練習内容の研究と実践  麗、杏子、詩歌の3人が、1年1組の教室から弓矢を持ち出す。  1組教室は、事実上の同好会会室のようなものである。既に誰も が認めている。迂闊に「教室を同好会活動に使うな!」とでも言お うものなら、「じゃあ、あたし達の会室探してきてよ!?」となる。 強気で出る詩歌にかなうものなど、このクラスにはいないのだ。  大事そうに2mを越す弓を持ち運ぶ麗。どことなく嬉しそうだ。  待ちに待った、弓道同好会の活動初日である。  3人がたどり着いたのは、もちろん練習場である仮設道場である。  先に来ていた圭太と潤一郎は土手の溝を埋め終わったところだっ た。 「だけどよお、俺達、いきなり弓ひくのもまずいんじゃねえのか?」 「じゃあ、何を使うんだよ、じゅん?」 「わかんねえけどよお、何か他にあるんじゃねえのか?」 「そうかあ…? あ、あんず、ちょうどよかった!」  今着いたばかりの杏子に、圭太は疑問を投げかけた。 「俺達さあ、今練習内容について話してたんだけどさあ」 「あ、あの…」  急にそういう話を持ちかけられ、途端に身体を強ばらせる。 「そんなかたくならずにさ… ところで俺達、弓道なんて生まれて 初めてなんだけどさあ、その俺達がいきなり弓をひいていいのかな あって思ってたんだ」  なるほど… と、小さく首を縦に振った後、杏子はそれよりも小 さな声で答え始めた。 「そう、ですね。確かに、私も、小さい頃は、ゴム弓、なんかで、 練習を、始めました、から…」 「ほーら、やっぱな、圭太。いきなりあんなもんひいても駄目なん だよ!? ところでさあ、あんず。ゴム弓って、何?」 「ゴム弓は、ですね…」  早速自分の愛用の弓を手にした。 「この、胴の部分、だけを抜き出して、この上の部分に、ゴムをと りつけて、右手で、引っ張るんです… そうすると、弓をひく前に、 ある程度の作法や、ひき方などが、わかるように、なるんです」 「ふうん… 何だかわかんないけど、それ使うと弓をひく前の練習 が出来るってことかなあ、あんちゃん? 「はい、そうです」  圭太は首を傾げる。 「それじゃあ、とにかく今すぐ弓をひくってのは無理か」 「出来れば、一ヶ月、くらい、射法八節を、身に付ける、練習が、 いいと思います…」  体育会系の圭太は、杏子の言いたいことはよくわかる。  確かに、何事も基本が大事なのだ。  そう、基本と言えば…  圭太の頭の中に、常にもうひとつの基本があったのを、本人自身 が忘れていたのだ。  さて彼の考える、運動部にとってとても重要な要素とは… 「すっかり忘れてたぜ? トレーニングだよ、トレーニング!」 「そうですね… 弓道といっても、やっぱり基礎体力が必要ですね…」  杏子の頷きが、すべてを決めていた。  嫌だと言いたい者も、渋々従うしかない。 「決まりだな!? さてっと、とりあえず今日は、学校の周囲を、 軽く三周くらい走るか」 「軽く…!?」そう心の中で叫んだのは、ここに2人いた。  そして、ついにその思いを声に出すものがいた。 「ば、馬鹿野郎! 三周も走ったら倒れるぜ!?」  こういう面倒なことが根っから嫌いな潤一郎である。 「何だよ、じゅん。たった三周じゃんか?」  気楽な口調で笑顔まで見せる圭太。  さすがは野球部出身者である。  杏子もそうですね、という思いで首を小さく縦に振った。 「たった!? たったの、って言うのかよお!?」  この世の終わりかというくらい大袈裟に驚く潤一郎。  心の中で「そのとおりだ!」と叫ぶものもいた。 「そうだろ? これくらい走れなきゃ、運動部以前の問題だぜ?」 「いーや、んなことねえ! 人それぞれの運動のーりょくってのが あるんじゃねえのか?」 「うーむ…」  言われてみればその通りである。  不満を口にしない反対派の目が恐い程光っていることにようやく 気付いた圭太は、少々考えを変えてみることにした。 「それじゃあさあ、まずとりあえず三周走ってみて、タイムや走り 終わった後の状態なんかを見て、次からの練習メニューを考えるよ」  というわけで、同好会初練習メニュー、ランニングが始まった。  ゴールの校門に最初に帰ってきたのが圭太だったのは、当然の事 なのだろう。他のメンバーとは積んできた運動量が違う。  