夏だ! 野山だ! 合宿だ! 「杏子。ちょっとおいで」 「何、お母さん…?」 「あなた達の同好会で、合宿しない?」 「えっ…?」 「この前ちょうど知り合いが、1週間程空いてるって言ってきたの。 だから聞いてみたんだけど」 「ああ、あの信州の? そうね、うん。みんなに聞いてみます」 「ええっ? 合宿ぅ!?」 「そうなんです。うちの母の昔からの知り合いが、信州の山合いの 村で、弓道場と一緒になった合宿所を経営してらして…」 「ある大学の合宿が取り止めになったから、その代わりにってこと?」 「はい。費用も高校生ということで色々考えて下さるようですし、 悪い話じゃないと思うんですけど…」 「そうだよな? な、圭太! お前、スケジュールなんてどうにで もなるよな?」 「そりゃあ、あんな仕事だからそうだけど。家の方も、俺が何したっ て全部俺の責任ってことで何でも出来るからなあ。麗ちゃんはどう?」 「僕もきっと大丈夫だよ? 父さんも、みんなのことを信頼してく れてるしね?」 「うーん…」 「また詩歌か… お前、何か不満なわけ?」 「そういうわけじゃないよ、じゅん君… だけどうちのお父ちゃん、 許してくれるかなあ?」 「許すも何も、合宿だぜ?」 「うん… 一応頼んでみるね」 「そういえば、この前俺が作った、シナリオあったよな? あれ、 合宿の合間に撮影しないか?」 「な… じゅん、お前、まさかあれ本気でやろうってんじゃないだ ろうな?」 「でも、そろそろやんなきゃ間に合わないんじゃない?」 「詩歌の言う通りだよなあ。じゃあ、麗ちゃん、あれ書き直せる?」 「おい、圭太! なんで麗ちゃんなんだ!? 俺が書いたシナリオ だぞ! あのままでいいじゃねえか?」 「あのなあ… 何が<ヒロインストーリー>だよ? あんなもん、 学園祭に出せるかよ!? な、麗ちゃんだったらOKだよな?」 「僕、圭太君の方がいいと思うんだけど」 「俺そういう物語ってのは苦手なんだよ」 「あたしでもいいけど?」 「お前にあの状態のじゅんをねじ伏せる力があるか?」 「畜生! あのシナリオじゃねえと、絶対俺やんねえからなあ!」 「なるほど… ここは麗ちゃんに期待、だね」 「ふうん、面白そうだね? それ、あたしもついて行こうかな?」 「えっ…?」 「何で、お前がいるんだよ?」  潤一郎の冷たい台詞が、集合場所の駅前で響き渡る。 「そんなことよりじゅん君、それ何? 昔の武士がつけてた鎧みた いだけど?」  どこから見てもそうとしか見えない鎧を指差し「何?」と言った のは、相原香織だった。  えらく弓道同好会と親しくなったもんだ。  しかも、もう男に対しては「圭太」「じゅん君」「麗ちゃん」と、 詩歌の使う呼び方をそのまま使っているのだから、皆たまったもの ではない。 「みたい、じゃなくて、その通り。いいだろ? 俺んちの蔵ん中に あったんだぜ?」  自慢げな潤一郎だったが、誰も聞いていない。  ともかくも、皆スケジュールが合い、晴れて合宿となった。 「で、ほんとについてくんの? 香織ってば結構暇なんだ」 「バイトさぼっちゃった。へへっ! 麗ちゃんも行くって言うし、 あたしもお呼ばれお呼ばれ!」 「誰も呼んでねえよ!」  潤一郎がやたらとつっかかる。 「麗ちゃんが呼んでくれたんだもんね。ねえ?」  合意を求められた麗は、しどろもどろ。 「あの、その、違うんだけど、その通りで、だけど…」 「でも、一人増えただけで、何だかさらに楽しくなりそうね?」  杏子がみんなの想いを代弁していた。 「それじゃあ、みんな揃ったところで、合宿へ向けてしゅっぱーつ!」  詩歌の張り切った声。  それは俺の台詞だぞ… とは言いたくても言わない圭太だった。  今、彼の頭の中は、合宿中の練習メニューについてで一杯なのだ から。  ともかく、駅に入る5人と野次馬1人。  初の合宿へ向け、一歩歩き出した。  その中で、鎧をかつぐ潤一郎の一歩は少々辛そうだったが。  特急電車の中では、ポーカーが花盛りだった。  といっても、2人掛けの座席を前後方向に連続して3つ予約して あり、座席を向かい合わせるということは、前か後ろの一つは2人 のままである。  実際は前の席、麗と杏子の座る席だけが、単なる2人掛けである。  圭太は首を傾げている。 「あれ…? おい、じゅん。ポーカーって、色合わせるやつじゃな かったっけ?」 「あのなあ… 昔一緒にやったろ? お前ほんとにこういうの駄目 だなあ!? いいか? とりあえずワンペアーだけでも…」 「あ、あたしフルハウス!」 「うそお? ちょっと、詩歌、あんたひどいよ、それ?」  香織の叫び声に、圭太はわかったようなわからないような顔をし ている。 「さあて、そろそろポテチでも喰うか?」  鎧を避け、何やら変なコードを避け、大きな大きなカバンの奥の 方から見慣れたポテトチップスの袋を取り出す。 「お前なあ、じゅん。もうすぐ昼だぞ?」 「いいじゃねえかよお。昼飯は昼飯で、ちゃんと入るんだって」 「ふうん、じゅん君、何だかよくわかんないけど、たくさん持って きてんだねえ?」 「まあな!」 「おい、じゅん… お前まさか、あんなのとかこんなのとか持って きてるんじゃないだろうな?」 「当たり! さっすが俺の幼馴染み!」 「あのなあ…」 「何話してんの、二人とも?」 「もしかして、スケベな本とか持ってきてるんじゃないの?」 「ギクッ! そ、そんなこたあねえよ!」  これらの会話を背に、麗と杏子は、二人だけでおしゃべりに花を 咲かせていた。 「杏子ちゃん、アルバイト大変なんじゃない? 町工場だったら、 すごく疲れるんじゃない?」 「ありがとう、麗君。でも、仕事って言っても梱包作業ばかりだし、 工場の人達もみんな優しいし。麗君の方こそ、お客さん相手に大変 でしょう?」 「そんなことないよ? お客さんも圭太君やじゅん君だったりする しね?」 「ふふっ。よかったね、麗君。でも、私の方は…」 「どうかしたの? 杏子ちゃん」  麗の気遣う仕草が、彼女の心をほんの少し動かす。 「ちょっと、お父さんが…」  少し黙り込んだあと、あのバイト先の昼休みの出来事を思い出す。  麗君は、どんな風に答えてくれるの…?  ずっとそんなことを考えていた。  今がチャンスである。  すかさずそのチャンスに飛びつく杏子だった。せっぱつまってい る証拠である。 「バイト、あまり快く思っていないの。本当は、合宿もあまり賛成 していないみたい…」  麗は、ほんの一瞬、杏子と同じように目の色を薄れさせる。  だが、彼はバイト先の青年ではなかった。  すぐに笑顔を取り戻し、元気一杯に答えた。 「気にすることないよ! 自分のやりたいようにやってるんだよね? だったら、気にすることないよ! 僕だってそうだもん!」 「麗君…」 「ちょっと変な言い方だけど、わかってもらえなくてもいいと思う よ? 僕達がやりたいことをするんだもん。やりたくないことを、 むりやりやらされてるのは駄目だと思うけど、やりたいことだから、 きっとそれでいいと思うよ? 迷惑はかけちゃうけど、仕方ないよ ね? 両親だって僕達に迷惑かけてくることもあるし、お互い様だ と思うようにしてるんだ、僕の場合」 「…うん。麗君、ありがとう」  そこまで言ったところで、杏子はカバンからサンドイッチの入っ たランチボックスを取りだした。 「はい。昨日言った通り、麗君の分もちゃんと作ってきたの」  彼女一流の照れ隠しだった。 「あ、ありがとう。ごめんね、杏子、ちゃん…」 「ああっ! 何だよその『昨日言った通り』ってのは!?」 「ほんとだよな、じゅん。俺なんか自分で作ってきたのになあ」 「うそぉ? 圭太って、そんなこと出来んの?」 「そうなんよ、香織。ほんと圭太って、いいお婿さんになれるよ?」 「るせえ。余計なお世話だっつーの…」  とある合宿所の玄関。 「ちわーっす! お世話になりまーす!!」  いかにも体育会系を思わせる、ばかが付く程大きな圭太の挨拶。  好対象なのが他の5人。やたらぐったりとしている。  何だかんだで、ここまでたどり着くのに6時間以上かかったのだ。 「わざわざ遠いところからようこそ。まあ、今日のところはゆっく りしなさい。食事は7時からだからな!」  この合宿所の経営者である、八木沢勝夫氏の快い出迎えを受ける。  ちなみに、八木沢夫妻は元は東京のサラリーマン。脱サラでこの 合宿所の経営に乗り出したのだという。 「さーてと。おい、圭太。ちょっと付き合えよ!」  さっきまでのへたり具合もどこへやら。  男子部屋として割り当てられた一階の部屋に入った瞬間、潤一郎 の目が輝き出したのだ。 「何だよ、じゅん… あ、お前まさか…」 「そう、そのまさか! さあ、行こうぜ!」 「あのう、僕は?」  何の相談かさっぱりわからないといった様子の麗に、多少の苛立 ちを込めて、潤一郎の一言。 「お前はここでじっとしてればいいの!」  勢いよく飛び出す潤一郎。  とりあえず付き合う圭太。  おいてけぼりをくらう麗。  哀愁を漂わせながら、麗は仕方無く自分の荷物を整理し始めた。  着替え・下着類、洗顔道具、読みかけの小説、そして宿題や参考 書・問題集まで持ってきているところが、いかにも彼らしい。  あ、そうか。これ、みんなに見てもらわなくちゃ…  ボストンバッグの一番底に入れていた原稿の束を取り出す。  最初のページには題名「ヒロインストーリー」。  たった一日で、一応台本をある程度完成させてきたのだ。  それにしても…  この部屋で妙に目に付くのは、100円を入れなくても見られる テレビでもやたらと大きなダクトを通した暖房器でもなく、潤一郎 の持ってきた朱塗りの鎧だった。  あれ、やっぱり使わなくちゃ、だめかな…?  頭の痛い麗だった。 「晩御飯まで時間あるからさ、その辺散歩しようよ!」  こちらは女子の部屋として割り当てられている、二階の部屋。  詩歌の提案に、香織が待ったをかける。 「ちょっと待ってよ、詩歌。荷物の整理が先! まったく、あんた がさつなんだから」 「香織程じゃないよ。あ、あんちゃんもやってるね」 「はい。私もその方が落ち着くかと思いまして…」 「じゃ、あたしもやるか。あーあ、しゃあねえなあ… あ、じゅん 君がうつった」  言い方がおかしかったのか、笑い転げる詩歌と香織。  もちろん杏子もだったが、転げるような下品な真似はしないとい うことで。  そこへ、部屋の外から声がした。 「ねえ、みんな。ちょっといい?」  慌てて行儀を正す二人と元々行儀のいい一人。 「あ、麗ちゃん? いいよね、みんな? うん、いいけど?」  そう言って襖を開ける詩歌。ちょっと拍子抜けしてしまった。 「あれ? 圭太とじゅん君は?」 「二人でどっか行っちゃったんだ。それより、すっかり忘れてたん だけど、これ、見てもらえる?」  自信なさそうに渡す麗から、奪い取るようにして詩歌が受け取る。 「どれどれ… やっぱり長いね。これは今晩あたし達でみっちり見 るとして、ちょっとその辺散歩しようよ!」 「うん! じゃあ、もう少ししたら玄関で!」  やはり、寂しかったらしい。  こちらではおいてけぼりにされなくて、上機嫌の麗である。 「うーむ…」  風呂場周辺を丹念に見て回る二人。 「とりあえず、露天風呂じゃねえみてえだな…」 「そりゃそうだろ? ここ、合宿所だからな!」  やたらと強い口調で言葉を返す圭太。 「だけどよお… お、とりあえずここが窓か… うーん、やっぱ、 男女別だよなあ」  壁やら窓やらドアやらにペタペタと触るその姿は、さながら刑事 ドラマの、捜査中の一場面を思い起こさせるほどのものだ。 「もう諦めろって! 空しくなるだけだぜ!?」  幼馴染みの行動に恥ずかしさが見られないのが、圭太にとっては 恥ずかしいらしい。  勢いよく飛び出す潤一郎についてはきたが、協力しているという わけでもない。  ただ、小学生くらいの圭太だと「面白そうだからやろうぜ!」と 素直に悪戯に加わり、中学生の時の圭太だと「勝手にやってろよ」 とつっぱねるか「しょうがねえから付き合ってやるよ」となる。  今の圭太はこのどれとも当てはまらない。  何か、ドキドキしてきた…  このドキドキが、悪戯をする前に感じるときめきでも、悪いこと をする時に感じるためらいでもないために、圭太の気分は不思議な もやもやに包まれていた。  それが、潤一郎との会話の中の一言で、さらに高ぶる。 「だけどよお、のぞきってのはこういう時には欠かせねえイベント だろ? やっぱちゃんと下調べしとかねえとな!? だから…」  のぞき…?  力説する潤一郎の他の言葉など、もう少しも聞こえていない。  のそき… のぞくと… のぞいたら、見えるんだよな…?  圭太の頭の中に想像の世界が広がっていった。  このガラス戸の向こうに…  その想像の中の風呂場にいたのは、たった一人だった。  わあっ!  自分の想像をかき消す様に、圭太は慌てて風呂場から飛び出した。 「何やってんの、あんた達…」  散歩へ行こうとする連中とぱったり出会う圭太。 「い、いやあ、その、風呂わいてるかなって思ってさ。な、じゅん!?」 「あ、ああ、そうそう。わいてたら麗ちゃんも呼びに行こうと思っ てさあ、なあ、圭太!」  詩歌はこの時、何故か圭太が慌てているのに気付いていたが、出 てきたのが男子風呂からだったので、言った通りだろうと思った。  合宿初日。  何人かが同じ部屋に眠っていれば、当然早起きする者と遅くまで 眠っている者が出てくる。 「起きろーっ! 朝だぞーっ!」  ここでは圭太が早起きの部類になるようだ。  実際、実家でも寝坊などしない。 「僕、まだ眠いな…」 「げっ! まだ6時じゃねーかよ!」  起こされて、それぞれの反応を示す。  眠い目をこする二人には、それぞれの理由があった。  麗の方は、夜2時頃まで女子達と「ヒロインストーリー」の脚本 を詰めていた。何だかんだ言ってもかなり麗はこの作品にのってい た。何故か圭太と潤一郎を避けているようにも見えるが。  潤一郎の方はといえば、弟妹の反対を押し切ってわざわざ実家か ら持ち出したコンピューターゲーム機を手際良くテレビに接続し、 こちらも夜遅くまでゲームに励んでいたのだ。  というわけで、二人とも冬眠終了直後の熊よりも遅い動きで布団 を片付け始めた。  やはりランニングから始めるところが、いかにも圭太らしい。 「あれ、相原は?」 「あの子がこんなことするはずないでしょ? 暇潰しについてきた だけだもん」  詩歌の言葉を聞いて、圭太は少々頼りなさげに視線を合宿所へと 向けた。 「あーあ、さっさと走って終わらせようぜ!」  潤一郎の愚痴を合図に、皆走り出した。  辺り一帯が林であり、道はあまり舗装されていないが、石なども ほとんど落ちていない。  澄んだ朝の空気、遠くに聞こえる鳥の声、道の脇の草に光る朝露。 都会を離れた彼らの、嬉しい一時だった。  圭太と杏子以外には、10分とは続かない気持ちだったが。  朝食後、朝のシャワーを浴びる女子達。  手持ちぶさたの男子達は朝のテレビを見る。  お前らもシャワー浴びたらどうだ?  ゆったりとした時が流れた後の午前10時。  練習が再開される。  午前は圭太を中心に行う基礎トレーニングである。  ちなみに午後は杏子を中心に行う弓道の実技となっている。  トレーニングは皆嫌なものだった。特に詩歌にとっては、何一つ 面白い要素がない。 「もういい加減にしてほしいなあ…」  いつもの口癖が飛び出すが、とりあえずなんとかトレーニングに ついていけるようにはなっていた。  昼食後、今度は弓道そのものの練習に入る。  合宿所備え付けの道場は、それはそれは立派なものであり、まだ 弓道の勉強の段階でしかない杏子以外の4人は、一様に悔しがって いるようだ。  その4人は、今射法八節を身体で覚える練習をしていた。  射法八節。しゃほうはっせつと読む。  現在の弓道には、大きく分けて小笠原流と日置流の二つの流派が 存在するが、そのどちらも、根底に流れる基本は一つである。それ がこの射法八節である。  道として弓をひく場合には、他の武道と共に型が重要視されるが、 その型を八態の節目に分け、それぞれに弓をひくという行為と道の 求める美を共に満足させている。  八節にはそれぞれ名前があり、足踏み、胴造り、弓構え、打起し、 引分け、会、離れ、残心と称される。  さて、それぞれの細かいことは、合宿のもう少し後で杏子師範に 説明してもらうこととして、彼らが今練習しているのは、足踏みか ら胴造りにかけてである。  