恐怖の期末テスト 「おはよう、麗ちゃん! あんずの添い寝なしで眠れたか?」 「もう、じゅん君やめてよ、その話!」 「だって、事実じゃねえか!?」 「やめなよ、じゅん君。麗ちゃん、かわいそうじゃない?」 「かわいそうなのは俺の方だっつーの!」  他愛ない会話が朝から繰り広げられる。  潤一郎、詩歌、麗の3人は、朝のホームルーム前のひとときを、 いつもこうやって過ごすのである。  少々メンバーが足りない。  杏子は2組なのでここにはいないのは当然としても、遅刻しない のが信条の圭太が来ていないのは珍しい。 「いやあ、夕べ色々同好会のこと考えててさ」  ようやく現れた圭太の目は真っ赤になっていた。 「それより圭太、大丈夫なんでしょうねえ?」 「大丈夫って、何の事だよ?」 「とぼけても駄目だよ、圭太君。期末テストの事じゃない?」  さっと目を逸らす圭太。下手な口笛まで吹き出して、わざとらし いことこの上ない。 「まったく… 圭太はあたし達の代表なんだからね? 追試なんて かっこ悪い事絶対しないでよね?」 「そんな… 別にいいじゃねえか。な、麗ちゃん?」 「僕達も勉強みてあげるから。ね、詩歌ちゃん?」 「そうそう。別にビリでもいいんだから、とにかく赤点だけは取ら ないでよね? あ、じゅん君、あんたもよ!?」  そろりそろりと自分の席に戻ろうとしていた潤一郎。ばつの悪さ を拭いきれない。 「いきなり俺にふるなよ!? だけど、圭太よりは自信あるぜ?」 「一緒に補講受けてた割には、言う事言うじゃない?」 「なにをっ!」 「なによっ!」  救いのチャイムが鳴る。が、圭太にとってみれば、これからの長 い勉強の日々の、暗い幕開けにしか聞こえなかった。  その日最後のチャイムが鳴った。 「じゃ、お先に…」  言わなくてもいいのに、誰にでもなく小さな声で、圭太はわざわ ざ別れの挨拶をする。  鞄を持って教室を出ようと戸を開けた瞬間… 「何処行くの、圭太?」  にんまりと笑顔を浮かべる詩歌が、廊下の窓辺に立っていた。 「いやあ、そのう、な、俺んちチビ達もいて大変だから…」 「あーら、望お姉さんって、今週帰って来ないんじゃなかったっけ?」  痛いところを突かれる圭太。ぐうの音も出ない。 「まさか、おんなじような言い訳考えてるんじゃないでしょうね、 じゅん君?」  圭太が捕まっている隙に、反対側の戸から抜け出そうと企んでい た潤一郎だったが、あるのかないのかわからないくらい細い詩歌の 目は見逃さなかった。 「じゃあ、圭太君。この方程式の解はどうやって求めるかわかった?」 「回は8回裏、的場圭太選手、バッターボックスでお決まりのポー ズを…」  麗の言葉の方程式を解いたとでも言いたげに、細い鉛筆をバット に見立て、突然立ち上がる圭太。 「もう、圭太。つまんないこと言ってないで、さっさと解くの!」  詩歌に怒鳴られると、まるで飼い主に叱られた犬の様に、尻尾を 巻いてその場に座り込む。 「今週ももう終わりか… それにしても、よく降る雨だぜ。ったく、 しゃあねえなあ…」  あくび混じりに背筋を伸ばし、窓の外を見つめる潤一郎。  つられて圭太もまた立ち上がった。  いつもの「4人」だった。  一人足りないのは、2組の同級生と勉強をするという杏子だった。  ここは麗の家。  端正な住宅街の片隅、丘の斜面のそばに建っているが、窓は反対 側になる。 「それにしても麗ちゃん、これ全部参考書や問題集?」  立ちついでに圭太は、書斎を彩るのにちょうどよさそうな麗の本 棚を、じろじろと覗き回る。 「うん。どれでも好きなのを使っていいよ?」 「どれでもったって…」  圭太は頭をボリボリと掻くしかなかった。 「麗ちゃんってさあ、ほんとに勉強好きなんだねえ?」  詩歌の「好き」と言う言葉に、麗は敏感に反応した。 「好き、かどうかはわかんないけどね、ほんとは…」 「あんびりーばぼーだぜ。もう好きにやってくれよ…」 「あんた達は好き嫌いじゃ駄目なの! ほら、この方程式は解けた?」 「もう、俺がわかるわけないだろ!」 