちゃ屋でも、ぬいぐるみの専門店でもこれ程の種類が そろっているとは思えない。  先程のフランス人形は白いドレスに白い帽子まで被っている。  苺やら大根やらに手足が生えているものや、クマ・トラ・ウサギ・ ペンギン等の動物のぬいぐるみ、人形劇に使うような操り人形等、 豊富なバリエーションで圭太を驚かせたのだ。  もちろん、この時流行の「UFOキャッチャー」で取ったものも 数多い。  さすがに五月人形はないか。 「こりゃ隠すの大変だっただろ?」 「そりゃあ、そうだよね。あの時は慌てて蒔絵の部屋に隠したんだ。 何だかさ、恥ずかしかったんだよね。こんな年でさあ、ぬいぐるみ こんなにたくさん持ってるなんて… でも、この子達がいたから、 今までやってこれたんだ…」  頼もしそうに、信頼と感謝の気持ちを込めて、あらためて部屋中 の人形達を見回した。 「そっか。それで、わざわざ日曜日なんて指定したのか」 「外に出ることが少なかったし、喘息の発作がひどい時は、音楽や 本で楽しむなんてできないの。そんな時に、ぬいぐるみを抱いてる と、何だか落ち着くんだ… その大きなウサギのぬいぐるみはね… 一番たくさん抱いたんだよ… だから、一番汚いかもね… 今度、 洗ってあげなきゃね」 「そうだよな。いい加減洗ってやらないと、そのうち襲いかかって くるぜ? 『いつまでも醤油のシミつけたままにするな!』って」 「嘘っ? その子にそんなものついてる!?」  詩歌はものすごい勢いで跳ね上がり、圭太にくいかかる。 「わ、わりい… そりゃ単なるたとえだよ…」 「そっか。よかった。それとさあ…」  また横になった詩歌は、今度は恥じらいを見せずに話しだした。 「それとさあ… もう一つだけ、喘息の時に気を紛らわせてくれる ものがあるんだ… それはね…」  右手で自慢の髪を撫でる。 「この長い髪なんだ… 三つあみにしてみたり、枝毛を探したり…  だから全然切れなくなっちゃって、気がついたらこんなに長くなっ ちゃってたんだ…」 「ふうん… 女らしく見せるためってわけじゃなかったんだな?」  憎まれ口をたたく圭太だったが、詩歌はあっさりと答える。 「うん… もちろんそれもあるけどね… ごほっ! けほっ!」  喘息の時の咳は、たとえ女の子のものでもかわいいものではない。  その激しさ、汚らしさが余計にこの病気の辛さを物語る。  今は、つまらないことで詩歌に負担をかけちゃいけないな…  馴れない病人との会話で、思わず優しい口調になってしまう圭太 だった。 「あんまりたくさん喋らない方がいいんじゃないのか? 即効性の 薬だからって、すぐに直るわけじゃないんだろ? な?」 「うん。でも…」 「でも、何だよ?」 「ねえ、圭太… 部活の話、どうなったの…?」  ドキッ!!  その圭太の仕草をみて、詩歌は顔色を曇らせた。  実は内心けらけらと笑っている圭太、それでも顔をひきつらせた まま、重々しく口を開いた。 「そうくると、思ったよ… 実は昨日…」  圭太は夕べの、それまでの出来事を話した。  潤一郎が喧嘩寸前で一方的に殴られて交番にお世話になった事。  杏子が一昨日家出をして香織の家に身を寄せていたこと。  そして昨日は麗の家にいたこと。  興味深く聞き入る詩歌。  自分がいないたった3日間で、こんなにもいろんな事が起こって いたのだ。  損をした気分になる。 「そして、頭に来た俺は、3人を俺ん家に呼んだんだ」 「それで… どうしたの…?」  ここからは、読者の皆様も知らない出来事。  ややこしいのを覚悟の上で、時を少し遡ってみると…  全員を自分の部屋に集めるなり、圭太はこう言った。 