4人は道場の板の間に、肩幅に足を広げて立っている。 「真っ直ぐ立っていては、身体は意外と不安定になるんです。だか ら、下腹部に力をためながら、ほんの少しだけ前に身体ごと倒すよ うにすると、身体は安定します」 「こ、こうかな?」  さすがに圭太はのみこみが早い。 「うっ、うわっ!」 「きゃっ!」  麗と詩歌は、ほぼ同時にこけた。  本当に弓道を愛するものが手入れする道場の板の間は、とてつも なくすべるようになっている。  まともに立っていても、摺り足気味に身体が動いてもおかしくな いくらいなのだ。  それを、肩幅まで足を広げて立っているのだ。  すべるなんてものではない。  しかも、本当に弓をひくようになれば、このすべる態勢で、身体 を安定させながら弓矢を発射させる状態に持っていかなければなら ない。  潤一郎はかろうじて耐えていたが、体力の乏しい二人にはこれま た苦難の練習である。  練習の最後は、やはり正座である。  このときばかりは、相変わらず圭太が一番辛そうだ。  杏子は、合宿期間中は一時間の正座を練習内容に盛り込んでいた。  だが、これは圭太と潤一郎の猛反対により、30分間にまで短縮 された。  10分でひっくり返る圭太には、一時間も30分間もたいして変 わりないのだが。 「はい、終わりです。ありがとうございました」 「ありがとうございました!」  こうして練習初日は終わり、道場の中には今日の掃除当番である 詩歌と、30分前から少しも変わらない姿勢の圭太だけが残った。 「や、やめろってんだよ、詩歌! わあ、うわっ、お願い、やめろぉ!」 「ほれほれほれほれ! どうだ、圭太! まいったか!」  モップで足をつつかれて、もがき苦しむ圭太。  こりゃおもろいと、つつきまくる詩歌。  この日の練習は、午後6時に終わった。 「聞いたかよ、圭太!?」  練習後、正座の足の痛みがまだ取れない圭太に、潤一郎が飛びつ く。 「ってて… 何がだよ、じゅん!?」  廊下でふらつく幼馴染みを突き倒す程の勢いだったので、少々圭 太の声も荒くなる。  ところが、そんなことはまるでお構い無し。 「女子のやつら、いなくなっただろ? あいつら、露天風呂に入り に入ったんだと!」 「はあ?」 「しかも、俺達に黙ってだぞ!」  圭太の態度をよそに、潤一郎の熱弁が続く。 「一緒に連れてってくれりゃあいいものをよお! あ、そうか!  もしかすると結構俺達に都合のいい場所なのかも… それでこっそ り出かけたとすると… おい、圭太! 何ぼやぼやしてんだよ!」 「別にっ、ぼやぼやっ、してるっ、わけじゃっ、ねえよっ!」  相当足にきているようだ。 「いーや、いつものお前だったらもっと、ぱぱぱっ! と動くだろ う? ああっ、じれってえなあ!? ほら、早くついてこいよ!」  こういう時は元気だなあ、じゅん…  このような悪友を持ったことを、つくづく後悔する圭太だった。  さて、もう一人はこういう時、どういう状態だろうか? 「あれ? みんな、いなくなっちゃった…」  麗はおいてけぼりをくらっていた。  寂しそうに廊下の真ん中で立ち尽くしている。  そこへ、合宿所経営者である八木沢夫人、通称おばちゃんが声を かけてきた。 「君、えーっと、麗君だっけ?」 「はい、そうですけど…」 「みんな、露天風呂に行ったけど、麗君は行かなかったの?」 「あ、そうなんですか?」  今初めて、自分が一人になった理由がわかった。  そう思った瞬間に、またさみしくなった。 「何しょんぼりしてるの?」 「だって、みんな僕を置いて…」 「とにかく麗君も行ってらっしゃいな。場所はねえ…」  そんなに遠くないので安心した麗は、しょうがないので、一人で 露天風呂へ出かけることにした。 「あははっ! きっもちいい!」  あけっぴろげなのがいいのか悪いのか。  詩歌は一応身体にタオルを巻きながらも、かなりオーバーな動き で脱衣場から出てくる。  そんな格好で背伸びまでするのだから、見ている者の方がひやり とする。  山の裾野からほんの少しだけ山へのぼった辺りの岩場が、天然の 公営露天風呂になっていた。  何と都合のいい、いや、景色のいい場所なのだろうか? 「あーあ、もう… 元気だねえ、詩歌は」  続いて香織。こちらも詩歌と似たりよったりだ。  やはり違うのは杏子である。  しとやかな仕草は古き良き撫子の振るまいを見せる。  これには同じ女性として、二人も関心を持つ。 「ふうん、やっぱりあんちゃんって、女の子だね?」  詩歌に言われて杏子は顔を赤らめる。 「内股の歩き方だって、そっと胸元を押さえてる手の仕草だって、 すっごく色っぽいもんね」 「そんな… そんなこと、ないのに…」  その赤らめた顔を両手で隠す仕草がまた色っぽい。 「それにしてもさあ。やっぱり女の子だけで来てよかったよね?」 「そうそう、香織。こっそり抜け出せたのが勝因だよ、うん」 「うん。やっぱり恥ずかしいもの、混浴なんて…」  岩場というのは好都合である。  山側の岩陰からそっと首を覗かせているのは、皆様ご存じの二人。 「そっか… 混浴だったのか… その言葉、ドキドキするなあ!?」  小さな声で納得する潤一郎。 「どうりで俺達を避けるわけだ…」  同じく小さな声で納得する圭太。  育ちが同じためだろうか? 「ちぇっ! 背中しか見えねえなあ… こっち向いてくんねえかな あ、あんずだけでも。だけど、他の客が全然いねえなあ」 「元々そういうとこだろ、ここ」  まともな舗装道路にたどり着くまでに相当歩かなければならない 程の、本物の秘境であるため、客を求める方が間違いなのだ。  混浴というのも、もう一つ隣に温泉を作る資金がないため、一つ しかない温泉という状況の単なる言い訳でしかない。  つくづく好都合なのである。 「そうか… 混浴だったのか…」 「まだ言ってんのか、じゅん?」 「だってよお… 正式な混浴だったんだから、準備してくりゃあ、 堂々と一緒に入れたんじゃねえのか?」 「ほんと、馬鹿だなあ、お前って…」  と、親友を馬鹿にしてはみるものの、自分も潤一郎と大して変わ らない事に気付いていた。  俺、ドキドキしてるな、今。  だって、あいつの背中が…  圭太の視線は、三人の中で一番髪の長い女の子の、項から背中に かけてのあたりに釘付けになっていた。  その時、新たな入浴客が入ってきた。  顔を青ざめたのは三人の女の子だけではなかった。 「ねえ、圭太君! じゅん君もそこにいるんだよね!?」  こちらも一応タオルを腰にまいて中に入ってくるのは、遅ればせ ながらやってきた真弓麗その人である。 「ねえ、おいてけぼりだったから… えっ?」  気まずい空気が漂い、しばし沈黙が続く。 「うそーっ! 何で麗ちゃんがーっ!?」  最初に叫んだのは詩歌だった。  その後、この露天風呂は大騒ぎとなった。  麗に向かって石やタオルが雨あられとなって投げられている時、 圭太と潤一郎は、そっとその場を抜け出した。 「あんた達、喧嘩でもしたのかい?」  おばちゃんが心配そうな顔で6人に話しかけた。 「何でもありません! いただきます!」  詩歌の一言がやけに大きい。  合宿初日の夕食。  皆、お互いに誰かを見つめながら、それぞれに目を合わせないよ うにしている。  上目づかいで小さくなりながら、何故か一人の女の子ばかり見て いるせいで箸を持つ手が進まない圭太。  視線を無視してお茶を呑む詩歌、こちらの視線は先程の風呂場で 上から下まで「見て」しまった男の子を睨んでいて、箸は動かない。  麗は、野沢菜を口に含んだ時にいつもなら絶対しない「くわえ箸」 をしながら背の高い女の子を見つめる。  うつむき加減のまま箸を持つ手が動かない杏子の目は虚ろ、時々 ため息がもれる。  潤一郎もそんな彼女のため息を見届けていたが、彼だけは何故か 箸はよく動いていた。  香織はというと、この5人を端から見渡す立場だったが、自分も 当然被害者でありそれを考えると箸は止まってしまう。  こりゃ、とんでもなく気まずいわ…  自分が原因とはつゆ知らず、腕を胸の前で組んで、ため息をつく おばちゃん。  実は、その場に居合わせたおばちゃんが一番辛い、そんな気の毒 な夕食時だった。  さて、こちら女子の部屋。  布団を敷き終わり、これから寝ようとするところのようだ。 「麗ちゃんがあんなことするなんて… 圭太やじゅん君ならいざ知 らず、あの麗ちゃんが…」 「やっぱり、男の子なんだよ… だけど、もう麗ちゃんのこと信じ られない!」  やけに興奮気味の香織と詩歌だが、一人のってこない女の子がい た。 「あの、私…」  杏子の話し方は、夏休み前に戻ってしまったようだった。 「あんちゃんは、当然麗ちゃんの肩を持つんだよね? そりゃあ、 あんちゃんは見られてもいいんでしょ? だけど、あたし達はどう なんの?」  少々暴言混じりに、親友をなじる。 「そ、それは…」  何故きちんと否定しないのかはわからないが、とにかく反論する ことが出来ない状態らしい。 「あ、そうか。杏子は麗ちゃんのこと好きなんだ。それならいいの か。でも詩歌の言う通り、あたし達は関係ないよね…」  割と中立を守っていた香織だったが、ここで詩歌の肩を持った。  そう言われて、何故杏子がこう言ったのかは、本人にもわからな かった。 「ごめんなさい…」 「何よお! 杏子は何も悪くないのに! どうしてそんな風に謝る の!? まるであたし達が杏子をいじめてるみたいじゃない!?」  うつむく杏子。  少しの間黙っていたが、やがて自分の枕を抱きかかえ、小さな声 で思いを打ち明けた。 「でも、さっきの、麗君の、入り方って、何も知らなかった、そん な感じが、しない…?」 「そうかなあ? わざとってことはない?」  香織の鋭い一言に、反論を試みる。 「麗君、そんなことをする人じゃないと思うの」 「思うだけでしょう?」 「だけど、入ってくる時に圭太君やじゅん君の名前を呼んでいたで しょう? 私達がいるってわかっていて、そんなことをする理由が あるのかしら?」  自信を取り戻し始めたのか、少しずつ言葉が流暢になってきた。  杏子の言葉は、どうやら残り二人の気持ちを変えたらしい。  意見が一致したところで、皆それぞれが気まずい思いを抱き始め た。 「そうだよね… それに見たのはお互い様だし…」  あからさまに言い放った詩歌の台詞にすぐ反応し、杏子は全身か ら水分が抜け切ってしまいそうな気持ちになった。  で、こちら男子の部屋。  布団は一応敷いてあるが、かなりむちゃくちゃな並びである。 「よお、圭太…」  落ち込む麗を後目に、ゲーム機でドライブゲームを楽しんでいた 潤一郎だったが、ノートを見ながら考え事をしているらしい親友に 小声で話しかける。 「何だよ、じゅん?」 「気まずい雰囲気だったけどよお、さっき飯喰ってる時の反応だと、 とりあえず俺達がのぞいた事、ばれてねえみてえだな…?」 「まあな。みんな麗ちゃんの事ばっかり意識してたみたいだったか らなあ。でも、なんか気まずいぜ? 麗ちゃん、あの調子だし…」 「まったく、誤算だったよなあ? 昨日の風呂場偵察の時にも来な かったから、今回も大丈夫だって思ってたけどなあ…」 「昨日は女子連中がここにいたからな。やっぱ麗ちゃんって、寂し がり屋なんだな…」  少し間を置いて、また潤一郎からひそひそ話を始める。 「やっぱ、悪いことしたかな…」 「そりゃそうだろうな… じゅんが言いださなきゃなあ…」 「お前も付き合ったじゃねえか! 自分だけ逃げようなんて思って んじゃねえだろうな!?」 「そうだな… それにしても、麗ちゃん、不敏だな…」 「ごまかすなよ! でも、確かになあ…」  圭太の思いに巻き込まれ、珍しく潤一郎までが気まずさを感じ始 めていた。  そんな思いを二人にさせている張本人は、ただひたすら落ち込ん でいる様子。 「僕… 僕…」  布団にくるまってはいるが、眠ったわけではない。 「ごめんね、みんな… こんなことになるはずじゃなかったんだ…」  実は、事件現場は当時夕刻であり、湯煙がかなりあって見通しが 悪かった上、三人とも湯につかっていたため、彼には何も見えてい なかったのだ。  逆に、ほぼ無防備の彼が一番「見られた」立場なのである。  もし潤一郎がこの立場だとすれば、何よりも先に、まったく見え ていない事実を正直に話し、必死に弁明するだろう。  圭太でも、詩歌に何発か頭を殴られて終わりだろう。  だが、当事者となった人物が悪かった。  麗である。  全く責任のない、言わば「最大の被害者」なのだが、必要以上の 責任を感じてしまう、そういう男だった。  気まずい思いを一番背負い込んでいる、または背負い込ませてい るのは、間違い無く麗だった。  六人の気まずい夜は、こうして更けてゆく。  合宿二日目。  皆、寝起きが悪かった。圭太でさえ、である。  理由も皆同じだった。気まずい夜の為である。 「とりあえず、マラソン行くぞ」  言うだけ言うが、どことなく元気がない圭太。  だらだらと走る姿はとても体育会系の同好会とは思えない。  昨日感じた朝のすがすがしさもどこへやら。  走ってる最中も、皆それぞれ目を合わせようとしない。  前を走る三人。  杏子と目を合わせないように、圭太と潤一郎は走るペースを少々 速めた。  そういえば、二人とも昨日から態度が違うような…  何か、知ってるのかも… 「ねえ、圭太君…」  呼ばれて背筋をびしっと正す圭太。  こりゃまずい… 「おい、飛ばすぞ、じゅん!」 「あ、待てよ!」  さらにペースをあげる二人。 「何だよ、圭太! かえって怪しまれるじゃねえか?」 「じゃあ、昨日のこと何か聞かれたとき、なんて答えりゃいいんだ よ!?」 「適当にごまかしゃあいいだろ!?」 「俺にそんなこと出来るかよ! お前じゃあるまいし」 「何だよ! ごまかしだったらお前の方がうまいじゃねえか!」 「俺のどこがごまかし上手だってんだよ!?」 「演説とかそういうの!」 「嘘は言ったことねえよ!」 「んだと!? てめえ、白を切るつもりか!?」 「なんだよ、やるか!?」 「てめえこそ!?」  到底追い付けない距離にまで離れてしまう二人。  やっぱり、何かある…  内容は聞き取れないが、その走りながらの言い合いにただならぬ 雰囲気を感じ取った杏子だが、この場ではどうしようもなかった。  後ろを走る二人。 「あのさあ、麗ちゃん…」  詩歌が話しかけても、麗は口を開こうとはしないが、とりあえず 聞く耳だけは持っているようだ。 「どうしても、あんちゃんが聞いて欲しいっていうから、聞くけど…」  一呼吸おいて、まくしたてる詩歌。 「あの時、あたし達がいたこと、知ってた…?」 「あの時、圭太やじゅん君は一緒にいた…?」 「あの時、あたし達のこと、見た…?」  長い髪を振り乱しながら走る彼女の質問全部に、小さく首を横に 振る麗。どうしても声を出すことができないようだ。  男なら誰でもそうするだろうと思った詩歌だが、さらに同じ質問 を繰り返す。 「ほんとに…?」  今度は大きく首を縦に振る。  彼の自信の現れを感じ取ったのためか、自分の自信の無さからか、 しつこく問い正す。 「ほんとに、ほんとに…!?」  やはり、首を縦に振った。  半ばやけくそ気味になって、もう一度だけ聞くことにした。 「ほんとにほんとにほんとに!?」 「うん… 知らなかったし… 一緒じゃないし… 見てないよ…  でも、やっぱり悪いことしちゃったんだもん… ごめんね…」  ようやく顔を起こし、言葉を返した麗。  許しを乞うその瞳には、わずかな罪の陰さえも見あたらない。  真実の輝きであふれかえる瞳は、ただ純粋に美しいのだ。 「謝る相手が、違うよ…」  麗の瞳を見つめ切れなくなったのか、それとも本当に疲れたのか…  歩き始めた詩歌の顔は、妙に赤みを帯びていた。 「麗ちゃんの言い分は、そうなんだってさ!」 「そう言えば、さっき圭太君とじゅん君の態度が少しおかしかった んです…」 「ふうん… こりゃあ、怪しいなあ?」 「いっちょ、問い詰めてみる!?」  相変わらず気まずい朝食が終わり、シャワーも済んだ後、さっぱ りした顔で三人が三人を呼び出す。  道場で向かい合う様にして座る男子と女子。 「さて、まず麗ちゃんの件だけど…」  こういう場を仕切るのは、何と言っても詩歌だった。 「もういいよ。ね、みんな!?」  にっこり笑ってそう叫ぶ詩歌。 「はい…」 「ま、お互い様だからね?」  杏子も香織もにっこり。 