だが、それとほぼ同時に、杏子も足を休めた。 「あんずって、足速いんだなあ?」  息を切らしていない圭太とは対象的に、杏子の方は少々息を荒げ ている。 「私、なんて、全然… はあ、はあ… ついて、行くのが…」  時計を見た圭太は、こんなもんかな、と納得した様子。  走ってきた道を振り返り、その先をじっと見つめる。  遅れること約1分。  ふらふらの状態で帰ってきたのは潤一郎だった。 「男子としちゃあ、合格ラインぎりぎりってところかな?」  偉そうに言えるのは、やはり幼馴染みのためだろうか。  校門にもたれて休んでいる杏子に、白々しく近寄って倒れこんだ 潤一郎。  実際言葉も出ないようだった。 「たったの2km位なんだけどなあ、多分」  圭太は手足をぶらぶらと動かし続けている。  じっとしていない。その場をうろうろしている。  帰ってきていないメンバーを待つ間も、身体を止めるのを嫌って いたのだ。身体が冷えるのを防ぐためである。  圭太君って、すごい…  ようやく息が整い始めた杏子は、そんな尊敬の眼差しを圭太に向 けていた。  中学時代が野球部員ということは知っていた。  だが、これほど体力があるとは思っていなかったらしい。  野球部やめても、ずっとトレーニングしていたのかな…?  とにかく杏子は関心しきりである。 「ううっ…」  校門にもたれかかるようにして横たわったまま、久々に声が出た 潤一郎。 「あの、大丈夫、ですか…?」 「ああ、もう、駄目だ… せめてあんずの膝枕が…」 「そ、そんな…」 「下心みえみえ、元気そのものだよ」  圭太の冷たい言葉が、相棒の渦巻く妄想を粉々に砕く。  そうこうしているうちに、ようやく一人帰ってきた。  目は虚ろ、息も絶え絶えの男の子が、かろうじて歩いている状態 である。  圭太に倒れ込むようにしてゴールにたどり着いた麗は、その場に 居合わせた3人ににっこりと笑ってみせた。 「麗ちゃん、疲れたか?」 「う、うん… やっぱり、ちょっと、ね…」 「そっか。急に横になるより、少しだけもたれかかって立ってる方 がいいかな」  しっかりと麗の身体を支える圭太。  このあたりの判断力は、ただの体力馬鹿ではない。  杏子はまたも尊敬の気持ちをもったが、今度は圭太に対してでは ない。  すごいのね、麗君も…  麗は、小学生の頃から体育と美術の成績だけが人並より下回る。  彼女もそのことを既に耳にしていた。  内心気にしている運動音痴を、自分から笑って話していたのだ。  だが、そんな苦手な運動を、ふらふらになりながらもにっこりと 笑って最後までやってのけるのだ。  たかがそれだけのことなのだが、真弓麗がそういう男の子である ことがわかる。  その限りない精神力の強さに触れた杏子は、麗への尊敬と共に、 自分という存在を振り返る。  私は、何かをやり遂げることが、できるの…?  息を荒げた男と、息の整った女の、どちらが一段上の存在なのか を、ほんの少しの間だけ考えていた。  根が真面目な杏子らしい疑問だった。  さて、一人足りない。 「麗ちゃん、詩歌見なかった?」  息が整わないまま、圭太の問いかけに答える麗。 「二週目の、半分までは、僕より、ちょっと、後ろを、走ってたん、 だけど…」 「しょうがねえな。ちょっと見てくるか」  さっさと走り始める圭太。  それを見た麗は、自分と同じだけ走ってきたにも関わらず、さら に詩歌のためにコースを逆走する圭太のタフさ加減にただただ驚く ばかりだった。 「いたいた!」  門を二回程曲がったところの路地に、髪の長い女の子が座り込ん でいた。  長い間座っていたためか、詩歌の息は整ってしまってさえいる。 「大丈夫か、詩歌? 疲れたのか?」  優しく話しかけたつもりだったが、詩歌はうずくまったまま圭太 と目を合わせようとしない。 「…ぶつぶつぶつぶつぶつぶつ。…いいよ」 「ん? 何だ?」  膝を抱えたまま何やらつぶやいている詩歌の言葉に、圭太は耳を 傾ける。 「そりゃあ、圭太はいいよ… あたしなんか、ちっとも…」 「何がいいんだ? はっきり言ってみろよ?」  いつになく愚痴をこぼす詩歌に、どういう態度をとればいいのか 悩んではみたが、いつも通りが一番いいことに気付く。 