「わかんなきゃ駄目なの、圭太!」  ここから先は、圭太と詩歌のただの押し問答でしかなかった。  皆が帰った後、麗は一人、勉強机に向かっていた。  シャーペンを置いたままの右手。  首の角度こそ、きちんと参考書の方へ向けているが、視線は虚ろ である。  何もしていない。  何も手がつかないのだ。  正確には、日曜日から何も出来ないでいる。  そう、パーティーの次の日からだった。  あの日以来、麗の心の奥底に、ある種の恐怖心が芽生えていた。  みんながいなくなると、こんなにもさみしいの…?  麗は、不思議な思いに駆られている。  僕、どうして今、こんなにさみしいの…?  みんなが帰っちゃったから…?  それとも…  それとも… 他にいて欲しいひとがいない、から…?  わかっているのにわからない、たった一人の押し問答が続く。  最後に出る答えは、この一週間いつも同じである。  期末テスト、怖い…  何も出来ない自分が、これほど力の無い存在だとは、あの日まで 気付かなかった。  がむしゃらに勉強はしてきた。  おかげで少しはいい成績と言われてきたが、その勉強ができない 自分に、一体どれほどの力が、価値が、勇気があるというのだろう…  いくら考えても、いや、考えれば考えるほどこの結論に辿り着き、 その瞬間、麗は不安を募らせる。  期末テスト、怖い…  彼が試験と名の付くもので、これ程恐怖を感じたことはなかった。  不安を掻き消すために、麗は身にならない勉強を自分の心と身体 に強いる。  誰の目にも悪循環なのだが、それを指摘してくれるものが周囲に いないことが、小さいようで大きな彼の不幸である。  圭太が姉や両親や祖父母と共にテレビを観ながらポテトチップス をつまみ、潤一郎が弟妹と喧嘩を繰り広げている頃、麗は高貴で孤 独な闘いを続けていた。 「なーんか最近、麗ちゃんの様子がおっかしいんだよなあ…」  潤一郎のぼやきは、きっちりと的を得ていた。  言うタイミングを間違えなければ、もっと評価されたはずだが。 「じゅん君、他人の事考えてる暇あるの? 今日の英語はどうだっ たのかしら?」  すました口調の詩歌に、少々反抗的な気分を感じながらも、返す 答えを見つけられない潤一郎。  期末テスト初日を無事終了した放課後の教室で、彼にしてみれば そっぽを向くくらいのことしか出来ないらしい。  対して圭太はと言えば、割と余裕を見せている。 「お前、ほんとに出来たのか?」 「赤点取らない程度にはな。それに現国の方はもうばっちり!」  圭太の得意科目は体育ともう一つ、何故か現代国語だったりする。 「ああそうかいそうかい。これでお前の得意科目は終わったわけだ。 はい、ごくろーさまでしたっと」 「それ言うなよ… 舞い上がった気分がみるみる下がるぜ…」 「じゃあ、また明日ね!?」  呆れたように手を振る詩歌。 「なあ、さっきのことだけど、やっぱ麗ちゃんの様子、おかしいん じゃねえか?」  今度はいいタイミングだったのか、相棒の意見を圭太は素直に受 け止めた。 「俺もそう思ってたんだよなあ。テスト前の麗ちゃんってさ、勉強 の虫って感じで、無茶苦茶勉強してたのに、何だか心ここにあらずっ て感じだろ?」 「随分文学的な表現だなあ、お前」 「そうか? まあ、麗ちゃんのことだから、心配無いとは思うけど さ… ありゃ?」  教室を出ようとする麗を見つけた二人は、やはり様子が違うとい うことを再確認した。 「何だろなあ、一体」 「あれだよ、じゅん。あんずのことで悩んでるんじゃないか?」 「そっかあ? ありゃあ、あれでうまくいってるんだろ? やっぱ、 勉強のことじゃねえのか?」 「うーん… このままじゃ埒が開かないなあ。いっそのこと聞いて みるか? おーい、麗ちゃん!」  呼び止められても知らんぷりの麗。  何事も無いかのごとくゆっくりと玄関へ向かう。 「ちょっと待てよ!」  潤一郎に肩を掴まれて、麗は初めて二人が側にいたことに気付く。 「えっ? 呼んだ?」 「ずっと呼んでたんだけどさ?」 「ごめんね。で、何か用?」  