「きったねえ! 俺達なんか…」 「馬鹿じゅん! 余計なこと言うなよ…」 「俺達なんか…? 余計なこと…?」  三人の女子の目が少しずつ細くなる。 「い、いやあ、そのお… な、じゅん!?」 「そ、そうだよ… 俺達、なんか余計なこと、言った…?」  演技力の無い二人だった。 「ま、いっか。で、次にあんた達だけど…」 「な、何だよ、いきなり!?」 「俺達が、何かしたってのかよっ!?」  やけにむきになるが言葉がしどろもどろ。  どうも、詩歌に押されっぱなしである。 「昨日の練習の後、どこにいたの?」  一瞬、二人の背筋は真っ直ぐになった。 「どこって、なあ、圭太…」 「ああ、ずっとここに…」 「そう、なんですか…?」  杏子の瞳は、どこかしら潤んでいた。 「麗君、昨日の練習の後、圭太君とじゅん君はここにいたの?」 「…ううん、圭太君達が露天風呂に行ったって聞いてたから」  申し訳なさそうに背中を丸めてうつむきながら、麗は小声で言っ た。 「ち、違うって。ああっと、ええっと… そう! 散歩だよ散歩。 なあ、圭太!? そんなとこに、全然行ってないよな?」 「そ、そうそう! あんな岩場まで散歩に行くわけないだろ?」 「ふうん、圭太、随分とよく知ってるんじゃなぁい?」 「違うって! おばちゃんに場所は聞いたけどさあ!?」 「そう! 圭太の言う通り! 混浴じゃなきゃ、絶対行ってるんだ けどなあ?」 「あーら、そんなことまで知ってるのぉ?」  墓穴を掘った潤一郎。  おばちゃんが誰にも混浴とは言ってないのを、詩歌達は確認済み だった。  詩歌の冷たい台詞もかなりのものだったが… 「白状しなさいっ!! のぞきやってたんでしょ!?」  香織の強い口調には、詩歌以上の迫力が含まれていた。 「はい…」 「お前が悪いんだぞ! ぜーんぶ、お前が悪いんだからな!」  圭太の機嫌が著しく悪い。  それもそのはず… 「正座くらってるからって、なんもかんも俺のせいにすんじゃねえ よ!? 大体お前が変なとこでボロ出さなきゃ…」 「どっちがボロ出したってんだよ!?」 「てめえだ、圭太!」 「いーや、お前だ、じゅん!」  向かい合って言い合う様は、やはり幼馴染みである。  昼休み。  丸一時間分の正座が、二人に科せられた罰である。  もちろん場所は道場。  板の間は今日も光っていた。  おまけに他の連中は、みんな昼食の真っ最中。 「ったく… 腹は減るわ… 足は痛いわ… ほんと、泣きてえよ…」 「じゅんは俺程足痛くねえだろ? それに、朝食俺よりたくさん食 べてたじゃねえか…」 「何だよ、圭太! いちいちつっかかってくんじゃねえよ!」 「じゃあ、やめときゃよかったんじゃねえか…」 「ああっ! てめえだってついてきただろうが!?」 「お前が変なことしたら止めようと思ってただけだよ!」  このままヒートアップし続けるのかと思いきや… 「ほんとか? ん?」  急に潤一郎はトーンダウン。 「な、何だよ…?」 「ほんとにそれだけか? ん? お前あんとき、ずーっと首が同じ 方ばっかり向いてたぜ?」 「うそぉ? ほんとかよ!?」  何故か大慌ての圭太。  してやったりの潤一郎。 「やっぱそうか。まあ、幼馴染みとしちゃあ、何となくお前の趣味 も理解してるつもりだけどなあ…」 「あのなあ、じゅん!」 「何赤くなってんだよ、圭太! やっぱ図星か!」 「じゅん!!!」 「だけど、ありゃあやめといた方がいいんじゃねえのか? すでに 彼氏もいるわけだしよお… 第一、あんな男女のどこがいいんだ?」  圭太の歩が悪いのは一目瞭然。  まずい!  ここであいつのペースにのっちゃまずい!  ひとつ、落ち着いて、落ち着いてだなあ… 「な、何の事かなあ、潤一郎君? 僕にはさっぱりわからないなあ…」 「相変わらずとぼけるの下手だなあ、お前」 「いやあ、僕、結構正直者だからねえ…」 「あーあ、あほくさ。こうなったらお前、どうしようもねえからな」  幼馴染みの強情さ加減も、やはり知り尽くしていた潤一郎だった。  しばらく沈黙が続く。  道場の静けさは、二人の心も静かにさせたようだ。  15分経過。 「それにしてもよお、圭太」 「ん、何だよ、急に…」  ほとんど眠っていた圭太。  どうやら、足の痛みを忘れるには一番いい方法だったようだ。  そんなことはお構い無しに、潤一郎は言葉を続けた。 「何か、ガキの頃に戻ったみてえだな?」 「そうか? 俺達まだガキだぜ?」 「でもよお、酒の味もおぼえたし、風見本町での金の使い方も変わっ てきただろ?」 「そりゃあ、そうだよな…」 「だけど、こうして怒られてっとよお、なんか昔お前んちのおばさ んによく怒られてた頃こと思い出さねえか?」  妙にセンチメンタルになっている潤一郎。  これがかっこつけでも演技でもないことに、幼馴染みは真っ先に 気付いていた。  道場の静かな雰囲気がそうさせるのだろうか?  それとも、圭太と二人で行ったのぞきそのものが、彼の昔の淡い 気持ちを呼び起こしたのだろうか?  圭太は親友らしく、気さくに答える。 「俺は未だに怒鳴られてるけどな? それに、お前んちのおばさん だって、べらぼうに怖いじゃねえか!?」 「まあな。だけどよお… 随分いろんなことやったな、俺達…」 「ああ。路地裏で待ち構えてて、おっさんの足引っ掛けたり…」 「爆竹を道端に5mおきに仕掛けて、順番に火ぃつけたり…」 「白川さんちの屋根の上で一晩過ごしたり…」 「そうそう。圭太、お前田中んちの犬と喧嘩したよな?」 「ありゃあ、あっちが喧嘩ふっかけてきたから…」 「俺がいなきゃ負けるとこだったんだよな、確か?」 「そんなことねえよ! じゅんがいなくたって、ありゃあ勝てたっ て!?」 「いーや、違うな! あれは俺がいたからこそ…」  その後しばらくはずんでいた昔話だが、一段落したようだ。 「ははっ… それにしてもよお、楽しかったな、あの頃…」 「あの頃…? じゃあ、今はどうなんだよ?」  少し考え込む潤一郎。  その姿に多少の不安を感じた圭太だったが、心配は無用だった。 「今か…? ま、今も楽しいか、うん、そうだよな? お前はどう なんだよ、圭太?」 「俺か? 俺も楽しいぜ? じゅんがいるからな」 「ばーか圭太」  30分経過。  二人とも、言葉数が少なくなってきていた。 「よお、じゅん…」 「何だよ、圭太…」 「足、痛えな…?」 「お前ほどじゃねえよ…」 「…」  45分経過。  言葉なんて出ない。  60分経過。 「はーい、二人とも、お疲れさーん!」 「本当に、大丈夫でした?」 「ま、これに懲りて二度とやるんじゃないよ!?」 「二人とも、すごいね! 一時間も正座するんだもん!」  ちくしょーっ!  お前ら鬼だ!  今に見てろ!  こてんぱんにしてやっからな!  言えれば随分すっきりするのだろうが…  腰から下はそんな台詞を、たやすくどこかへ追いやってしまう。 「ああっ… ううっ…」  今はこれしか言えない二人だった。 「あーあ、今日はさんざんだったよなあ…」 「なーに言ってんの、圭太? あんた達が悪いってことだよ!」 「そーそー。二人ともいい正座の練習になったじゃない?」 「かーっ! なんにもやってねえ香織に言われたかねえよ!」 「うーん、胴造りって、難しいんだね、杏子ちゃん?」 「ノートがあるの。そこに、胴造りのコツとかが書いてあるから、 後で見てみましょう?」  最後は少々強引だったかも…  どうやら一応の決着をみたらしく、今日の夕食はいつにもまして 賑やかなものとなった。  食堂には、夕べとはうって変わって和やかな雰囲気。 「いっただっきまーす!」  詩歌のかけ声とともに、6人は食事に入った。  和やかとは呼べなくなる。 「おい、詩歌! それ、俺んだぞ?」 「いいじゃん、ちょっとくらい!?」 「駄目! お前のはこっち!」 「けち! いいよ、まだこっちにあるもんね?」 「じゃあそっちの喰ってろよ!?」 「ああっ! 箸で食べ物指し示したりしないでよ!?」 「お前だって、探り箸やってたじゃねえか!?」  食べ物の話ばかりの圭太と詩歌。  色気より食い気、だろうか?  こちらはもう少し真剣に話をしているようだ。 「うーん… やっぱりお腹への力の入れ方が難しいんだね?」 「そうなの。だけど、こうやって土台をしっかりとしなきゃ駄目な の。上半身がぐらついちゃうから…」 「そうだよね? うーん… やっぱり僕、もっと体力つけなきゃ駄 目だね?」 「そんなことないわ? 麗君だったら、すぐに、上手に…」 「あ、ありがと…」  弓道の話ばかりの麗と杏子。  大したものである。食べ物の味がわかるのだろうか?  そして、こちらは… 「なあなあ、香織? 前から言ってるだろ? そろそろ俺に女の子 紹介してくれよ? な? 友達いっぱいいるんだろ?」 「あんたねえ… 前から言ってるでしょう? 自分で見つけるから 値打ちがあるんだよ?」 「んなこと言わずにさあ… なんならかわりに男紹介してやろうか?」 「結構。そんなに不自由してないもん」 「あっそ、いいよなあ。おばちゃーん! 鶏肉まだあるぅ!?」  潤一郎の声はどことなくはずんでいるようだ。 「あんた達、いつの間にご機嫌になったの?」  潤一郎のために鶏肉を持ってきたおばちゃんも、その奥の調理場 から顔を覗かせているおっちゃんこと八木沢氏も、半ば呆れたよう に6人を見つめていた。  とにかく、仲良き事は美しきかな、だったのだが… 「ああーっ!!」 「き、急に、何だよ、詩歌!?」  驚く圭太。  詩歌が理由を口にするまで、何故自分が指を差されているのか、 さっぱりわからなかったようだ。 「だって今、圭太、キャベツに醤油かけた!」 「何だよ、それくらいで大声出して…」 「何だよって何よぉ? キャベツには塩でしょ?」 「そうか? 俺んちみんな醤油だぜ?」 「別に何でもいいだろ? マヨネーズでもドレッシングでも…」 「でも、じゅん君…」  潤一郎とのやりとりを止めると、詩歌は何やら嫌なことでも思い 出している様子。 「そう言えば、今朝の朝食の目玉焼き、圭太ってば醤油かけてた!」 「何だそりゃ?」 「あ、それなら、俺も圭太と同じで醤油だけどなあ?」  何故、ひとはこういうことに真剣になってしまうのだろう?  いわゆる目玉焼き論争の始まりである。 「うっそぉ!? あんた達、正気?」 「正気ってこたあねえだろ? 香織はどうなんだよ?」 「あたしはソースだよ! 絶対ソース!」 「ほーら! 普通ソースなんだよぉ? ね、あんちゃん?」  自信たっぷりの詩歌に申し訳ないといった様子で、杏子は一応答 える。 「あ、あの… 私は… 塩と、こしょう、だけなんですけど…」 「うっそお? そんなの水くさくて、食べらんないよね、麗ちゃん?」  火がついたように驚く香織の反応に、さらに麗は油を注ぐ。 「僕んち、何にもつけないよ?」 「信じらんねえ! 目玉焼きに何にもつけねえなんて、それでよく ここまで育ったな?」  ひどく偏見の混じった幼馴染みの主張に、圭太は反旗を翻す。 「そうでもないぜ? トンカツだってさ、スパイスが効いてるから 何にもつけなくてもうまいんだぜ? それと一緒だろ?」 「圭太… あんた、とんでもないこと言ってるの、わかってる!?」 「そんな、とんでもないってことないだろ!?」  言い合いが続きそうだと見切った潤一郎は、さっと間に割り込ん だ。 「いやあ、この件については、見解の相違だらけってことかなあ? ったく、しゃあねえなあ、こればっかりはよお」 「…まあな。誰がどういう食べ方しようと勝手だろうけどさ」 「そうだよね… 好きに食べれば?」  結局、論争を楽しんでいたのは他でもない、この二人だったのだ。  自分の意見の主張が、決して相手に全面的に受け入れられるはず もない。そういう議題なのだ。  だが敢えて主張をぶつけ合う。楽しくなければそこまではしない。  だからこそ目玉焼き論争は、親しい者同士でよく行われる事なの だ。  まあ、そう言う程大袈裟なものでもないのだが。 「そうそう。明日の午後、マラソン大会な?」  食事の後、食堂を出る寸前に圭太はみんなの前で堂々と宣言した。 「えーっ!?」  当然、みんなの反応も予測していたことだ。  杏子だけは首を縦に振っていたが。 「黙っててごめんな。まあ、日頃の練習の成果を…」 「なーにが成果だ!? 聞いてねえことすんじゃねえよ!?」 「そうだよ、圭太! 大体何の目的があって、合宿三日目にそんな ことすんのよぉ!?」 「目的か…? まあ、名目っていうか、タイトルはあるけどさ」  圭太は自信たっぷりに言ってのけた。 「タイトルは… 中休み直前マラソン大会!」 「俺は絶対、ぜーったいやんねえからな!」  合宿三日目。 「何が悲しゅうて、こんなに走らにゃならんのか…」  ぶつくさ言いながらも、潤一郎はペースを落とさない。  圭太のすぐ後ろを走っている。  今までで一番真剣に走る潤一郎の姿を、圭太は目の当たりにして いるが、まったく動じない。  むしろ、ぴったりとマークされていることに喜びすら感じている ようだ。 「おい、じゅん! やめとけやめとけ!」 「るせえ! ぜーったいでめえをひざまずかせてやるからな!」  ただいま、午後3時。  中休み直前マラソン大会の真っ最中。  全行程5.4Kmの、彼らにとっては、ちょっと長めのマラソン 大会である。  2Km通過時点の順位を発表すると…  先頭は的場圭太。当然と言えば当然の、言わば一番人気である。 その豪快な走りぶりには、安心感すら漂う。  その後ろを行く二番手は、矢作潤一郎。ダークホース的存在で、 言わば大穴である。いつもとは少し様子が違うようだ。  少し遅れて三番手には、安土杏子。二番人気だが潤一郎にリード を許してしまう。少し後ろを気にしているように見える。  さらに遅れて四番手には、真弓麗。マイペースが信条で、まさに いつも通り。これはこれで余裕すら感じる。  で、一番後ろもいつもの通り道上詩歌、のはずだったが…  詩歌は五番手である。  五番目が一番後ろじゃないとすると…  何と、最下位は相原香織だった。  圭太達に丸め込まれて、今回ばかりは一緒に走ることになってし まったのだ。 「もう! あたし走るなんて言ってないっ!」  とか何とか言いながらも、正直言って香織は、「詩歌くらい」に は負けないという自信があった。  ところが、この始末。  たとえ運動オンチでも、一月ちょっと走っていれば、少しは速く なるものなのだ。  認識が甘かった、などと言っても始まらない。 「何としても、『詩歌くらい』には負けられない!」  かなりライバル意識を燃やしていた。  半分を過ぎた頃、圭太はペースをあげた。 「じゅん! あばよぉ!」 「にゃにおーっ! 負けるかーっ!」  何をそんなにむきになっているのやら。  まだまだ元気な二人だった。  麗は息を乱しながらも、山林を抜ける道の景色を楽しんでいた。 「わあ…」  生い茂る木々の向こうには、さらに遠くの山まで抜ける雑木林が 続き、その隙間を覗き見るものの目に、一杯の緑が飛び込んでくる。  風見鶏高校周辺もかなりの木々が生い茂っているが、桁がいくつ も違う。  木漏れ日が気持ち良い。  思わず立ち止まる麗。  夏でも涼しいこの一帯に、時々爽やかに駆け抜ける山からの風。 さらりと木々をかすめると、麗を取り巻く葉が皆、彼に挨拶する。  こんにちは。ほんとはマラソン大会の途中なんだけどね。  いくら一人きりでも、口に出すほど子供ではなかった。 「そうそう。走らなきゃ。さぼっちゃまずいよね」  今度はわざわざそうつぶやいて、彼はゆっくりと走り始めた。  すぐにやめることになるのだが。  そんな木漏れ日も目に入らないのは、何も圭太や潤一郎だけでは なかった。 「しいかーっ! はあはあ… ぜーったい、はあ… 負けないっ!」  気合いの入った台詞の割には、そのライバルの背中を、ちっとも 捉えられない香織。 「どうしてーっ!? はあ、はあ… どうしてーっ!?」  これでは追い付くのは至難の業のようだ。  と、その時。  行程で言えば3分の2くらいまで走ったところだろうか。  立ち止まっている人影を発見した香織は、突然元気を取り戻した。 「やったっ! 詩歌ぉ! ついに… あれ?」  人影が二つ見えた時その両方が、ライバル程髪が長くないことに 気付いた。 「あれれっ? 麗ちゃん! それに、杏子? あんた達、何こんな とこにつっ立ってんの?」 「ちょっと景色が綺麗だったから、見とれてたんだ」 「二人して?」 