練習でも試合は試合 「練習試合、決めてきたよ!」  あまりにも唐突な麗の台詞なので、わけがわからない。  ちょっとまわりを見回してみよう。  まだ太陽の直射は熱く感じられる、10月初旬の水曜日。  風見鶏高校体育館裏、ちゃちだがそれでも弓道同好会の道場。  放課後、4人は弓道の練習。  圭太と潤一郎は的当て競争の真っ最中。  今のところ圭太が18中。潤一郎は12中。かなり圭太の方に、 有利に展開しているようだ。  ただ、9月の終わりに初めて射場に立ってからの累計である。  二人はかれこれ120射くらいしている。  つまり的中率1〜2割のところでやりあっているのだ。  しかも、少々射法八節を軽んじている傾向もある。  おおよそ弓道の精神からは遠いが、楽しくやろうよ、という圭太 の言葉を支持している杏子も、特に口出しはしなかった。  その杏子、マイペースで確実に的中率をあげる。一日60射で、 約50中前後。  射法八節を適当にやっている内は、まだまだこの数字は出せない。  詩歌も杏子に合わせ、ゆっくりと丁寧に弓を引く。  もちろん、射法八節に従っているようには見えないが、決して雑 な引き方ではない。ちゃんと型に沿って引こうとしているのだ。  今は一日0中でも、その姿勢がきっと、圭太や潤一郎を追い抜く 結果となる。それを信じてのんびりと矢を射る詩歌だった。  割と派手な性格の詩歌をここまでにしたのは、杏子の格好良さに 尽きる。憧れは人を強くする。  さて、校舎から走って来た麗、何を言い出すのかと思いきや… 「今度、南高と練習試合をやることになったんだ!」  麗はみんなの反応が楽しみだった。 「お、おいおい、いきなりだなあ、麗ちゃん!」 「ったく、しゃあねえなあ… いっちょ俺の腕前見せてやっか!」 「嘘ぉ! そんなことやるの!? でも面白そう!」 「麗君、南高って、楠が丘南高校のこと?」 「そう! よく知ってるね、杏子ちゃん?」  この一言で、はしゃいでいた3人の顔は急に青ざめた。  あんずが知ってるということは、まさか…  圭太ならずともそう思う。  杏子が知っている高校は、県下でも弓にかけては名門校ばかり。  そういう高校を受験の対象にするかどうかで、迷っていた時期が あったため、高校に入る前から既に詳しかったのだ。 「インターハイの常連校の一つなの。ちょっと私達とは…」 「でもよお、同じ高校生だぜ? どおってこと…」 「私くらいの的中率を持つ選手なんて、ざらにいるわ、きっと…」 「僕、すごいところに申し込んじゃったんだね…」  どこでどう選び、交渉したのかは知らないが、いきなりの強敵を 相手に、既にお手上げ状態の麗。  ないはずの自分の非を、何故か大きく感じていた。  練習試合前日。  今日は休みになる土曜日だったが、もちろん練習を行った。  あくびまじりに集まるメンバー。  早いもので、体育祭も終わり、秋の遠足を間近に控えた10月の 中旬にもなると、さすがにTシャツとジャージだけでは少々肌寒い。  制服だけでなく、彼らの練習時の服装も衣更え。  皆、Tシャツの上にトレーナーを着ることにした。  さて、朝っぱらから練習となったわけだが、それにはわけがある。  午後から彼らは、練習試合に備えて、あるところに行かなければ ならなかった。 「せめて、作法だけは何とかしとこうぜ?」  その言葉の元、正座に一番不安を感じさせていた圭太が、会長ら しく真っ先に練習のポイントを示す。 「そうだ! お前が一番何とかしろ!」  親友にけなされ、分が悪くなる圭太だった。  なごんだ雰囲気が朝の体育館裏にはあった。  と、いうわけで、始めるまではそうでもなかったのだが…  いざ練習開始となると、皆硬くなっている。  