「実はさ、部活申請の書類、とっくの昔に出してあるんだ…」 「何だあ?」  潤一郎は首を傾げようとしたが、ちょっと痛いらしい。  腫れはひいたが、まだまだひどい顔だった。 「つまり、出し忘れがないようにと思って、先に出しといたんだ。 取り消しは前日まで出来るからさ」 「何だそりゃ? じゃあお前、俺達をたばかってたのか!?」 「ひでえ言い方だな… 俺だって決めかねてたんだよ」  以前言っていた、「全員一致でなければ同好会のまま」が、圭太 にとっての大前提だったのだ。 「でも、私は…」 「なあ、あんず… 前に南高に練習試合に行ったろ? 帰り間際に 俺一人で挨拶に行ったろ? その時、どう言ってたと思う?」 「そんなの… わからない…」 「公式戦で、一戦交えたいってさ」 「私、そんな資格なんて、ないのに…」 「あるんだよ、あんずには! 桜田さんのひとりごとだったんだけ どさ… うらやましいぜ? 俺達は相手にもされてないようだけど、 あんずだけは本気でやりあいたいんだとさ。俺だったら、そこまで 言われりゃ嬉しくて舞い上がっちまうんだけどなあ…」  確かにその通りだった。  私が、私が桜田さんと、公式戦で…?  恐くもあった。だから、やはり試合などもっての他とも思う。  が、当然嬉しくもある。ゆえに、試合で戦ってみたくもある。  今までの両親との確執もあって、杏子の心は大きく揺れ動いた。  さもひとりごとであるかのように、圭太は続ける。 「高岡さん達は、来年の5月の初めには、部活をやめて受験勉強に 専念するんだってさ。そのうち公式戦はたったの3回。2月初めの 市の大会、4月下旬の市民体育大会、そして5月初めの県大会」  指折り数えた圭太の、その指先をじっと見つめる杏子。  試合のチャンスが3回もある…  逆に杏子はこう考えていた。  3回も、桜田さんと…  ここまで詳細に事の背景を語られては、全部嘘だと言われても、 そうは思えないところまで来ているのだ。  でも…  あと一歩、踏ん切りがつかない。 「本当は、6月中旬のインターハイ・国体予選が最後っていうのが 普通らしいけど、後輩にチャンスをあげたいから、さっさとやめる んだってさ… だから、俺達の方も、6月の生徒総会を待ってなん かいられないんだぜ?」  気が焦る。  焦る一方で、何がどうなって、何をどうすればいいのか…  杏子の動揺は、見ていて辛いものもある。  ここで、絶妙のバランスを持つ圭太の話術が光る。 「桜田さんとの素晴らしい試合を望むのか… それとも、このまま 桜田さんや高岡さんの期待を裏切ってのらりくらりと同好会として 遊んで過ごすのか…」  「遊んで過ごす」この言葉で、杏子の胸に火がついた。  遊んでなんかいない!  遊んでる暇なんてない!  遊んでるとお父さんやお母さんに思われたくない! 「さあ、どうする?」 「私、桜田さんと、試合がしたいの! 公式戦で!」  にやりと笑顔を見せる圭太。  人をその気にさせるのが実にうまい。 「ほい、決まり! そうだな、圭太」 「あのなあ… 試合前になれば、練習も相当厳しくなるぜ? それ でもいいのか?」 「いいよ、僕。だって、公式試合だから」 「そーゆーこと!」 「じゃあ、麗ちゃんもあんずもじゅんも、本当にいいんだな?」 「うん!」 「はい!」 「しつこいぞ!」 「じゃあ、明日一応詩歌の意見でも聞いて来るか」  始めた時ははらわたが煮えくり返っていた圭太だったが、これで お開きになった途端、随分すっきりしたらしい。 「つまり、全員一致で部活申請OKってことになったのさ。