「うん…」  杏子の顔を見て、まあ人生色々あるかと、羨ましかったり恨めし かったりする。 「で、詩歌知らない?」 「とっくに前の方へ走っていったよ?」 「こりゃあ、追い付けないなあ…」  ようやく気付くが、それでも香織は諦めなかった。  うまくいきゃあ、あの二人の内のどちらかがビリだ…  香織としては、最後でなければ、それでいいらしい。  やはり、一番人気というのは強い。 「ほい。明日留守番決定な? しっかりおっちゃん達の手伝いする んだぜ、じゅん!?」 「くーっ! 一生の不覚!!」  しょうもない賭けは圭太に軍配が上がり、潤一郎は明日一日留守 番ということになった。  つまり、潤一郎以外は外出するということである。 「さーて、もう一回りしてくっか。でなきゃ、詩歌がまた… ん?」  圭太は目をひんむいた。  ありゃあ、どうみても、詩歌だよなあ…?  道の遥か向こうだったが、圭太の両目にははっきりと詩歌の姿が 映っていた。  こんなに早く、しかも麗や杏子を抜いて3位で帰ってくるなど、 誰が予想出来たであろうか?  見えてからはあっと言う間である。  無我夢中でゴールインする詩歌。  そのまま倒れて言葉も出ない状態だったが、その笑顔、今の詩歌 の気持ちを現すためだけに浮かんだ笑顔に、心を動かされたのは、 圭太だけでなかった。  それぞれが楽しく走ったマラソン大会だったが…。  周囲のことなど気にする余裕もなかったのだろうが、きっと一番 このマラソン大会が楽しかったのは、他でもない詩歌だろう。  真っ暗な部屋に、語り部の声が低く響き渡る。 「それがさあ… こう、なんて言うか… 戸みたいになってるとこ ろがすぅーっと開いた時…」  と、途端に…  バタン! 「ねえ圭太、トランプ持ってたよね!?」 「うっ、うわーっ!!」  勢いよく開いた部屋の襖に、大声で騒ぐのは麗。 「あ、あの、僕、やっぱりこういうのは…」 「おもしれえじゃねえか? びびるほどのもんじゃねえだろ?」  潤一郎の冷たい反応も麗には届いていないようだ。 「何やってたの、あんた達?」  さて、男子の部屋を覗きにきたのは、たくさんのクマの模様が入っ たパジャマを着た香織だった。 「怪談話だよ。やっぱ、真夏の夜は怖ーい話だよな?」 「そうそう。圭太って、こういうの結構うまいんだぜ?」 「あっそ。何か男子だったら他にやることがありそうなもんだけど ねえ…」 「だってよお。昨日は枕投げやって怒られたしよお… ゲームも飽 きたしなあ…」 「そういえば、麗ちゃん。夜の撮影ってないの?」  何だかんだ言って、「ヒロインストーリー」の撮影は練習の合間 を見計らって、きちんと敢行されているのだ。 「夜の撮影は、帰ってからの分しかないよ?」  ようやく落ち着きを取り戻したのか、いつもの口調で答える麗。  そんなに怖かったのだろうか? 「ま、どうでもいいけどね。圭太、トランプ」 「ほい。何すんの? ババ抜き?」 「どうせこいつらのことだから、ポーカーだろ?」 「それともセブンブリッジ?」  にんまり笑って手でバイバイする香織。 「ちゃうちゃう! じゃあね!」  やたら嬉しそうに二階へ上がっていった。 「なあ、じゅん。あんなもん、そんなに嬉しいのか?」 「俺が知るかよ… それより圭太、これこれ!」  大きなカバンの奥の方から取り出したのは、何冊かの雑誌。  もちろん潤一郎がもってくる雑誌ということは、そういうことで ある。  男というと、やはりこういうことしかないのだろうか? 「あのなあ、じゅん…」 「何だよお前、見たくないのか?」 「い、いや、そういうわけじゃ、ないけど…」 「何今さらカマトトぶってんだ? ま、見たくないならいいけどさ…」  圭太に背を向け、一人で含み笑いをもらしながら熱中する潤一郎。 「お、おい、じゅん…」 「何だよ、圭太? ん? さては、見たくなったのか?」 「ま、まあな…」  こういうところ、いつもならあまのじゃくな駆け引きを用いるの だが、何故か今回は妙に素直な圭太だった。 「いつもこうだといいんだがな。まあ、こいや。一緒に見ようぜ」  手招きに応じる圭太。  肩を並べて見入る様は、やはり普通の男子高校生である。 「うーん、こりゃすごい…」 「だろ? だろ? そう思うだろ、圭太?」 「最近のって、さらに過激なんだな?」 「ほんと、圭太の言う通り。もう見てるこっちもやばいかって思う くらいだもんなあ…」 「いやあ、ほんとに…」  男が二人以上集まってこういう本を見ると、必ず批評が飛び交う。 黙って見る方が気持ち悪い。  さて、取り残されたのか自分から進んではみ出たのか、麗は一人 で「ヒロインストーリー」のシナリオを読んでいた。 「おーい、麗ちゃーん?」 「こっちこいよーっ! いいものたくさんよりどりみどり!」 「い、いいよ…」  耳まで赤くする麗。 「そうかたいこと言うなよ?」  潤一郎のしつこいお誘いにも、一向に動じない。  一瞬むっとした顔をする潤一郎だったが、やがて何か圭太に耳打 ちする。  含み笑いを聞こえないようにするのに苦労する二人。  そっぽを向いていた麗は、そんな二人の行動に気付くはずもない。 「あーそー? 冷てえなあ… な、圭太?」 「どうせ男だけの部屋だろ? 男同士の友情を深めようぜ?。  まだ反応しない麗。 「誰にも言わないから。な? 俺達の顔を立てると思って…」  そういう圭太の声を聞き流す麗だったが、さすがに次の行動には 声を出す。 「ほれ、麗ちゃん!」 「わ、わわーっ!」  そっと近寄った潤一郎が、「ヒロインストーリー」のシナリオの 上に、いわゆるそういう本の、いわゆるそういう写真のページを、 ちゃんと麗が見える方向に置いたのだ。 「ははっ! 麗ちゃん慌ててる慌ててる!」 「ひどいよ、二人とも!」  麗にしては珍しく、雑誌を激しく潤一郎に投げつけた。 「何、なに? また怖い話?」  香織が再び顔を出す。 「お、お前こそ何の用だよ?」 「あ、そうそう。さっきのトランプ、ハートのエースが出てこないっ てのを歌いながらやってたら、ほんとに出てこないんだもん。圭太 持ってんでしょ?」 「あれ、無くなってた? えーっと、どこかなあ」 「あーっ! じゅん君、それ!」  ようやく気付いたらしい。  香織は潤一郎の顔に張り付いている一冊の雑誌を指差す。 「ねえねえ、ちょっと見せてよ!?」 「あのなあ… これ、女が見る雑誌じゃねえぞ!?」 「いいじゃんいいじゃん! こっちは女同士なんだから、別に見て もいいんだもんね。ね? ちょっとだけ!」  あけっぴろげというか何というか…  麗は今、誰にもわからない程、複雑な心境だった。 「まーったく… 占いやるのにハートのエースがなきゃ、何もでき ないよ。さて、やり直しやり直しっと」  シャッフルするその手つきは相当のものである。 「でも、香織ちゃん、トランプ占いが得意だなんて、知らなかった」 「そお? 結構1組の教室でもやってるんだけどなあ」 「へへーっ! 3位だもんね、3位! しかも、女子1番!」  約一名、顔を赤くして、論点のずれたことを口走り続けている。 「あんた、そんなに嬉しかったの?」 「まあねっ! あんちゃんにも香織にも勝ったんだもん! こんな ことってもうないよ、きっと!」  枕をぎゅーっと抱きしめて、感激に浸る詩歌。  これだけ喜んでもらえれば、もう香織としては満足だ。  悔しがる気力も失せるというものである。  親友の熱い思いは放っておいて、さっさと占いに入ることにした。 「さーてと… それじゃあまずは、杏子の恋愛を占ってみますか」 「あ、あの、私はいい…」  いきなり指名を受け、大慌てする杏子。  しかも恋愛運ときたからには、知りたいようなそうでないような… 「そうかたいこと言いなさんなって。えーっと… 相手はやっぱり 麗ちゃんかな?」 「あの、その…」  しどろもどろとしか言い様のない杏子。  真っ赤な顔は、そばに手を近づけるだけでその温度がわかりそう なほどだった。 「じゃあ、始めるね」  シャッフルする手が止まると、一枚一枚裏向きにテーブルの上に 置き始める。  すでに真剣な顔つきの香織。そのただならぬ気合の入り具合が、 そばにいる詩歌や杏子にも手にとるようにわかる。  やがて、展開されている何枚かのカードのうち、杏子に一番近い 場所にある一枚をゆっくり、ゆっくりと表に向ける。 「ほうら! ここにハートのエースが出てきたじゃない? こりゃ いい線いってるよ?」  調子に乗ってきたらしく、香織の口調にも自信が現れ始める。 「続いてクラブの3か… こりゃ麗ちゃんも納得なんだね。あんた 達結構ムードを大切にしたがってるみたい。よくそういうところに 行ってるんじゃないの?」 「あの… 私、そんなこと…」  その後の言葉はあまりにも小さくて、そばにいる詩歌や香織にも 蚊の羽ばたきくらいにしか聞こえなかった。 「うっそおーっ! 杏子って、麗ちゃんとまだなんにもないの!?」  ちゃんと聞いた後、せっかくのお惚気話を期待していたらしく、 堂々と呆れ返る香織。  同じ様な顔をしている詩歌も、どうやら香織と同じ思いらしいが、 顔が赤いのは、別にそういう事を想像していたわけではないらしい。  杏子はと言えば、もう額か頬の上で目玉焼きが出来そうなほど。 「そんな、まだ、打ち明けたことも、ないし…」 「ほんと、呆れたもんだわ… どう見たって両思いだけどね」 「ごめんなさい…」  杏子は何のためらいもなく頭を下げた。  もしかすると、麗に対しての、素直な気持ちなのだろうか。 「何言ってんの? あたし達に謝られてもしょうがないよね。本人 同士の問題だから…」 「でも、まだ告白すらしてないなんて、あたしも知らなかったなあ」  毎日顔をあわせている詩歌がそういうのだから、誰も知るはずが ない。 「あの、その…」  もたつく態度の杏子に、疑いの視線を送る二人。  それでもうつむいてしまった杏子に、さすがにこれ以上四の五の 言うことはできなくなる。 「まあ、嘘でも何でもいいけどね… 次は詩歌だね? あの久司君 だっけ? 彼との仲は…」 「いいってば! あたし達は仲がいいんだから!」  こちらもいきなり話をふられ、詩歌は慌てて首と手を横に振る。 「うーん… じゃあさあ、今度は男どもの恋愛を占ってみようか?」 「それいい! それいい!」  頬を赤くして詩歌がうなずく。 「そんじゃあ、麗ちゃんは杏子と抱き合わせてやっちゃったから、 次は圭太かな?」 「圭太はやっぱりあの紅葉先輩とのことだよね?」 「あ、そうそう。この前それで追い回されたけどね…」  しかめっ面でトランプをシャッフルする香織。  先程と同じ様にカードを置き始めた。  だが、表情まで先程と同じとはいかない。 「やっぱ、駄目だね。どうやってもうまくいきそうにないよ。圭太 が役不足って出てる」  肩をすぼめた香織の仕草が面白かったためか、残る二人は笑い出 した。 「はははっ! そうだよね? あの紅葉先輩に釣り合うわけないよ?」 「しいちゃん、笑っちゃ悪いわ… でも、ふふっ!」  失礼千万である。  まるで、その場にいないのが悪いとでも言わんばかりに。 「でもねえ… そう遠くない未来に、誰かとうまくいくかもって出 てたりもするんだけどね」  自分の占いに絶対の自信を持っているがゆえの、余裕の発言だっ た。 「なんかやけに細かいなあ、その占い。ほんとに?」 「ほんとほんと。いく『かも』だからね? なかなか相性はよさそ うなんだけどね」 「相手はわかんないの?」 「そんなのわかんないよ… でも、割と身近かもね?」 「かもねって何よ、かもねって?」 「それはあたしの独断と偏見!」 「全然占いになってないじゃない?」  その後、潤一郎の恋愛に関する占いで、三人は大爆笑することに なる。  なお、その占いの結果については、本人の名誉のために敢えて伏 せておくことにする。笑い方が圭太以上だったので、察しはつくと 思うのだが…  顔が赤いまま先に眠った詩歌を除き、香織と杏子はさらにあの子 は? この人は? と、一晩中ひたすら他人の行く末を占った。  合宿四日目。  と言っても、今日はいつもとは雰囲気が違う。  中休み。  圭太の粋な計らいだった。 「で、どこに行くの?」  香織がわくわくしながら麗に尋ねた。 「有名なダムを見に行こうかなって思うんだけど、どうかな?」  ちょっと上下に揺れたせいで舌を噛みそうになったが、麗はこれ 名案とばかりに皆に問いかけた。 「そうね、とても大きいんでしょう? 私も見てみたいな」  大きな麦藁帽子を握り締め、杏子は麗の言葉に素早く反応した。  どうせ麗ちゃんの言うことなら何でもいいんでしょう?  とは、言いたくても言えない香織は、もう杏子とはすっかり親友 になっていた。 「だけどよお、ダムも悪くねえけど、他に行くとこなかったのか?」  少々不満げにぶつぶつつぶやくのは、潤一郎。 「だって、バスで近くの駅に出るだけで、それなりに時間かかるし、 そこから遠出を考えると、全然時間がないんだよね…」  麗が申し訳なさそうに答える。 「ま、どこでもいいけどよお。女の子がいりゃあもっといいけど…」  結局そうなる。  3人の同意を得て、言い出した麗もほっと一息。  とりあえず4人の乗ったバスは、一路駅へと向かう。 「だけど、詩歌ちゃん、残念だったね?」  今度は列車の中。  麗が残念そうにつぶやいたのを、杏子が慰める。 「大丈夫だと思うんだけど… ちょっと、具合が悪いみたいって、 言ってただけだから…」 「それに、昨日女子一位女子一位ってうるさいのなんの。それだけ がんばったんだから、ちょっとくらい体にガタもくるんじゃない? 一日寝てりゃあ大丈夫だって?」  夕べ詩歌の顔がずっと赤みを帯びていたのは、恋愛話に照れてい たり、占いに興奮していたわけではなかった。  相当マラソンで無理をしたのだろう。それとも今までの数ヶ月間 の疲れが一気に出たのだろうか? 休日という事で気が緩んだため かもしれない。  とにかく詩歌は、体調を崩したため合宿所で留守番ということに なった。 「ったく、しゃあねえなあ。あいつも一所懸命にやってるってこと か? 休みに休めねえんじゃちっともよくねえけどな?」 「あんたはよかったんじゃない? おかげで代わりに遊びに参加で きることになったんだから?」 「そうそう、俺は満足だぜ? ま、詩歌には悪いけどな。それに、 俺より圭太の方があの合宿所じゃ役に立つだろ?」  今朝、詩歌の容体を聞くと圭太は、潤一郎の代わりに残ると言い 出したのだ。  勝負に負けて賭けには勝ったと、大はしゃぎの潤一郎。  したがって、今日の休日は潤一郎、麗、杏子、香織の4人だけの 外出となっていた。  ダムは確かに大きかった。 「うひゃーっ! すっげえでっけえ! すっげえでっけえ!!」  最初に愚痴を言っていたのは一体誰だったのだろう?  最初に感激の声をあげたのも同じ人物だったりする。  何しろ信州にはダムが多い。  しかも、どれもこれも大きなダムである。  中でも最大級のこのダムは、下からダム上の歩道へ行くまでに、 ケーブルカーに乗らなければならない程大きい。 「いやあ、ほんとにおっきいねえ!? だけど、こんなとこには、 女の子なんていないんじゃないの…?」  香織がそう言った矢先に、潤一郎はもうダムそのものには興味を 無くしていた。 「うっそお? もしかして、結構、ダムって、人気、あんのか?」  なかなかいかした、いかにも夏のお嬢さんという感じのする二人 組みの女性が、潤一郎の瞳の奥にロックオンされていた。  一人はぱっと見て良家のお嬢様。装ってるだけかもしれないが。  もう一人はボーイッシュなイメージの強い女の子。  二人は潤一郎の視線に気付いたらしく、軽く手を振ったもんだか らたまらない。 「おいおい!? ほんとに?」  自分の鼻の辺りを指差して動揺する潤一郎に、にっこりと笑みを 返す二人。 「やっぱ旅先じゃあ、みんな大胆になるんだなあ!? んじゃ、俺 あの娘達と一緒に夏の思い出作るから! バーイ、マイフレンズ!」  軽快な足取りと共に、潤一郎は他の誰にも何も言わせずに、照れ 隠しにリーゼント頭をぼりぼり掻きながら、その場から消えた。 「あーあ、行っちゃった…」  唖然とした表情の麗。言葉も単に口から出たというだけだ。 「あ、あの…」  杏子はもっと唖然としている。言葉なんか出ない。 「あれ、うそ… そんな簡単にこういう展開になる?」  妙に悔しそうなのは香織。  続く言葉は半ばやけくそだった。 「しゃあない。