まだ「前日」なのだ。恐がることもないはずである。  だが、彼らはそれぞれ、一抹の不安を拭い切れない。  やはり、練習試合でも試合は試合ということだった。  圭太や潤一郎は、今までの練習での遊び過ぎを悔やんだ。  射法八節が形になっていないというわけでもないのだが、人前で 見せることになる練習試合で、きっと恥ずかしい射形になっている ことだろうことを考えると、耳たぶまで赤くなる思いだった。  この、特に試合そのものへのプレッシャーは感じていない二人と 好対象なのが杏子。  彼女は5人の中では百戦錬磨のように見えるが、試合という形式 では、今まで弓を引いた事はなかった。いつも自分と闘い、自分の 存在のみを道場で感じてきたため、他人と競い合うことへの異常な までのプレッシャーは、彼女を少々弱腰にさせる。  この点は、詩歌も同じである。  だが、気の強い彼女は表向きは平静そのものである。笑うと口元 が引きつるので澄ました顔をしているが、元々自分から体育会系の 部活を避けて来た詩歌に、数ヵ月前までは考えもしなかった、試合 という名の別世界が歩み寄る。実は誰よりも不安で、胸がはちきれ そうだった。  一人、麗は方向の違う不安を抱いていた。  練習試合を組んで来た日からずっと同じことを思っていた。  自分の選んだ相手は、県下でも強豪中の強豪である。これで皆が 自信をなくしてしまえば、それは自分のせいではなかろうか?  自身の練習内容そっちのけで、そのことばかり悩む麗。  ちぐはぐな5人の、今までで一番ちぐはぐな練習が、昼過ぎに終 わった。 「こんにちは」  中川弓具店。  杏子お気に入りの店である。  年頃の女の子、もう少ししゃれた店を上得意にしてもよさそうな ものだが。  とにかく、午前中の練習を終えた5人は、今ここにいた。  しかもそれぞれ弓巻きを巻いた状態の弓と自分の矢を入れた矢筒 まで携えて。  なぜ弓具店にいるのか…?  明日絶対に必要なものを揃えるためだった。  それは、弓道着と袴。  残念だが、弓道着というものは、買いに行ったその日に手に入る 程需要と供給のバランスは整っていない。  往々にして弓具店が仕入れを渋るものなのだ。学校の部活で新入 部員が入部する4月の終わり頃には結構仕入れているものなのだが、 10月初旬は季節はずれともいえる。  かといって、トレーナーにジャージ姿での練習試合というのも、 いくら同好会といえど相手に失礼にあたる。  というわけで、練習試合が決まった日、大慌てで杏子が注文して くれたのだ。  事情を知るものならではの対応である。 「身長と体重だけで、大体割り出せるからね。それにしても君達、 みんなスリムだね?」  ひょろりとした身なりの気さくなおっさんだが、これでも矢師で ある。矢師とは、矢を作る職人のことであり、矢師になるためには 当然長い修行が必要である。 「そうですかあ?」  その言葉で一番喜んだのは詩歌だった。 「弓道部とかだと、もう少し横幅の大きなやつが一人や二人はいる もんなんだけどねえ」  皆、太った男が弓を持つ姿を想像した。  確かにそんな気もする。 「あははっ!」  嬉しそうにはしゃぐ詩歌。  試着は当然行うべきである。  店の奥を借りて、詩歌には杏子が、男3人には矢師のおじさんが 着付けを行った。  その結果、袴が見事にはまった3人だった。 「今日、これ着たまま帰ろうかな? きっと蒔絵も驚くね!?」 「そんなことしたら、光や青葉にぐちゃぐちゃにされちまうぜ…」 「それなら、だいやみいもよく似たもんだぜ…」 「僕、だぶだぶ…」  麗の袴だけ、もう少し仕立て直す必要がありそうである。  ともかく、試合前だというのに、ちょっと和やかな気分にひたる 5人だった。  