申請が OKだからって、部活に昇格させてくれるかどうかは知らないけど」  にんまりと笑ってみせる圭太。  詩歌が茫然としているところをみると、なかなかの演技力だった ようだ。  わざと大袈裟に驚いてみせたのだ。 「でも…」 「ん?」 「おっかしいの…! 『麗子ちゃん』だって! 麗ちゃん怒ってた んじゃないの?」  そういう話をしにきたんじゃないんだけどなあ…  ちょっと頭を抱える圭太だった。 「だけどさ、大したもんだよね、圭太って。何だかんだいってさ、 ちゃんとあたし達をまとめてるんだもん?」 「な、何だよ突然、ったく…」  圭太はばかがつくほど正直に照れていた。 「ほんと、そう思うよ… それに比べてあたしなんてさ…」  そんな圭太を尻目に、急に詩歌はしょげた素振りをみせる。 「あたしなんて、ほんとは身体弱いくせにさ、そんなこと言ったら やめさせられちゃうかもしれないからって、ずっと黙ってきてたし、 それでいて、結局ほんとに喘息になっちゃうし…」  ため息混じりならまだよかった。 「口はうるさいくせに、麗ちゃんみたいにいろんなアイデア出して るわけじゃないし、がさつな性格だからあんちゃんみたいな気配り も下手だし、じゅん君みたいに何でもかんでも『しゃあねえなあ』 で引き受ける程気前良くないし、圭太みたいな力任せもできない…」  自分の無力さを思い返し、詩歌の訴えは涙声になりつつあった。  力任せはないんじゃねえのか?  と思ったのも束の間。  あの時の俺も、こんな風にしょげてたのかな?  ほんとはこんな弱い詩歌、見たくなかった。  だけど、これがほんとの詩歌なのかもしれない。  それなら… 立場が逆なら、出来る事をするだけさ… 「そうかなあ… だけど俺は、こう思うんだ。俺達の同好会って、 何だか車みたいだなって」  突然かっとんだところへ話を持って行かれて、詩歌は長い髪を弄 びながら、怪訝そうに聞き入った。 「俺が強引に引っ張るアクセルで、じゅんがよく効くブレーキで、 麗ちゃんがその時その時の調子に合わせるギアで、あんずは俺達の 行く道を決めるハンドル、もしくは今流行のカーナビゲーター…  変なたとえかなあ?」  何だか聞いているうちに変なたとえとは思わなくなっていた。  そういう感じ、あたしもするよ?  それじゃあ… 「あたしは…? ねえ、あたしは…?」  興味が湧いたのか、身を乗り出して聞いて来た。 「詩歌ってさ、不思議なんだけど、ドライバーなんだよな、運転手。 俺を踏みつけて前に進ませたり、じゅんをたぶらかしてブレーキを かけたり、麗ちゃんと組んで調子を変えたり、あんずと話し合って 間違いの無いように道を選んだり…」 「あたしが、ドライバー…?」 「だから、誰が欠けてもうまく動かない車なんだけど、詩歌が一番 大変な役なんじゃないかなって… 俺はアクセルの役だけやってりゃ いいし、じゅんも麗ちゃんもあんずも、全体の雰囲気っていうか、 まとまりっていうか、そういうところはお前に任せて、後は気楽に 自分の役だけやってりゃいいのかなってさ… やっぱ、変か?」  詩歌がうつむいたので、急に不安になった圭太。  だが、心配は無用だった。 「ううん… 嬉しいんだ… 嘘でもそんな風に言ってくれると…」  またもや、圭太は照れていた。 「まあ、どう考えるかはその人次第だけどさ、お前が休んでから、 俺達ずっとぎくしゃくしてるんだ。はっきり言って参ってるよ…  だから、さっさと喘息なんかふっ飛ばしちまえよな?」 「そう簡単にいかないから、困ってるんじゃない…」  言いながら、詩歌は苦し紛れの笑顔を見せた。 「それとさ、隠してたってのはいかにも詩歌らしいけど、みんなに 喘息の事をちゃんと話してくれよな? 