「それとも、言えないようなことでもしたのか?」 「違うよ… 圭太は運動神経あるし、あたしにはないし…」  ポンポンっと、頭を軽く叩く圭太。 「そりゃあそうだろ? こう見えても俺、しょっちゅうランニング してるし、詩歌はランニングしてないだろ? その差じゃねえのか?」 「そうかもしれないけど…」  実際、このあたりの詩歌の微妙な気持ちは、圭太にわかるはずが ない。生まれつき運動に関してだけは恵まれた男だったからだ。  だが、何も運動に限ったことではなく、裏を返せばいつも授業で 罵られているのは、他ならぬ圭太だ。  ここが、彼がただのしごきに走らない理由だった。 「だけど、やるって言っただろ? 嫌だって思ってても、やるって 言っただろ? もうちょっとだから、最後まで走ろうぜ?」  とりあえずそういう言葉が出ることは出るが、圭太の本心は微妙 にずれていた。  優しいトレーニングってのは、やっぱ矛盾してるってことなのか…  ようやく校門前に二人が現れると、待っていた三人は一様な反応 を示す。 「おかえり! 凄いんだね、詩歌ちゃん!」  まずは麗。  遅れて帰ってきた自分に、突然「凄い」などと言うので、詩歌は その言葉の意味が理解出来ずにいた。 「どういうこと?」 「だって凄いじゃない? 走って帰ってきたんだもん!」  走ってきたって… そんな…  気恥ずかしい思いが、詩歌の全身を駆け抜けた。 「でも、あたし、途中で休んでたんだよ?」  確かに、走り終わった後だというのに、息もほとんど整っている。 「それは走るために、なんでしょ? 僕なんか、途中で歩いちゃっ たんだ。だから僕、最後まで走ったことにはならないんじゃないかっ て思ってるんだ」  正直言って、度肝を抜かれたとはこのことだ。  詩歌の考えもしなかったことを、麗が口にしていた。  そういうつもりじゃ、なかったんだけど… 「おかえりなさい、しいちゃん…」  次は杏子。 「あんちゃん…」 「お疲れさま。私ので、悪いんだけど…」  にっこり笑って、自分のスポーツタオルを渡す。 「あ、ああ、ありがと。今度から、自分のを用意しとかなくちゃね」 「頑張ったね、しいちゃん。凄いね?」 「えっ? あんちゃんもそんなこと言うの?」  他人のタオルで、垢でも出そうな程首筋や肩をゴシゴシ拭く詩歌 は、またも不可解な言葉に出会う。  あたし、からかわれてるんじゃないのかな?  むやみやたらと、そんな風に他人を見る詩歌ではないのだが、ど うも今回ばかりはそうはいかないようだ。 「理由、聞いていい?」 「うん。私、諦めてしまうことが、多いの… そういう性格だから、 仕方無いって、自分に、言い聞かせてたわ… 確かにしいちゃん、 今はちょっと、足が遅いけど、諦めず走っているんだもの… 私も 頑張らなきゃって、思って… それで、そんな、しいちゃん見て、 凄いなあって…」  照れくさそうに、だが想いははっきりと伝える杏子だった。 「なあ、圭太。どうすんだ?」  最後は潤一郎。 「これから毎日こんなに走るんじゃねえだろうな? 身体もたねえ ぞ?」  詩歌のことなんかお構い無し。ひたすらこれからの練習内容を気 にしている。  そんな潤一郎に、圭太の冷たい一言。 「こんなに、だって? 増やしたいくらいだぜ?」 「じゃあ、今日は、10分間だけ…」  ランニング後、腕立て・腹筋などのトレーニングを一通り終え、 元気はつらつな圭太と、彼以外のふらふらの3人に、杏子が弓道の 基礎として、正座をすることを提言した。  武道を行うために用意されたミニ体育館、「武道場」。  彼らはその中で半分ずつになっているうちの、畳ではなく板の間 の方に座っていた。 「何たって、道だもんなあ、”道”! これ位のことはしなきゃな!」  やたらと楽しそうな圭太。  10分がどれほど長いかということが、まるでわかっていなかった。 「圭太君、背中、丸く、なってます…」 「あ、そう? こうかな?」 「じゅん君も…」 「だって、よお…」 「背筋は、伸ばさないと、かえって、辛いんです…」 「いや、その、わかってんだけど、さあ…」 「あのさあ、あんず。どれ位たった?」 「まだ5分にも、なってません、けど…」 「嘘だろーっ!?」 