練習試合当日。  朝、9時30分。  電車、バスを乗り継いで、ようやく辿り着いた楠が丘南高校。 「おい、じゅん、先に行けよ…」 「お前が先に行けよ…? 会長だろ…?」 「じゃあ、俺降りる!」  さすがの圭太も、会長の座を潤一郎に代わって欲しくなったらし い。  野球部の時とは勝手が違うらしい。  と、そこへ、校門に立っていた詰襟の生徒が、走りよって来た。 「あの、風見鶏高校弓道同好会の方でしょうか?」  たじたじの圭太達をよそに、彼は自分のペースで話し掛ける。 「お待ちしてました。弓道場へ御案内致します」  手際良く5人を道場へ誘導した。  他の高校が珍しいのか、きょろきょろと視線を動かし続ける4人。  麗だけは交渉の際一度訪れていたため、それほどもの珍しいとは 感じないようだ。 「あの、君、1年生だよね?」  圭太が案内役の生徒に聞いた。 「え、あ、はい。そうですが?」 「俺達も同じ1年生なんだし、出来ればもっと、気楽にしゃべって くれないかなあ?」 「そうなんですか? 皆さん1年生なんですか? じゃあ出来立て ほやほやの同好会なんですね?」  つまり、こちらの事情を少しも知らないらしい。 「だから、その妙な丁寧語や敬語は…」 「すごいですね? 僕なんかとても真似出来ません、同好会を作る なんて!」 「いやあ、そう? あははっ!」  はやし立てられ、圭太は一人調子に乗ってきたようだ。  その有頂天の幼馴染みに初めは頭を抱える潤一郎。 「ばか圭太… ったく、しゃあねえなあ。ここまで来たらやるっきゃ ねえんだけどな? そう思うと、調子に乗るのもいいかもなあ…」 「来ちゃったんだもんね! うん、何とかなるよ! 試合で負ける のは当たり前なんだし。恥さえかかなきゃいいよね!」  詩歌も前向きな気持ちだった。 「みんな緊張がほぐれたみたい。よかった!」  麗はプレッシャーそのものとは無縁に見えた。自分が決めてきた 練習試合によるみんなの気持ちを、今の今まで気にしていたのだ。  つまり、結構みんなやる気が出て来ていたのである。  ところが…  どうしよう… どうしよう…  一人、心の中でそう叫び続けている者がいた。  弓道同好会の技術的中心人物、安土杏子である。  きっと、校門と道場の間が一番遠くあって欲しいと願い、一番近 いと感じたのは、他ならぬ彼女だろう。  道場に着くと、総勢三十数名の弓道部員が袴姿で整列していた。  5人はその場で尻ごみした。  三十名という人数は、やはり圧巻である。  しかも、皆が皆、杏子級の実力の持ち主なのであろう。  またしても5人に緊張感が走る。  野球部での試合の時とはと雰囲気が違う… とは圭太。  帰ろうぜ… と心の中で半べそかいているのは潤一郎。  ちょっと、恐い… と彼らの目を見て思ったのは詩歌。  やっぱり杏子ちゃんの言う通りだ… とは麗の気持ち。  その杏子はといえば、ただじっと地面を見ているだけ。 「そちらの主将は?」  整列した列から、向かって一番左の端に立っていた男が、5人に 声をかけた。 「あ、あの、俺、いや、僕です!」  圭太が一歩前に出るまでに、言葉が3回詰まった。 「そんなに緊張しなくてもいいよ、君達」  大柄な体格だが、その言葉はとても優しい。  鋭い眼光の中にも、どこか優しさのようなものが見え隠れする。 「君達、この6月に同好会作ったばかりなんだって? じゃあまず は、おめでとうを言わせてもらうよ! でも、あまり練習出来てな いんじゃないかな? 試合形式にはなるけど、うちの練習のやり方 も今後の参考にしてもらえれば光栄だなあ?」  男は気さくに圭太に歩み寄り、右手を差し伸べた。 「は、はあ…」  握手である。 