そのうちふられて戻ってくるんじゃない?」  戻って来ない。  昼食時だが、戻って来ない。  仕方なく、三人で食事をとる。  レストランの席では香織と杏子が並んで座り、杏子の向かい側に 麗が座る。  窓から見えるダムの景色はとてもいいのだが…  気まずい。  二人はどうだか知らないが、香織としてはとても気まずい。  だって…  この二人の間に挟まって、まるで小姑だよ、これじゃあ…  うだうだ考えていた香織だったが… 「はい、お待ちどおさま!」  彼女だってそうだった。  何がって、そりゃあ、ねえ… 「お兄さん、かっこいいね? アルバイトなんですか? じゃあ、 どこから来たんですか? あ、割と近いじゃん? あたしさ、風見 本町の喫茶店でバイトしてんだけど、結構おいしいコーヒー入れる んだよ? ねえねえ、休憩時間とかないの? あっ あるんだ!  じゃあさあ、後でこの辺の…」  昼下がり、ぽつんとダムの近くに立つ二人。  麗と杏子。  失礼ながら、通りがかりの他人には姉と弟に見える。  かわいそうだが、それほどの身長差があった。 「ねえ、杏子ちゃん?」 と言う麗は、そういえばいつも顔を上げている。 「何、麗君?」 と言う杏子も、そういえばいつも顎を引いている。  麗は言葉を続けた。 「真ん中辺りまで行ってみない?」 「うん」  言われるままについていく杏子。  その真ん中付近は、ダムの放水側から貯水側へ向けて、かなり横 風が強かった。  当然人が落ちない様に柵があるため、安心なのだが。 「すごい風だねえ?」 「そうね、本当に…」  右手で麦藁帽子を抑え、左手で水面を指差し、杏子が続ける。 「何か、浮いてるみたい」 「うん。意外と綺麗じゃないのかな。でも、観光客が落としていく ゴミだったら、悪いのは僕達の方だよね?」  他愛ないおしゃべりが続く。 「それにしても、たくさん水が貯えられているのね?」 「うん。今年は梅雨時にたくさん雨が降ったしね」 「水力発電とか、するのかしら?」 「やっぱりするんじゃないかな? ほら、こっち側に来てみてよ? 放水してるよ?」 「すごいね、麗君」 「確かにあんなに大量に放水するなら、発電も出来るよ、きっと」  こういう時の解説は、麗ならではのものだ。  圭太や潤一郎では、こうはいかない。 「でっけえ水瓶だなあ。ちょっと泳いでみてえな?」 「知らねえよ、んなもん。ったく、しゃあねえなあ…」 とまあ、こんなところだろうか。  ダムの上を、来た方から反対側まで歩いた。  何かを思い付いた様子で、麗は少し杏子の先を行く。 「これくらい背があると、いいんだけどね…」  多分、子供用のものだろう。  今見つけた小さな台に乗った麗。  照れ笑いがまた可愛い。  その背の高さ、とりわけまっすぐ見据えると杏子の薄い眉という 状況に、言い知れぬ満足感を得ていた。  見下ろすという優越感のような傲慢なものではない。  ほんの、ほんの少しだけ彼女の目線に近づきたかったのだ。 「ねえ、僕の背丈って、やっぱり足りないのかな?」  突然の質問だった。  麗君、そんなに背のこと、気にしてるの…?  心の中でしか、質問出来ないこともある。  当然、心の中でしか、答えられないこともある。  本当は、本当は少しだけ… 「そんなこと、ないと思う」  どちらかと言うと、自分の身長が低ければと思う杏子。麗のせい ではないと思えばこその返事だった。 「嘘でも嬉しいよ」  にっこり笑って、そっと台から降りた麗。 「そんな…」  背を向ける杏子。  二人の息が止まった。  薄めの白いブラウスにうっすらと浮かぶ、さらに白い線。  麗は今まで意識していないものに、突然気付いたのだ。  夕べちらりと見てしまった、潤一郎所有のそういう本のページが 頭に浮かぶ。そのせいだろうか。  そんな、そんなこと…  うつむく麗。  露天風呂で一番最初に飛び込んで来たシーンが浮かぶ。  彼にだって、嘘をついてでも誰にも言えないこともある。  目の奥が熱くなる。  麗はうつむいたまま、ぶるぶると頭を横に振った。  そっぽを向いたまま、杏子も何かを意識していることに気付いた。 「あんた達結構ムードを大切にしたがってるみたい」 「うっそおーっ! 杏子って、麗ちゃんとまだなんにもないの!?」 「ほんと、呆れたもんだわ… どう見たって両思いだけどね」  急に、夕べの言葉が思い出される。  ムードは、ないかしら…  なんにも、ないけれど…  片思いじゃ、ないのかな…  いろんな気持ちが渦巻く。  きっと彼女は、そっぽを向いた今の自分がかなり変な顔だと思っ ているに違いない。 「あ、僕、いや、何でも…」 「あの、その、だから…」  何やらわけのわからない言葉から、二人は会話を戻した。 「ね、ねえ。二人とも、向こうに戻って来てるかもしれないよ?」 「そ、そうね」  麗の目を見られず、慌てて先を行こうとした杏子の頭から、ふわ りと飛び去っていくものがあった。 「あっ!」  一瞬だった。  風に乗り、宙に浮いた麦藁帽子。 「何だか、映画みたい」  好きな帽子を飛ばした悔し紛れからか、さらさらと髪がなびく方 を見ながら、わざと演技っぽく杏子がつぶやく。 「うん、そうだね」  なびく髪に惹かれる様に、麗は彼女の横顔を見た。  杏子がじっと麦藁帽子を見送っていたので、彼女と同じ気持ちに なりたくて、麗もそっと視線を移した。  麗曰く「観光客が落としていくゴミ」を、水面に落ちるまで二人 で見つめていた。 「あのさ… 僕が代わりの麦藁帽子買うよ」 「でも…」 「ね?」 「うん… ありがとう」  その感謝の気持ちが、自分の手を離れていったものにも注がれて いたことを、麗は知らない。  今度は絶対、風に飛ばしたりしないからね…  と思われてしまうと、ダムの水面に辿り着いた麦藁帽子は、一体 感謝されるどちらにやきもちを焼くのだろうか? 「あんた、まだポーカーのルール、憶えらんないの?」 「んなこと言ったってよお…!?」  たしなめられる圭太。  どうもこういうことになると、詩歌にはかなわない。  退屈な午後に付き合ってやってるのはこっちだぞ…  そう思って口に出来るほど優位ではない。 「ババ抜きにしねえか? な? それだったら俺でもわかる!」 「あんねえ… 二人でババ抜きやって、面白い?」 「…それもそうか。じゃあ、神経衰弱!」 「もう… 二人で延々とやるの?」 「そうだ。高校野球見ようぜ? な?」  二人は当然合宿所にいた。  詩歌など、パジャマ姿のままである。  ぶらぶらと、居間になっているところで、ふかふかのソファーに 向かい合って座っている。  テレビのスイッチを入れた。朝食後男子はいつもここでテレビを 見ている。  ちなみに、手伝いは朝のうちに済ませた。  と言うより、無理矢理終わらされたようなものである。 「午後はのんびり過ごしなさいな?」  おばちゃんの粋な計らいである。 「ねえ、圭太?」 「んだよ…」  一旦高校野球を見始めた圭太は、回や表裏の変わる時、つまり、 コマーシャルのタイミングにしか詩歌の声に反応しなくなる。  まるでどこかの小説の主人公のようだ。  そのタイミングに、うまく詩歌は声をかけた。 「そんなに面白い?」 「そりゃあもう!」 「ふうん… そりゃよかったね」  こちらはさして興味なしといった感じ。  あーあ、ババ抜きでも神経衰弱でも、やればよかったかなあ?  一試合終わるまで、どうやらまともな会話は出来そうになかった。 「終わった終わった! いやあ、8回裏の怒涛の逆転劇には驚いた ぜ! まさか2アウトからの5点はねえよなあ?」  興奮冷めやらぬ様子の圭太に、約40分間待たされたと自覚する 詩歌が声をかけた。 「ほんとに野球好きなんだねえ… 今からでも遅くないから、野球 部に入ったら?」  軽い冗談のつもりだった。  ばーか、今から入ったらこき使われてばっかりでベンチにも入れ ねえよ… とでも返してくるものだと思っていた。  ため息の後、途切れ途切れに圭太が語る。 「あのさ… 俺、ほんとに野球馬鹿でさ。いつも野球の事ばっかり 考えてた。だけどさ… 耐えられなかったんだ… 後輩いじめって やつが… 逃げてるってのは、わかってるんだけど、どうしようも ないんだ… あれだけはしたくないし、されたくもないんだよな?」  未だに野球部については、色々考えているらしい。  言い終わった後、にっこりと笑ったことだけが、彼女にとっては ほんの少しの救いだった。  続いて見せた寂しげな横顔に、詩歌は少し前の彼を思い出した。  (いろいろやってきたつもりだったけど、俺、何の役にも立って   ないよな…)  そうか… 圭太、あせってたんだよね、あの時…  今でも自分から”逃げてる”って、言っちゃうんだもんね…  でも前も今も、やっぱり逃げてないよ、圭太。  こうやって、思い通りの部活を作ってきてるじゃない?  あたしなんて、どうにかついていくのが精一杯だけどね。  詩歌の思いは、最後にこうなった。  なんか、うらやましいな。ずるいくらいだよ。  だが、今回は思いをそのまま口にはしない。  ましてや、謝るつもりも毛頭ない。 「そうだよね? 今更同好会やめられちゃたまんないしね」  いつもの詩歌らしい、ちょっとひねくれた受け答えだった。 「…当たり前だろ? 行きがかり上、俺が会長だもんな?」 「でもさあ。会長って言葉、何か怪しい響きじゃない?」 「そうか?」 「会長だよ、会長?」  首をひねる圭太。このへんは詩歌とは意見が違うようだ。  そろそろ帰ってくる時間という頃… 「あーあ、散々な目にあったぜ!?」 「何だ? じゅん、お前だけ? 何で一人なんだ?」 「くそ重い荷物は持たされるわ、みやげものだの飲み物だので散々 金遣わされるわ、もうひでえもんだぜ…」 「何だそりゃ… で、他の3人は?」 「知るかっての!! ああっ! あの女ども! 金返せ!!」  夕べの占いの結果と重ね合わせ、一人笑う詩歌。  それから20分程して… 「何よ、もう!」 「あれ? 今度は香織ぃ? 何よ、どうしたっての?」 「聞いてよ詩歌! あの男、いきなり抱きしめようとすんだから! 思いっきり蹴り飛ばして帰って来てやったわ!」 「蹴ったって… どこを?」 「言わなくてもわかるでしょっ!?」  おお恐い… と、目を合わせる圭太と潤一郎。  さらに2時間程が過ぎて… 「ただいま!」 「おかえり、麗ちゃん、あんず!」 「聞いてくれよ、二人とも! あの女どもなあ…」 「あれ? あんちゃん、そんな麦藁帽子だったっけ?」 「ほんと。なんかそれ、サンバイザーみたいな形。普通の丸いやつ だったよね? 元のって」 「あの… 風で飛ばされちゃったから、また買ったの」  にっこりと笑い合う麗と杏子。知る人ぞ知る、である。  夕食後、6人は中休み終了記念カラオケパーティーを行った。  「カラオケのない」男子の部屋で、夜遅くまで「カラオケのない」 カラオケパーティーが続いた。  歌の好きな連中が集まったせいか、別にカラオケの機械がなくて も、平気でその場で歌ってしまうのだ。  ちなみにおっちゃん・おばちゃんも誘ったが、二人は遠慮した。  合宿五日目。  今朝もいつも通りランニングをした後、やはりいつも通り朝食を とり、いつも通り女子はシャワー、男子はテレビ。  だが、トレーニングが終わり、昼食・昼休みを終えると、ちょっ とした緊張感が杏子以外の4人の背筋に走る。 「皆さんには、約一ヶ月程ゴム弓で練習してもらいましたが、今日 からは本物の弓を引いてもらいます」  前から杏子は、こうすることを決めていた。  そのために、わざわざ5人分の弓矢を持って来たのだ。  ちなみに彼女の実家からこの同好会のために持ち出した弓具は、 全部で14人分にもなる。  皆、一様にどきどきしていた。  待ってました!  当面自分のものになる弓を握り締め、気持ちを高ぶらせる圭太。  かっこいいじゃんか!?  こちらもうっとりと弓を眺める潤一郎。形からというやつだ。  なんか、固そう…  こんなものが引けるのかと、詩歌は首を傾げる。  僕の背丈の倍くらいあるんじゃないのかな…?  つい麗は、こういうものを身長と絡めてしまう。  うまく皆さんに説明できるかしら…  責任感の強い杏子の不安は高まる一方。 「では、今から射法八節のおさらいをします」  真面目な気持ちを保つため、自分だけ袴姿の杏子が説明を始めた。  ちなみに他の4人はトレーニングウェアである。 「まずは足踏みです」  そう言うと、的場を左側にして立つ。以前説明したかけをはめた 右手には2本の矢が、左手には弓。弦は腕の外側にまわり、ぴった りと腕についている。腰骨につけた拳から体の前に伸びる弓の先は、 地面から10cm程度の高さで浮いていて、矢の先の見えない線と その弓の先が体の前面中央で交わる。  この状態を用語で「執弓(とりゆみ)」という。  矢があろうがなかろうが、道場内で弓を持って立っている時は、 つねにこの執弓の状態でいなければならない。歩く時も同様である。  ゆっくりと首を的に向ける。 「的をしっかり見据えて、自分の足元までの直線を目でひきます」  さらに、静かに左足をほんの少し斜め前に踏み出す。 「踏み出す位置は、先程の目でひいた直線の上です。そして…」  右足をすっと、踏み出した左足に寄せる。  ほんの一瞬、その場に立っているようにさえ見えた。  静かに、右足が離れて行く。 「弧を描く様にして右足を押し開きます」  いわゆる肩幅、弓の世界では矢束と呼ぶ矢の長さに足が開かれる。 「そのまま胴造りです。本当は袴を来ていれば正確にできるんです けど…」  これは4人もしょっちゅうやっていた。  下腹部に力を込めて体をふらつかせないようにするためのものだ。  ぴたりと止まったまま動かない杏子の身体。  背が高いとはいえ、この華箸な身体のどこにそのような力がある のだろう。 「弓構えに入ります。まずは取懸けです」  矢を弦につがえると、かけをそっと弦にあてがう。  帽子と呼ばれる親指の部分の内側には溝があり、それを弦にかけ る。 「この時、かけの中の親指には力を込めないで、むしろ反らせる様 にします。また、最初は難しいかもしれませんが、手首から肘まで を一本の棒とでも考えるような気持ちで、全体を内側にひねります」  皆感心しきりで杏子の右腕を見つめる。 「次は手の内を整えます」  動作は左手に移る。 「いわゆる紅葉重ねと呼ばれる握り方です。親指と人差し指の間の 皮を巻き込みます。つぎに、中指・薬指・小指を丁寧に親指の下に 揃えます。人差し指は反らせるよりは軽く曲げるくらいの方がいい と思います」  これで弓と矢が、杏子の身体の一部となった。 「最後に物見で、弓構えは終わります」  胴造りの時と同様に、ゆっくりと左を向き、的を見据える。 「いよいよ直接矢を射る動作に入ります。打起しです」  そっと、肩を上げないようにして、何か丸い大木でも抱え上げる 様に、拳を頭の上まで起こす。腕は水平に対して45度くらいになる。 「大三に入ります。以前説明した通り『押大目引三分一』の略です」  押とは弓を持つ左手。的へ向けて弓を押し開く力を大目に、とい う意味。  引とは右手。押し開かれる力に対して、その三分の一の力で、と いう意味。 「肘で引くという気持ちが大切です。そこから下膊部、手首より先 は弦と同じなんです。肘が弦をつかんでいるような気持ちです」  未だ頭上にある弓矢。 「ここからは説明を省きます。しゃべりながら引くのは、ちょっと できないから…」  ゆっくりと身体の前面で弓を押し開く。  テレビのコマーシャル等でも弓を引いている構図が多いが、生粋 の射手から見ればかなりお笑い草らしい。  それは、この杏子の矢の位置を見れば一目瞭然である。  よく目の高さや顎の下にあるという状態が多いのだが、実際には 頬付け・口割りという、ちょうど的を見据える顔の右頬の口元に軽 くつくのが、諸派共通の正しい矢の高さと言われる。それより高い 位置を鼻付け、低い位置を顎付けといい、まずこのような事はない。  次に引いた右腕や弦の位置であるが、右腕の肘はほんの少しだけ 下がるくらいに大きく後ろに引かれる。この位置だと右拳は右耳の 後ろあたりになる。当然その拳にかかる弦も右耳の後ろ側まで引か れていなければならない。顎に弦をつけて射るアーチェリーとは、 根本的に違う。  さらに、顔は物見の段階で完全に左へ90度向けられ、左腕の拳 はそう高い位置にはない。  パン!  甲高い音と共に矢は放たれ、あっと言う間にもう一つの乾いた音 が響く。 