二人は、麗のぼんやりした表情の奥に深く潜む心の暗さを見る事 はできなかった。 「これだもんなあ… なあ、麗ちゃん。はっきり言っちまうとさ、 いつもの麗ちゃんと違うぜ? 何か悩み事でもあるんじゃないのか?」 「おねしょしたのか? 財布落としたのか? 親父さんの大事にし てるゴルフのパターでも折ったか? あ、そっか! 近所のガキを 泣かしちまったんだろ!?」 「じゅん… 全部、昔お前がやったことだよな…」 「んなこと、どうだっていいじゃねえかよお!」  麗は最近、二人の真剣に論争をやり合うのを止めようとは思わな い。  むしろ羨ましくさえ思うようになっていた。  二人の言い合いを楽しみながら聞いているうちに、麗の胸の内で ある一つの些細な疑問が浮かんだ。  何故かはわからないが、今の自分にとって、絶対聞く必要がある 事だと思った。 「あのね、圭太君、じゅん君… 二人は、いつも何処で遊ぶの?」 「はあ…?」  あまりに突拍子もないことを言われ、二人揃って抜けた声で答え るところが仲のいい証拠だった。  陽が沈みかけた頃。 「突然『連れていけ』だもんなあ…」  潤一郎が頭を掻きむしる。  三人はゲームセンターにいた。 「それにしても、お前も圭太も下手だなあ…」  ドライブゲームに高じていたのだが、どうも潤一郎の独壇場であ る。 「おい、圭太。そろそろライブじゃないのか?」 「あ、そっかそっか。じゃあ麗ちゃん、行こうか?」 「うん!」  子供のように無邪気に微笑む麗に、圭太は後ろめたさを感じた。  いてもたってもいられなくなり、相棒の耳元に小声で訴える。 「麗ちゃんこんなとこに連れてきていいのかよ…?」 「しゃあねえだろ? 本人が行きたいって言ったんだからよお」 「だけどよお、この前のパーティーの件といい… 俺達、悪の道へ 誘い込んでるんじゃねえのか? 麗ちゃんを」 「んなこと言ってもよお、本人の意志を尊重してだなあ…」 「二人とも、どうしたの? 早く行こうよ?」  教室を出てすぐの神妙な面持ちは何処へやら。  にこやかな麗は見ていて清々しい気持ちにはなるのだが…  誰のせいでここまでどきどきしてると思ってんだよ…?  二人の意見は同じだった。  陽が沈んでまもなく。 「ははっ… 僕、やっぱりこういうところは駄目みたい…」  タテノリなどもってのほか。麗には刺激が強すぎたらしい。  「ライブKAZAMI」から出てきた三人中、二人は不満顔。 「たったの15分だぜ?」 「今日は久々にエンフー来てたってのによお…」  愚痴る気持ちもわからないでもないが、そもそもテスト期間中に こんなところに来る事自体が間違っているとは、今更言えるはずも ない。  どうせ引き返せないのなら、行くとこまで行くまでだ… 「じゃあさあ、歌う方はどうだ?」 「カラオケだね? うん、行こう!」  圭太の誘いにまたも軽ーくのってしまう。  星が幾つも瞬き始めた頃。 「よーめーにー ゆくひーがー こなーけりゃーいーいーとーぉ」  マイク持つ手も軽やかに、麗の爽やかな歌声がカラオケボックス 内に響き渡る。 「麗ちゃん、やるもんだな」 「まったく…」  またも小声で話し込む二人だった。 「よお、麗ちゃん。少しはすっきりしたか?」  河原に腰を下ろす三人。  潤一郎の問いかけには、麗は何も答えなかった。 「まだみたいだな…」  圭太は立ち上がると、その辺の石を手にして、川面に投げる。 「ここさあ、俺とじゅんがよく来る場所なんだ。こうして夜中に来 ると、互いの顔も見えない程暗いだろ? おまけに結構誰も来ない 場所なんだ。だから、何にも気にせずに腹割って話せるところなん だぜ?」  言われて麗は首をぐるりと巡らす。  確かに圭太の言う通りだった。肩が触れ合うほど近づかなければ、 互いの顔など何処にあるのかすらわからない。 「すっきりしちまいなよ、ここらでさ?」 「そーそー。金と女と勉強以外なら相談にのるぜ?」  潤一郎のちゃかした言い回しが面白かったのか、麗は笑い声を小 さくあげた後、今の想いを打ち明け始めた。 