「僕は南高弓道部主将の高岡だ。君は?」 「は、はい。俺、いや、僕は、風見鶏高校弓道同好会会長の的場で す…」  ようやくそこまで口にした時、高岡は笑いだした。 「そうか! 会長っていうのか! あははっ! いや、失礼!」  豪快な男である。 「じゃあ、主将じゃなくて、会長って呼ばなきゃね?」  男子部部長に呆れた視線を向けながら、女子の列から一歩前に出 たその人物は… 「私は南高女子弓道部主将の桜田です。よろしくね」  しまった!  圭太は重大な事に気付く。はっきり言って手おくれだが。 「あ、あの、うちは、女子部とかいう分け方、ないもので…」 「じゃあ、君が両方の代表ということね? よろしくね、会長さん?」  高岡から奪いとるようにして、圭太の手を取ると握手し直す桜田。  圭太、あんにゃろお…!  何故か、潤一郎だけにはいい緊張ほぐしになったようだ。 「圭太、お前なあ…」 「何だよ、じゅん?」 「あん時は、あんずか詩歌に譲るべきだったんじゃねえのか?」 「んなこと言われても、先に握手してきたのは桜田さんの方だし…」 「かーっ!」  騒がしい着替え風景。  ただでさえ慣れない袴で着付け時間が遅れているのに、二人の言 い合いなんかが始まると…  頭の痛い麗だった。  着替えを済ませると、一同板張りの道場の外、矢道で整列した。 「よろしくお願いしますっ!!」  三十数名が声を揃えて挨拶すると、それだけで迫力を伴う。  だが、圭太は違う迫力も感じ取っていた。  皆、目が違う。  何が彼らをそうさせているのかはわからない。  だが、強豪と呼ばれる野球部と対戦するときには、いつも感じる プレッシャーだ。圭太が感じないはずはない。  やっぱ、強いんだな…  他の4人には漠然としかわからない気分、圭太にしか説明出来な いことだった。 「これより、練習試合を始めます」  南高弓道部男子副将の上田の言葉で、いよいよ試合が始まった。  試合は個人戦の形式がとられた。  団体戦は「立」と呼ばれるチーム同士の総的中数で競う。  立には主に「三人立」と「五人立」の二種類があり、試合の形式 等により違う。例えば、国体・インターハイ予選等、学校そのもの の試合というような場合は五人立が、県や市の大会等の場合では、 数多く参加出来る三人立が用いられる。  学校同士の練習試合は本来、五人立であるべきなのだが、彼らは 5人しかいない。  しかも、男子は何とか三人立が出来るとしても、女子は2人しか いない。  つまりそもそも団体戦など無理な話だったのである。  それを考慮した高岡が、くじ引きによって射順を決める、単なる 個人戦形式をこの試合に用いることにしたのだ。  一つの立に5人配分するが、面白い事に男女入り乱れての立とし た。普通男女混合の立などあり得ないのである。  とにかく、くじ引きでばらばらになった圭太達。  偶然同じ立になったのは、潤一郎と詩歌くらいのものだ。  そして、運がいいのか悪いのか、最初の立に杏子が入った。  他の4人の南高弓道部員と共に、射場で執弓の姿勢で並ぶ杏子。  五人立の場合、立つ位置には名前が付けられていた。  的前で胴造りの構えに入った時に上座から見て一番前になる位置 から順に、大前(おおまえ)、二的(にてき)、中立(なかだち)、 大後前(おちまえ)、大後(おち)と呼ばれるのが一般的である。  彼女は、大後前という位置にいた。 「始め!」  副将上田の声と共に、5人は一斉に一礼し、3歩前に進む。  そこから足踏みを終え、胴造りに入る。  杏子は見よう見まねでついていった。  だが…  彼女は焦った。  射礼の形が違う…  自分の知る射礼とは異なり、跪座の動作へ移らなかったのだ。  