「さっすがだなあ…」 「かっこいいぜ…」 「しびれちゃうよねえ…」 「素敵だね、杏子ちゃん…」  圭太達はただただうっとりと見つめるだけだった。  さて、そんなこんなで弓を手にして一喜一憂している連中をよそ に、マイペースでこの旅を過ごす、そんな香織の午後の過ごし方に 注目してみる。  この信州の合宿所に来てこのかた、必ず午後に足を向ける場所が 彼女にはあった。  どうやら今日もそこへ行くらしい。  合宿初日に既に見つけていた場所とは… 「へへぇ。今日も来ちゃったもんね」  彼女達のいる合宿所から歩いて30分。  ポロシャツ、キュロットスカート姿の香織がたどり着いたのは、 これまた合宿所。  お目当ては、この合宿所の裏にあるテニスコート。  その金網の向こう側には、どこかの大学の男女混合のテニスサー クル。  彼らの練習の見学が、日課となっていたのである。  いつも、うまく切られた木の切り株に腰をおろし、にやにやしな がら練習風景を眺めている。 「今日も来たぜ?」  彼らの間でも結構有名になっていた。 「なあなあ、船田。あの娘、誰が目当てなんだろうな?」 「ばーか、俺に決まってんじゃんか?」 「西村の言う台詞じゃないな」 「じゃあ、誰だよ高峰?」  どうして男という生き物はこうも単純なのだろうか…  香織が来る度に、こんなことを話し合っている。  いつもこんな風に練習が進む。  特に香織の方から声をかけることはない。  向こうからも声をかけてくることはない。  ぼおっと見てるだけが、彼女の日課であり楽しみだった。  ところが、今日ばかりは違った。  むしゃくしゃしてるんだもんね、こっちは。  ちょっと、「付き合って」もらおうかな?  昨日、変な男に言い寄られたせいだろうか?  だとすれば、最初に言い寄った自分が悪いのだと思うのだが… 「ハァーイ!」  ともかくも、香織はにっこり笑って金網の向こう側へ手を振った。 「何だ? おい、あの娘、手ぇ振ってるぜ?」  最初に気付いた男は、やたらと嬉しそうな声をあげる。 「ほんとだ。しびれきらせて向こうからモーションかけて来たって こと?」 「誘っちゃおうか?」 「いいのかよ?」 「練習にだよ、高峰。お前、またやらしいこと考えてんな?」  頭をこつかれて、高峰という男は少々ふくれっ面。  やたらとにこにこ笑顔を振りまいて、彼のそばの金網にへばりつ く香織。 「君、何処から来たの?」 「風見台… って言ってもわかんないか。県立風見鶏高校って言え ば、ご近所の都県の人にはわかると思うけど」 「ああ、わかるわかる。で、その風見鶏高校生が何しに来たの?」 「あたしも一応合宿について来てるんだけど」 「ふうん… 何部? やっぱり体育会系?」 「弓道同好会、なんだけど… あたし部外者なんだ。弓道にも興味 ないしね。旅行気分でついてきたってわけ。ねえ…」 「えっ? 何?」 「ねえねえ、あたしも混ぜてよ?」  高峰には、その言葉の意味がわからなかった。  だが、まあ、その、それなりに可愛い女の子が混ざりたいと言っ ているのだから、何であれいいだろうと思う。  いい加減さは潤一郎といい勝負だ。  やめればよかったのに。 「あははっ! いいなあ!」  コートの感触を一歩一歩確かめるに踏みしめる。 「誰のでもいいから、ラケット貸してもらえないかなあ?」  混ぜて、とは練習に混ぜて、という意味である。 「君… テニスしたことある?」 「ある、ある!」  はしゃぐ香織。 「これ、ガットもあやしいけど、いい?」 「大丈夫、大丈夫!」  緩んだ網目に指を突っ込む香織。  要するに、何でもいいらしい。  そのはしゃぎ様は、誰が見ても素人だ。  かわいい仕草に、思わず手取り足取り教えてあげたくなるという ものだ。  だが、香織は教えて欲しくはないという。 「ねえねえ、試合しよう、試合! ね?」 「うんうん。そうしようそうしよう」 「誰でも練習よりゲームの方がいいよね!?」  お兄さん達も、可愛い妹のお相手でもしているかのように、どん なわがままでもゆるしてしまいたくなったようだ。  本当に、どうして男という生き物は…  でもって、作者はテニスというものをよく知らないのだが… 「なんだ、だらしないなあ… うちの中学の方がよっぽど強いよ」  とにかくそういうわけである。  小・中学で鍛えた香織のテクニックが上回ったのか、それとも、 大学での女の子集めが目当てのテニスサークルのメンバーが揃いも 揃ってテクニックが下回ったのか…  おかげで本人曰く「昨日の憂さ晴らし」は気持ちよく終わった。  ちょっとだけ気になったのは、同じサークルの女子メンバー達。  どうして白い目を向けるのかな? 「あれ? 香織? 今日はちょっと疲れてるみたい」 「まあね。おかげでおなかがへっちゃってさあ」 「香織ちゃん、いつも何処に行ってるの?」 「へへへっ、ひ・み・つ!」 「ぎゃあぁーっ! うっわあぁーーっっ!!」  夜中にこんな、この世のものとは思えないほどの、とてつもなく 大きな悲鳴が、しかも一度ならず二度までも飛び交うと、さすがに 図太い神経で通っている詩歌でさえ、目を覚ましてしまう。 「…なんかぁ、聞こえたぁ、よねぇ?」  多少の余裕か、それとも単なる寝起きの悪さか…  むくっと身体を起こし、右隣で同じ様に眠っているはずの杏子に つぶやいた。 「た、確かに、何か、悲鳴のような…」  こちらも布団から身体を起こしている。  しかも嫌という程、目を見開いている。  きっと一回目から目が覚めているのだろう。  暗闇で気付かれないで済んでいるのだが、相当強ばった顔をして いるようだ。  さらにその右隣、香織は相当目にしたためる光を鋭くさせていた。 「確かに聞こえたよ… うん…」  いつもなら「馬鹿だねえ」とかなんとか言ってるところだが… 「あのさあ… これって、なんか、やばいんじゃない…?」  彼女の押し殺す言葉遣いを、詩歌や杏子は初めて耳にしたのだが、 それでも寝ぼけ眼の詩歌には演技にしか聞こえなかったらしい。 「まぁた、香織ってば… んなこと言って、何か検討でもついてる んじゃ…」 「ぎゃああぁぁーーっ!!」  三度目の正直。  さすがに詩歌も目を見開く。 「何だ? 何々、何なの、今の?」  慌てて立ち上がった詩歌。蛍光燈のスイッチを引っ張る。  そこでようやく見た二人の顔。  想像以上だった。  手を取り合ってぶるぶると震える二人。 「あたしが知りたいよっ!?」  香織の声が震えている。 「な、何…? 私、こういうの、苦手なのに…!!」  杏子はもっと震えている。  もし香織が冷静なら、「やっぱ似たもの同士だね?」とでも言う ところだろうか。冷やかされた杏子が「そんなこと…」と顔を赤ら めながら小さな声で否定でもするのだろうか。  冗談なんて出やしない。本気で恐がっている。 「何なの、かな…?」 「本当に、何、なの、かしら…?」 「殺人事件とか…!?」 「そ、そんなのって、冗談、よね…!?」 「待てよ… この辺り、実はよく幽霊が出るとか…」 「いやっ!」  二人とも、想像の世界で大いに恐がっている。  それ程強烈な叫び声だったのだ。  こんな中、意外に冷静なのが詩歌だった。  まだ眠かっただけなのかもしれない。 「確かに、おっきな、声だったよね… 圭太達も、聞いたかな?」  なるほど…  二人とも抱き合って脅えながらも、素直に詩歌に感心した。  自分達がこれだけ騒いでいるのだから、男子の方でも麗なんかは 震え上がっているに違いない。  やっぱり男がいるだけで何となく安心だし、いざという時には、 先に犠牲になってもらえる…  都合のいいようにいいように考える二人とは違い、詩歌はただ、 夜起こされた不満を、もし眠っていればだが、圭太達を起こすこと で解消出来ればラッキーというくらいにしか考えていなかった。  というわけで、今度は男部屋を覗くことにする。  えっ? 何故女の子の部屋の方から覗いたのかって?  いや、その、これは作者の趣味じゃなくて、話の流れというやつ でして、はい… 「わかった、わぁーったからよお。もう寝かせてくれよぉ…」  のんびり答える圭太の隣で、枕を抱きかかえながら麗が震える。 「嘘… 嘘だよね… 恐い…」 「なあ、頼む! 圭太! お前だけが頼りなんだって! おい!」  普段は怪談もへっちゃらの潤一郎が、やたらと脅え、騒いでいる。  やはりこちらでも、同じ様に脅えていたのだろうか?  これまた態度が違うものも約一名いたが。 「おーい、圭太ぁ、起きてるぅ?」  部屋の戸の向こうから、眠そうな声がした。 「何だよ、詩歌? 残念ながら起きてるよぉ…」  戸を開けると、自分と同じ様に眠そうな女の子が立っていた。 「あ、あのね、なんか、すごい声が聞こえなかった?」  その後ろから、恐る恐る問いかける香織。 「聞こえた聞こえた… もう耳が割れんばかりにさぁ… そっか… そっちまで聞こえてたのかぁ…」 「ほら! やっぱりこっちでも聞こえたんだよ!?」  この世の終わりと騒ぐ杏子や香織に、続く圭太の言葉はかなり強 烈なものだった。 「ったく、じゅんのやつ… 真夜中に迷惑千万この上ないぜ…」 「は…?」 「じゅん君、なの?」  圭太の指差す方へ向け、三人が部屋の奥を覗く。  潤一郎は歯をガタガタ鳴らしながら、部屋の隅でじっとしている。 「そう… あいつ、ゴキブリ見つけちまったから、うるさくてよお… ほっとけって言ってんのに、見つけるたびにぎゃあぎゃあわめくわ 枕は投げるわ… 見ろよ… じゅん見た麗ちゃん、脅えちゃってさぁ…」  もうこの場で眠りそうなほど、圭太の目は閉じかけていた。 「ほんと、人騒がせだねえ、じゅん君…」  女の子の中で、詩歌だけが単に呆れていた。 「でも、意外だなあ… じゅん君がねえ」  香織にしてみれば、出所がはっきりすればどうということはない。  今まで自分と親友との間で作り上げ過ぎた虚構の世界が、勝手に 恐怖を呼び込んだだけなのだ。 「どうして、そんなに、ゴキブリが苦手、なんですか…?」  ところがまだ、杏子の声は震えている。 「だってよお、しゃあねえだろ… チビの頃に背中に放り込まれて からずっと、ほんとに恐いんだからよお…」  鼻水混じりの泣き声でぐちゃぐちゃの潤一郎。 「まぁったく… 誰に放り込まれたんだか…」  呆れ半分、まだ恐さ半分で、香織がぼやいた。  潤一郎の目は、一気に細くなり、一人の男を見つめる。 「圭太、お前だよな…」 「ありゃ? そうだったっけか!?」  圭太にしてみれば忘れてしまう程の、幼き日の他愛ない思い出。  この程度の事ではいちいちたじろいだりしない。  だが、状況が状況だけに、見回すと皆の視線が恐い。 「圭太! あんたが原因か!?」  詩歌の怒鳴り声で、圭太の目もぱっちりと開いてしまった…  合宿六日目。  いつものランニング・朝食の後。 「あんたら、こんなことまですんの?」  日課である朝のシャワーの後、髪をドライヤーで乾かしながら、 声に出すのも嫌気がさす、という感じでぼやく香織。 「みんな麗ちゃんにお付き合いってとこかな…」  圭太がそっぽを向きながらテレビを見ている。  そろそろ高校野球が始まる時間だった。 「みんな、道場に集合だって!」  麗が張り切って圭太を呼びに来る。  えっ…?  道場…?  二人は、これから始まる事が自分達の思い描いていた事とは少し 違い、面食らったような表情をありありと麗に見せていた。  圭太が香織に「麗ちゃんにお付き合い」と言ったのは、勉強会の 事だった。  どの日でもいいから、一日だけ午前中を勉強会にあてることを、 麗に約束していた。  そこまでは、圭太は諦めながらも認めていた。  どうせぼーっとしてればいいか。  なるほど、それで時間は過ぎていく。  ところがどっこい、道場に集合だという。  圭太と香織は、嫌な気分にたっぷりと浸る。  まさかね…  そのまさかである。  嘘だろ…?  誰か、嘘だと言ってくれ…! 「よかったねえ、圭太! たっぷり練習が出来て!」  今までで一番憎たらしい詩歌の笑顔。  まさしく練習。  しかも、圭太にとっては一番嫌いな練習だった。 「やっぱよお… ちゃんとリラックスしてやらねえと、勉強なんて もんは…」 「じゅん君って、リラックスしたら勉強なんてしないじゃない?」  これまた詩歌にしてやられる潤一郎。  道場で圭太や潤一郎にとってリラックスできない状態の座り方…  そう、「正座」である。  確かに、机に肘をつける分普段よりは楽だが、午前中ずっととい うことになると、話はまた別だ。  しかも、マラソンに加えて突然の正座に突き合わされる香織には、 災難以外のなにものでもない。  ついてくんの、やめりゃよかったよ…  ここへきて初めてそう思う香織だった。  10分でグロッキー状態になったのは圭太。予想通りである。  さすがに普通の状態では10分位は平気でもつようになった彼も、 方程式とセットで襲いかかられるとどうしようもない。  足が先に参ったのか、頭が稼動不能になったのかは、外見からは 判断出来ないが。  20分くらいで香織と潤一郎が、やはり圭太とよく似た状態になっ ていた。  ちなみに香織は、勉強については中の上程度、と本人が言ってい るが、多分そんなところだろう。従って、おそらく足が先に参った と見える。  この時点で、姿勢を崩さずに残っているのは3人。  予想通りの杏子・麗と、もう一人。  意地になって練習しつづけたためか、最近詩歌は正座を得意技に している。  20分経っても背筋を伸ばしている姿はなかなか美しい。  それでも本場仕込みの杏子や、何故か元々得意な麗には及ばない。  30分前後で力尽きてしまう詩歌。思わず、 「ふうっ」 と小声で息をつく。  その側で、やはり意に介さない二人。 「ほら、ここの関数がこの放物線を…」 「この漸近線はどういうことなのかしら…」  作者すらついていけない数学のお勉強に相当熱が入っている。 「もうっ! あんちゃん、ちょっと休憩!」  騒ぐ詩歌。  助かった!  グロッキー組3人にとっては、この髪の長い長い眼鏡娘が天使の ように見えたことだろう。 「みんな、凄い事考えるなあ?」  八木沢氏ことおっちゃんが、麦茶の差し入れに道場に現れた時、 ちょうど2回目の休憩に入ったところだった。 「おっちゃん、ナイスタイミング!」  思わず声を上げておっちゃんを指差す圭太。余程嬉しかったと見 える。 「しかし、みんな凄いなあ? おっちゃんらでさえ、板の間で正座 しながら勉強ってのはやったことないぞ?」  感心しきりのおっちゃん。 「身が引き締まるような気分になるんです」  麗がこれ当然とばかりに、涼しげな顔で答える。  約3名から冷たい目で睨みつけられていることも気付かずに。  この時「正座の練習にもいいんですよ」と言い出すはずの杏子が 何も答えなかった理由でもある。  視線にはすばやく気付く彼女に対し、やはり麗はどこかしら鈍感 なところがある。 「ところでみんな、おっちゃんは今から町に行くんだけどな、何か 買ってきて欲しいもんはないか?」  それを聞くのが目当ての差し入れだった。 「そうだなあ… みんな、なんかあるか?」 「シャンプーとか石鹸とか?」 「何でそうなんの、香織? じゃあ、うーんと、コーラ!」 「そんなもんいちいち頼むなよ、詩歌。第一、太るぞ?」 「圭太君、そんな言い方しなくても…」 「それより杏子ちゃんは何かない?」  少々話し合いが続いた後、ようやく思い出したというときに見せ る爽やかな笑顔を見せ、得意げに潤一郎が頼む。 「そうそう、おっちゃん! あれがいいぜ! あれ買ってきてくれ ない?」 「あれ?」  あれではわからない一同だった。 「それでは、恒例の弓道同好会大花火大会を開催したいと思います!」  何故こういう時には、自然に詩歌が場を取り仕切るのだろう。 「あのなあ… いつ『恒例』になったんだ?」  圭太のぼやきも、いつも通り聞き入れない。 「今から今から。それでは、同好会を代表して、会長の的場圭太君 に開催の挨拶をお願いします!」 「だからいきなり振るなっての… えーと、あの、それでは…」 「はいっ、ありがとうございましたぁ! 引き続きまして、ゲスト 代表の相原香織さん、一言お願いします!」  何故圭太は、詩歌がこう言うという事を予測出来ずに、真面目に 言葉を考えようとするのだろう? 「何それ… ま、いいか。じゃあ… 花火以外の物を燃やさないよ うに、気をつけましょう!」  