無理して倒れられたくない しさ、詩歌もいつまでも隠してるのって嫌だろ?」  圭太は、なれない口調で、あくまでも優しく語りかけた。  そんな無理な姿勢がわかったせいか、詩歌も素直になる。 「でも、ばれたらマネージャーとかにされちゃうと思ったから…  あたし、みんなと一緒の事がしたかったんだ。体育会系の部活なん て、もう二度とチャンスはないって思ったんだ…」  俺なんか、文化会系の部活にこそ、チャンスがないんだけどなあ…  そんな風に考える圭太は、詩歌を庇いたくなる。 「そんなことはしないさ。第一マネージャーがいる程しっかりした 組織じゃないだろ? 自分達のことは自分達でやる、そんなとこさ」  自信たっぷりな圭太の言葉に、自分の居場所があるということを 感じとった詩歌は、嬉しさのあまり興奮した声を張り上げる。 「そうだよね? あたしも弓を引いていいんだよね? ごほっ!」 「まだちゃんと直ってないんだろ? だから、横になってろよ?  ほら、これでも抱いてさ」  圭太は、さっき詩歌が話してくれた大きなウサギのぬいぐるみを 手にすると、そっと詩歌に渡した。 「もう少し圭太と、話がしたいよ… 久しぶりだもん、家族以外の 人と喋るの…」 「そっか。だけど、あんまり話し続けてるとなあ…」  しばし考えた後圭太は、一つの提案を詩歌に持ち掛けた。 「じゃあ、こうしようぜ! ずっと詩歌の話ばっかだったからさ、 今度は何か聞いてくれよ? そしたらずっと俺が喋ってやるからさ。 それでいいだろ?」  すぐに納得したようだ。  小さくうなずいた後、詩歌は早速圭太に質問を浴びせかけた。 「ねえ… どうして圭太ってそんなに成績悪いの?」 「お前、ひでえやつだなあ…」                : 「望姉ちゃんって、俺やこだま姉ちゃんより歳が離れてるからさ、 いつも俺達が騒いでるとうらやましそうに見てたぜ? で、しまい にゃ自分の子分を二人も連れて舞い戻ってきたってわけさ! あ、 出戻りじゃねえからな? 義理の兄貴が海外へ単身赴任だからさ」 「ふうん、それでお子さん二人もつくったのか… でもさ、二人を いじめたらすごく怒られてるよね?」 「そりゃあもうひでえのなんのってよお… ああ、こらこらっ!  別に光や青葉をいじめてるわけじゃないぜ!?」                : 「じゅんなんてよお、俺よりも50m走遅いからさあ、いつだって 必ずフライングするんだぜ? 中学3年の時なんて、体育の計測で あいつ、堂々とフライングしやがるから、頭にきて俺もフライング してやったんだ。そしたら二人してめちゃくちゃ早い記録だったか ら、体育の教師に怒鳴られて…」 「やっぱりあんた達って、仲のいいお馬鹿さん同士だったんだ…」 「あいつがフライングしなきゃ俺だってする必要もなかったんだぜ?」                : 「ねえ、もう一つだけ、聞いていい?」 「まだあるのかよ?」 「どうして、紅葉先輩のこと、好きになったの?」  喘息でもないのに咳き込む圭太。  突然の強烈なむせ具合に、しばらく声が出なくなった。 「あ、ああ、あのなあ…!?」 「何でも聞けっていったじゃん?」 「ううっ…」  病人にからかわれていては世話ない。 「どうしても聞きたいなあ? 前から知りたかったんだ!」  約束は約束。  圭太は、こういうところはまったくもって潔い男だった。 「ったく、しゃあねえなあ…」  悪友の口癖を借りてから、渋々と話し始める。 「俺なあ、いじめられっ子だった時があったんだ」 「はあ?」  そりゃそうだろう。  