確かに射礼には、跪座から立ち上がり弓を引く居射礼と、最初か ら立ったまま弓を引く立射礼とがある。  だが、彼女の知る立射礼とはかなり作法が違うのである。  居射礼の座る部分を除いた、そんな感じの射礼に、杏子は大きく 戸惑った。  実際、高校生の試合では、多人数の関係上このような射礼に則っ て進行する場合が多いのだが、そんなことを杏子が知るはずもない。  大前から大後まで一本ずつ矢を射るとまた大前から、という流れ を4回繰り返すことで矢を4本射るという方法は、彼女の知る通り だったのだが。  矢を番え、順番を待つ間に、弓を保つ左手に少しずつ震えの様な ものを感じ始めた。  やがて、乙矢を持ち腰にあてている右手も、足袋の裏に頼らずに 床との摩擦を抑えている両足も、胴造りによって見えない力を込め 続けているお腹も、全てが震えている様に感じる。  そして、前の3人が一本目を射ち終えた。  当然、杏子の番である。  ここへきて、ようやく震えの意味がわかった。  怖い…  彼女はそう思わずにはいられなかった。  昨日から、試合は怖いと思っていた。  だが、何故怖いのか? 何が脅えさせるのか? それが今までわ からずにいた。  ようやく気付いたのだ。  私、自分の「射」に、まだ自信がない…  杏子がきゅっと唇を噛み絞めたことに、一体どれだけの人が気付 いたのだろうか?  みんなの前では、経験者ともてはやされて、いい気になってた…  でも、私だってまだ修行中の身…  偉そうな事を言っていても、まだ本当はみんなと同じ…  お母さんに教わってきたけど、射礼一つすら他校の人と合わない…  たとえ、それが流派の違いだとしても、自分の学んだ射礼で臨む べきだったのに、それが出来ない…  私、何か間違っていたのかもしれない…  みんなに、間違ったことを教えてしまったのかしら…  それなら、それなら…  ここで弓を引く事なんて、出来ない! 「杏子ちゃん! 落ち着いて!」  あり得ないことが起こった。  麗は、いつになく硬くなっている杏子の心境を見抜いたとでもい うように、矢取り道と呼ばれる射場から見て左側の道から、大声で 叫んだ。 「ばか! 試合中に射手に声かけちゃいけないって言われてるだろ?」  武道の中でも弓道の試合だけはいつも静寂のなか行われる。  基本的に、射場にいる人間に声をかけるどころか、矢取り道や、 その反対側にあたる観覧席で話をすることすらはばかられるのであ る。 「ご、ごめん、圭太君…」  慌てて麗を引っ込めた圭太、何やらごそごそとやっているらしい が、杏子からは背になる位置にいることになり、彼女はその始終を 見ないままである。  どうして、わかったのかしら…?  顔が見える位置ではない。  だが杏子は、麗には自分の今の脅えが見透かされているように感 じた。  これが逆効果に働くと、誰が考えるだろうか。  私、脅えてる…  さらに彼女の恐怖心をあおる結果となってしまった。  だが、それ以上はもう何も考えられなかった。  無意識の内に、流れるような動作で弓を引く。  「会」の動作でも、充分な気が込められているように見えた。  見る目のあるものには、必ずそう見えるはずである。  凄いな、彼女…  南高主将高岡も、彼女の背中を見てそう感じる程だった。 「彼女が本気になったら、うちの女子連中も太刀打ち出来ないんじゃ ないかな?」 「そうね、きっと。男子でもあやしいわよ?」  小声で話し合う高岡と桜田は、いや、そこに居合わせたすべての 人が、妙な音を聞く。  ガンッ! 「よく鳴らしたもんだけどな、僕も」 「そうね。一年の時は毎日一度は鳴らしていたものね」 「でも、他校の生徒にやられたのは初めてじゃないか?」 