「だけど、こんな武道場の板の間でしなくったって…」 「前に見学した通り、道場はすべて板張りですから…」 「おい、圭太? 麗ちゃん、目ぇつぶってるぜ?」 「寝てんじゃねえのか?」 「かもな… 俺達も寝ちまおうか?」 「駄目だよ! あたしが寝かさないから!」 「見ろ! お前が余計なトレーニング山ほどするから、詩歌のやつ 根にもってるじゃねえか!?」 「んなこと知るかよ!?」 「た、立てないーっ!!」  10分たった時の圭太の第一声。  ごろん、と、武道場の床に転がる。そのまましばらくゴロゴロし ているしかなかった。 「ぐへーっ! 腰から下が、無いーっ!?」  当然そんなことはあり得ないのだが、立てなくなる程痺れた足は、 感覚を失っているものだ。  潤一郎は立つことも転がることもできなかった。 「ああっ! 前に、前に歩けない!」  ようやく立ち上がった詩歌だが、何故か身体が自然と後ろに歩き 出すという怪現象に見舞われる。  足首から下が伸び切ってしまっているので、折れ曲がらない足首 は自然と後ろへ歩くようになってしまう。  そんな中、麗は平然と立ち上がる。 「何だか、いい休憩になったみたい」  にこにこすんなよ…  心の奥底で涙ぐむ3人だった。  初練習も終わり、教室で着替えながら、何やらぶつぶつ言ってい る男がひとり。 「こんなことが、これから先ずっと…」  圭太がこういう落ち込み方をするのは、そう珍しいことではない。  だが、こと運動部の練習に関して、挫折感を味わったのは久しぶ りのことだった。落ち込みもひとしおである。  どんな練習も、持ち前の運動能力と人一倍強い意地で跳ね返して 来たのだ。  だが、正座という「トレーニング」項目は、今の今までまったく なかった。野球部のシゴキで、良く似たことはしていたが。  体育の時間に武道を取り入れていないのが、県下の公立高校でも ここ風見鶏高校くらいのものだという事実も、追い打ちをかける。  おまけに… 「よお、鋼鉄の足首を持つ的場圭太! バーナーか何かで溶かして やろうか?」  トイレから帰るなりいきなり叫ぶ、的を得た潤一郎の台詞通り、 意外や意外、圭太の弱点は足首にあったのだ。  柔軟体操でも、いつもはいかんなくその柔軟さを周囲に見せつけ てはいたのだが、実家のトイレが洋式であることも手伝い、幼い頃 から足首だけは異様なまでにかたい。  おかげで、正座の為真っ直ぐに伸ばすのは相当な苦難のようで、 さらに立つ時には、逆に元に戻りにくいためこれまた辛い。  潤一郎も当然知っているわけで、からかうには絶好のネタである。 「おーい、俺が足をぐりぐり回してやろうか? 少しはやわらかく なるかもな? 一回100円でどうだ?」 「いるか、んなもん!」  やたらむきになる圭太を見て、至福の喜びを感じる潤一郎。  麗は黙って見ているしかなかった。  下手に首を突っ込むと、正座が平気だった自分が何を言われるか わかったものではないからだ。  しかも、2人の掛け合いは、毎度のことながら面白い。  麗は黙って見させてもらうことにした。  こちらは、男性の目を釘付けにさせる、校舎一階の女子更衣室。  まさか男どもと一緒に着替えるわけにもいかず、学校側に申し出 て使用の許可を得ている。  他の運動部は専用の部室を持っているため、この更衣室を用いる のは下級生部員の多い女子テニス部くらいである。  が、彼女達はここを少々狭いと感じ、体育館内の更衣室をこっそ り使っていたりする。  そのため、授業時以外では、ほとんど詩歌と杏子専用である。 「ねえ、あんちゃん、あたしのリボン取って?」  ちっ! ほとんど着替え終わってたか…  悔しがる作者をよそに、2人の身支度は仕上げの段階に入ってい た。 「でも、意外ね。圭太君、スポーツ万能って、思ってたけど…」 「ほんとだよねえ? あんなに足首がかたいなんてさ。こりゃ、圭 太に勝てるもの、出てきたかもしんない。ふふふっ!」  何とか正座で優位に立とうとする詩歌だった。  そうでもしなきゃ、あんなランニングやってられないよ…  実は複雑な気持ちが彼女の胸の内を行き来していたのだ。  ふわっとまくしあげた詩歌の長い長い髪が、不安と期待を辺りに まき散らしていた。