香織の一言は、なぜか注意事項となった。 「それではみんな、思いっきり楽しもう!」 「おう!」  潤一郎がおっちゃんに町で買ってきて欲しいと頼んだのは、花火 だった。  で、彼の発案で、今夜は花火大会ということになった。 「圭太、打ち上げだ、打ち上げ!」 「おっしゃあ! ちょっとまてよ、空きビンとか空き缶ねえか?」  二人のはしゃぎ様は尋常ではない。 「何なに?」  詩歌もその騒ぎに混ざりたがっていた。  相変わらず、面白そうな事には無理矢理顔を突っ込みたくなるら しい。 「これよお、棒がついてるやつなんだけど、地面が固くて刺さらね えんだ。で、空きビンとか空き缶の発射台がいるんだよな?」 「おおい、圭太! 昨日の空き缶あったぜ!」 「これこれ! さあてっと…」  おもむろにコーラの空き缶を地面に置き、その飲み口に打ち上げ 花火の棒の部分を差し入れる。  この時圭太と潤一郎の瞳の輝きだけで、花火に火がつきそうだっ た。 「おおし、火ぃつけるぞ!」  圭太が叫ぶと、麗と杏子が慌てて数歩その場から下がる。 「あたしがやる!」  二人と対照的に、マッチに火をつけた圭太に近寄る詩歌。 「何だよ! 最初は俺がやるんだからな!」 「いいじゃん!」 「お前はあっち!」 「何それ! けち!」  と叫んだ途端、清涼な空気が生み出す満天の星空へ向け、まとめ て2000円の花火セットから選び出された最初の打ち上げ花火が 飛び立った。  ヒュー… パン!  乾いた破裂音と共に、無事一発目の花火が終わった。 「おい、圭太! それ俺が最初に目ぇつけてたんだぜ?」 「何だよ、俺だってこれいいなって思ってたんだからな!?」  二人とも、まるで小学生並の奪い合いだ。 「あいつら、いつまで経ってもガキなんだから」  詩歌はすっかり呆れている様子。 「でもいいんじゃないの? あれくらい楽しんでくれなきゃこっち も面白くないよ。違う?」 「そりゃそうだよね。でも…」 「でも…?」  香織は、ただ圭太達に呆れているように見える詩歌の顔色に、別 の色合いを見抜いた。 「そっか。久司君のことだな?」  図星だった。  圭太の失恋話にはやたらめったらと突っ込み、杏子の恋の行方に はうるさく口出しする詩歌。  だが、いざ自分の話題になると、声が小さくなる。 「うん。大学のサークルで合宿がどうとかこうとかで、まだ今年は 一緒に花火やってない…」 「おうおう、言ってくれちゃって。そういやあさあ、あんたらどこ まで進んでんの?」 「ど、どこまでって、その…」  あからさまに目を逸らす詩歌。  圭太と潤一郎は、打ち上げ花火競争に夢中である。 「俺はソビエト! ソビエトの方が打ち上げロケットが多いんだぞ!」 「何だとぉ! 俺のアメリカのアポロを見ろ! 月までだって飛ん で行くんだぜ!」 「ソユーズ! スカイラブと宇宙でドッキングするんだ!」 「スペースシャトル打ち上げ10秒前!」  あんたら一体何なんだ…?  あまり長く見ていると、詩歌の方が恥ずかしくなってくるので、 一旦香織と目を合わせ、再び目を逸らす。  片や、麗と杏子は二人してしゃがみこみ、線香花火に興じる。  時折にっこりと笑い合う二人。  ある意味ではこちらも子供っぽいところがあるようにも見える。  何やら小声で話し込んでいるが、聞こえる距離ではなかった。 「ねえねえ! 隠すことないじゃん?」  突然繰り返された親友の執拗な尋問に、思わず詩歌は声を荒げる。 「やだ! 香織、あんたすぐ人にばらすもん! 何にも言わない!」 「そんなこと言わずにさあ…」 「だめ!」  そっぽをむく詩歌に、何を言っても無駄と悟った香織。  いよいよ諦め時と、潤一郎の方へ歩いて行った。 「おーい、アメリカぁ! 月にはついたかぁ?」 「アポロは17号まであるんだぜ! まだまだ!」  8本目の打ち上げ花火が、発射台に乗ったところだった。 「よせよせ! 宇宙滞在の長さでもこっちが上だぜ?」  どうやら打ち上げ本数ではソビエトに負けているらしい。  潤一郎の歯ぎしりが聞こえてくるようだった。  いいな、あいつら。  楽しそうで。 「もうすぐ、合宿も終わりだね?」  麗は、線香花火を片手に、杏子にささやいた。 「そうね」  寄り添うようにしてしゃがみこむ杏子。  同じように線香花火を楽しんでいる。 「何だか、寂しいなあ」 「私も…」  麗の持つ線香花火が最後の火種をぽとりと落とし、終わった。 「あ、終わっちゃった」 「麗君、まだこっちに何本かあるの」  圭太達に取られないように、こっそり確保していたという。  なかなかしたたかな一面を持っていた。  杏子がしゃがんだお尻のあたりから、線香花火の束をそっと取り 出した時、彼女の方も火が消え、2人の周囲が暗くなった。 「ありがとう。あ、消えちゃったね?」 「そうね。一緒につけましょうか?」 「うん。ちょっと待ってね? 今マッチをつけるから」  酒は呑むがタバコは吸わない彼ら。ライターなどというものは、 持ち歩く習慣など持っていない。  マッチをすり、麗が周囲に再び火をもたらした瞬間…  あっ…?  えっ…?  2人は、互いの瞳が驚くほど近くにあったことに気付いた。  自然と見つめあう2人。  満天の星空の下、誰もが時が止まったと感じてしまう。 「熱いっ!」  そりゃそうだ。  いつまでもマッチを持っていると、当然そうなる。 「麗君! 大丈夫!?」 「あ、ごめん。でも、火、消えちゃったね。もう一度つけるから…」 「待って…」 「えっ…?」 「香織、俺の花火取るんじゃねえよ!」 「ちょっとぐらいいいじゃん!」 「じゅん、ちょっとくらい分けてやれよ?」 「じゃあ圭太がわけてやりゃあいいじゃねえか?」 「お前の方がたくさん持ってんだろ?」 「どっちでもいいから、ちょうだいっての!」  騒がしい3人をよそに、いい雰囲気の2人をこっそりとのぞき見 しようとする女がひとり。  うんうん、なかなかいいなあ、あの2人…  詩歌はわざわざ草むらに隠れながら、麗の後ろ側へとまわる。  杏子の了承を得て、あらためてマッチに火をつける麗。  どうしてさっき、止めたんだろう…?  彼女の真意を掴めずに、麗はちょっと残念な思いをしているが、 話しかけられたら当然答える。 「合宿、楽しかったね?」 「うん。また来年も出来るかな? やりたいよね?」 「私も、また合宿したい」  2人の持つ線香花火に、同時に火がついた。  勢いよく火花が飛び始めた。 「綺麗だね、杏子ちゃん」 「うん」  しばし2人は、互いの線香花火の火元を見つめていた。 「おーい、圭太ぁ!」 「なんだよ、じゅん… うわっ!!」 「きゃははっ! 圭太ばーか!」 「わわわっ! るせえっ!!」  うーん…  いい雰囲気だとは思うんだけど…  先に進まないなあ…  世間話とかばっかりで…  少々物足りなさを感じる、覗き屋詩歌だった。 「杏子ちゃん… まだあるの?」  麗は線香花火の数を聞いた。  本当は、余計な話題を話したくなかったのだが、我慢できないら しい。 「うん。もう少し…」  こちらも思いは同じらしい。  ずっと、もっと、じっとしていたかった。  そうすることが互いに、一番近くにいられる方法だったからだ。  不思議な程静かな花火鑑賞だったが、今度は杏子が堪えられなく なった。 「麗君、私、線香花火って、好き。麗君は…?」 「僕も、好きだよ、線香花火」  …。  「好き」という言葉に何か別の思いを感じ取った2人。  「線香花火」という言葉が、どれほどいらないと思ったことか。  そのおかげで、思い通りの言葉が出なくなった。  花火の先が、またぽとりと落ちた。 「なあ、圭太。今度はあいつらに…」 「悪趣味だなあ、じゅん」 「いや、さっきからずっと2人っきりだったんだからねえ。こうい う雰囲気には似合わない! やっちゃえ!」 「過激だなあ、香織って…」  こ、これは…!?  いわゆる「2人だけの空間」!  暗闇に漂う雰囲気に気付いてか、妙に興奮する詩歌。  自分が彼氏と離れ離れなので、しゃくにさわるのだろうか?  暗くてよく見えないのが、彼女に歯がゆさを感じさせた。 「あ、あのね、杏子ちゃん…」 「えっ…?」  パン! パパパン! 「うわあっ!!」 「きゃあっ!!」  圭太の投げ込んだ「ねずみ花火」は、今思い最高潮の2人の間に 割って入った! 「ばか圭太…」  ため息混じりに頭を抱えた詩歌は、ご機嫌ななめになった。  「第一回 恒例弓道同好会大花火大会」は、つつがなく終了した。  合宿七日目。  最終日。  午前中はいつも通りのトレーニング。  朝のランニングは圭太の独走許すまじと潤一郎と杏子が追いかけ、 麗と詩歌はいつものペース。  みんなどこか楽しそうで寂しそうだった。 「これで終わりだもんね。やっぱり複雑な気分。このまま続けばい いなって思うの、駄目かな?」  この合宿でいろんなことを体験した詩歌は、名残惜しそうに麗に つぶやく。  長い長い髪が少し後ろになびくようになったのは、今の彼女の走 りが以前に比べて速くなった証拠だ。 「しょうがないよ。でも、来年も同好会が続いてたら、来ようね?」  麗もどことなく寂しそうだった。  仲のよい友人と、これ程長い間生活を共にした事がなかったから かもしれない。 「私、良かった、この、同好会に、入って…」  ほんの少しだけ前を走る潤一郎に、そっと語りかける杏子。 「ん?」 「ありが、とう、こんな、楽しい、合宿、が、出来て…」 「感謝する相手が違うぜ? もっと前か、もっと後ろだろ?」  言った通り前と後ろを指差す潤一郎。 「でも、じゅん君にも、ありがとうって、言いたい…」  さりげなくペースをあげる潤一郎だった。  さて、独走の圭太は…?  やっぱ、合宿って、いいよなあ!  部活経験が豊富で、しょっちゅう合宿をやっていた圭太は、合宿 そのものに対しては何とも思わない。  ただ、今年はこんなことを出来るとは思っていなかった。  部活への入部そのものをやめてしまったのだから、合宿のチャン スなどありえないと思っていた。  ところが、いつの間にやら弓道同好会の会長。  目まぐるしく時が過ぎ、4人の仲間と野次馬1人と共に、ここに いる。  まるで、今走っていることさえ当たり前のことのように。  わずか3ヶ月程前のことなのに…  そう思うと、不思議と熱いものが込み上げてくる。  朝食後の正座でも、皆気持ちが自然と引き締まる。  とは言い難い者もいるにはいるようだが。 「うーん、やっぱりつらいぃ…」  いつも通りの圭太。  それはそれでいいと思う、他の4人だった。  昼食に至っては、ため息が漂う、少々沈みがちなものだった。 「ねえ、みんな。どうしたの?」  一人気楽な香織をよそに、黙々と食事をとる5人。  仕方なく、おばちゃんと顔を合わせて苦笑いする香織だった。  昼の休憩中、皆ぶらぶらしているが、心ここにあらず。  午後の練習は、当然弓を引いた。  もう少し経てば皆、矢をつがえて射る事ができそうなところまで きている。  杏子の目からみると、実際の矢つがえはもう少し後の方がいいら しいのだが。  そして、いよいよ練習終了の時間。  合宿最終日の締めくくり、納射会が始まろうとしていた。  合宿・大会等の最後に代表が一人で弓を射ることを、弓道の世界 では一般に納射と呼ぶことが多い。  それを行うので、納射会。  弓を目指すものが幾度となく通る、神聖な儀式なのである。  袴姿に着替えた杏子は、いつになく凛々しい。  ポニーテールも、この時ばかりは少し左下側へ束ね直す。  ただ、その瞳には、張り詰めた気持ちがありありと浮かんでいた。  やはり、極度の緊張感は隠せない。  そんな杏子を見守る様に、西日は山の端にかかっていた。  控えと呼ばれる、実際の射場の裏にあたる場所で、杏子は小さく 深呼吸した。 「圭太君、約束して欲しいことがあるの」  いつになく強い口調で、杏子が話しかけてきた。  逆に、いつになく驚いた様子の圭太。 「な、何?」  小さく息を呑んだ後、杏子が続けた。 「これは、納射は、本当は代表の人が行うべきものなんです」 「あ、うん。それは言ってたよね?」 「だから…」  強気だった目を伏せ、うつむく杏子。 「だから?」 「だから、来年は、圭太君の仕事なの。そうよね?」  またも強気な杏子の発言に… 「そうか…」  ちょっとした責任を感じた圭太。 「ごめんな、あんず。本当は俺の仕事なんだよな…」 「違うの。それは仕方のないことだもの。私が言いたいのは…」  一息ついてから、にっこり笑った。 「来年も、合宿出来ればいいね…?」  笑いながらも緊張でこわばった顔は、ある種滑稽なのだが、その 真意に気付くものだけしか、この場にはいなかった。 「ああ、もちろん。そして、来年は、あんずに代わって俺が立派に 務めてやるさ!」  そう言いながら、大きく胸を叩く。  杏子にはそんな圭太が、この上なく頼もしく見えた。  こんなこと、初めて想う…  ずっと弓道をしてて、よかった。  風見鶏高校に入って、よかった。  そして、ずっと想ってること…  圭太君達と一緒に同好会をつくって、よかった!  小さくうなずいた杏子。  そして彼女に、今日この場だけ代表代行を務める勇気がわいた。  「執弓」の姿勢を取る杏子。  かけをつけた右手、いわゆる馬手には矢を二本。  対する弓手には買い替えてから三年来の付き合いの、自慢の弓。  射場の入口で、ほんの少しだけ息を乱した。  だが、その敷居の向こうに広がる世界へ自らを導きだす時、呼吸 は自然と穏やかになるものだ。  杏子は厳かに、優雅に射場へ左足を一歩踏み出した。  右足を左足へぴったりと寄せた瞬間、背筋をまっすぐ伸ばしたま ま身体を軽く礼の角度へ持って行く。  射場と的場の間の矢道へ出た圭太達など、まるで眼中にないかの ように、ゆっくりと歩みを進める。  基本はまっすぐに歩く。  決してお尻を上座に向けてはならない。上座は射場から的場へ向 いた際右手にあたる方向で、名前の音の通り神のいる方向だからで ある。  必要上曲がる時には、必ず一旦曲がる方向への足を軸足へすり寄 せるように運び、さらに曲がる方へ直角に進める。  この時も含め、いついかなる時にも、射場ではお尻を上座に向け てはならない。  歩き方、歩く方向、また射場での構えなどはすべてこの事を考慮 されている。  その流れの中で、杏子は流れに沿うようになめらかに足を滑らせ る。  やがて身体を上座へ向ける。  と、ぴたりとその場に執弓の姿勢で止まる。  静かに右足を半歩後ろへ引き、バランスを取るのが難しいその状 態から滑らかに腰を下ろす。  一旦座ることになるが、ここでは正座はしない。  身体の前で膝をつけるのは同じだが、かかとをあげ、足の後ろは 爪先を立てている。  床には膝の先と爪先だけが付き、足首のかたいものには正座より きつい姿勢、跪座という座り方をする。「きざ」と読み、蹲踞とも 正座とも違う、弓道独特の座り方である。ちなみに、「跪」とは、 ひざまずくという意味を持つ。  弓を身体の前に立てる。  二本の矢の内「甲矢」を弦につがえる。「はや」と読む。  もう一本の「乙矢」は、甲矢とは反対向きに添える。「おとや」 と読む。  弓を持つ左の手の内では、人差し指と中指の間に甲矢の前の方が、 薬指と小指の間に乙矢の羽に近い部分が挟まれている。  馬手は弦のところで両方の矢を支える。あくまで二本の矢が平行 に保たれるように、である。  軽く肘を張り、大きな木を抱え持つような感じで腕で円を作りな がら、ゆっくり立ち上がる。  落ち着き払った動作で的を見据える。  優雅な物腰で、射礼の流れに逆らわないように、足を踏み開く。  射法八節で言う「足踏み」に入る。  ここからは、射法八節通りに進められる。  圭太達が習ったのと少し違うとすれば、矢を二本持っているとい うことだった。  あのもう一本の、弦につがえてない方の矢、どうするんだろう?  皆がそう思った瞬間、「胴造り」から「弓構え」に入り、彼らの 疑問はすぐに解消される。  「乙矢」の先端、矢尻と呼ばれる部分を、馬手のかけから出てい る二本の指、薬指と小指だけで挟んで抜き取る。  これ以降、次にこの「乙矢」をつがえる時まで、ずっとこの不安 定な状態で「乙矢」を保持していなければならない。  「物見」の後、「打起し」に入る。  皆感心する。  あの「乙矢」、落ちないんだよなあ…  キリッ、キリッという、弓を引く時に発生する小さな音を、誰も 聞き逃さなかった。  