自分の質問は栗原紅葉への恋心についてである。  彼の悲惨な体験談のことではない。 「小学1年生の時、クラスでいじめられてたんだぜ? 仲間外れに されたり、殴り合いの喧嘩したり… まあ、今のいじめとは違って もっとあっさりした、昔からある正々堂々としたものだったんだけ どさ…」 「あ、あのさあ、圭太…?」  多少話の行く末が不安になった詩歌は探りを入れてみるが、聞く 耳持たないといった風に、圭太は思い出話を続けた。 「それがさ、原因はくだらないことだったんだぜ? じゅんが違う クラスになってつまんなくてさ、誰とも話をしなかったんだ。それ だけならまだしも、実は、その…」  何か核心に迫った話になるのかと、期待していた詩歌だったが… 「あのさあ… よく教室でおもらししてよお… それでみんなから ベンジョムシって言われてさあ… その頃から今みたいな性格だっ たから、別に気にしてなかったけど、やっぱ殴り合いの喧嘩になる と、痛けりゃ泣くよな? そういう時は思いっきり泣いたなあ…」  まるっきり見当違いの方向へ話が進んで行くので、さすがに詩歌 もはっきりと口を挟む。 「ねえ、それがあたしの質問内容と何か関係あるわけ?」 「大ありだな。まあ、黙って聞いてろよ。でもって、うちは喧嘩に 負けて泣いて帰ると母ちゃんが『仕返ししてくるまで家に入れない』 となる。姉ちゃん達も爺ちゃん婆ちゃんも誰もかばってくれない。 ひでえ話だろ? で、町のはずれをぶらぶら歩いてると、いつも俺 に気付いてくれる人がいたんだ」 「誰よ、それ?」  興味がないのかあるのか、一応相鎚を打つ。 「その時の担任の先生さ。どっても美人で優しくて、誰の言う事も すぐにわかってくれるし、俺の事なんか、こっちから言う前にもう わかってる。『喧嘩して来たんでしょう?』って」 「すごいね、それ」  かなり感情が薄れている詩歌だった。 「先生と話してるとすごく楽しかった。俺が、将来プロ野球選手に なるのが夢だっていったら、応援してくれた。喧嘩した時は、必ず 喧嘩両成敗って言って、俺の頭をこつんと叩いてくれた。もちろん、 相手のやつの頭もこつんって叩くんだ。その先生がさ…」  えっ?  もしかして、もしかすると…?  詩歌は、察するのが得意な女の子だった。 「その先生、2年の途中で結婚退職しちゃってさ… 俺、その旦那 さんに殴りかかっていく寸前まで考えてた。3年になってじゅんと また同じクラスになるまで、ずっとそう思ってた…」 「あれ? 違うの?」 「ん? 何が?」 「いやいや、何でもない」  詩歌は一体何を思っていたのだろうか? 「だってさ、俺、あの先生のこと本当に好きだったから。母ちゃん も姉ちゃん達も冷たいのに、あの先生だけは俺を可愛がってくれた からさ… でもやっぱり忘れていったんだ、大人になるにつれてさ」  だんだん照れくさくなってきたのか、圭太はそれまでの自信たっ ぷりの態度からうつむき加減へと姿勢を変えていた。 「だから、すっかり忘れてたよ、高校に入るまでは。いや、ずっと 無理して忘れてたのかもな。そういう考えも含めて、ませてたんだ よな、俺って。だけど、入学式直後の新聞部のインタビュー、あの 瞬間に、あっという間に全ての事を思い出したんだ…」 「それって、もしかして…!?」  やっと核心にたどり着いて、詩歌はいたくご満悦だった。 「紅葉先輩ってさあ、その先生にそっくりなんだよ。今度俺んちに 来たらアルバム見せてやるよ。幼稚園の時のやつしか見てないだろ?」 「そんなに、そっくりなの?」 「そりゃもう、うりふたつだぜ? だけど、そっくりなのは、顔や 見かけだけだったんだ」 「えっ?」 