「そうね。他校でやらかしたのもあなたが初めてだけどね」  高岡と桜田はその金属性の音を聞いた瞬間に、音の理由は理解し ていたようだ。しかも高岡はよくやらかしていたという。  矢が離れた瞬間に、杏子にもその音の原因がわかった。  だが、覆水盆に帰らず。当然だが、離れた矢は帰っては来ない。  彼女は残心の動作のまま、矢の弾道をただ目で追いかけるしかな かった。  矢は的の遥か上に向かって飛んだ。  遥か上… 的場の屋根へ向かって。  大きな金属性の音は、その時出来るものである。  高校の弓道場は、的場の屋根は薄い鉄板程度で作られている所が 多い。  その鉄板に矢が当たる音。これが正体である。  初心者が一度や二度は起こす失敗なのだが、杏子程の射手になる と、まず考えられないことである。  同僚の4人も目を丸くする。  自分達の道場には屋根がないので、こういった現象は起こらない のだ。  あんなんなるんか…? 圭太はただ唖然としていた。  気ぃつけよ… 潤一郎は自分の事を気にした。  結構もろいんだ… 詩歌は何故か屋根を心配した。  何しろ初めてのこと。失敗一つをとっても彼らは興奮していた。  そんな中で…  杏子ちゃん、大丈夫かなあ?  ただ一人、麗だけが彼女の心の痛手の方を気にしていた。  自信無くさなきゃいいけど。  自分の事の様に心配する彼は、慌てて応援する場所を変えた。  観覧席に回った麗。  彼女の表情は、思った以上に強ばっていた。  だが、2本目以降はいつもの彼女の引きに戻っていた。  4射終わると、疲れ切った杏子は、こっそりとその場を離れた。  誰もいないところへ行きたかったのである。  麗が後を追いかけて行こうとするのを、圭太が止めた。 「次、麗ちゃんだぜ?」  冷たい言い方に見えるが、こんなことで南高に迷惑をかけるわけ にもいかない。麗にもちゃんと試合をしてもらわなければならない のだ。  そして、圭太も杏子を探しにはいかなかった。  潤一郎も詩歌も、そして自分も試合に参加しているのだから。  一人8射するこの試合、後半の4射分は昼からということになっ ていた。  昼休みは校舎の外れにある木陰を借りて、食事をとっていた。 「あいつ、袴姿で学校の外に行っちまったみたいだぜ?」  潤一郎は、玉子焼きを頬張りながら、呆れた調子で言い放った。 「昼休みが終わったら、帰って来るさ」  圭太は楽観主義者でも言わないような台詞を、平気な顔で言って のける。 「よお、圭太? お前、ちょっと冷たいんじゃねえのか?」 「そうだよ、圭太! あんちゃんかわいそうじゃない!」  箸を振り回しながらの詩歌の一言に、会長はむっとしたらしい。 「俺が探しに行けばあんずがかわいそうじゃなくなるのか? 違う だろ? これはあんずの問題なんだから」 「だけど!?」 「探しにいくのは、麗ちゃんだけでいいんだよ」  落ち着き払ったように見せかける。  だが内心は一番杏子の事を気にしていた。  似たような経験があるからな…  圭太は中学野球部での、公式戦初出場の試合で大きなエラーをし た。それが負け試合の原因になってしまったから質が悪い。  こういう時、ほんとは何言っても無駄なんだけど…  俺がそうだったからな…  でもほんとは、あんずはもっと強いと思いたい…  俺なんかと違って… 「やあ、君達。そろそろ」  高岡が呼びにきた。昼休みがもうすぐ終わるのである。  三十人もの部員を引っ張る主将…  圭太には何故か、試合の相手校の主将が見た目よりさらに大きな 人物に見えた。  たった4人の仲間すら引っ張っていってやれない、そんな思いの 裏返しなのかもしれない。 「あ、高岡さん。すみません。もうすぐですか?」 