これほど小さな音でも聞こえる程の静寂が、ここにはあった。  「引分け」を終え、「会」に入る。  ここから射手は、ほんの少しの間、機が熟するまで弓を引き続け る。決して止まっているわけではない。  だが誰の目にも、杏子の身体は微動だにしていないように見える。  これが、「会」の究極の状態である。  弓と自己の力の均衡が全く狂っていない状態。  矢が放たれる時には、ここからほんの少し均衡を破るだけでよい。  それが弓の教えである。  機は熟した。  弓手の親指が、見た目には全くわからないほどほんの少しだけ的 の方へ伸びる。  これが引き金となり、弦は勢いよく馬手のかけから離れ、弓はそ の勢いにのって矢を押し、矢は杏子の力そのものを借りて、的へと 吸い込まれる。  一瞬の芸術。  「離れ」である。放すのではない。離れるのである。  的に当たった音がするが、彼女はしばし、離れによりできた体形 を変えない。  ほぼ大の字に身体が伸びきった状態…「残心」である。  矢を放っても、心はここに残しておかなければならない。それが、 射法八節最後の項「離れ」の中でも一番重要な、「残心」の意義で ある。  二呼吸程おいてからようやく弓を倒し、またその場に座る。  先程と同じ動作で2本目を引き終わると、その場で的場へ向けて 一礼、上座へ一礼すると、出口から退場する。  その美麗な射礼の一部始終を、一同ただただ感心して見つめるば かりだった。 「すっげえ! かっこいいぜ、あんず!」 「ほんと、あんちゃん最高!」 「すごく綺麗だったよ、杏子ちゃん!」 「ありがとう! 私、何とか出来ました!」 「何とかなんてもんじゃない! まさしく合宿の締めくくりだった ぜ!」 「圭太の言う通り! だけどお前、来年あれできんのか!?」 「うっ… それを言われると…」 「あははっ! でも、圭太君だったら大丈夫だよ!」 「そ、そうか? じゃあ、あんずが言ってた最後の最後の礼だぜ!?」 「圭太が言ったら、みんなもついて言うんだって!」 「そうそう。じゃあ、行くぞ。ありがとうございました!」 「ありがとうございました!」  矢道に並んだ五人の、道場へ向けての最後の挨拶は、信州の澄ん だ黄昏の空に、爽やかに響き渡った。 「…あ、私、道上詩歌と申します。久司さんいらっしゃいますか? あ、はい。そうですか。それでは… あ、いいんです。私の方から また電話しますので。はい。それでは、失礼します」 「あれ? 詩歌は?」  慌ただしく合宿所の廊下を走りまわっていた圭太が、すれ違いざ まに潤一郎に問いかける。  てっきり、一緒にいるものだと思っていたらしい。 「さっき、電話してたぜ?」  潤一郎が呆れたように、廊下の向こうを指差す。 「電話ぁ?」  確かに圭太も呆れる。  ここは信州だ。随分な遠距離通話になってしまうはずである。  しかも、明日帰るのだ。今更何を電話しようというのだろう。  と考える圭太には、まだ女心はさっぱりわかっていないのかもし れない。 「あいつがやるって言うからパーティーやるんだし、あいつが行くっ て言うからおっちゃんに車出してもらうってのに…」  ぶつくさいいながら、潤一郎が指差した方へ向かって圭太は歩い ていった。 「もしもし? あ、久司君?  うん、久しぶりだね。  えっ?   もうすぐ帰るから。  うん、明日。  うん… うん、そう。  えっ? あ、いいの?  私の方から電話したのに…  ここ、遠いよ? えっ? いいの? じゃあ、一旦切るね」 「詩歌! 見つけた!」  公衆電話の受話器を持ったまま、びくりと背筋を伸ばす詩歌。  背後からだったのだが、声の主はわかっていた。 「何、圭太?」  ばつの悪そうな顔で圭太をにらみつける。  廊下の突き当たり、細々と電話する姿を見て、圭太は一歩退いた。 「パーティーの買い出しに行くけど… あ、まずい」 「な、何が、まずいのよ…!?」  ゆっくりと受話器を電話に戻しながら、詩歌が言った。  まずいという言葉の意味を量りかねているため、言葉尻がすっき りしない。 「だってお前、電話してたんじゃ… あ、切ってるのか?」 「見ての通りだよ」  詩歌は不敵な笑みを浮かべた。  調子を取り戻したようだ。  だって、聞かれてなかったみたいだしね。  ほっと一息つく間もなく、圭太に手を取られる詩歌。 「ちょ、ちょっと…?」 「買い出し買い出し!」  連れて行こうとする圭太の手を詩歌は強引に振り切った。 「何だよ、行かないのか?」 「あ、いや、そういうわけじゃないけど…」  そっぽを向く詩歌に、やけに事務的に圭太が話しかけた。 「近所に店屋がないから、おっちゃんの車で行くんだぜ?」 「それはわかってるけど…」 「それに、行きたいって言ったのはお前だぜ?」 「それもわかってるけど…」  そっぽを向いているのは変わらないのだが、詩歌の肩の高さは低 くなっていったように見えた。  そんな背中を見て、圭太はまるで自分がいじめているような錯覚 に陥る。  多分電話の相手の検討がついていたからだろう。 「いや、行きたくないならいいんだよ。留守番頼んでたあんずに、 代わりに行ってもらうから…」 「行くよ、あたし…」 「あの、そんな、大した事ないしよお、あんずが…」 「行く! だって圭太、あたしが行くって言ってたから、あたしを 呼びに来たんでしょ…?」  完全にご機嫌斜めな詩歌。  圭太が悪いわけでもないのだが。 「あ、久司君?  さっきはごめんね?  ちょっといろいろあって…  怒ってる?  …うん。ありがとう。  これからパーティーやるんだよ?  そう。合宿終了記念大パーティー!  うん。そういうの、みんな好きだよ!  でも、ちゃんと掛け直したけど、本当にコレクトコールでいいの?  …ありがとう。  えっ? うん、楽しかったよ!  無事に終わったし。  そうそう、あんちゃん、かっこよかったんだから!  納射会って言うんだけどね?  うん。すっごくかっこいいんだよ!?  あ、こんな話、電話でしてもわかんないよね?  うん、やっぱり、来てよかったよ。  ほんと、楽しかった!  そうそう、帰ったら海に連れてってね?  じゃあね、切るから」 「やっほーっ!」  何故か一人、何もせず狂喜乱舞する潤一郎。 「杏子ちゃん、そっち引っ張って」 「…こう?」 「うん、ありがとう」  テーブルクロスのずれを丁寧に直す麗と杏子。 「ねえ、詩歌? あんたこれ、ほんと?」 「そうだよ? うちのパーティーにはつきものなんだから!」  大きな瓶を指差す香織と、その親友の表情を見てにやりとほくそ 笑む詩歌。 「おおい、おっちゃんとおばちゃん連れて来たぞ!」  圭太がそう叫びながら入っていった場所…  今、合宿所の食堂は彼らの妙な開放感にあふれている。 「えー、それでは…」  やはり司会進行を自ら進んで始める詩歌。 「またお前かよーっ! たまには俺にもやらせろーっ!」 「うるさい! あたしがやるの!」  詩歌の放った電光石火の一撃に、見事に打ちのめされた潤一郎。  返す言葉は見つからなかった。 「それでは、風見鶏高校弓道同好会第一回合宿終了記念大パーティー を始めたいと思います。ではまず、会長の的場圭太君から、開催の 挨拶をお願いします!」 「あ、ええっと、その、ううんと、ああ… あれ?」  圭太は珍しく詩歌の横槍に対して構えていたのだが、詩歌の方も 珍しい態度をとっていた。 「何やってんの、圭太? さっさと挨拶してよ?」 「あれ? いつもみたいに『はい、ありがとうございました』って のは、やんないの?」  呆れ顔の圭太に、さらに呆れ顔の詩歌が詰め寄る。 「どうして? おっちゃんにおばちゃんに香織までいるんだもん。 ちゃんとやんなきゃ駄目じゃない? 当然でしょ?」  圭太の歯ぎしりが聞こえなかったのは幸いだろう。  せっかくのパーティーの場、ぐっと堪えてがまんがまん。 「ええ、それでは…」 「はい、ありがとうございましたぁ!」  詩歌の声色には、してやったりという思いがこもる。  まんまとのせられた圭太が間抜けなのだ。 「何だよ、結局やるんじゃねえかっ!? くそぉ…」  頭を抱えてしゃがみこむ圭太。今度の歯ぎしりははっきりと詩歌 に聞こえた。 「それでは乾杯の音頭を、おっちゃんかおばちゃんに取ってもらい たいんですけど…」  おばちゃんはおっちゃんに目配せをして、八木沢氏の軽い挨拶が 始まった。 「ここで合宿所開いて何年にもなるけど、こんな楽しい人達を迎え たのは初めてだなあ。嘘じゃないぞ? 今までは大学生の合宿が主 だったからね。男ばっかりでもう汗臭いのなんのって… 同じ男の 子でも君らはいいよ、うん。それに、かわいらしい女の子まで一緒 でね。女湯のぞきや目玉焼き論争、真夜中のゴキブリ騒動まであっ て、いろいろ騒ぎもあったけど本当に楽しかった。また機会があれ ば、ぜひここに合宿に来て欲しいな。それじゃ、乾杯!!」 「かんぱーい!」  宴もたけなわの頃… 「圭太! そろそろ開けるぞ!」 「まってましたっ!」  たまりかねたように叫ぶ2人。  詩歌も杏子もにっこり笑う。  麗は少々戸惑い気味だった。 「しっかし君ら、これ呑もうってのかい?」 「いいのかねえ、みんながこれ呑んでも…」 「あたしも、こんな話聞いてなかったよ?」  おっちゃん、おばちゃん、香織の3人が揃って指差す先にある、 潤一郎が抱えた一升瓶は…  弓道同好会主催パーティー名物、大吟醸「絶対無敵」である。 「いいのいいの! いつものことなんだから! ほら、おっちゃん もいける口なんだろ?」  さっと注ぎに寄る潤一郎。顔が自然とにやけている。 「そうそう! 圭太んち公認なんだもんね!」  詩歌も上機嫌。 「…くすん」  こちらは顔を曇らせる杏子。  だが、身内になるほど心配していない。 「ほおら、もうすぐあんずの泣きが入るぞ!」  名物イベント、杏子の泣き上戸が始まったのだ。 「私、私、どうしても、泣けてくるんです… くすん」 「いいぞいいぞ!」 「泣いちゃってもいいぞ!」  泣いている女の子を見てはやし立てる男達、普通の状態でなら、 相当性格が悪いのだが、酒の席では許されてしまう。 「あーあー、あついーっ! ぬいじゃおうかなあ!?」  こちらも名物イベント、詩歌の靴下脱ぎである。 「全部脱げーっ! 半端なことすんなーっ!」 「じゃあやめちゃおうかなあ?」  どうも男としては、言葉と行動がずれているように思えてしまう のだが、詩歌は絶対に靴下を脱ぐ。それ以上もそれ以下もしない。 「あはは、あはははっ、はははははっ!」  ただ笑っているだけの香織。初めてのお酒にしては酔いつぶれる こともなく、なかなか健闘していた。 「おばちゃん、本当に美人ですね? おっちゃんも口説くのに苦労 したでしょ?」 「そんなことないわよ。あたしから言い寄ったんだから」 「うっそでーっ! おっちゃん、性格はいいけど顔はいまいちだぞ?」 「余計なお世話だ!」  八木沢夫妻も、最初こそ渋ってはみたものの、慣れているという ことがわかってからは、彼らのペースにのってみることにした。  これが意外と楽しい。  完全にはまってしまっている。 「君ら、本当に楽しいなあ! おっちゃんも楽しいぞ! あはは!」 「ほんと、あんた達、楽しいねえ!」  子供のいない八木沢夫妻にとっては、お酒の力を借りたとはいえ、 今まで以上にくだけた5人が、本当の子供みたいに思えてならなかっ た。明日の別れを思うと、ほんのちょっぴり切なさすら感じる2人。  そんなことも知らず、馬鹿騒ぎに高じる圭太達5人。  そう、傍らで眠っているのは、やっぱり麗だけだった。  信州最後の夜は、こうして騒がしくふけていく。  来た時と同じく、まともに八木沢夫妻に挨拶出来たのは圭太だけ だった。 「お世話になりました!」  朝9時。  合宿所の玄関先で、一人大声で圭太は別れの挨拶をした。  皆、圭太に挨拶を任せてしまっている。  口を押さえたり、頭に手をやったり、思い思いの苦しみ方をして いたからだ。  圭太だけは、きちんと挨拶がしたくて、夕べは少しお酒の量を控 えていたのである。妙な所で律義な同好会会長だった。 「本当に、来年もおいでよ?」 「はい。同好会がつぶれてなければ、ですけどね?」 「ははは。でも、物騒な事言うけど、同好会がつぶれてても、旅行 気分で遊びにおいで」 「はい! それじゃあ、帰ります。ありがとうございました!」  残念ながら同僚の5人には、この別れは胸にではなく頭に響いた らしい。  圭太の大声を、疎ましそうな目で見つめる一同だった。  特急電車の中でも、状況は変わらない。  座る席も行きの時とは全然違う。  向かい合う4人の席には、進行方向向きに潤一郎と杏子が座り、 向かって麗と香織が座る。というよりシートを倒してなんとか楽な 姿勢を探している。  今回2人だけの席には、圭太と詩歌が座っていた。  例にもれず、詩歌もぐっすり眠っていた。  通路側に座る圭太。  正直言って、つまらない。  5分、10分、20分…  堪えられなくなって、棚に上げたカバンを下ろそうとした。  チャックが開いているのにも気付かずに。 「うぎゃっ!」  小声だが明らかにそれとわかる詩歌の悲鳴。  やばい…  圭太の顔が一瞬色を失った。 「あれ…? 寝ちゃってたのか… ん? みんな寝てるの?」  後ろを振り返ると確かに4人とも熟睡状態である。 「何だか目が冴えてきちゃった」  もしかすると、どうして目が覚めたか、わかってないのか?  それでも圭太は心配する。 「大丈夫か?」 「うん。吐き気とかもないし、頭痛も大分すっきりしたよ。でも、 まだちょっと頭痛いかなあ。も少し眠りたいけどね、ほんとは…」  そういう意味ではなかったのだが、これ幸いとばかりに、圭太は 優しい言葉を詩歌にかける。 「眠れるんだったら眠っておいた方がいいぜ? 着いたら起こして やるからさ」 「うん。ありがと、圭太。やっぱり…」 「ん?」 「やっぱり圭太って、優しいんだ…」 「んなことねえよ。本当に優しい人間ってのは…」  何かひらめいたといった様子の圭太。  得意満面な笑顔で話を始める。 「なあ、詩歌。優しい人ってどういう人か教えてやろうか?」 「はあ? 何それ突然…」 「聞いたら眠くなるかもしれないぜ?」 「難しい話ってこと?」 「よくわからない話ってこと」 「ふうん…」 「人間はさ、体験したことしか人生にフィードバック出来ないらし いぜ?」 「何それ?」 「…でさ、優しい人ってのは、厳しい現実と、強い人の心と、もう 一つ、この世の憂き目を知ってるんだとさ。全部体験したことだか ら、人生にフィードバックできるらしい」 「だから?」 「だから優しい人は同時に、強くて厳しくて、そして憂う心を持っ てるんだってさ」 「わかるようなわかんないような… 誰がそんなこと言ったの?」 「この話の作者…」 「あっそ… わかんないわけだ…」 「どう? 眠くなんねえか?」 「うーん… なんか、頭の痛いのがとれないなあ… あっ?」  その時詩歌が見つけた、床に転がるシャンプーのビンは男物だっ た。 「あのさ、圭太? これ、圭太のだよね?」 「そ、そうだっけ? うん、そういう気もするなあ…」 「ああっ! あたしの前髪にちょっとだけシャンプーついてる!」 「あ、わ、わりい! ちょっとお菓子取ろうとして、落としちまっ てさ、はは…」  ただでさえ細い詩歌の目が、懐疑の色を帯びてさらに細くなる。 「なるほどねえ… 眠って欲しいわけだ…」  再び圭太の顔が色をなくした後、彼にも一つ頭痛がうまれた。  潤一郎は大きなあくびを一つした。  杏子はただうつむいている。  麗はよく眠ったらしく、割とすっきりしていた。  香織は起きようと擦った目が真っ赤になっている。  詩歌は別の意味で目を血走らせながら前髪を気にしている。 「みんな、お疲れさん!」  夕方。  風見本町の駅前で、合宿解散の時がやってきた。  ぐったり疲れた一同の前で、やたら元気な会長の挨拶。 「合宿は、家につくまで続いているので、寄り道せずにまっすぐ…」 「学校の先生、みたいなこと、言うんじゃねえ…」  幼馴染みの言葉に懸命に相鎚を打つが、空振りに終わる。 「ま、いいや。とにかくお疲れさん! 明日は練習休みにしよう。 明後日またみんなの元気な姿を見せて…」  まわりのしらけた雰囲気に今頃気付いた圭太。  詩歌に邪魔されずに挨拶できるのをいい事に、つまらないことを 言い過ぎたようだ。  仕方なくさっさと最後の言葉で、合宿を締めくくった。 「それじゃあ、解散!」