「僕、僕さあ… 何だかわかんないけど、みんなと別れるとすごく さみしくなるんだ… どうしようもない程さみしくなって、そのう ちに今度は何かが怖くなってくるんだ…」 「さみしいって、俺達と別れると、ってことか?」  潤一郎は怪訝そうな顔つきをしていた。  多分、この顔をまともに見ていれば、麗もここで話を止めていた かもしれない。 「うん。それで、今、何が怖いかって言うと… 期末テストなんだ。 今までテストなんて怖くなかったのに… それどころか、勉強の成 果を確かめるのが楽しいくらいだったのに…」  「楽しい」という言葉に少々引っかかるものを感じてはいたが、 それ以上に麗の悩みが深かったことに気付いたことの方が、二人に は大きかった。 「僕、今までずっと一人で勉強してきたんだ。父さん、帰るの遅い し、他に兄弟もいないし、母さんは、小さい頃に死んじゃったし… だから、みんなといると凄く楽しいんだ! ほんとだよ!? あの 勧誘の時だって、道場づくりだって、昨日までやってた勉強会だっ て… だから、みんながいなくなるとすごくさみしいんだ… それ で何も手につかなくなって…」 「それで勉強が出来ないからテストが怖い、ってことか」  圭太は納得出来ないながらも、麗の気持ちをおおよそ理解はでき た。 「だからって、無理して遊び仲間にならなくったってさあ…」 「そうそう。逆の方にだって仲間がいるだろ?」 「だって、圭太君達といるのが一番楽しいんだ。だから…」 「ったく、しゃあねえなあ… じゃあ、圭太、今から麗ちゃんちに 行って、勉強付き合おうぜ!?」  あまりに唐突で予期せぬ台詞が、意外な人物から飛び出したため、 圭太は露骨に拒否した。 「うそぉ? お前、テスト期間中は各自で勉強するって決めたじゃ んか!?」 「可愛い同好会会員が落ち込んでるんだぜ? 会長としちゃあ、当 然力になってやるよな?」  しばらく考えた挙げ句、もう一度川面に石を投げた後、 「わかったよ…」 と、渋々圭太も賛成票を投じる。 「これでいいよな、麗ちゃん。お前んちに押し掛けるぜ?」 「うん!」  この返事に、どれほどの想いがこもっていたかは、圭太も潤一郎 も想像出来なかった。  麗は彼らに、遊びに付き合ってもらうだけで充分だと思っていた。  だが実際はそのもう一つ向こうの本質的な部分にまで、半ば土足 で踏み込んできた。  押し売りや泥棒ではない。  倒れている人を窓から見つけ、慌てて玄関から入ってくる通行人 のようなものだ。靴を脱ぐ余裕もなかったということである。  しかも、自分自身でさえ幼稚な悩みだと思っていた。こんなこと は小学校卒業までにクリアしておくべきことだと。従って、言いた くても決して自分から言えるような悩みではないと思っていたし、 理解してくれるとも思えなかったのだ。  だが、二人は親身になって話を聞いてくれた。潤一郎などは、勉 強に付き合うとまで言ってくれた。  今まで親友とまで呼べる友をあまり持ったことがない麗にとって、 これほど嬉しいことはない。  そんな、二人への感謝の気持ちがめいっぱいつまった返事だった。  実際、圭太にも潤一郎が選択した解決法の意味がわかっていた。  長い付き合いだから。  弟や妹の面倒をよくみているから。  そして、自分もよくそうやって助けられているから。  だから、悩み事は一番いい状態で受け答えてくれる。  真面目な悩みは真面目に。ふざけた悩みはふざけて。  矢作潤一郎とは、そういう男である。  勉強家の麗や家事上手の圭太にはないものを持っている、いざと いうときには頼りになる男なのだ。  ごめんね、じゅん君。  今まで君のこと、ただのいい加減な人だって、誤解してたんだ…  麗は初めて、潤一郎の頼れる一面と、圭太が彼を信頼し続ける理 由がわかった。  そして、そんな二人の中に入り込めたという実感が、彼の気持ち をこれ以上は無いというくらいに高めていた。  こうして、今度は男だけによる楽しい、かどうかは知らないが、 勉強会がテストが終わるまで毎日徹夜で行われた。