「そうなんだけど… まだみんな揃ってないみたいだな?」 「そのうち揃いますから」 「ああ、そう?」  さっぱりした性格の高岡。さっさと道場の方へ戻っていった。 「さて…」  食事を終えた圭太。  立ち上がるとウォーミングアップか、身体を前後に動かす。  潤一郎と詩歌には、これが苛立ちを抑えるために行っているよう には見えないらしい。  ちなみに、ここまでの彼らの成績は…  圭太2中、潤一郎1中、麗1中、詩歌2中、杏子3中。  なんだかんだ言っても、杏子が当然一番的中率が高い。 「ここにいたんだ」  町中の公園で、カバンを背負った麗は杏子を見つけた。 「麗君…」  小さなベンチに袴姿で座っている杏子は、麗が来たことに気がつ いて、地面と向かい合っていた顔をゆっくりと上げる。 「どうしたの?」  意外な程あっさりと声をかけることができ、麗自身も不思議に思 う。  彼女を探している間、麗は彼女への言葉も一緒に探していた。  失敗は誰にでもあることだけど…  杏子ちゃんにもプライドがあるだろうし…  自信なくしてなきゃいいけど…  杏子ちゃん、結構落ち込むタイプだし…  こんな時、どんな風に言えばいいんだろう…  何故か小さい頃から女の子に好かれる麗だったが、あまり深い友 達付き合いをした憶えがない。  気がつけばいつも勉強ばかりしていた。  塾へもいかず、父の持つ書物ばかりを読みあさり、学校へ行って も特定の親友がいない。集団の中の孤独をいつも感じていた。  女の子達は友達としてではなく、おそらくマスコットとして麗を 選んでいたのだろう。だから真剣な悩みを持って接することはない。  そんな麗が、意外にも「どうしたの?」という一言で彼女に声を かけることができた。  彼自身、不思議と思ってもおかしくはない。 「ううん、何でもないの…」  辛そうな杏子の顔を見たくない麗は、少し考えた後、持って来た カバンを開ける。 「じゃあ… はい、これ!」 「えっ?」  杏子は見覚えのあるものを麗から手渡された。  彼女のお弁当である。 「早く食べないと、午後の試合に間に合わないよ?」  彼なりの、精一杯の優しさと気配りのつもりだった。 「…うん。ありがとう」 「どうしたの? あ、これ、勝手に持って来たのは良くないよね? ごめんね。でも、カバンは詩歌ちゃんに開けてもらったから覗いた りして、ない、んだけど…」  杏子は受け取ったお弁当を握り締めたまま、うつむいた。  やがて、肩が小刻みに震え出す。  小さな小さなすすり泣きの声を、麗は「聞こえない」と無理矢理 思い込むことで交わした。 「さあ、とにかく食べよう!」 「…うん」  袴姿の二人は、ベンチで仲良く昼食をとった。  練習試合はつつがなく終了した。  成績は圭太4中、潤一郎3中、麗2中、詩歌5中、杏子7中。  さすがは杏子というところであるが、実際の優勝は男女共南高の 部員である。  男子は全射皆中が3人いたため、共射と呼ばれる優勝決定戦の末、 高岡が優勝した。  女子は全射皆中が桜田だけであり、当然彼女が優勝である。 「ありがとうございましたっ!」  試合が終わると圧倒されている様には思えない。  清々しさすら感じる5人だった。  南高弓道部員が試合の後片づけを行なっている最中、圭太は高岡 に呼ばれた。  弓道場の裏に回ると、そこには桜田もいた。 「わざわざここへ呼んだのは、他人に聞かれたくないことを話すか らなんだ。そう、同好会会長の君だけと話がしたいからね」 「君達、早く部活動になって、公式戦に出てきなよ?」  それは圭太にとって、意外な一言だった。 「同好会が出来たのは6月終わり頃なんだって?」 「ほんと? その割には随分堂々としてたけど。