「先生とは性格や雰囲気がまるで違うんだ。おかげで目が覚めたっ て気持ちになったよ。いいひとだけど、やっぱり違うんだ」 「かもね。やっぱり顔や姿だけじゃ駄目なんだよ、圭太」 「そう、そうだよな、詩歌。むしろ…」 「えっ? むしろ、何?」 「何でもねえよ」  二人とも、静かになった。 「じゃあ、俺、そろそろ帰るから」  よっこらしょと圭太が重い腰をあげた時。 「あ、あのね、圭太…」  詩歌が声をかける。 「ん? 何だ?」 「ほんと、来てくれてありがと」 「ば、ばーか、何言ってんだよ、詩歌!」  顔が真っ赤な圭太。  だが、ここぞとばかりにからかうようないつもの詩歌とは違って いた。 「お父ちゃんやお母ちゃんや蒔絵とばっかり話してて、全然つまら なかったんだよね、ほんと」 「そりゃあ、そうだろうな。でも、病気してちゃしょうがねえだろ?」 「うん、でも…」 「ん?」  ドアに手をかけようとしていた圭太がわざわざ近づいてきたので、 驚いた詩歌は急に口をつぐんだ。 「な、何でもない!」 「はあ? 何か煮え切らないなあ、その言い方」  病人の歯切れの悪い言葉にすっきりしない気持ちを抱いた圭太は、 タイミングを逃したせいもあるが、部屋を出そびれた。 「何でもないよ? ほんと、何でもないんだけど…」 「だけど… 何だよ?」 「だけど、だけど…」 「どうしたんだよ?」  これ以上声をかけることができなくなった。  震える肩が圭太の口を止めたのだ。  すすり泣きの声まで耳に入ると、もう圭太はパニック状態になる。  何かまずい事言ったのかな、俺?  鈍感だと自分で思っている圭太。あれかこれかと、会話に中身を 思い出しては首を横に振る。  えらいことになっちまったなあ…  だがその答えが自分のせいではないことを知ると、やけにほっと 胸をなでおろす。  この程度のことでとも思うと情けなくもなるが、相手が扱い慣れ していない病人ということもあり、何歩も譲って会話する必要があ ると思っていたのだ。  涙と咳が混じった詩歌のその一言は、答えを教えると共に、圭太 の心にあるしこりのようなものを残した。 「久司君、一度も来てくれないの…」  なるほど…  そう思うだけで、圭太にはどうすることも出来なかった。  どうこうしろという方が酷な話である。  そっと部屋を出たが、それでよかったのかどうか。  蒔絵に目配せしておいて、圭太は道上家を後にした。  その日、生徒達の視線は圭太に釘付けだった。  部活昇格への固い決意は、生徒総会での圭太の情熱あふれる演説 によって、半ば無理矢理全校生徒へ伝えられた。  男子バドミントン部廃部等の問題もあったが、やはり注目は前回 でその実力をいかんなく発揮した圭太の演説だった。  早、生徒総会名物との呼び声も高い圭太の演説は、聞く人の大半 を魅了し、もはや弓道部はこの時点で成立したと言っても過言では ない。  終わった瞬間の、割れんばかりの拍手が、期待を裏切らなかった ことを証明していた。 「やるじゃん、圭太?」 「本当に、素敵だった、圭太君」 「やっぱりすごいね?」 「最近自分の演説姿に酔ってるんじゃない?」 「あのなあ、おまえら… たまには変わってくれよな?」  文句の一つも言ってみるが、とどのつまりは5人とも、すっきり したようだ。  喧嘩の後のすがすがしさは、喧嘩の当事者にしかわからない。  とにもかくにも、やるだけのことはやったのだ。  あとは投票結果を待つのみ。  一週間後、風見鶏高校弓道同好会はわずか6ヵ月で消滅した。  