今まで大変だった でしょう?」  桜田に求められて、この短期間の彼らの活動内容を語った。 「あ、はい。弓を持つまで、一月以上も道場の整備やトレーニング にばかり気が行ってて、矢を初めて射ったのが8月終わりかな?  で、的前に立って練習したのはこの一月位です」 「あははっ! やるもんだ! それでうちと練習試合とはね!」  高岡の屈託のない笑顔から出る言葉に、圭太は顔から火が出そう なほどの恥ずかしさをおぼえた。 「すみません。ここが県下きっての強豪だったなんて、知らなくて…」 「強豪かどうかは怪しいもんだけど、うちを選んだのは正解だな、多分」  はあ?  圭太は気が抜けたような顔で高岡を見つめる。 「そうね。練習だけはきちんとしているつもりよ? 県下の高校に はひどい練習しかしていないところもあって、そういうところを参 考にするくらいなら、うちの方が正解だわ」  言い切るところが頼もしい。 「みんなに言うと有頂天になりそうだから君だけに言っておくと、 あの安土さん? 君らが思っている以上にきっちりした射法を身に つけてる。彼女についていくだけで、きっと大会でもいい線いくん じゃないか?」 「そ、そうでしょうか? 俺、いや、僕達は確かに彼女の引き方を 目標としてますけど…」  いきなりの褒め言葉に慌てる圭太に、桜田が追い討ちをかける。 「ほんと、自信持っていいって、彼女に伝えてね? 君達だって、 そうよ? この短い間でよくこれだけ身につけたと思うもの」 「まだまだ未完成だけどさ、えーっと、道上さんだっけ? 彼女も 丁寧だな。真弓君もそう。君達みんないいセンスを持ってる。具体 的な指導は出来ないけど、安土さんが全部わかってると思う。天狗 にならないために君だけに言ったんだから、責任を感じてくれよ?」  自分の事のように誇らしげに話す高岡。こう締めくくった。 「相談事はいつでも受け付けるから。君んとこの顧問よりは数段役 立つつもりだ」 「はい、ありがとうございます!」 「そうね、公式戦で一戦交えたいわ、安土さんと」  帰り支度のためにその場を離れようとした圭太は、そんな桜田の ひとりごとを背に受けた。  ちょっと、背筋が震えた。 「すっげーよな、やっぱよお! あの桜田さんって!」 「何がよお?」 「美人で色白でしなやかな仕種で文武両道で!」 「あのさあ、うちの蒔絵はどうなってんの?」 「また違う趣ってやつかな? やっぱいいよなあ!」  帰りのバスの中、はしゃぎにはしゃぐ潤一郎と詩歌と対照的に、 杏子は窓の外ばかり見ていた。  口を開こうともしない。  隣に座る麗も心配そうに杏子の横顔を見つめる。  さらにその二人を後ろから見やる圭太は複雑な心境だった。  基本的には潤一郎や詩歌とわいわい騒ぎたい。  せっかくやった試合の話で盛り上がりたいのだ。  だが、杏子の横顔と桜田のひとりごとが、圭太を無口にさせる。  なあ杏子、どうする?  桜田さんと試合を、したい? したくない?  結論は急がないことにしようと決めてはいたのだが、口に出せな い問いが、圭太の口元でうろうろしている。  何となく、ただ何となく、彼には会長という役職特有の嫌な予感 がした。  そんなことはお構いなしに、潤一郎と詩歌は試合の話に花を咲か せていた。 「お前が半分以上当てるなんて、まぐれだよ、まぐれ!」 「ひっどーい! これでもあんちゃんにきっちり教わって引いてる んだからね! それよりあんたこそ、前半は1本当てるのがやっと だったじゃない!?」 「るせえ! ありゃ、手ぇ抜いてたからじゃねえかよお! おーし、 今度の試合じゃ負けねえからな!?」  この言葉に杏子がかすかな震えを見せた。  気づいたのは麗だけではなかった。