それは、圭太達5人が21万8400円の部費と、憧れの部室と、 公式戦出場の権利を手にした、記念すべき日でもあった。  その夜に、当然のように的場宅で「風見鶏高校弓道部創立記念大 パーティー」が行われたが、いつものことなので特に何も報告する ことはない。別の機会があれば、紹介してもいいかもしれない。 「ようこそ、弓道部部室へ!!」 「って言ってもよお、圭太。元男子バドミントン部の部室だろ?」 「何で女子と男子が同じ部室なのよお!? 信じらんないよ!」 「交代で着替えるしかないね? それとも男子は外で着替えようか?」 「それは駄目よ。外は寒いから、風邪をひいちゃうわ?」  ここは部室棟の左から2つ目。  作者の実体験を元に、もとい、慢性的な部室不足の状況を鑑み、 弓道部部室は部活動の中で唯一、男女共用となった。 「やっぱ教室で着替えるか? なあ、じゅん?」  結局そうすることに反論の余地はなかったらしく、潤一郎と麗は 仕方なく圭太と一緒に部室を出る。  と、ドアを閉めた瞬間、数歩離れたところでぼおっと立っている 男がいた。  ついこの前まで、圭太達は彼の存在をまったく知らなかった。  生徒総会で初めて顔を知った2年生…  彼こそが男子バドミントン部の主将、長野だった。  圭太達は後ずさりする程驚いた。 「ああ、君達か。よかったな、部室がもらえてさ…」  多少不貞腐れた言い草に潤一郎などは憤慨もおぼえたが、圭太に とっては痛烈な一言だったらしい。  この部室は、一昨日までは男子バドミントン部のものだったのだ。 「すみません… 何だか、俺達が何もかも奪ったみたいで…」  今度は、長野の方が驚いた。  どうやら、圭太の事をもっと傲慢な男だと思っていたらしい。  演説の時のイメージしかないと、意外とそう思われることが多い のかもしれない。  とすると、詭弁家ではない圭太にとっては、あまりいいイメージ ではないと思われる。 「何も謝ることはないだろ? お前らが部活に昇格して、俺達が同 好会へ降格した、それだけのことさ」 「でも…」 「もっと素直に喜べよ! 俺達が廃部になった意味がなくなるじゃ ないか? それに、俺達の事は君達のせいじゃない。君らが何もし なくても、俺達は廃部になってたさ」 「は、はい…」  圭太はただ相槌を打つくらいのことしかできなかった。  自分達にも色々あったが、彼らにも色々あったはず…  そう思うと、余計な言葉がいくつも浮かぶ。  だが、それらの言葉は単なる哀れみ・同情しか生まない事も圭太 にはわかっていた。  それが、代表として堂々と渡り合うべき圭太の口を黙らせる。  そんな圭太の気持ちを知ってか知らずか、長野はこう続けた。 「俺達もそんな力があったらって思う時もあるな」 「そ、そうですか…? 俺達、そんな力は…」 「あるんだよ。ちょっと危険なくらいにな?」  長野はにっこりと笑った。 「でも、いいんじゃないのか? 勢いがあるってのは。俺達が甘え てただけかもしれないしな。じゃあ、頑張れよ?」 「あ、ちょっと待って下さい!」  さっさとその場を去ろうとする長野を、圭太は慌てて引き止めた。 「あ、あの、俺達の部室、見ていきませんか?」 「そうそう! もう俺達の部室だけど、嫌みじゃないぜ?」 「僕達も、見てもらいたいんです!」  潤一郎と麗も、気持ちは同じらしい。 「そ、そうかい? じゃあ、ちょっとだけお邪魔していいかな?」  彼らが嫌みで言っているのではないのがわかったのか、長野は彼 らの誘いを快く受けた。 「どうぞどうぞ! それでは、ようこそ、弓道部部室へ!」 「ああっ!」 「きゃーっ!」  何しに部室を出たのか、すっかり忘れていた圭太達だった。